「今年もクラス会を開きます。4月頃に案内を致します」と年賀状にあった。私が22歳で赴任した高校の3年生である。新卒の青二才は担任にさせない伝統校で、私は3年生の授業は1コマもなかった。それでも3年の副担任であったから、担任が休んだ時は代わりを務めることはあった。確か、何らかの理由で20歳の生徒がいたから、歳の差がわずかでかなり緊張した。
彼らは2年間、デザインの勉強を重ねてきたわけで、私は大学で4年学んだことになっているが、実質は彼らよりも実習時間は少ない。ただ、彼らの作品を見ると指導する余地はあったから安心した。私の大学はデザインの技術は教えることはなく、要するに有名な作家や憧れる作家の作品から「盗め」ということだったように思う。私はシュールに関心があり、写実やレタリングは得意だった。
高校の体育祭は各科が、応援合戦とともに巨大な張りぼてを競い合う。生徒たちに混じって私もマスコット作りを手伝った。体育祭の当日はリレーに出場したり、生徒たちの席で応援合戦を観戦したりした。生徒たちからすれば、先生というよりも先輩といった感じだっただろうか。卒業制作の時も、何人かの作品を手伝ったように思う。「先生の作品を覚えていますよ」と言ってくれた生徒がいた。駅前で行なった個展のことかと思ったが、どうやら文化祭に出品した油絵のことのようだった。
伝統校であったから、生徒は優秀な子が多かった。それでも週1日開かれる職員会議で、生徒指導部から生徒の処分が提案された。「3日間の謹慎」とか、時には「停学」と言うケースもあった。私たち新任教師は7人もいて仲良しで、生徒の処分については疑問を持った。上司からの圧力がなかった普通科の仲間と私は「謹慎にどういう教育的な価値があるのですか」とか、「退学は教育の放棄ではありませんか」と、指導部の処分に反対した。
最初の職員懇親会の席で、生徒指導部長が私の前に来て、酒を注ぎ説教していった。それでも私は「処分が重すぎる。指導するのが教師の務めではないか」と繰り返したから、生徒指導部には一度も担当させてもらえなかった。