友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

満開の梅を見た

2014年02月17日 17時46分43秒 | Weblog

 街を歩いていたら、満開の梅の木を見つけた。庭の南側という場所のよさかも知れない。友だちと梅の話になった時、「梅は桜よりも開花期間が長いような気がする」と言うと、「そう思うのは種類が多いからで、期間は桜と同じ1週間だろう」と教えてくれた。梅林にはいろんな種類の梅が植えられているので、長く咲いているように思ってしまうのだ。桜はこの辺りではソメイヨシノが多い、一気に咲いて散ってしまうから短く感じてしまったようだ。

 チューリップもそうだけれど、花の命はおおよそ1週間というところかも知れない。いや、ランはかなり長く咲き続ける。昨年、10月に開いてくれたクラス会でもらったランは正月を過ぎてもまだ咲いていた。たった1日、しかも夜しか咲かない月下美人のような花は余りにも神々しいけれど、ちょっと寂しい気もする。1週間花を楽しめればよいのかも知れない。鉢植えの白のサザンカがやっと咲き始めた。緑の鮮やかな葉と赤い色の椿はもう時期が過ぎたのだろうか。

 このところの強風でサザンカの鉢はひっくり返ってしまった。チューリップの鉢は表面の土が風に抉り取られ、球根がむき出しになってしまった。今朝、早い時間は風がなかったので、サザンカの鉢を直し、チューリップの鉢に新しい土を入れた。毎年冬は風との格闘である。かなりのお金とそれ以上にたくさんの時間を使って、わずか1週間を楽しむ。入れ込んだ割には報われないのは恋愛に似ているし、それでもいいと思うところもそっくりな気がする。

 「オリンピックの選手たちは凄い努力をしている。それに比べて自分は全く何も努力してこなかった」と若い友だちが言う。「努力もせずに生きてきた人はいないと思うよ。どんな人でも、どんな立場にあっても、それはそれなりに努力し苦労してきているよ。目に見える人は目立つだけだと思う。もし、努力しなかったと思うなら、これからいくらでも努力すればいい。何に対して一生懸命になるかという違いはあるけど、人はみんな努力しているのさ」。

 梅なのか桜なのか、はたまた椿なのか、いいや桃林を見た人ならあの強いピンクで極楽に来たと思うだろう。花もいいけれど、新緑もまた美しい。秋の紅葉だって色鮮やかで見事だ。そんな風に季節は巡り、いつか『葉っぱのフレディ』のように去っていく。それは新しい季節がやって来るためだ。

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怯まずやればいい

2014年02月16日 17時53分20秒 | Weblog

 9年前のこと、「今度、『60歳の集い』を開きますから、必ず出てくださいね」と、社会福祉協議会の事務長から言われた。彼とは、彼のカミさんが元気な頃からの知り合いだ。若くして亡くなったが、そのためなのか、彼は地元での活動が増えた。頼まれたらイヤとは言えないのが私のクセ、出かけて行くと、“集い”の代表幹事は次女の友だちのお父さんで、私もよく知っている人だった。以来、一度も欠かさずに出席している。その代表幹事が亡くなり、私が彼の役を引き継ぐことになった。

 引き受けた以上、次ぎにバトンタッチするまでは途絶えさせるわけにはいかないし、むしろ盛大な“集い”にしようと努めてきた。宴会で一番気になるのは、ポツリと孤独になっている人がいないかということだ。みんなが楽しんでいるのに、話す相手もいなくて、周囲から孤立している人はいないかと見て回る。それらしい人がいれば声をかけ、お酒を注ぐ、あるいは近況報告の続きを聞く。大勢の集まりの中にいて、話す相手がいないことくらい辛いことはない。

 私が席を回っていると、「ちゃんと食べられていますか?そんなに気を遣わなくてもいいですよ」と声をかけてくれる人もいる。「ズゥーと代表をやってもらいたい」と言ってくれる人もいる。この土地で生まれ育ったわけでもない私を仲間に迎え入れてくれて、ありがたいと思っている。役にある限りは喜んでもらえるように努めたい。小学校のクラス会、中学校のクラス会、高校の新聞部の集まりなど、同年で集まる機会はあるけれど、この地での同年の集まりもようやく馴染んできた感がする。

 今日、国際交流フェスティバルの会場で、60歳を少し越したばかりの友だちと立ち話をした時、「最近、先のことをよく考えるのですよ」と彼は言う。「もう、先は長くないじゃーないですか。何か遣り残したことばっかりで、ああすればよかった、こうすればよかった、そんな風に思うことはありませんか」。「人間、みんなそうじゃーないの。満足な人生なんてないさ。過去のことを考えたら悔やむことばかりだ。でも、過去から学ぶことはできても、過去の時間を取り返すことはできないよ。やりたいことがある。それは生きたい証だから、怯まずやればいい」と、私はエラそうなことを言う。

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ホワイト・バレンタイン

2014年02月14日 17時19分27秒 | Weblog

 通勤や通学のみなさんには気の毒だけれど、「ホワイト・バレンタイン」って、とてもロマンチックな響きだ。今は止んでいるけれど、朝から雪は深々と降り続いた。暖かい部屋の中から眺めていると、まるで愛が積もっていくような錯覚を抱いてしまう。今年は雪が降らないと言っていたのに、先週に引き続いて今週も雪降りである。子どもたちは大喜びだが、小学校からは「校庭に出ないように」と先生のアナウンスの声が聞こえてくる。

 昨日、マンションの修理点検で回っていたら、小学校の高学年の女の子たちがたくさんいた。4・5人でグループを作って、マンションの中をあちこちしている。手には大きな紙袋を持っている。顔は嬉しくって仕方がないというように輝いている。ワイワイ、おしゃべりも盛んだ。バレンタインチョコを手渡すために、男の子の家を回っているのだ。笑い声も、おしゃべりの声も、明るく甲高く楽しそうだ。

 そういえば、バレンタインチョコと最近は縁がない。仙台に住む次女が「会津若松で見つけた珍しいチョコだよ」と地酒チョコを贈ってきた。長女とふたりの孫娘からは、「ベルギーの有名なチョコ」をもらった。カミさんはふたりの娘婿に贈るついでに私も加えてくれる。義理チョコも頂けない人もいるのだからと感謝している。愛の告白といったロマンチックなものよりも年中行事のひとつとして定着してきたと思うのも、若い人のようにドキドキすることがなくなったせいだろう。

 友だちがブログにこんなことを書いていた。「お気に入りの女性からチョコを頂いたら、『チョコよりも君がいい』と応えるが‥。ちょっとダサイ発想かな?」。そこで、短歌を作ってみた。

 チョコよりも君がいいとジジイ言う うらやましくもねたましくもや

 チョコよりも君がいいとジジイ言う いずこも同じ2月14日

 我もまたチョコよりも君がいいと言い 馬鹿みたいねと鼻笑われる

 明日は、9回目の『60歳の集い』を行なうので、ブログを休みます。

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そんなに必死にならなくても

2014年02月13日 17時48分16秒 | Weblog

 「メンタルが弱いのね」と、テレビを見ていたカミさんは言う。カミさんはメンタルに強いかもしれないが、私はスポーツ選手ほどのメンタルも備わっていない。ソチでのオリンピック競技を見ていて、期待の日本人選手がメダルに手が届かない原因を分析しているのだ。どこのテレビ局も日本がメダルを幾つ持って帰るかと話題にしていた。有力な選手のインタビューでは3位以内に入ることが当然のような扱いだった。

 選手のみなさんも、「メダルをとって帰ります」とか、「頑張って、一番キレイなメダルを目指します」とか、言っていた。まるで、戦場に行く戦士のような決意表明だった。言葉にすることで自らを叱咤しているのだが、たかがスポーツではないか、そんなに悲壮感いっぱいにならなくてもいいのではないか、「頑張ってきます」くらいでいいよと思う。どうみても周りの期待に押しつぶされてしまいそうだった。

 スケートフィギアの浅田真央さんや鈴木明子さん、ジャンプの高梨沙羅さん、スケートスピードの選手など、期待が大きかっただけにとても緊張している様子だった。適当な緊張感は大きな力になるけれど、過度の緊張は身体を硬直させるようで、スムーズな動きができないばかりか、ミスが出たりもする。「普段の練習どおりにできれば、必ず上位にいけたのに」と、カミさんはメンタルの弱さを指摘するのだ。

 「ハングリー精神が足りないね」と言うけれど、ハングリーではないのだから仕方ない。日本人選手で最初にメダルに輝いた、スノーボードのハーフパイプの平野歩夢さんと平岡卓さんのインタビューを聞いても、ハングリー精神は感じられなかった。むしろ10代の2人は、「ヤッテヤッタゼ」といった雰囲気だった。中学生と高校生らしく、「ス」とか「自分的には」とか、若者言葉が溢れていた。それでも「両親や応援してくれた皆さんに、感謝します」と結び、日本人の謙虚さを見せてくれた。

 そういう謙虚さは大事だと思うけれど、これがまた選手のみんなが言い出すと、まるでそう言いなさいと統制されているのかという印象になる。スポーツなのだから、勝ちもあれば負けもある。全力を尽くせばそれでいい。国を背負っているような使命感よりも、楽しんでやって欲しいと私は思う。上村愛子さんの試合後の言葉はとても爽やかな印象だった。

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スイスの国民投票

2014年02月12日 18時10分06秒 | Weblog

 冬のオリンピックが真っ盛りだ。どこのテレビ局も報道を競い合っている。カミさんは中継を見たり、録画を見たりと忙しい。忙しいばかりか、極めて熱心に観戦し、「やった」とか「惜しい」とか「よく頑張った」とか、言っている。私はカミさんに付き合ってはいるけれど、そんなに熱心なスポーツファンではないみたいで、力が入らない。日の丸が揚がれば嬉しいだろうけれど、韓国の人がロシア国籍になったり、オーストラリアの人がカナダ国籍になったりするのだから、別に国家対抗でなくてもいいのにと思ってしまう。

 ヨーロッパが統一され、関税も撤廃され、パスポートなしで隣りの国に行くことが出来るといった話を聞いた。自転車でヨーロッパを回っている若者の話も聞いた。これからの社会はEUのような連合体になっていくのかと思った。ところが最近のヨーロッパは国家対立が深まっているし、各国では移民排斥が強まっている。永世中立の国、スイスで国民投票が行なわれ、50.3%の僅差で移民流入に対する規制が支持された。EUの欧州委員会は「残念だ」と声明を出しているそうだ。

 人は生まれによって差別されない「平等」とか、誰もが発言したり結社を作る「自由」とか、人の権利を認めてきた。自由の中には職業選択の権利や移動する権利もあったけれど、それは国内に限られていた。スイスはEU加盟国ではないが、EU諸国とは自由往来の協定を締結している。そのため、東側からやイスラム国から移民が増え、排斥運動が起きたようだ。財政危機のギリシアでは反移民のネオナチ政党が国会に議席を獲得しているし、ドイツやオーストリアでも同様の主張をする政党が勢力を伸ばしている。

 戦争の悲劇は国家の存在が大きい。人は誰でも、どこへでも移動することができるとなれば、国境などは必要なくなる。「そんなことをしたら、この豊かな日本に大勢の中国人がやってきて、日本は中国に乗っ取られる」と言う人はたくさんいるだろう。明治以降、どこに住んでもよいとなったら、みんな田舎を捨てて東京に出てきた。世界中の移動を自由にすれば、人は当然住みやすいところへと移るだろう。そんな大きな実験がそのうちに行なわれる。そして何年か経てばまた、落ち着いていく。

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市議になりたい青年が来た

2014年02月11日 18時24分58秒 | Weblog

 先ほど、若い男性がやって来た。マンションを個別に回っているようだ。ドアを開けると、「私は今度の市会議員選挙に立候補しようと思っています」と言い、名詞を手渡された。「若いね」と言うと、「29歳です。小学校で先生をしていました」と答える。続いて、「今、生活保護を受けながらパチンコに使っています。これを規制したいと思っています」と主張を述べる。私は「それは違うと思う。まず、政治は弱い人の立場に立つべきです」と言う。

 彼は「弱い立場というのは、障害者とか、お年寄りのことですか?」と聞くので、「ええ、もちろんそうですが、今、あなたが言われた生活保護を受けている人もそうです。自分のことは自分でできるような人は自分でやればいい。できない人のために手を差し出すことが政治です。まず、困っている人を助けることです。規制はいくらでもできますが、それを先にやってはダメです」と話すと、これ以上ここに居ても無駄だと分かったのか、「ご意見、ありがとうございました」と言って帰っていった。

 この4月が選挙だから、新人にとっては今が勝負どころだろう。それにしても、東京都知事選挙で多くの若者が右翼的な田母神さんを支持したけれど、それは東京に限ったことではないようだ。「おれたちはこんなに働いているのに、生活保護を受けている連中はパチンコして遊んでいる。絶対に許さん」。そういう気持ちが強いだろう。パチンコをする生活保護者を弁護する気はない。むしろ、パチンコも競馬も競輪も競艇も宝くじも、働かずにお金が入るようなものは全て無くせばいい。株や投資も廃止していい。

 みんながそこそこに働いて、みんながそこそこの生活ができる。そこそこに多少の差があるのは仕方ないだろう。生活保護を受けなくては生きていけないが現実社会なら、そのひずみをゼロに近づけることが政治だと思う。生活保護の家庭で育った子どもは、大人になってもやはり生活保護を受けると担当している友だちは言う。「ナマケモノでどうしょうもない」と見ている人は多いだろう。それなら、働くことの喜びや大切さが実感できる仕組みを作るべきだ。

 子ども6人に1人が貧困状態にあると国は公表している。この子たちを救わなければ、貧困の連鎖を断ち切ることはできない。人は怠けるようにはできていない。働いて喜ばれて評価される、その充実感が与えられなければ遊んで暮らせる道を甘受する。そしていつの間にか、自分の存在はそんなものだとしか思わなくなる。政治を目指すなら、無償でこの子たちの勉強をみてあげたらいいのにと、彼に言いたかった。

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東京都知事選は何だったのか

2014年02月10日 19時41分04秒 | Weblog

 法事の後の宴席で、叔父の息子が「日本酒の熱燗でいいですか?」と聞く。本堂はすっかり冷え切っていた。日本料理には日本酒が合っている。冷えた身体には熱燗でと判断したのだろう。義弟がすぐ、「いいねえ」と答え、食欲のなかった私も、お酒だけでも飲んでみるかと思っていたから、「じゃあ、熱燗で」と続いた。運ばれてきた熱燗を一口飲んだ時、やはりまだ甘味は感じなかった。しかし、勧められるに従って飲むうちに、お酒が美味しくなり、食欲も湧いてきて、出された膳はほとんど食べた。

 家に帰ると酔いが回ってきたのか、眠くなり、フトンにもぐり込んで眠ってしまった。午後8時、東京都知事選の投票が締め切られる。するとNHKテレビに開票速報が流れ、「舛添要一氏の当選が確実」と報じられた。まだ、開票作業も行なわれていない。不思議な気がするけれど、出口調査を分析すると舛添氏の当選というわけだ。今回のように、舛添候補に細川候補や宇都宮候補よりも倍近く投票されているので、当選は間違いないと分析されたのだが、開票作業に入ってもいないのに当選が報じられ、選挙事務所で万歳三唱する姿を見せられるのも変な気がした。

 投票率は低かったし、細川・小泉コンビの「脱原発」は投票行為に大きく結びつかなかった。浮動票と思われる有権者の50%は棄権した。投票で政治が変わる期待感が薄らいだのだろう。年代別の投票率が分からないが、TBSテレビの分析では60代・70代は舛添氏、宇都宮氏、細川氏に投票し、20代・30代・40代は田母神氏に投票している。男女別では、女性は舛添氏、宇都宮氏で、男性は細川氏、田母神氏という。田母神候補が「組織もないのによく得票できた」と発言していたけれど、若い世代の男性が支持したわけで、私には恐い気がする。

 都知事選には16人が立候補した。供託金は300万円で、12人が有効投票総数の10分の1に満たなくて没収されるが、こういう人たちはどういうつもりで立候補したのだろう。IT関連企業の人が没収組だったか知らないが、IT選挙を訴える機会にはなっただろう。自分の政治主張を行なう場として、選挙は有効だ。けれども、議員選挙では政治は大きく変わらない。首長選挙では地方行政のささやかな変革は期待できる。市民と政治がピタリ同じ方向を向くことはないようだ。

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高齢者講習

2014年02月08日 18時31分14秒 | Weblog

 昨日は一日中寝ていた。姪っ子から電話があり、「母が脳梗塞になったので、今いる病院では対応できないからもっと大きい病院に緊急入院する」と言う。姉は12月に脊椎管狭窄症のため入院していたが、先月見舞いに行った時は元気だった。リハビリも始めていて、得意そうに歩いていた。ただ認知症は確実に進んでいる気がした。満たされた素敵な笑顔だったので、苦しむことなく逝けるなら、あの笑顔のままで逝って欲しいと思う。

 「わかった。明日は見舞いに行く」と答えたが、結局朝になっても行く気力が出なかった。昨日の夜はおかゆを作ってもらって食べたが、おかずは何も食べられなかった。今朝、いつものようにパンとバナナは食べられたが、牛乳とトマトジュースで無理やり流し込む状態だった。姪っ子に「体調が悪いから、今日は行けない。何かあったら必ず連絡してくれ」と電話して、そのままフトンにもぐりこんで眠った。

 昼からは運転免許の書き換えのため、高齢者講習を受講しなければならない。講義を聞くだけだというので、無理して出かけた。高齢者により事故が増えていることが最大の要因だけれど、自動車学校の受講生が年々減っていて、学校経営が難しくなっている要素が大きいだろう。受講生は6人で、運転免許の更新講習のように大人数で講師が一方的に話したり、映画を見せたりということがなかった。

 眠くならないようにと、時間の使い方もうまく配分されていたし、特にこの学校では途中で、コーヒーやジュースが出る。これが評判で受講生は多いようだ。運転能力や判断力は同年者に比べればよい方と診断されたけれど、視力検査では「ギリギリですね」と言われてしまった。最近、見難くなっているとは感じていたけれど、やっぱりそうかと思った。講習が終ると校長が出てきて、高齢者の交通事故について話し、ひとり一人に受講修了書を手渡した。

 学校から帰る時、校長が玄関の前で見送ってくれた。大人の、口喧しいであろう高齢者受講生への手厚いおもいやりである。私も友だちに、「あの学校がいいよ」と話したくなる。明日は法事があり、明後日は大和塾の「新年茶会」だ。未だに食欲はない。体調が戻ってくれればいいが‥、多分、大丈夫だ。

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経済の好循環でデフレ脱却?

2014年02月07日 17時55分51秒 | Weblog

 朝から8回も水便が続いている。熱はないし、お腹が痛いとか、身体の具合が悪いとかは一切ない。どうしたのだろうと思ってインターネットで調べてみると、「水のような便が出たら完全に下痢。お腹を冷やしたり、暴飲暴食が原因。一時的なもので、安静にしてお腹を温めれば簡単に治る」とある。何も食べない方が治りは早いだろうと思って、百草丸と水しか口にしていない。ただ、ひたすら眠りこけている。

 最近、どうでもいいやと思うことが多い。この捨て鉢さがよくないのだろう。生きていたいと思う気持ちの強い人は、どんな病気にあっても回復していくが、生きる気力の乏しい人は亡くなっていく。同年の人たちとの“集い”を2月15日に予定しているし、来年は10周年になるから盛大にやろうというので、来年の2月21日と日取りまで決めている。だから来年のこの日までは生きていて務めを果たさなくてはならない。

 テレビで安倍首相を見ていると、彼は私とは正反対に元気だ。ますます自信に満ちた顔になってきた。アベノミックス効果とか、経済の好循環とか、中国や韓国との外交とか、政治的な課題が順調に推移しているというよりも、自分が今、政治の中心にいて動かしていることが、心地よいのだろう。態度にも言葉にも余裕と自信が溢れてきている。人はそういうものなのだろう。客観的な事実など必要ない、うまくいっていると自分が思えることが肝心なのだ。

 大宰府から安倍首相に梅が送られた。その梅の名は「思いのまま」という。札幌で女の子を連れ去り監禁していた男も、泣きやまない幼子を叩いて殺してしまった女も、子を捨てた親も、親を捨てた子も、思いのままだったのだろうか。自信もなく、話す友だちもなく、希望もなかっただろう。「政府が企業に賃上げをお願いするのは始めて」のことかも知れない。労働者の賃金が上がり、消費が伸びれば企業の売上も伸びる。

 「経済の好循環でデフレを脱却」と安倍首相はラッパを吹く。私は、孫がクリスマスにプレゼントしてくれた腹巻をして、テレビを見ている。

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才能を開花した人、できなかった人

2014年02月06日 17時43分53秒 | Weblog

 佐村河内守さんの名前を知ったのは、盲目のピアニスト・辻井伸行さんを知った後だと思う。目が見えない、耳が聞こえない、そんな大きな障害を背負いながら、優れた感性と能力を備えた人がいると感心した。人一倍鋭い感覚を持っていても、磨き上げなければ並みを超えることはできない。辻井さんは小さな時から音に対する鋭い感性を持っていたけれど、なんと言ってもお母さんがそれを伸ばす機会を作ったと思う。

 佐村河内守さんの生い立ちやどのようにして作曲家になったかは知らないけれど、彼を有名にした交響曲第1番『HIROSHIMA』は素晴しい曲だと思う。その佐村河内守さんの作品は別の人が作曲したものだという。真相は分からないけれど、朝のニュースで報じられたものを見て、たとえ佐村河内さんが楽譜を起こしたものでないとしても、共同制作でいいのではないかと思った。佐村河内さんが作曲家の新垣隆さんに渡したメモは、楽譜こそないけれど曲の流れや小節毎のイメージなど、実に細かく指示している。

 新垣隆さんは佐村河内さんの曲想がなければならなかったし、佐村河内さんも新垣さんがいなければ世に出ることもなかっただろう。ただ、新垣さんにすれば、佐村河内さんがもてはやされればされるほど悔しい気持ちが心を占めていっただろう。佐村河内さんは「原爆2世の闇」を口にしてヒーローへ上がって行ったために、引き戻ることができなくなってしまった。共に欲が互いを破滅へと追いやった。佐村河内さんは「死んで詫びるしかない」と言っていたから、きっとそうするだろう。

 作曲という才能、自分を悲劇の主人公として演じる才能、どんな才能もあり過ぎると悲劇が生まれるのだろうか。いや、どこかでボタンを掛け違えたけれど、やり直す前に人気が出てしまい機会を失った悲劇だろう。今日、日展を観て来た。いつものことながら大勢の人で込み合っていた。平日の昼間のせいか、入場者のほとんどは老人だった。中には私と同じように、絵描きくずれが何人かいて、作品を評論して回っていた。才能を開花させることのできなかった人たちである。

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