友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

色即是空 空即是色

2014年05月15日 18時54分27秒 | Weblog

 子どもたちが遊んでいる。最近、子どもの数が増えたような気がする。かくれんぼなのか、ワァーと叫んで集まったかと思うと、サッと身を隠したりして走り回っている。小学校の6年生くらいかな?大人の女性と変わらないくらいの背の高い女の子と、女の子の肩くらいしか背丈がない男の子が、手をつなぎ茂みの中で隠れている。上から眺めていても何となく微笑ましい。

 私の子どもの頃も、男の子と女の子が遊んでいても別に誰も咎めたりしなかったが、小学校の4年生くらいから、男の子と女の子は区別されるようになった。教室の中でも口をきくことはなかった。男女が親しく話をすれば、みんなから騒ぎ立てられた。中学生になると、「男女7歳にして席をおなじゅうせず」と口にする先生もいて、男と女が付き合うようなことは不良だとレッテルを貼られた。

 中学2年の時、私は転校する女の子に呼び出されて、彼女が使っていたリコーダーを手渡された。駅前だったので、帰宅する先生に見られた。翌日の授業後、職員室に呼び出され、それから何時間も立たされた。私には悪いことをしたという意識はなく、反抗的な気持ちが強くて黙っていた。先生たちの中から、「こういう大人しそうな生徒が一番問題ですよ。末恐ろしいね」と言う声が聞こえた。

 大人は信用できないと私は思った。授業では褒めてくれるが、心の中では「コイツは問題児だ」と思っている。大人はみんな表と裏を使い分けている。それなら私も、大人には分からない自分を決して見せないで、表面はいい子で通してやろう。そんな風に思ったわけではないが、中学生から高校生になるにつれ、自分の中にもうひとりの自分がいることが分かってきた。

 聖書にはそんな私にピッタリ来る言葉がいくつもあった。けれど、信仰することにはならなかった。我が家は禅宗で、法要の度に坊主が『般若心経』を読み上げていた。「色即是空 空即是色」。語呂がいいのか、言葉は覚えたが意味は知らなかった。最近、なぜか気になるようになった。仏教の言葉の意味を知りたいと思うようになった。聖書にはない何かがあるように思えてならない。

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