高校1年の孫娘は、今晩もスイミングスクールへと出かけている。学校から帰ってきて、6時過ぎに家を出て、スイミングのメニューをこなし、帰宅するのは9時過ぎだ。母親の帰りもそのくらいになるようなので、それから食事の用意をして、食べるのは午後10時、寝るのは午前0時になるらしい。それでも朝は6時か6時半に起きて、ママと自分の弁当を作るそうだ。家族としては当然と言えば当然だけれど、よく頑張っていると感心する。
「じゃあー、勉強は何時するの?」と聞くと、「やってるよ」とは言うけれど、本当は何時勉強しているのだろう。晩御飯を食べ終わって寝るまで2時間しかないが、この時間帯にお風呂に入り、明日の準備するとなると、うまくいって1時間取れるかどうかである。頑張り屋の孫娘は眠りながらでも予習や復習をこなすと言うのだろうけれど、実際にはそれは無理と言うものだ。彼女が勉強しているというつもりになっている時間帯はほとんど0に等しいのだろう。
私は進学塾の教室長という役目をおおせつかった時、子どもたちに言い聞かせたのは、毎日2時間勉強する子どもと、毎日1時間勉強する子どもでは1週間で7時間も差がついてしまうと話だった。これが1ヶ月では42時間の差になる。毎日1時間勉強するにつけても子どもの42日間分に値する。じゃあ、10分の差しかないとしても1週間で70分、1ヶ月で280分、1年なら3650分つまり60時間、ということは毎日1時間余分に勉強しても、追いつくためには2ヶ月もかかるということ。要するに、毎日コツコツと勉強している方が絶対に有利なのだと言ってきた。
これは自己反省からの結論でもある。勉強が積み重ねだとは子どもの頃の私は気が付かなかった。それよりも「どうして、勉強、勉強と言うのだろう」と馬鹿にしていた。勉強しているのに、人間としては全く魅力のない人もいた。高校生の時、確かに必死になって勉強していた人はいた。生徒会には見向きもせず、クラスのことも何もせず、掃除当番だというのにさっさと帰っていく生徒だ。彼らは有名な国公立大学へ進学していったけれど、私は話したこともなく、彼もまた私のような生徒は落ちこぼれと思っていたに違いない。
私は孫娘のように、努力は必ず報われると信じるような清らかな心を持っていなかった。人は何のために努力をするのか、詰まるところは自分をよく見せたいためでしかないなどと、論じていた。人が理性的であるのは、その方が都合がいいからである。物分りがよくて穏やかでしっかりしている、そんな自分を演じているのは、そうすることで社会に受け入れてもらおうとしているのだ。そんなことを高校時代は論議していたように思う。
人間の平等な社会とはどんなシステムを言うのだろう。孫娘たちが大きくなる頃は、貧富の差は今日以上に大きくなっているかも知れない。富める者と貧しい者とは、これからますます差が開いていくのかも知れない。福山雅治さんの坂本竜馬が言うように、「みんなが笑って暮らせる国」、それこそが理想郷なのだろう。それが資本主義国家であろうと、国など存在しないような社会であろうと、どうでもいいような気がする。どうなっていくのか、楽しみにしておきたいと思う。
「じゃあー、勉強は何時するの?」と聞くと、「やってるよ」とは言うけれど、本当は何時勉強しているのだろう。晩御飯を食べ終わって寝るまで2時間しかないが、この時間帯にお風呂に入り、明日の準備するとなると、うまくいって1時間取れるかどうかである。頑張り屋の孫娘は眠りながらでも予習や復習をこなすと言うのだろうけれど、実際にはそれは無理と言うものだ。彼女が勉強しているというつもりになっている時間帯はほとんど0に等しいのだろう。
私は進学塾の教室長という役目をおおせつかった時、子どもたちに言い聞かせたのは、毎日2時間勉強する子どもと、毎日1時間勉強する子どもでは1週間で7時間も差がついてしまうと話だった。これが1ヶ月では42時間の差になる。毎日1時間勉強するにつけても子どもの42日間分に値する。じゃあ、10分の差しかないとしても1週間で70分、1ヶ月で280分、1年なら3650分つまり60時間、ということは毎日1時間余分に勉強しても、追いつくためには2ヶ月もかかるということ。要するに、毎日コツコツと勉強している方が絶対に有利なのだと言ってきた。
これは自己反省からの結論でもある。勉強が積み重ねだとは子どもの頃の私は気が付かなかった。それよりも「どうして、勉強、勉強と言うのだろう」と馬鹿にしていた。勉強しているのに、人間としては全く魅力のない人もいた。高校生の時、確かに必死になって勉強していた人はいた。生徒会には見向きもせず、クラスのことも何もせず、掃除当番だというのにさっさと帰っていく生徒だ。彼らは有名な国公立大学へ進学していったけれど、私は話したこともなく、彼もまた私のような生徒は落ちこぼれと思っていたに違いない。
私は孫娘のように、努力は必ず報われると信じるような清らかな心を持っていなかった。人は何のために努力をするのか、詰まるところは自分をよく見せたいためでしかないなどと、論じていた。人が理性的であるのは、その方が都合がいいからである。物分りがよくて穏やかでしっかりしている、そんな自分を演じているのは、そうすることで社会に受け入れてもらおうとしているのだ。そんなことを高校時代は論議していたように思う。
人間の平等な社会とはどんなシステムを言うのだろう。孫娘たちが大きくなる頃は、貧富の差は今日以上に大きくなっているかも知れない。富める者と貧しい者とは、これからますます差が開いていくのかも知れない。福山雅治さんの坂本竜馬が言うように、「みんなが笑って暮らせる国」、それこそが理想郷なのだろう。それが資本主義国家であろうと、国など存在しないような社会であろうと、どうでもいいような気がする。どうなっていくのか、楽しみにしておきたいと思う。