「以心伝心」という言葉がある。言わなくても分かるくらい、人は深い信頼で結ばれているような時に使われる。旺文社の国語辞典によれば、「禅宗の語で①ことばや文字によらず心から心へ考えを伝えること②だまっていて気持ちが相手に通じること」とある。師から弟子の心に伝わることを意味したようだが、転じて言葉や文字によらなくても、相手に思いが伝わることに用いるようになった。
多分、誰もが一度や二度くらい「以心伝心」の体験があるだろう。私のように思い込みが強いと、当然相手に伝わっていると思ってしまう。私は中学2年になる時、好きな女の子に「友だちになって」と言い、彼女から断りの言葉がなかったので、彼女も私と同じように思っていると勝手に信じた。手紙のやり取りも電話することもなかった。それでいて、会いたいと強く望んでいた。
けれど振られた。どうして振られたのか分からなかった。すると友だちが、「お前は彼女に、気持ちをどう伝えたのだ」と言う。「友だちになって」と言った以外は、中学3年の時、彼女の誕生日に花屋からバラを贈ったことだけが意思表示だった。高校の時、文芸部の雑誌に彼女のことを思って詩や散文を書いたが、彼女に「これはあなた」とは伝えていない。会話することもなかったのに、目と目が合えば以心伝心で分かりあえていると思っていた。
人の世は全てが錯覚なのかも知れない。分かっているつもりでも、何も分かっていないということはよくあることだ。抱き合いたいと思っていても、相手は全くそんな気持ちはないことはいくらでもある。人と人は、言葉や文字によらなくても伝わることもあるけれど、それは単なる錯覚に過ぎない。分かってもらっているという願望なのだ。だから、西洋人のように言葉で態度で示さないと伝わらないことがある。
素直に抱きたいと言って、それでダメと言われるなら仕方ないではないか。大人になると、人は皆、以心伝心を期待するけれど、やはりキチンと言葉にすることが肝心のようだ。「オーイ、愛しているよ」。何度も叫んでみるけれど、本当に伝わるだろうかと不安になる。やっぱり以心伝心に期待しているのだ。ダメだなー。