友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

役に立つならいいじゃーないか

2012年08月21日 20時11分23秒 | Weblog

 一緒に井戸掘りをしている80歳の最長老が、「来年の3月以降になるが、引っ越すことにした」と言う。今はカミさんと二人暮らしだけれど、「そろそろ身の振り方を考えなくてはいかん」とは言っていたし、実際に「有料老人ホームの見学に行って来た」という話も聞いた。まあ歳だから、そういうことは当然あると思っていたけれど、それが現実的になってくるとまでは考えていなかった。

 彼には息子と娘がいるが、息子の方は「家にも遊びに来ない」と嘆いていた。カミさんは遠慮なくものを言うキツイ人だから、「嫁さんとはうまくいかないだろう」と古くからの友人が言っていた。その分と言ってはヘンだけれど、娘さんの方にはよく出かけていた。娘さん一家と旅行に出かけた話も聞いた。カミさんにとっても実の娘だから、ズゲズゲ言っても後からこじれるということがないようだ。

 小田急線沿いで娘さんの家から近い駅の傍の中古マンションを探したが適当なものが無くて、結局「来年3月に完成する新築のマンションにした」と言う。神奈川県は丘陵地なので坂が多い。車は手放すつもりだから、駅の近くか、駅そのものがマンションであるような物件が良いだろうと探した結果だそうだ。名古屋でも郊外に家を建てた人が年老いて、地下鉄の駅近くのマンションに移り住んで来ている。緑を求め、子どもたちのためにと、自分を犠牲にして遠距離通勤を続けてきた人たちだ。

 郊外は確かに緑も多く、たとえば1坪農園なども楽しめる。けれども買い物をするにも病院に行くにも、車が無くては動けない。展覧会や音楽会に行くとなると、やはり都会へ出ることになる。それならいっそ、都会で駅に近いマンションの方が便利だ。そんなことから都会帰りが生まれているようだ。彼も、「ふたりのうちはマンションで暮らし、ひとりになったら老人ホームに入るつもりだ」と言う。娘さんの近くに引っ越すのは、娘さんに面倒を見てもらうためではなく、家族が傍にいるという安心感のようだ。

 私たちの時代は、親元を離れて一家を構え、伝統に縛られない新しい生活スタイルを目指した。テレビ・洗濯機・冷蔵庫を揃える生活だ。テレビはカラーに、洗濯機は自動に、冷蔵庫は大型にと買い換えていった。さらにステレオやエアコン、FAX電話、パソコンを買い揃えた。家は狭いけれど、快適さはまずまずあった。1億総中流と言われた時代を作り上げたのだ。夫婦に子どもふたりという典型的な中流家庭である。

 その最期を迎え、親の面倒は見てきただけに、子どもにその苦労をさせたくないと思い、老人ホームで死を迎えてもいいと考えるようになった。子どもの方はというと、もう少しドライで、親が比較的広い土地を持っているなら、そこに二所帯住宅を建てて一緒に暮すというケースが増えているそうだ。中には広い土地でなくても、3階建ての住宅にして、親子で住む人もいる。「親としてはありがたいことではないの」と言うと、「いやいや、孫の面倒見でこき使われている」そうだ。役に立つだけでもいいと思うけれどなあー。

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東雲の ほがらほがらと

2012年08月20日 21時50分30秒 | Weblog

 今日も暑い。お盆が過ぎたのに、こんなに暑い日が続くのは珍しいのではないだろうか。子どもの頃、盆過ぎに海に入ると死神に連れて行かれると言われた。海水温が下がり、真夏のように海水浴はできないという戒めだったと思う。しかし、こんなに暑い日が続くと、まだまだ海水浴もできるのではないかと思えてしまう。昼間が暑いのは仕方がないが、夜は涼しくなって欲しい。

 高校野球を見ていたら、校歌の中に「東雲(しののめ)の」という歌詞があった。東の雲と書いて、どうして「しののめ」と読むのかと不思議に思った。広辞苑を引くと、“「め」は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様の粗い編み目のことで、篠竹を材料として作られた「め」が「篠の目」とよばれた。これが明り取りそのものの意になり、転じて夜明けの薄明かりを、さらに夜明けそのものを意味するようになった”とある。そういえばおぼろげだけれど、短歌の中にも「しののめの」で始まる歌があったような気がして調べてみると、こんな歌だった。

 「東雲の ほがらほがらと 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞ悲しき」。古今和歌集にあり、読み人しらずとある。「ほがらほがら」は、明るくなって物がはっきりと見えてくる様子、「きぬぎぬ」は衣のことだから、歌の意味は明らかだろう。一晩を共に過ごした男女が明るくなってきて、身支度をして別れを惜しんでいる、ちょっと悲しい恋の歌だ。悲しいと書いたけれど、それは私の勝手な推察で、歌の中に「悲しい」とあるのはもっと違う意味なのかも知れない。

 「東風」と書いて、「こち」と読むことは知られている。平安中期に大宰府に流された菅原道真が歌った「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」で、覚えている人も多いと思う。大宰府天満宮に行くと梅の木がある。「飛び梅」と呼ばれているもので、主人の菅原道真を慕って都から大宰府へ飛んできたと言われている。梅の木を愛した菅原道真の神のような力を象徴しているけれど、道真の歌の真意は愛した女性への思いを梅に喩えたのかも知れない。

 和歌は日本人の心をよく表している。それは受け取り方でどのようにも解釈できるあいまいさを持っている。私たち日本人はハッキリ言うことを極力避けてきた。それは優しさであり、理知だと言ってもいい。ホンワカと包んでしまい、何が言いたいのか、どういう意味なのか、よく分からない伝え方だ。相手に判断を任せるところも優しいようで卑怯な面もある。非常に繊細で心配りができているけれど責任の所在はハッキリしない。

 31文字という短い言葉の中に伝えたい気持ちを織り込むから、短歌はもっとあいまいになる。けれどもあいまいだから伝え易いとも言える。

   「抱きしめて 白き乳房を まさぐりし 子どものように ほうばる幸せ」

   「好きだよと 言えばどこがと 聞き返す おちゃまな君は 僕の恋人」

 こういう現代の短歌は分かりやすいが、あいまいさが無いだけ情緒に欠ける気がするが、どうだろう。

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奔放な恋に憧れた人々

2012年08月19日 21時30分31秒 | Weblog

 一日中テレビの前にいて、4試合も見続けるとさすがに疲れた気になる。ベスト16からどこが生き残るのか、高校野球の一番面白いところだと思う。私は特別にどこを応援しようとか、どこが好きというものはない。しかし、テレビを見ている自分を振り返ると、どのチームに肩入れしているかは分かる。弱い方というか、突出した選手のいないのに勝ち進んできた、そんなチームを知らず知らずに応援している。いわゆる判官びいきである。これはどうも、日本人に多く見られる傾向らしい。

 判官といえば源義経のこと、兄の頼朝とは異母弟である。義経の母の常盤は絶世の美人であったと言われるが、身分は低かった。これを父の義朝が見初めて妾にして、3人の男の子を産ませたが、義経はその末子である。テレビドラマ『平清盛』でも、常盤は子どもの助命のために清盛の妾になっているから、よほど美貌の持ち主だったのだろう。兄、頼朝に追われ奥州へ逃げなくてはならなかった悲運の義経に対して、愛惜し同情することを判官びいきという。義経は確かに薄命の人とは思うけれど、この悲劇は頼朝と育った環境の違いにあるように思う。

 頼朝は義朝の嫡男として、武家の家で育ち、流された伊豆でも関東武士の生活を見ているが、義経は奥州藤原氏の下での武家しか見ていない。義経は戦上手だったかも知れないが、武士の扱い方はうまくない。どうすれば武士たちが信頼を寄せてくれるか、そのノウハウを学んでいない。だから頼朝に反旗を翻す決意をした時、これは大きなチャンスだったのに義経に従う武将はいなかった。先の見込みのない人には誰も付いていかない。義経を慕う武士がいないことは悲運だけれど、自らが招いたことなのだ。

 テレビドラマ『平清盛』では、清盛が権力を手中にしていくが、その方法はこれまでの貴族が行なってきたことを踏襲している。平氏が不運なのは、天皇、上皇、法皇という天皇家を整理できなかったことではないだろうか。後白河上皇を利用してきたために、天皇家の上に立つことまでは考えられなかったのだろう。義経もまた、都に留まったためなのか、平氏と同様に貴族化していく。このことも武士には面白くなかったと推測できる。

 この平安末期は和歌も盛んで、誰もが知っている『新古今和歌集』の選者、藤原定家もこの時代の人だ。「来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ」は有名だ。プロ中のプロの作品と言える。恋人を待ち焦がれる気持ちを幾つかの掛詞を使って実にうまく表現している。この頃の貴族はこの歌のように恋に夢中だったようだ。恋に恋すると言ってもよいだろう。清盛の妻の時子は、テレビドラマでは『源氏物語』の殿方ような男性が現れることに憧れていたが、この物語は奔放な恋愛物語で、恋は夜這いによって完結すると言ってもいい。

 こんな歌を見つけた。

  会いたくて また会いたくて 電話する 声聞けばなお 会いたくなるのに

  いらいらと 待つだけの愛 さびしいと 告げてみたいと 時には思ふ

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お互いを知ることが信頼につながる

2012年08月18日 19時06分23秒 | Weblog

    親しくしていたチェロ奏者が亡くなって、そのメモリアルコンサートが行なわれた。34人によるチェロの合奏は荘厳で美しかった。生前の彼が企画したチェロ教室の修了者や彼の仲間が集まっての演奏である。彼の好きなものを紹介した彼の妻は、「イタリア、ワイン、カプチーノ」と読み上げて喉を詰まらせた。粋な男で、美食家だった。何年か前、マンゴーを届けると、「マンゴーの食べ方を知っていますか?」と言って、その場でサイコロ状に切って見せてくれた。この夏はルーフバルコニーに招待して、一緒にビールを飲むつもりだったのに残念だ。

 コンサート会場で知り合いの女性に会った。彼女は市の国際交流の推進役を務めている。一緒に帰ってきたが、その道すがらの話は面白かった。彼女も私も同じ昭和19年生まれで、戦争の記憶はないし、戦後のひもじさも知らない。けれど、彼女の夫は11歳年上なので、私たちとは違う体験をしている。「お昼ご飯を食べたばっかりなのに、晩ご飯は何かと聞くの。私はお腹いっぱいでそんな夜のことまで考えられない。でも彼は心配なのね。やはり食べられなかった記憶が今でも働くのね」。

 また、ひとり息子を連れてアメリカに行った時のレストランで食事も面白かった。アメリカ人は日本人の2倍くらい食べるので、レストランで出る料理も多い。夫が「美味しかった。お腹いっぱいになった」と言って食事を終えた時、9歳の息子は半分も食べられず、「もう残していい?」と母親に尋ねた。するとダンナは、「それなら私がいただく」と言って食べ始めた。息子は「お腹いっぱいって言ったのに、どうして食べられるの?」と不思議に思って父親に聞いた。私たちの世代では、「出されたものは全部食べなさい」としつけられたが、彼女の夫は食べ残すのはもったいないと思ったのだ。

 そんな話から、時代が違うと食べ物についての考え方も変わるという話になった。今なら、食べ過ぎは身体によくないとなるけれど、食べられなかった体験のある人は、食べなくてどうするということになる。私はイタリアに行った時、イタリア人と日本人では生きる意味が全く違うと感じた。イタリア人は「人生は楽しむためにある」と言い、楽しむために働くのであるから、暮らしていければそれでいいようだ。実際、お昼時間は長いし、夜はもっと楽しんでいる。ワインを飲み、デザートを食べ、歌い、歌は日常生活の中に常にある。

 日本人は生真面目過ぎるし、そればかりか気を使い過ぎる。日韓の交流を進めている我が市であるけれど、竹島問題が起きて、余り先走りすぎない方がよいではないかと思っている人がいる。こういう時だからこそ、日韓交流を進めていくべきだと私は思うけれど、慎重にしていた方が得策と言うのだ。お互いを知ることこそが信頼につながるのに残念だ。

 彼女は、「外国のことも、戦争のことも、私たちは知らないことが多い。戦争のことは、その立場や流れた時間や、いろんなことから言うことも変わって来る。だから本当にことが知りたいと思って、読んでみたい本がある。読めるかどうか分からないけどね」と言う。若い人たち、私たちの孫や曾孫が、これからの日本の主役だ。いや、世界につながっていく世代だ。彼らに期待する前に、私たちの責任を果たさなくてはならない。どうやって!?

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おかしなことは暑さのせい?

2012年08月17日 18時42分47秒 | Weblog

 暑い。暑いから何もやりたくないのか、やる気がないから暑さを口実にしているのか、何もせずにテレビばかり見ている。幸い、我が家は地上から30メートル以上ある高い場所にあるので、暑くても風があれば何とか過ごせる。おかげでまだ、クーラーは一度も使っていない。節電に協力しているという意識は私にはないけれど、電燈を点けておくとサッサと切って回る人がいるのだから仕方がない。それでも「昨年の夏より電気を使っている」とその人は言う。扇風機は2台あるが1台しか出していないし、ルーフバルコニーでの食事もしていないのに、不思議だ。

 節電で一番困るのは電力会社だろう。売り上げが伸びないし、原発に頼らなくても電力需要に応えられることになってしまう。しかし、頭のいい人たちのことだから次のことはもう考えているに違いない。原発事故を起こした東電は、政府からの資金援助と一般家庭の電気料金の値上げを行い、それでも除染費用や住めなくなったことへの補償は、「東電の責任ではない」ようなことを言っている。いずれは政府が国の責任として行なうと踏んでいるのだ。1つの電力会社が何十万人という人々の生活の補償までしていたら、会社はもたないというのだろう。

 車の中に生後5ヶ月の乳児を置いてパチンコをしていた母親が逮捕された。母親は「何度か車の様子を見に行った」と言うけれど、乳児は死亡していた。「父親のしつけに反感」を持った中学3年生が就寝中の両親と妹をバットで殴打し、「3人を殺すつもりだった」と言う。いじめで中学生が自殺した滋賀県大津市の教育長をハンマーで殴打し、「殺すつもりだった」と言う大学生もいる。いじめの対応が悪いと「殺す」思考が私には分からない。生きていれば、苦しいこともあるだろうが、楽しいことや素晴しいことに出会うかも知れない。それを誰も奪ってはならない。

 郡上踊りが好きな長女のダンナは一家を連れて徹夜踊りに出かけて行った。3歳の孫娘も浴衣を着てはしゃいでいたようだ。けれども、踊りとなると3歳の孫娘にはまだ面白くはなかったようだ。もう少し大きくなれば父親がどうして郡上踊りに魅せられているかが分かるかも知れない。親が良かれと思って子どもに勧めても、タイミングが悪いとせっかくの思いが伝わらない。私も子どもが小さい時によいものを見せてあげたくて、クラシックコンサートに連れて行ったけれど、子どもには退屈なだけだったようでがっかりした覚えがある。

 子どもらが大きくなって美術館などへ出かける時は、「解説者がいるから助かる」などと一定の評価をしてくれる。しかし、自分の価値観や美意識ばかりを押し付ける「偏屈な父親」と娘たちは思っているはずだ。私は何を大切に思ってきたのか、どういうものが美しいものなのか、を口うるさく言ってきた。それを受け入れるか否かは彼女たちであって、私という人間を知らせておきたかったし、それが親の務めだと考えてきた。40前後になった彼女たちはもう立派な大人で、私が口を出すようなことは何もない。むしろ、彼女たちの時代に私の方が従うことになる。

 時代は変わっていく。変わっていく度に人は成長していくのだろうけれど、私たちがそれを確認できることはないだろう。何十年も何百年も何千年も積み重なって気付くことなのかも知れない。暑い。この暑さのためにおかしくなる人がまた現れるかも知れない。世の中でおかしいことが起きるのは、この暑さのせいである。

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8月15日についてのコラム

2012年08月16日 19時42分38秒 | Weblog

 高校野球を見ていると、前回に好投した投手が続けてよい試合ができるわけではないし、打撃が好調なチームが好投手の前では手が出ないこともある。プロ野球でもそんなことはよくある。そうかと思うと、やはり凄い投球をする投手もいるし、どんな投手が出てきても打ち勝つチームもある。組み合わせやその時の体調や心理状態など、いろんな要素が重なり合って、そして最後に勝負を決するのは気迫なのかも知れない。

 大会では勝ち進まなければ、勝利を手にすることができない。再び、もう一度ということはできないが、それでもまたどこかでリベンジすることはできる。野球で勝利できなくても、セールスでよい成績を残した人はいるし、スポーツでは散々な結果しか残せない人でも子沢山の明るく幸せな家庭を得る人だっている。野球がダメでも少年野球の審判で活躍する人もいる。人生はどこからでもやり直すことができる。

 しかし、死んでしまったなら、もう一度はない。今朝の中日新聞の『中日春秋』と朝日新聞の『天声人語』を読んで、両紙の体質のようなものがよく現れていると思った。朝日は「殿、ご乱心」という書き出しで、韓国の「大統領の言動がおかしい」ことや尖閣諸島へ香港船がやって来たことを取り上げていた。結論は、「どんな時でも、国民とメディアが正気を保てれば道を大きく誤ることはない」というものだった。

 中日新聞は、昭和天皇の正午の放送を聞いた時、「万事は休した。額が白み、唇から血が引いて、顔がチアノーゼ症状を呈したのが自分でも分かった」と書いている山田風太郎著『戦中派不戦日記』を取り上げ、治安維持法違反で投獄された河上肇が放送を聞いて作った「あなうれし とにもかくにも 生きのびて 戦辞める けふの日にあふ」という短歌を載せていた。そして、この放送を何というか?との問いに、「玉音放送」と答えた高校生は百人中8人しかなく、昭和は遠くなったというものだった。

 終戦記念日に書く記事が大きく違っているのは、新聞がどういう方向へ向かっているかを表しているのだろう。NHKテレビで昨夜、なぜ終戦が長引いたのかを取り上げていた。私は見ていて、日本人の体質なのかと思った。6人の最高責任者が話し合っているけれど、建前ばかりで本音が言えない。こういう現象は戦前も戦後も変わらないし、右翼も左翼も同じだ。誰も責任を取ろうとしない。もし誰かが本音を言ったなら、みんなで卑怯者呼ばわりをして叩き潰してしまう。

 朝日新聞は戦前のメディアがなぜ正気を保てなかったのか、その反省に踏まえているのだろうか。スポーツも人生もやり直しはできる。けれども、死んでしまっては何もできない。人生に夢を描いていても、国が戦争になれば、夢はたちまち消えてしまう。多くの人の取り返しができなくなるような事態はあってはならない。領土があるから奪い合いになるのなら、領土のない社会にすればいい。メディアはそういう提案をする役目を負っていると思う。

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美意識の違い

2012年08月15日 18時59分04秒 | Weblog

 朝でも昼でも、いつでも睡魔がやって来て、瞬く間に眠ってしまう。気持ちが緩んでいる証拠なのだろうけれど、眠い時は眠ればいいという安直な意識がそうさせている。何が何でもこれをやらなくてはという切羽詰ったものがないのは、嬉しいようだけれどちょっと淋しい。

 中国の民間人を乗せた船が尖閣諸島へ上陸しようとしているとか、韓国の有名な歌手や俳優が泳いで竹島に渡ろうとしているとか、そんなことをテレビが報じていた。内政がうまくいかない時は、外国との小競り合いに持ち込むというのは政治の常套手段だ。排外主義というのはどこの国も同じだ。

 韓国へ遊びに行ってきた人の話では、あれほどオリンピックでメダルを獲得しているのに、韓国国内ではそんなに話題になっていなかったと言う。福山雅治さんのロンドンからの記事を読むと、ロンドン南部の海水浴場は人々でぎっしり埋まっていたとある。オリンピックのチケットは高くて手に入らないし、ロンドンの渋滞をなくすため、「期間中は自宅で仕事を」「運転は控えて」とのキャンペーンが効いて、市中は活気がなく小売店の売り上げは減ったとあった。

 オリンピックで活躍している選手は、人種や民族、宗教の垣根がなくなっている。価値観や生活習慣を越えて、スポーツを楽しんでいる。韓国へ遊びに行った人は、旅行会社のツアーではなく韓国の友人と一緒に行ったので、泊まるところも韓国の人の家だった。彼の旅行談の中で食事の話が一番面白かった。韓国の人は食器を置いて食べるし、女の人は膝を立てて食べる。中には食器に顔を突っ込むようにして食べる人もいる。彼の妻は、「行儀が悪い。しつけができていない」と不機嫌だったそうだ。

 しかし、これは韓国の食事の習慣で、むしろ食器を手に持って食べる方が行儀は悪いのだ。食事をみんなでするのはおもてなしで、これは人類に共通するが、その食べ方となるとかなり違いがある。鍋のようにみんなで同じものを分けて食べることは最高のもてなしだが、日本で育った韓国の子どもには違和感があったようだと言う。韓国の人は食べ切れなかったものを鍋に戻すので、その子どもはそれを避けて真ん中のものしか食べなかった。日本人の潔癖症が子どもに移っている。

 人は長い歴史の中でそれぞれの文化を創り出し、価値観を育ててきた。中東からヨーロッパでは数学的に割り切れる様式が美しいとされてきた。寺院や宮殿、庭園などはシンメトリー(左右対称)に造られている。がっちりとした安定した形は永遠につながるからだろう。日本ではむしろ左右非対称に美を求めてきた。完成されない不安定な破調こそが美しいと考えてきた。これは日本の自然に大きく影響されているし、日本人の死生観にもつながっている。

 欧米の生産力が世界を支配していた時代は、シンメトリーのような完全なものに価値観があったけれど、そうした社会が行き詰まってきて、日本人の美意識に評価が高まってきた。日本人が欧米に追いつき追い越せと躍起になっているのに、その先端にいる人たちは日本に注目しているのは面白い。今日は終戦記念日、野田総理の挨拶は相変わらず空虚だ。

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父親と息子の超克

2012年08月14日 18時37分41秒 | Weblog

 1年に2回の親族の集まりはカミさんの実家でも行なっている。私が、自分が家族の一番上の男だからと思っているように、カミさんの弟も自分がみんなを呼び寄せなければという思いが強い。私の兄弟は4人で、子どもたちはみんな結婚した。カミさんは3人兄弟で、弟は2人、妹は1人の子どもがいるが、まだ誰も結婚していない。集まるのは叔母と私たち夫婦と妹と弟夫婦である。

 先日、義理の弟が8ミリフィルムを見せて、「これは義兄さんが撮ってくれたものだと思うけれど、まだ一度も見てないんです」と言う。見ると私の字で、結婚式(1)(2)とある。私は映画を作るつもりで、最初のボーナスで8ミリ撮影機を買った。大学の友だちで映画好きなのがいて、その友だちの知り合いの歯科医にやはり映画好きな人がいて、3人で映画を作ろうとなった。脚本を大学の友だちが書き、撮影を私が担当し、歯科医が車を提供し、どういう映画にするかを3人で話し合った。

 記録を撮るつもりではなかったけれど、弟の結婚式だからと撮影機を回したのだろう。1つのフィルムで4分だった記憶がある。2個あるから8分ほどのものだ。映写機もその後のボーナスで買ったけれど、撮影機も映写機もどこにあるのだろう。その後すぐにビデオ撮影機が出始め、瞬く間に家庭用に小型化され、一般化してしまった。誰でも簡単に撮影できるようになり、記録ならこちらの方が優れていたから、私はビデオ撮影機は買わないと意地を張った。

 8ミリフィルムを持っていても見られないが、以前のことだが、8ミリをビデオにしてくれる写真屋があったので、今ならDVDにしてくれるだろうと思って話したところ、富士フィルムでそういうサービスがあるという。その出来上がったDVDを持って、弟の家に行きみんなで見た。弟はとても喜んでいた。今はもういない人も画面で見ることができる。8ミリは音がないのが悔しいけれど、それだけに写真の連続として見れば、結構面白いと思った。

 亡くなった義父や義母、叔父さんたち、まだ小さかった私や妹の子どもが写っている。挨拶する義父の姿は今の弟よりも若い、弟も父親そっくりになってきた。そんなことから義父が私に語った話などすると、弟が思わぬことを話した。それは初めて聞く話だった。まだ、結婚しない前のことだと思うけれど、「僕は包丁を持って、親父を追いかけたことがある」と言う。どうしてそうなったのか全く覚えていないけれど、「お袋をそんな風に言うなと怒鳴って追い回した」らしい。

 義父はただひとりの男である弟に大きな期待を抱いていた。そのために、つい言葉がきつくなったり、バカにしたように聞こえることもあっただろう。「お前の育て方が悪い」と母親に当たることもあったかも知れない。子どものためと思ったことが子どもには大きな負担になっていることはいくらでもある。おとなしい弟も我慢できずに感情が爆発したのだろう。何事もなくてよかった。それ以後、義父は決して弟に嫌味を言うことはなかったそうだ。

 父親の思いが今なら分かるけれど、父親と息子という関係は私には「超克」である気がしてならない。息子からすれば父親は乗り越えるべき対象であるが、父親になってみると息子のために何か力になりたいのになれないというジレンマを負っている。自分の子どもであっても婿であっても、男同士の関係は難しい。義父の最後の言葉は「(弟は)大丈夫だな!」だったと姉であるカミさんは言った。

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父親と男の子

2012年08月13日 21時03分28秒 | Weblog

 盆と正月の年に2回親戚が集まる。正月は我が家に集まってもらうが、盆は私の家の墓に参りその後、みんなで会食をする。83歳の姉が一番上で、一番下は私の長女の3歳の娘だ。昨日は17人が集まった。姪っ子や甥っ子の子どもたちもすっかり大きくなって、お酒もよく飲めるようになった。残念なのは兄貴の子どものうち、下の夫婦が仕事の都合でこのところ参加できないことだ。彼は日展に彫刻の部で作品を出している芸術家だけれど、彫刻では生活ができないので商業作品を生業にしている。けれど、この不景気のために苦労しているようだ。飲むと饒舌になってとても面白い男なのに、近頃は一緒に飲めないからちょっと淋しい。

 ふたりの甥っ子を見ていると、上の子はおっとりしたところが、下の子は夢中になるところが、死んだ兄貴にそっくりになってきた。私の家系には芸に親しむ血が流れているのか、上の甥っ子は公務員なのに、生け花を教えるほどだと言う。その息子も大学ではオーケストラに参加してバイオリンを担当している。強く自己主張をしないところは兄貴譲りだ。昨日、姉から聞いた話ではお爺さんの父親は大工で、お墓のある寺の山門はその人が建てたものらしい。私は子どもの頃、お爺さんの本家という家に連れて行ってもらったことがあるが農家だったから、分家をして大工になったと思っていたけれど、お爺さんの父親から大工だったのか、ちょっと合点できないでいる。

 お爺さんは小町と言われたお婆さんと結婚して、私の父が生まれている。お婆さんは大工の棟梁のかみさんよりも役者の妻に憧れたと聞いたことがある。材木屋の物置小屋の1棟で機織りをしていた。映画が好きでよく一緒に連れて行ってもらった。この母親の血が濃かったのか、私の父は色白で面長の文学好きだった。お爺さんとは全く違っていた。そのせいなのか、父とお爺さんは仲が悪かった。お爺さんにしてみれば、自分の跡継ぎとなって欲しかっただろうけれど、父は小説家になる夢を追っていた。それでも父は晩年、材木屋の経営のために全ての退職金を注ぎ込んでいる。父にとっても材木屋の存続は大事なことだったのだろう。

 その材木屋を潰してしまった兄貴は、一家離散の道を歩いた。甥っ子の上が6歳、下が4歳くらいの時だと思う。だからふたりは父親の印象が余りないと思うけれど、上の子に聞くと、「覚えていますよ」と言う。「母子家庭でイヤじゃーなかったか」と聞いても、「そんなことは意識しなかった」と答える。本当にそうだったかよりも、立派に生きてきたのだと感心した。甥っ子の下の子は子どもの頃から元気がよかったけれど、見栄っ張りなところもあったから、不景気で活躍の場がなくなっている今は余りみんなの前に出たくないのかも知れない。

 ふたりとも父親のことをどれほど覚えているのか知らないけれど、父親の年齢に近づいてきて、ますます父親に似てくる。それだけに無意識のうちに父親を越えようとするのかも知れない。姪っ子の子どもは3人とも男の子だけれど、やはり父親に似ている部分がある。男の子は父親を意識して乗り越えていきたいと思っていると私は考えているが、なかなか難しい永遠の課題なのかも知れない。

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敗者の方が多いのに

2012年08月10日 17時51分40秒 | Weblog

 春の大会で活躍した名電は、今朝の1回戦で敗退した。なでしこジャパンも決勝戦でアメリカに負けた。女子バレーボールもブラジルに負けた。この世は勝った人よりも負けた人の方が圧倒的に多いのに、勝った人の方に目が向いてしまう。敗者よりも勝者を称えることで、勝者と一体感を持ちたいのだろう。けれど、今日勝った人も次も勝てるわけではない。パチンコの好きな人は、勝った話ばかりするけれど、負けた回数の方が絶対に多いはずだ。

 勝ったとか負けたとか、余り考えたことがなかったけれど、勝ってばかりいる人がそんなにいないように、負けてばかりいる人もそんなにいないだろう。出世したのに早死にしたとか、金持ちになったけれど家庭的には恵まれなかったとか、そんな話もよく聞く。もちろん、人がうらやむような人生を送った人や、最後まで不幸続きだったと言われる人もいる。それでも本当はどうだったのか、それは本人でさえ分からないことだと思う。

 絶対的な勝者も、絶対的な敗者もいない、これが人間社会だろう。そう結論付けようと思っていたら、参議院本会議で消費税増税などの関連法案が、民主・自民・公明の賛成多数で可決成立した。国民の70%が反対していても、国会では賛成多数にどうしてなってしまうのだろう。アメリカで「1%の人が富を独占している」とデモがあったけれど、1%の人々はずぅーと変わらないのだろうか。99%の中から1%の側にいく人をアメリカンドリームと賞賛していたけれど、実際は99%の中の下の方に位置していた人が、99%の中の上の方に行くことが出来たに過ぎなかったのだろう。

 勝ち進む人を賞賛するというのは、自分もまた勝ち進みたいという願望の現われなのだろうか。勝ち進む社会が人間の社会であるのなら、敗者の存在は仕方ないことになる。しかし、人間はひとりでは生きられないから、常につながり合って生きてきた。男と女であったり、家族であったり、仲間であったり、そうした集団を形成して生きてきた。人間の中にいつから他人に勝とうとする意識が生まれたのだろう。もし仮に、人間が誕生した時から、勝ちたいという意識があったのであれば、同時にそれに代わるものが存在したはずだ。そうでなければ、集団で生きていくことができないだろう。

 勝ちたいという意識と共に存在するものは、愛したいという意識だろう。私は、人間は動物とは全く違う生き物になったと思っている。動物が持っている本能を人間は無くしている。その代わり、人間は欲望を持ち、それと同時に愛するという意識を持った。勝ち進みたいと意識と愛するという意識の上に成り立っているのが人間である。そんなことを高校野球を見た後、国会中継を見ながら考えた。さて、明日と明後日は盆休みでブログを休みます。

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