雨が降っている。花や樹木には恵みの雨だ。次女に頼まれて赤子を抱き、「雨ですよ。濡れたら冷たいですよ」などとつぶやきながら寝かしつける。赤子はどうしてこんなにも幸せな顔をしているのだろう。赤子の穏やかな顔を見て腹を立てる人がいないのは、周りの大人に全てを託すために、神様が赤子に与えてくれたものだ。ギリシア神話だったかに、王が賢者である怪物に尋ねる場面があった。
王は問う。「人間にとって最も善いことは何か」。賢者は身じろぎもせず口をつぐんでいる。王はさらに強く問う。すると賢者は笑い声をあげ、吐き出すようにこんなことを言う。「みじめなつかの間の生を受けた者よ。偶然と労苦の子よ。聞かない方が身のためなのに、なぜ無理に私に言わせるのか。最も善いことはお身には手の届かぬこと、それは生まれなかったこと。しかし、次ぎに善いことは、すぐ死ぬことだ」。
それで王はどうなったのか覚えはないが、そんな昔から人はなぜ存在しているのかと問うてきた。別に「人間の存在」を気にしなくても生きていける。日々をキチンと送り、それなりの収入があれば、普通に生活できる。多くの人がそうして一生を終るのに、時々滅茶苦茶な人生を歩む人がいる。太宰治や三島由紀夫はそんな人のひとりだ。西洋にも自分の「美」を求めて、若くしてこの世を去った人がいる。
立派な髭が印象的な哲学者ニーチェは55歳で病死したけれど、死を迎える10年ほどは狂人扱いだった。彼は31歳の時、たまたま出会った女性に、4時間散歩しただけで求婚している。37歳の時、友人の紹介で21歳のユダヤ系ロシア人の女性に出会い、友人と3人で暮らすようになる。3人が写真屋で撮影した写真は、「三位一体」と名付けられた。ニーチェはこの女性とも結ばれることがなかった。写真で見る女性は、リルケやフロイトとも交友があった才女にふさわしく情熱的で個性的だ。
ちょっと変わった個性的な人たちによって、「人は何者か」と解かれていくようだ。非凡な才能はなく、かといって平凡にはなりたくない、そんな類に私は入るようだ。