風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

京都

2010-09-28 02:34:07 | 永遠の旅人
 昨日の続きです。法要は西本願寺で行われました。JR京都駅とは目と鼻の先、歩いて15分かからない近さです。ところがホテルが駅の南側にあって、足腰が弱った母を伴って駅を越えるのが面倒だったため、タクシーを拾いました。そのタクシーの運ちゃんとの会話です。
 私「西本願寺までお願いします」
 運「えっ(と絶句)、ええんでっか・・・歩いてもすぐでっせ」
 私「歩くと、ちょっとあるでしょう」
 運「お西さんまでやったら、メーターで800mですわな」
と言って、やおら走り始めました。近過ぎて乗車拒否するというよりも、田舎モンが来たと思って、後で文句言われないように位置関係を確認したといった風情です。そして西本願寺と呼ばないでわざわざ「お西さん」と言い直す。八坂神社ではなく「祇園さん」と言い、天皇陛下などとよそよそしく呼ばずに「天皇はん」と親しく呼びかける。それが地元・京都人のプライドなのでしょう。
 運「駅の北口に出ればバスが出てて、どれに乗っても、お西さんは通ります」
もとより、こちらとしては三人がバスに乗るのと、タクシーに乗るのとでは、大差ないだろうという判断です。
 運「来年は、南口からでもバスを出すのを考えてはると思いますけど」
 私「来年って、何かあるんですか?」
 運「えっ(とまた絶句)」
 私「いや、知りません、何ですのん?」
 運「親鸞聖人の750回忌ですがな。まさか檀家はんが知らはらへんとは・・・皆さん、寄付されてまっしゃろ」
 私「(むっとして)そういうことは両親がやっとります」
本願寺では、宗祖・親鸞聖人のご命日にあたる毎月15日・16日に「宗祖聖人月忌法要」を営み、祥月命日(1月16日)には、「御正当の忌日(命日)に聖人のご恩徳を報謝する法要」として毎年1月9日から16日まで8日間にわたり「御正忌報恩講」を修行し、50年毎の節目にあたる親鸞聖人の年忌法要を「大遠忌」と称して、特に大切にお勤めしているそうです。そして来年(2012年)は750回忌の「大遠忌」をお迎えするそうです(西本願寺HPより)。
 運「最近はお寺はんも、宗派のこだわりがなくなってしもて・・・」
と言って、浄土真宗のお坊さんが日蓮宗のお勤めをされる例を挙げて、仏教文化の衰退を嘆いておられました。これもまた京都人のプライドとして許されないことなのでしょう。
 客人に「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどすか」と勧めれば、それは早く帰れという(要は食事時間まで居続ける無粋を暗に悟らせる)サインだといったような、京都人独特の直接表現を避けるもって回った言い回しは有名ですし、京都文化に対する無理解を婉曲的に非難することもよく行われるところです。もっとも、私は学生時代の4年間、京都に通いましたが、露骨にそういった場面に遭遇したことはなかったのは、行動が限定的だったのはもとより、「学生さん」として要はまともに相手にされていなかったのでしょうか。笑いについても、京都は独特で、言わばお公家さんの含み笑いのようなところがあって、大阪の商人的なあっけらかんとした笑いとは対照をなします。同じ関西にありながら、京都と大阪とでは雰囲気が異なるのは、今もなお歴史の重み、文化が脈脈と息づいているからでしょう。
 そんな取っ付き難さのある京都ですが、私のような田舎モノ観光客には、その文化の一端を惜しげもなくひけらかしつつ味わわせてくれます。到着した日の昼は、駅のレストランで「にしんそば」を食べました。八坂神社界隈の四条通りで看板をよく見かけましたが、これまでついぞ食べたことがなく、今回、三十年ぶりに念願叶ったようなものです。ニシンの蒲焼きが無造作に麺の上に載せてあるだけですが、鰹節と昆布のきいたダシに溶け込んで、なかなかに味わい深い。夜はお決まりの京懐石を堪能しました。京大和屋さんという老舗で、四季折々の品を、素材の味を活かしつつ薄味ながらコクのあるダシとともに頂くのが、絶品。こればかりは筆舌に尽くし難い、至福の時でした。たまには京都に行こう・・・と心に決めました(田舎モノ!)。
コメント (2)
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