二股俳優と言われるようになった塩谷瞬のことを書きたいわけではありません。あの程度のことで大騒ぎし過ぎだと、呆れている人が多いことでしょう。ただのイケメン遊び人が、独身なのだから基本的には好きにすればよいのですが、結婚詐欺師まがいでちょっと度が過ぎただけの話です。芸能レポーターからどんなに苛められようが同情にも関心にも値しません。むしろそんな彼をしつこく追及し弄ぶ狭義の世間(芸能レポーターやテレビ界ひいてはマスメディア)の熱狂ぶりが不思議です。広義の世間(視聴者)が、こうした報道を望んでいるとはとても思えないからです。日曜昼の報道ステーションに至っては、単独インタビューまで敢行し、番組名がすたるのではないかと、他人事ながら心配してしまうほどでした。よせばいいのに、私もつい見てしまいましたが、物心つく前に両親が離婚し、子供の頃から新聞配達する苦労人で、愛情に飢えていたから・・・と、それ自体は気の毒に思いますが、そうして涙目でいくら訴えられても、私の中では(そして広義の世間では)手遅れなことくらい分かるでしょうに、塩谷瞬本人ではなく彼の裏で何等かの計算をしている人がいるのでしょうか。こうして一方で潔癖性にこだわりながら、他方で、芸能人の結婚報道のたびに、妊娠の有無をことさらにコメントするのはどうしたことでしょう。些か耳障りで、いいかげんにして欲しい。芸能界という極めて特殊な世界の事例を喧伝することによって、まるで悪貨に良貨を駆逐させんとするばかりに、日本のモラルを貶めたいのかと勘ぐりたくなります。もとより結婚前の純潔を信じているとかそういう問題ではなくて、要は大人のつつしみというものが邪険にされていて品がないのが嘆かわしいのです。二股俳優も芸能レポーターも、同じ穴のムジナです。
前置きが長くなりましたが、実は、ぼやきたかったのは、猫ひろしの話です。ご存じの通り、いったんはカンボジア代表に選ばれながら、カンボジア国籍取得から1年を経過していなかったため、国際陸連から“参加資格なし”と判断され、オリンピック出場は露と消えました。
五輪参加標準記録は突破せずとも「特別枠」でカンボジア代表に決まったとき、ランニング大会などを通じて長年カンボジア支援を続けている有森裕子さんは、「日本人に代表を譲る若い選手の心中を思うと悔しい」と涙声で話し(3月31日 読売新聞)、「これが本当にいいことなのかと考えると、複雑な気持ちだ」と語ったそうです(3月29日 読売新聞)。思い入れが強いのは分かりますが、ただの思い過ごしで、カンボジアの人たちは存外気にしていないようです。対照的に、為末大さんは、「猫さんがせっかく国籍を変えたなら、カンボジアに日本のマラソンを伝えて、スポーツの父になってほしいと思っている」と、好意的なコメントをツイッターに寄せていました(4月23日 毎日新聞)。しかし二人は違うコメントを残しながら、実は同じアスリートとして同じような思いで同じようなメッセージを残しているように思います。つまりオリンピックという、神聖ながらも極めて高度に“政治的”なスポーツの祭典に向かって、アスリートとして、二股のように、中途半端にスポーツをかじるのは勘弁して欲しい、と。
実際、スポーツ選手の国籍変更は珍しいことではなく、ペアのフィギュア・スケートでオリンピックの檜舞台を狙う日本人女性が、強い相手を求めてロシアに国籍を変えたのは記憶に新しいですし、中東諸国が潤沢なオイルマネーで優れたアフリカ出身選手を集めるケースは議論を呼んできましたが、富める国の五輪水準に達しないアスリートが「オリンピアン」になる夢のため、貧しい国の代表枠を得るのは珍しいこと(5月9日 毎日新聞)なのだそうです。陸上関係者の中には、これが認められれば、実力の足りない外国選手が「特別枠」に殺到するようになるのではないかと心配する声がありました。青森の高校に関西のリトルリーグ出身の球児が集まって関西弁丸出しで甲子園に出場した状況に似て、その無邪気さには些か驚かされます。高度に“政治的”なオリンピックにあっては、やはりタテマエとしての国籍はおろそかに出来ません。猫ひろしのツイッターを見ると、結構、真面目に練習しているようですが、アスリートとしてではなく飽くまで芸人として走ると主張しているようです。彼も、もう少し大人であったなら、と思います。
前置きが長くなりましたが、実は、ぼやきたかったのは、猫ひろしの話です。ご存じの通り、いったんはカンボジア代表に選ばれながら、カンボジア国籍取得から1年を経過していなかったため、国際陸連から“参加資格なし”と判断され、オリンピック出場は露と消えました。
五輪参加標準記録は突破せずとも「特別枠」でカンボジア代表に決まったとき、ランニング大会などを通じて長年カンボジア支援を続けている有森裕子さんは、「日本人に代表を譲る若い選手の心中を思うと悔しい」と涙声で話し(3月31日 読売新聞)、「これが本当にいいことなのかと考えると、複雑な気持ちだ」と語ったそうです(3月29日 読売新聞)。思い入れが強いのは分かりますが、ただの思い過ごしで、カンボジアの人たちは存外気にしていないようです。対照的に、為末大さんは、「猫さんがせっかく国籍を変えたなら、カンボジアに日本のマラソンを伝えて、スポーツの父になってほしいと思っている」と、好意的なコメントをツイッターに寄せていました(4月23日 毎日新聞)。しかし二人は違うコメントを残しながら、実は同じアスリートとして同じような思いで同じようなメッセージを残しているように思います。つまりオリンピックという、神聖ながらも極めて高度に“政治的”なスポーツの祭典に向かって、アスリートとして、二股のように、中途半端にスポーツをかじるのは勘弁して欲しい、と。
実際、スポーツ選手の国籍変更は珍しいことではなく、ペアのフィギュア・スケートでオリンピックの檜舞台を狙う日本人女性が、強い相手を求めてロシアに国籍を変えたのは記憶に新しいですし、中東諸国が潤沢なオイルマネーで優れたアフリカ出身選手を集めるケースは議論を呼んできましたが、富める国の五輪水準に達しないアスリートが「オリンピアン」になる夢のため、貧しい国の代表枠を得るのは珍しいこと(5月9日 毎日新聞)なのだそうです。陸上関係者の中には、これが認められれば、実力の足りない外国選手が「特別枠」に殺到するようになるのではないかと心配する声がありました。青森の高校に関西のリトルリーグ出身の球児が集まって関西弁丸出しで甲子園に出場した状況に似て、その無邪気さには些か驚かされます。高度に“政治的”なオリンピックにあっては、やはりタテマエとしての国籍はおろそかに出来ません。猫ひろしのツイッターを見ると、結構、真面目に練習しているようですが、アスリートとしてではなく飽くまで芸人として走ると主張しているようです。彼も、もう少し大人であったなら、と思います。