街路樹のハナミズキやツツジが今年は特に目に付いた。フジもボタンも話題になった。今年の春は、花が咲き揃った。私は相変わらずルーフバルコニーに出て、せっせとチューリップを抜き取り、サルビアを植えるための土作りをする。チューリップを抜いていて、オヤッと思うことがある。球根の下に新しい球根ができている。特に2年目の球根に多いようだ。
花はいつも一斉に咲くように思うけれど、同じような条件なのに、時々早咲きのものや遅咲きのものがある。今朝の新聞によれば、この「はみだしもの」が役に立つという。一斉に咲くと日照りや冷害で全て枯れてしまうが、早いものや遅いものがあることで少数だが生き残る。私は生物を研究するだけの知恵も余裕もないが、チューリップの球根の下にできる球根は大きな球根になる種類かも知れない。そんな妄想の中で黙々と作業を続けた。けれども、またしても午後からは風が強く、作業を中止した。
明日はこどもの日。友だちが「孫の初節句のために書いたの。あなたに読んで欲しくって」と、手紙を持って来た。彼女はいつも可愛らしいことをする。「10年後くらいかなぁ、○くんが小学校の高学年になって、お姉ちゃんが中学生になった頃、この手紙を読んでくれるのを思い浮かべて書いてみます」。初節句を迎える孫の名前が、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』からいただいたことを明かし、「ゴーシュのように、周りのみんなから愛される子になってもらいたい」と願う。彼女の夫はチェロの演奏家で、2012年4月に昇天した。「おじいちゃんは、とっても素敵なチェロ弾きでした」とも綴っている。
親もジジババも、子どもたちが健やかに育ってくれることを願う。子どもたちが不自由なく暮らしていけるように、わが身を捧げてもよいくらいの気持ちで見守っている。そして少しだけ、贅沢なことも願ってしまう。花はどれも一緒で、ほとんど差はない。人間も同じだろう。それなのに、少しでいいから何か才能があったらと願う。そして年月が流れ、我が子も我が孫も、自分と同様に普通の人だったと悟るのだ。
明日はこどもの日で、みんなが集まって来てくれるので、ブログは休みます。