3月11日以来、海外の知人から安否確認のメールを貰ったり、海外勤務時代の同窓会名簿と化しているFacebookにも多くの書き込みがあり、中にはわざわざシドニーから電話をくれた元同僚もいました。東北地方や福島という地名に馴染みがないために、日本というだけで気にかけてくれていたようで、勿論、東京に住まう私に問題があろうはずはなく、被災者を気遣いつつ、日本は頑張ると、気丈に答えて来ました。
初めのうちは、大震災と津波と放射線漏れ一色(三色?)の新聞報道に隈なく目を通し、こうした総合日刊紙には書けないウラ事情を覗くために複数の週刊誌を読み比べ、更にやや距離を置いた冷静な分析の月刊誌まで追いかけて、俄か震災ウォッチャーを気取るまでになっていたのは、16年前の阪神大震災の時に地球の裏側のボストンにいて、日本の新聞やテレビ報道から隔絶され、インターネットもそれほどまだ普及していない中で、危機的状況における人々の営み、大いなる挫折から力強く立ち上がる人々の勇気ある立ち居振る舞いに、同時代人として接することが出来なかった無念さを忘れられなかったためだろうと思います。ところが一週間、十日と経つ内に、知らず知らずに精神力に翳りが出て来ました。ブログを書くペースが鈍ったところにその変調ぶりが典型的に表れます。ちょっとした被災者の苦労話や、現場で復旧を助ける職員や若いボランティアの頑張りに涙もろくなり、同じような膨大な情報のシャワーを浴び続けて、却って情緒不安定になって、いわば思考が停止してしまったのかと思ったのですが、そうではなく、むしろ一種の無気力状態に襲われているような感じです。
最近、香山リカさんのエッセイを読んで、臨床心理学の世界に「共感疲労」と呼ばれるものがあるのを知りました。災害時に被災地に入る医療関係者やボランティアにもよく見られる現象で、相手の境遇に心を寄せて考え過ぎるあまり、自分のエネルギーがすり減ってしまう状態だそうです。普通の災害では、被害に遭った人は大変だけれども、自分には無縁であり、自分の身には起こり得ないことを確認し、高みの見物として、自らの心の安寧を守ることが出来るのに対し、今回の震災は被害の規模が余りに大きく、余震や放射線汚染に関しては首都圏と言えども決して無縁でいられるわけではなく、他人事とは考えられない期間がこれからも暫く続くため、共感疲労を起こす人がますます増えてくるだろうと言います。未曾有の災害に、私たちの許容範囲を超えてしまっているのだと説明されます。
私自身が「共感疲労」なのかどうかは分かりません。しかし、もともと「相手の立場に立って」「その人の身になって」考えることを子供の頃から習慣づけられる、共感性の高い国民であり、しかもムードに流されやすく、今回のような大規模な災害に遭遇すれば、「日本の力を信じて」「自分にできることをやろう」と、誰もが雷同するのは悪くありませんが、反対の行動をとる人を不謹慎と決め付けるかのような空気や、人と違うことを徒に恐れ、出る杭にはなりたがらない国民性です。節電を励行するならまだしも、消費や行楽を自粛し、ごく普通の日常生活にまである種の罪悪感を覚えるのだとすれば、行き過ぎでしょう。
人は心の平衡を保つために、敢えてある事象を他人事として切り離す「分離」のメカニズムを働かせるのだそうです。これは被災者ではない私たちが、心の不安定な状態に陥るのを防ぐ防衛反応であり、他方、被災者も、全てを失って、むしろ迷いがなく淡々としているように見えるのは、他人事のように振舞うことによって、心が崩壊するのを防ぐ防衛反応だというわけです。今、必要なことは、自分のことを自分で支えること、社会としてある行動を強制せずに、それぞれの人が無理なく過ごせるような情況が大切だと言われます。大惨事があったからと言って、社会全体で同じ対応を取る必要はない、ということは、肝に銘ずるべきでしょう。
初めのうちは、大震災と津波と放射線漏れ一色(三色?)の新聞報道に隈なく目を通し、こうした総合日刊紙には書けないウラ事情を覗くために複数の週刊誌を読み比べ、更にやや距離を置いた冷静な分析の月刊誌まで追いかけて、俄か震災ウォッチャーを気取るまでになっていたのは、16年前の阪神大震災の時に地球の裏側のボストンにいて、日本の新聞やテレビ報道から隔絶され、インターネットもそれほどまだ普及していない中で、危機的状況における人々の営み、大いなる挫折から力強く立ち上がる人々の勇気ある立ち居振る舞いに、同時代人として接することが出来なかった無念さを忘れられなかったためだろうと思います。ところが一週間、十日と経つ内に、知らず知らずに精神力に翳りが出て来ました。ブログを書くペースが鈍ったところにその変調ぶりが典型的に表れます。ちょっとした被災者の苦労話や、現場で復旧を助ける職員や若いボランティアの頑張りに涙もろくなり、同じような膨大な情報のシャワーを浴び続けて、却って情緒不安定になって、いわば思考が停止してしまったのかと思ったのですが、そうではなく、むしろ一種の無気力状態に襲われているような感じです。
最近、香山リカさんのエッセイを読んで、臨床心理学の世界に「共感疲労」と呼ばれるものがあるのを知りました。災害時に被災地に入る医療関係者やボランティアにもよく見られる現象で、相手の境遇に心を寄せて考え過ぎるあまり、自分のエネルギーがすり減ってしまう状態だそうです。普通の災害では、被害に遭った人は大変だけれども、自分には無縁であり、自分の身には起こり得ないことを確認し、高みの見物として、自らの心の安寧を守ることが出来るのに対し、今回の震災は被害の規模が余りに大きく、余震や放射線汚染に関しては首都圏と言えども決して無縁でいられるわけではなく、他人事とは考えられない期間がこれからも暫く続くため、共感疲労を起こす人がますます増えてくるだろうと言います。未曾有の災害に、私たちの許容範囲を超えてしまっているのだと説明されます。
私自身が「共感疲労」なのかどうかは分かりません。しかし、もともと「相手の立場に立って」「その人の身になって」考えることを子供の頃から習慣づけられる、共感性の高い国民であり、しかもムードに流されやすく、今回のような大規模な災害に遭遇すれば、「日本の力を信じて」「自分にできることをやろう」と、誰もが雷同するのは悪くありませんが、反対の行動をとる人を不謹慎と決め付けるかのような空気や、人と違うことを徒に恐れ、出る杭にはなりたがらない国民性です。節電を励行するならまだしも、消費や行楽を自粛し、ごく普通の日常生活にまである種の罪悪感を覚えるのだとすれば、行き過ぎでしょう。
人は心の平衡を保つために、敢えてある事象を他人事として切り離す「分離」のメカニズムを働かせるのだそうです。これは被災者ではない私たちが、心の不安定な状態に陥るのを防ぐ防衛反応であり、他方、被災者も、全てを失って、むしろ迷いがなく淡々としているように見えるのは、他人事のように振舞うことによって、心が崩壊するのを防ぐ防衛反応だというわけです。今、必要なことは、自分のことを自分で支えること、社会としてある行動を強制せずに、それぞれの人が無理なく過ごせるような情況が大切だと言われます。大惨事があったからと言って、社会全体で同じ対応を取る必要はない、ということは、肝に銘ずるべきでしょう。