友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

友人からの電話

2007年09月20日 23時58分39秒 | Weblog
 古い友人から、「今度の土曜日にヒマないか」と電話があった。毎日が日曜日になってしまってから、「じゃーちょっと会わないか」と誘ってくれる友人が増えた。お茶だけの人もいるし、お酒を飲もうという人もいる。誘われたら、よほどのことがない限り、出かけることにしている。どんな用事であるとしても、人が私を必要としているのに断るのは私の信条に反する。あれやこれやと話し合うことで、人が満たされるならば、こんな幸せなことはない。

 友人が言うには、彼の昔から付き合ってきたスナックのママから「盆明けから、少し、店の形式を変えたから、一度顔を出してほしい」とメールが入ったから付き合えというのだ。午後4時から8時まで、食事付きで飲み放題3,500円だという。飲み放題で嬉しがるほど私は飲めないが、わざわざ彼が電話してきたことに何かあるなとカンが働いた。彼とママの間柄について私は知る由も無いが、彼自身は「未だに、相手のことが気になり、付き合っている。私より、7つ年下である。何故かと問われても、はっきりとその理由を説明できないが、生き方に対して、互いに同じ価値観を持ち、互いに尊敬し合っていて、今相手がどんなことを思い、どんな生活をしているのか、気になって仕方がないのだ」と語っている。

 また、彼は「彼女は、私が仕事に対して死に物狂いで取り組む姿勢が好きだとは言ってくれた」こと、そして彼が「私は、彼女の何に対してもブレない生き方が好きで、サラリーマン時代から、彼女のアドバイスや意見だけは素直に聞いた。気が付いてみるともう25年以上も付き合っている。二人で、あちこちによく飲みに行ったし、食事にも行ったが、一度も浮ついた気持になったことはなかった」と告白する。そこが私には理解できない。確かに彼は、恋愛に関しては誠にプラトニックで、好きだ好きだとべたべたほのめかすわりに、決して肉体に触れようとはしなかった。

 私に言わせれば、それが欺瞞的だと思うのだけれど、彼は決してそうではないのだ。つまり彼には、オスとしての性は、恋愛においては存在しない。愛するという行為は、愛されないという結果にもなる。傷つかないためには、プラトニックでいることが一番だと無意識のうちに考えてきたのではないか。自分の愛が深ければ深いほど、相手から嫌われたりしたなら、深い傷を負うことになる。それが男と女の愛する行為なのだから、素直に受け取ればいい。しかし、彼は「愛されない」ことをいつも最も恐れているのだと思う。

 それは私も同じだ。誰しも「愛されない」を真正面から受け入れることは無い。人は皆、愛されたい存在なのだ。彼は「営業という立場にいた私と彼女は、“同病相哀れむ”というと言葉は悪いが、客を接待するというシチュエーションでは、同業者と同じなのだ。私がRetireし、肩書きがなくなっても、同じように気を遣ってくれるし、私は私で、35年間も、誰にも頼らず、毅然として店を守ってきた彼女を今も尊敬している。そんな彼女との付き合いを、友だちから言わせれば、ミニ恋愛というかも知れないが、私は自信を持って、男と女の友情だと思っている」と話す。なるほど、彼の言葉に間違いは無いだろう。

 それでも私は、それで彼女は満足なのだろうかと考えてしまう。いや、仮に彼女が「私はそれで満足しています」と言ったとしても、私にはムリをしているような気がしてならない。もちろん、彼には妻子があり、これ以上深入りしたなら「不幸になる」ことは目に見えている。「一度も浮ついた気持ちになったことはない」という彼を、私はエライなと思う反面で本当にそうなら悲しいヤツだなとも思っている。しかし「決して不幸な事態を招かない」と決心している彼の方が本当は人間として立派なのだろう。
 自分はまだまだ未熟者だと告白しなくてはならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党総裁選挙の報道

2007年09月19日 22時12分04秒 | Weblog
 自民党の総裁選びのために、街頭で候補二人の演説が行われ、たくさんの人々が聞き入っている様子がテレビや新聞で報道されている。テレビ局の各社は、町の声を拾い集めて、福田が有利だとか麻生は若い人に人気だとか、パーセントまでつけて報道している。自民党の総裁選挙は、国会議員と各都道府県の代表3名の投票で決まる。一般市民にはもともと投票する権利はない。それなのに、「あなたは自民党総裁に誰が適任と思いますか」といったアンケートを行い、演説のうまさでは麻生が有利などとも報じている。

 自民党員による選挙であって、一般市民には投票権はないのに、報道だけを見ていると、私たち市民も選挙に参加できるような気になってしまう。これはおかしい。自民党総裁選挙が終われば、常識のある総裁ならば、衆議院を解散して総選挙を行うだろう。これだけ街頭での総裁選挙の演説が行われることは、知らず知らずのうちに自民党を宣伝しているようなものだ。やり方がうまいネと思う。

 どこの新聞だったか、報道する側の責任に言及していた。新聞にしろテレビにしろ、先に先にと追いかけているが、本当にこれでよいのだろうかという自問だ。安倍総理が突然に辞任した。次の総理は福田なのか麻生なのか、組閣人事はどうなるのか、そんな先のことへと関心を持たせることばかりだ。なぜ、安倍総理は辞任したのか、安倍氏を総理に担ぎ上げた理由や破綻した要因は何か、ここになぜ報道はメスを入れないのか、結果ばかりを興味本位に報じることは報道の使命を失っていることだ。

 テレビはともかく、新聞までも同じ姿勢ということが気にかかる。いやきっとそのうちに、テレビの方が報道姿勢を鮮明に打ち出してくるかもしれない。右よりの雑誌が売れないで困っているそうだ。当たり前だと私は思う。全体が右寄りシフトになっているのだから、わざわざ正論の右より雑誌を読む必要がない。それを言うなら、左よりの雑誌はどこへ行ってしまったのか。かろうじて「週刊金曜日」が残っているくらいだ。報道は公平でなくてはならないとよく言われる。公平であるために、両論を併記するか、何も載せないか、という発想にジャーナリズムは陥っていないかと私は不安だ。

 1枚の写真にも、真実と同時に写し手の思想がある。客観的である報道にも、送り手の思想がある。思想の無いような報道は実際にはあり得ない。思想は価値観だ。報道する者の価値観を、受け取り手である市民のために働く価値観にするか否かを決める力も、市民の側にあると思う。市民が面白いことだけを第一に考えるならば、報道も次第にそうなっていくであろう。と言うことはまた、逆にも真なりであるはずだ。

 「朝日新聞を非難されていますね」と、知人が私に言うが、私が最近の朝日新聞に不満を持つのも、報道する側の思想が不鮮明だからだ。それだけ朝日新聞は追い込まれているのだろうが、乗り切るための舵に私は不安を感じている。好きでもないのに、国民なら「好きだ」と言えと強要する愛国心。授業ならば評価があって当然だから、「道徳」の授業を教科として位置づけよ。こうした安倍総理のような新保守主義者は若い人たちに多い。彼らは今度の安倍政権の挫折で一旦は権力の座から遠のくが、再び現れることは間違いないだろう。

 何を大切にしなくてはならないか、市民がしっかりしないと、報道はどんどんお金と力のある方に向かってしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葬儀に参列して

2007年09月18日 22時28分17秒 | Weblog
 私の大学の先生の奥さんが亡くなって、今日、その葬儀に参列させていただいた。

 私が小学校へ入学したばかりの春、城跡の公園は桜が満開で、いつも桜祭りが行われる。小学生の写生大会はその行事の一つで、私の絵を見た担任が母に「この子は先生について絵を習わせるといいよ」と言ったようだ。母はきっと「天分がある」と思い込んだのだろう、翌年から中学校で美術を教えていた先生のところに通うことになった。先生の家は公園のそばにあり、家柄はこの地の家老職であったと聞く。

 先生のお父さんは政治家で、私の祖父が町議会議員を務めたこともあったためか普通に話してくれたので、気難しい人というよりも、優しい人という印象の方が強い。先生の奥さんは岩手県盛岡の人で、目鼻がハッキリしていて、外国人のような雰囲気のある人だった。冬には部屋にあった大きなストーブでイモなどを焼いてくれた。身体が弱い人だったと、挨拶の中で言われていたが、私はハキハキしていて、活発なお嬢さん育ちの人という印象だった。とにかく世話好きで、面倒見のよい人だった。

 先生は大学の先生になっていた。私は高校生の時に両親をなくしていたので、お金のかからない大学を受験せよと兄貴から言われ、先生の大学に入学した。20歳の時に我が家は破産し、それぞれが別々に暮らすことになった。先生と奥さんは私を先生の家のそばの、誰も住んでいなかった親戚の家に住むようにしてくださり、先生の子どもたちの勉強を見たり、先生の家の車の運転をしたり、掃除や片付けなど、書生として働かせてもらった。食事も家族の皆さんと一緒にいただいき、本当に家族の一員のような暮しだった。

 先生は絵描きで、奥さんはマネージャーだったのかなと思う。先生が海外へ行く時、その資金調達のために、町の有力者のところへ絵を持って行った。お金の話はなかったように思ったけれど、あれでお金が集まったのだろうかと不思議だった。先生がイタリアから帰国された時、学生たちも呼ばれて、庭でパーティーが開かれた。先生が「スパゲティをご馳走してやる」と言って、うどんをゆでて、ケチャップやマヨネーズであえてくれた。スパゲティなどというものは食べたことがなかったので、これがスパゲティかと思ったが、その後、スパゲティが普通に食べられるようになり、あれはやはりうどんだったことを知った。

 先生も奥さんも人が集まることが好きだったから、よくいろいろな人が家に出入りしていた。先生はでっかい身体の人だったが、いつも気配りを忘れなかった。私が結婚する時、仲人を先生ご夫妻にお願いした。自分が仲人をするようになって知って恐縮したが、先生には何もお礼をしなかったばかりか、奥さんが例の調子で、「ヨシヒコちゃん、これ持っていきなさい」と言われ、ありがとうございますともらったものは、洋食器の豪華なセットだった。今も大事に使わせていただいている。

 奥さんの遺影は、とてもよく撮れていた。二人の子どもたちは、先生に生き写しになっていた。祭壇の中に、奥さんの若い時の写真が1枚飾ってあった。おそらく20代の写真だろう。溌剌として、輝いている。そういえば、お二人がどこでどのように出会ったのか、余り聞かなかったことが残念だ。どのような出会いがあったか知らないが、二人が恋愛で結ばれたことは確かだろうし、お互いを必要としていたことも確かだと思う。奥さんはモディリアーニのモデルのような人だったから、モディリアーニのような画家とモデルだったかもしれない。

 先生は由緒ある家柄のおぼっちゃんではあったが、優しい人だった。そこそこに駆け引きもできたし、はったりも言える人だった。私が大学4年生の時に、先生から「東京へいけ」と言われて出かけた。先生としては、編集者希望の私を東京の出版社に入れてやろうという配慮だったが、結果的には私は好きだった女の子のところに逃げ帰ってきてしまった。東京にいながら、学校の試験は受けに帰ってきていたし、こちらで教員採用試験も受けていた。それをしていなければ、きっと東京人になっていたかもしれない。今から思えば、東京で暮らすことよりも、好きな人と一緒にいたかったのだろう。

 でも結局は軟弱だったとしか言いようがない。いつも、夢は追い求めるが自分をゼロにするだけの勇気は私にはなかった。どこかで、安住な地を求めていたように思う。好きな女の子が競合の対象であれば、なんとしてでも手に入れたいという気持ちはあったが、自分の将来について、ゼロになるかもしれないというような大きな賭けの時は、よりリスクの少ない方を選んでしまったのではないか。今更、反省したところで何になるというものではないが、葬儀に参列していて、ふと自分の人生を振り返る機会に出会った。

 先生、いつもありがとうございました。お心に応えられず、申し訳ありません。合掌
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊田市美術館

2007年09月17日 23時17分36秒 | Weblog
 豊田市美術館に行ってきた。本当は友だちと行く予定だったが、今日までだったのに互いの都合が付かなかった。それで私はどうしても見てみたかったので出かけた。豊田市に美術館ができたのは知っていたが、行くのは初めてだった。岡崎市の美術館もいいけれど、豊田市もいいよとは聞いてはいたが、確かになかなかシャレた環境の中にあったし、企画力もよかった。難を言えば、階段が多いということだろう。

 今日までの催しは『シュルリアリスムと美術』展で、歴史的な解説と展示の仕方が親切で、作品の数も結構あった。同じ企画が、岡崎市の美術館で先に行われたから、岡崎でやったものの焼き直しかと思ったが、作品はダブっていなかったし、こちらの方が数も多かったのではないかと思った。岡崎がシュルリアリスム運動に焦点を置いていたので、アンドレ・ブルトンを中心とした運動の担い手たちについて解説する展示であったのに対し、豊田ではシュルリアリスムの先駆者として、キリコを持ってきていたように、美術に力点をおいていた。

 そうした企画での工夫は充分に感じられたのに、私が気になったのは、会場を監視する女の子のイスの位置だ。どういうわけか、来館者が通り抜ける一番狭いところに置いてあった。多分、二つの会場を同時に監視できるし、何かあった時は立ち止めることも出来る、そうした考えからだろう。しかし、今日はとても人が多かったので、通行の妨げとなり、彼女たちはそこに座っていることができなかった。そんなことなら、なぜもう少し奥の角にでもイスを置けばいいのではないかと思った。彼女たちが作品についてどれほど知っているかと思って聞いてみたが、期待するような答えは返ってこなかった。ただ、詰めているだけであるなら、控えめな所にイスを置いて欲しいものだ。

 稲沢市の荻須美術館もそうだったが、公立で運営されている美術館の職員はなぜか、愛想が良くない。小さな私立のメナード美術館などは、職員の皆さんが来館者に対して愛想がよいのに、公立の場合はめんどくさそうに来館者を見ているような気がする。この豊田市美術館は、企画展のほか常設展もあるが、、その常設展の方では監視役の女の子は居眠りをしていたし、とても品物が豊富に並べてあってビックリしたミュージアムショップでも、女子職員の対応には驚いた。確かに閉店時間となり、早く帰って欲しい気持ちはわかるが、「閉店時間になりましたので、出口にお回りください」とアナウンスをするけれど初めての者には、出口がどちらにあるのかわからなかった。

 豊田市が豊かな財政をフルに遣って、こんな立派な美術館を作ってくれたこと、そして多分ここの学芸員が優秀だからこんな企画展ができるのだろうが、そうであるがゆえにもう少し職員教育に力を入れて欲しいと思った。本館から別館に移る通路は、ミラーを使った野外作品展というような広場で、これもおもしろいなと思った。何よりもよかったのは、丁度、夕焼けということも重なったからだろうが、池と森とが夕焼けの中で見事なシルエットを演出し、まるでシュルリアリスムの作家、ルネ・マグリットの世界のようだった。この美術館を設計した人はここまで計算していたのかと思い、尊敬の念を覚えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今晩は

2007年09月16日 23時59分08秒 | Weblog
 すっかり酔っ払っています。今日は平盆祭りの打ち上げ会を小牧のスパガーラで行いました。それで酔っ払って、ここに何を書いているか定かではありません。私も初めて、出かけたのですが、今日は日曜日ということこともあって、とても混んでいました。裸の男たちがたくさんいて、往生しました。そんな話はまた今度の時にしましょう。今日は、時間がないのでこれでおしまいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おかしなこと

2007年09月15日 20時07分14秒 | Weblog
 おかしなことが続いている。安倍総理の辞任表明の日、これはブログに載せないと関心がなかったかと思われるぞと、パソコンに向かったのに、いざ、投稿する段になっていつもは出ないのに、「ログインIDが間違っています」と表示された。お酒を飲んだ後なので、いい気分になっていたのだろう、適当に「アレだったか」「コレだったか」とやっているうちに、午後11時半を回ってしまった。コレではせっかく夕方から用意しておいたのに掲載できなくなってしまう。ちょっと焦った。そのためだろう、「10回以上間違ったので、30分のフリーズ」が表示された。ダメだ。結局、翌朝に新たなログインIDを取得して、やっと投稿できた。

 ブログでは、1つの記事に写真が1枚しかまだ掲載できない。手引書を読むと、写真のアドレスを書き込めばいくらでも掲載できるとあるが、これができないでいる。まあこれから勉強していけば解決できるかもしれないが、niftyのココログでは写真の掲載は実に簡単だったのに、gooに変えてからどうも手間取っている。各社で、やり方が違うというのはやむを得ないことなのだろうが、できれば同じ操作の仕方にして欲しいものだ。

 おかしなこととはそんなことではない。先週からだったかはっきりしないが、このところ身体の左半分が軽くしびれている。しびれは左手の指先と腰から下が強いような気がしている。しかし、我慢できないことではないし、仕事をしていたり人と話していたりすれば、すっかり忘れてしまっているから、たいしたことではない。朝、起きた時や、夜、寝る時に、気にかかるという程度だ。マッサージにでも出かければよいのだろうが、なんとなく行くことができずにいる。時間が解決するだろうと思っているからだ。

 まあ、歳をとったのだから仕方のないことだ。しびれは、脳の中の血管に血栓が詰まった時に起きるというが、小さなものがどこかで起きているのかもしれない。脳の右側ですごく痛い時があった。一時のことだったから、それで我慢して過ごしてしまったが、それが原因なら因果関係がはっきりしていてわかりやすい。人は老いていつかは死ぬものなのだから、これも時間が解決するだろうと思っている。

 心配なことは、たとえばカミさんが知らない女性と一緒にいて死を迎えるような事態になった時だ。どのように説明しようかということだが、残念ながら私はもうこの世にいないので、それができない。できないのだから、生きている人たちで解釈してもらう以外にない。

 死をもって応えた、西春町の上野町長や松岡農林水産大臣は、本当は自分で説明したかったのかもしれない。説明すれば納得するかといえばそうはならないし、さらに多くの非難を受けることになることだってある。そう思うと、すべてを闇の中に封じ込めてと考えたとしても無理はない。そういう切羽詰った秘密がない私のような凡人は、とにかく死ぬまでは生き続けなくてはならない。せっかく生きるならば、生きていることが楽しいと思える日々でありたい。

 中学1年生の孫娘は時々「もういや、夢も希望もない」と雄叫びを上げる。「へえ、そうなの。私なんか、明日が楽しみでしょうがないよ」と私は言ってやる。実際、私はいつもそう思っている。明日は素敵な女性に出会い、美術館へ出かけたり、一緒に食事をしたり、どんなにか胸の高鳴るようなことが起こらないとも限らない。たとえ、そんなことは起こらないとしても、それは最後の結果である。

 今日も一日中、孫娘と一緒だった。お昼に二人で食事に出かけた。今、彼女は国語の教科書で『竹取物語』を学んでいる。「昔々、あるところにね」というお話の元になったんだよと話す。「どうしてそんなことを知ってるの?」と言う。

 試験に出るようなことがらについては、あまり得意ではなかったが、雑学ではかなりよい成績が取れるはずだ。試験というものが雑学であったならと思っているが、それでは系統立ててものごとを考える力をつけることにはなっていかないし、雑学に秀でていても実際にはほとんど何も役立たないことも事実だ。政治家の秘書だった時も、高学歴の人であっても意外につまらない雑知識に欠けるんだと知った。なんだ、成績の悪かった私のほうが知識としては豊富じゃないかと。ところがつまらないことをどんなに知っていたとしても、試験では何も役立たない。その結果が、現在そのものというわけである。

 おかしなことの一つは、おかしなことだと気付かないことなのだろう。それでも、いいじゃーないか。ダメかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隣の話

2007年09月14日 21時51分40秒 | Weblog
 隣の席で高齢のご婦人が二人で話している。
「男の浮気はすぐばれるけれど、女の浮気はわからんとネ」。
「何でえネ」。
「それだけ女はしぶといんだと」。
「学校の先生は浮気しとっても、クビにはならんのネ」。
「学校の先生だけじゃーなくても、浮気しとったというのでは、クビにはならんのと違う」。
「ほうかネ。ほんでも政治家はクビになっとるネ」。

 こちらの席の男たちは隣の話に聞き耳を立てていた。迎い側の男が言う。「二人でお茶を飲んだり、食事をしたり、ちょっと出かけたり、そんなことにいちいち目くじらを立てるなと、言いたいね」。しかし、その男の妻は、「それですまなくなるのが男でしょう」と言い放つそうだ。男はそれでこの話は終わりにするという。何も反論できないし、反論すればわが身が窮地に陥ることになるかもしれないからだ。

 それなら、男と女を入れ替えて考えてみたらどうだろう。同じ結論なら、男でも女でも感性は同じだということだろう。性欲は男にだけあるわけではなく、女にもあると書いた本を読んだことがある。こちら側の男は、「この世の中、男と女しかいない。ヨソを見るなと言うほうがおかしい」と言う。なかなか説得力があるねと聞いていてそう思った。

 そこで、“友だち以上恋人未満”を13年間も続けている友だちのブログを見てみた。またまた、甘えた詩が載っている。

  他の男性(ひと)から ケイタイに電話が 掛かってきただけで 
  私は 突然 不機嫌になり あなたを困らせる
  絵文字をつけて、あなたが送るメールの宛先が 気になって
  私は 一人押し黙り 一人勝手に 相手が男と思い込む 
  結局は 気まずい空気が 周りを囲み
(略)
  友だち以上恋人未満 長く付き合っていくには その方がいいのよ
  そのときは 悲しくて 寂しくて
  出来もしないのに 別れることを 考えたけれど
  三月も会わないときが あったけれど
  あなたからの電話で
  五感全てが あなたのしばらくの不在に 敏感で
  やっぱり あなたが必要なんだと 私の心が叫んでた
  不覚にも 流れる涙が 
  あなたの優しさを 欲しがっていたのです

 やっぱり、これって恋愛だよな。私には彼のようなストイックな恋愛はできないだろう。男たちに聞くと「男と女の友情は成り立つ」と答えてくれるが、私はズーと懐疑的だ。尊敬する女性はいるが、100%恋愛感情はゼロとは言い切れない。還暦を過ぎれば聖人と成れるのかと思っていたが、どうしてかいつまでも十代の感情から卒業できないでいる。

 先日お会いした寺の住職も、「私、女性が好きでね、ほれたハレタという歌ばかり歌っていました」と言っていた。どんなに歳を取っても変らないのだろうか。結論はもう少し、先にしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍総理の辞任

2007年09月13日 08時22分49秒 | Weblog
 安倍晋三総理大臣が辞任を表明した。午後2時からの記者会見をテレビで見たが、一体これはナンだと思った。戦後生まれのお坊ちゃま政治家はこれほどまでに無責任だったのか。ところが、ご本人は無責任ということすら意識していない様子だった。記者会見は一国の総理が辞任をするというのに、たった20分というのもビックリした。安倍総理がなぜ辞任を決意したのかについても、結論から言えば、全くわからない。「もう、やめた」といった、駄々っ子のような言い分だった。

 そこには一国の総理としての苦悩というよりも、私はこんなにも理想を求めてがんばってきたのに、誰も私を評価してくれない、という子どもがするような記者会見であった。そのきわみは、民主党の小沢党首に会談を申し入れたのに受け入れてくれなかった、悪いのはアイツだと言わんばかりだった。先の参議院選挙の結果から自民・公明の与党は、参議院では法案を通すことができないことは明確になったのに、テロ特措法に反対している民主党党首と何を話し合いたいと考えていたのだろう。

 安倍さんは党首会談で、自分の思いを伝えたいと言うが、民主党の小沢党首がハイわかりました賛成しましょうと言わないことは充分にわかっていたはずだ。話せばわかると、本気で安倍さんが考えていたとしたなら、やはり彼はKYといわれて充分だろう。状況が全く読めていないのだから。そればかりではない。安倍総理は自分が理想とする「美しい国」造りには超積極的で、数の多さで何がなんでも押し切ってきた。これまでの首相には見られない強引さを発揮してきた。

 ところがそのやり方をも含め、先の参議院選挙で大敗という結果をもらったはずだった。ところが安倍総理は「参議院選挙は政権選挙ではない。政治に空白を作ってはならない。私の改革は国民に支持されている。したがって続投する」と、「強い決意で臨んだ」。安倍総理に批判的だった桝添氏を厚生大臣にすえ、挙党体制を作ったかに見えたのに、なんと危うい体制だったことか。第2次安倍内閣からわずか16日で、安倍総理自らが辞職とはオドロキモモノキである。

 遠藤農林水産大臣の辞任が、麻生幹事長と与謝野官房長官で決めら、カヤの外に置かれた安倍さんは全く自分の力が及ばないことに、自らの限界を知ったのだろう。もともと、小泉さんの遺産の上で成り立ってきたのに、自分に力があると錯覚してしまったところに安倍さんの悲劇というよりも喜劇がある。誰が名づけたのか知らないが、K(空気が)Y(読めない)人とはよく言ったものだ。小沢民主党党首との会談にしても、小沢さんはそのような申し入れはなかったというが、申し入れがあったなら受けたのかということにもなるが、どちらにしてもこの時点での党首会談は全く意味が無い。それなのに意味を見出そうとするのだから、不思議だ。

 参議院選挙前のように、衆議院での圧倒的多数で何でもやることはできる。参議院で否決されようが、衆議院で3分の2あるのだから、強引に安倍政策を押し進めることはできる。しかし、安倍さんは放棄してしまった。かつて、銃弾を受けながらも国会に登壇した首相がいたが、安倍さんはそうすることもなく、みっともないことに健康をも一つの理由にして、総理を辞すると言う。

 こんな身勝手な安倍総理の辞任表明を自民党が許すところに、自民党の解体的危機が現れている。政策と思想で成り立っている政党ならば、このような身勝手で無責任な行為を許すわけにはいかないだろう。それが堂々と行われるということは、自民党はもう政党としての面目を持ち合わせていないということだ。政党として成り立たないような自民党には引導を渡さなくてならない。

 それを民主党がどうやるのか、見ものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三浦均さんの手紙

2007年09月11日 22時46分49秒 | Weblog
 朝、三浦均君から電話がかかってきた。尾張旭市から実家に引っ越したというハガキをもらったので、一度会いに行きたいとEメールを送って1年ほどになる。三浦君は、名古屋では有名なイラストレーターだ。いくら教え子でも、私は彼の足元にも及ばないから、「クン」では失礼になってしまうので、これからは「さん」で書くことにしよう。

 教え子と書いたけれど、これも正確に言えば、どういうわけかこの学年は一度も担任を受け持たなかったし、授業もなかったと思う。デザイン科のクラスは1つしかなく、3年間一緒だから授業はなくても顔はよく知っている。彼は体制とか権威とかいうものには反抗的だったからより印象深い。一度だけだと思うけれど、絵画の先生が休まれたのでその代わりに授業に出かけていった。それが教師として、彼には最初で最後ではなかったかと思う。

 三浦さんから平成6年に長い手紙をもらった。私はすでに教師を辞めて、地域新聞を作っていたが、手紙を読んで、「先生という仕事はいいな」と強く思った。教師冥利に尽きるこの手紙を「載せていいか」と、彼に会って許可を得たいと願っていたところに、彼の方から我が家へ来てくれたことも不思議な縁だ。彼の最近の作品を見せてもらい、その技術の高さもさることながら作品への思いの深さに圧倒された。さすがにニューヨークで賞を受けた人である。

 話が一区切り付いたところで、「あなたからにいただいた手紙があるのだけれど、これを私のブログに掲載してもいいかな」と手紙を見せた。彼はこの時の授業のことはよく覚えていると言い、「かまいませんよ」と言ってくれた。手紙の一部だが、それをここにそのまま掲載する。

 ▽▽▽
  僕には“今の自分を創った教師の言葉”というのが2つあって、その一つが鈴 木先生の言葉です。
  先生のその一言は、僕に大変な勇気と自信を与えて下さいました。そして今も それを信じ、生きています。
  おそらく先生はお忘れになったかもしれませんが、その言葉とは「三浦君はク ロッキーはうまいなあ」の一言です。たったこれだけの言葉が、お絵かき大好き 少年の未来を作り、支えることになったのです。
  いえ、決してオーバーに言っているのではありません。あの時クラスで、めい めいが好き勝手に鉛筆でクロッキーをしていたのですが、僕はたまたま毛筆に墨 をつけて描いていて、それを見ていた先生がそうおっしゃったのです。
  ひょっとしたらそれは、“クロッキーはうまいが、他はだめ”という言外の意 があって、本当はそれを伝えたかったのかもしれません。
  しかし、以後僕は時間があればクロッキーをし、丸栄に入社してからも、営業 中の百貨店の店内、通勤のバスの中、喫茶店の中、飲みに行けばスナックのカウ ンターでと、あらゆるところで、他人の視線にひるむことなく続けることができ ました。
  さすがに今は描いていませんが、そういう習練が“イラストレーター三浦均” を創りあげたのは紛れもない事実です。
  先生は僕たちの担任ではなく、特定の授業でしか接することがなく残念でした が、この一言をいただいただけでも、先生と出会えたことが自分にとって大変幸 せなことだったと、今でも感謝しております。
  そして、おそらくそういう生徒はもっともっといるはずです。


 先日、一緒に信州へ行った吹奏楽部のOBもデザイン科の生徒ではあったが、私が22歳で赴任した時の3年生で、このクラスには20歳の生徒もいて、授業はもちろん実習を見ることも滅多になかった。その彼が「先生の作品を見てビックリした」と言う。どこかで私の作品を見てくれたのだ。直接、担任ではなかったような生徒が、私を慕ってくれることに、人の縁の不思議さを感じる。

 午後から、丸の内のギャラリーで行われている山田彊一個展を見に行った。山田先生は私の大学の先輩であるだけでなく、現代美術の先導者であり、私を絵の世界に導いてくれたかけがえのない人でもある。ギャラリーに入るといきなり周囲の人に「市長選挙では当選できなかったが惜しくも次点でね」と、いつものようにまくし立てられた。ここでまた、人の出会いの不思議を痛感する。そういう歳になったのかなと思うのだが、山田先生は「次になにをやられますか。老いてはいけませんよ」と、釘を刺してくれた。
 そういえば今日は9・11テロの日だ。もう一度何かやりますか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドラマ『生きる』

2007年09月10日 23時06分29秒 | Weblog
 昨夜、黒澤明監督の映画『生きる』をドラマ化したものを観た。映画は観ていないので、どういったらよいのかわからないが、主人公に松本幸四郎を持ってきたことが間違いだったように思った。市役所の無気力課長が松本の役だが、演技をしていない時の松本の顔そのものが、ミイラに近いので、「ミイラ」というあだ名にうってつけ過ぎて、誠におもしろくなかった。だからドラマの展開に変化が見られないのだ。

 無気力課長は医師から「すい臓がんで手術もできないほど進行している」と診断される。つまり、残り少ない命であると宣告されたのだ。タダひたすら出勤し、時間をつぶしてきた彼は、初めて無断欠勤して町をさまよう。飲めない酒を飲む。幸いにも出会った男が、彼がこれまで行ったことのない場所や遊びに連れて行ってくれる。これが前半だ。

 後半は、それでも満たされずにいた時、職場の部下で若くて奔放な女性に出会い、彼女にのめりこんでいく。はじめはおもしろがっている様子の若い女性も、しつこくまとわりつかれて嫌気がさしてくる。彼は「どうしてなのか、自分でもわからない」と言い、「なぜそんなに活き活きしているのか、教えてくれ」と迫る。ただ働いているだけの毎日だと言われ、仕事に目覚めていくという結論だ。思わず、ウソだろうと言いたくなった。

 死がそこまで迫ってきていることがわかった時、人はどんなことをするのだろう。それがこのドラマのテーマなのだろうが、「アホかいな」と思った。死を迎えた時の受け止めは十人十色、人様々であろう。主人公の課長のように、しなかったことをしたいと思う人も多かろう。彼の場合は、幸運にも出会った男がいろいろと世話をしてくれた。白人女性とのSEXもしたのかもしれない。お金で買えたものもそれなりにあったはずだ。それでも満たされなかった。

 彼がガンでもうすぐ死ぬかもしれないことを誰も理解してくれなかったからだ。部下の若い女性に出会い、彼女につきまとったのも自分を受け入れて欲しかったのだろう。主人公は男だったが、逆に女であっても同じで、若い男が優しく自分を受け入れてくれるならば、それが最後になったとしても女は後悔しないだろう。人はいつも得られないものを求める悲しい存在だ。だからこそ、逆説的だが生きていけるのだと思う。

 ドラマは死んだ課長を巡って、役所の人たちがいろいろと話していたが、確かに役所というところをよく分析している。これは、ドラマとしては余分なものだと思い、見なかったけれど、役所の内部を象徴的に描いていた。役所の中の人間関係もまああんなものだろう。仕事をやりすぎれば角が立つが、やらなければ無能力なヤツと見なされないとも限らないから、一番いいのはそこそこにしておくことになる。こういうシステムに税金が投入されているのだから、やりきれない。

 さて、さて、私は自分が死に直面したならば、どんな風に過ごすのかと興味がある。死に直面していないと思っているからそう思うのだろうが、普段と変わりなく過ごして生きたいと思っている。多分そうするだろうし、私はそれができると自負している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする