この映画を見て、あらためて日本の政治状況の貧困を思いました。最近、私のブログの更新頻度が落ちたのは、政治が批判の対象に値しなくなった(関西弁で表現すると、アホらしゅうてやってられん)ことにも原因があると、他人のせいにしてはいけないのですが、そうぼやきたくなります。
サッチャー女史のような人が出て来たのは、イギリス政治の必然だろうと思います。さすがに今はどうか知りませんが、優秀な若者は政治を志す、何故なら主権は国民に存するのではなく、女王陛下と国会が半分ずつ握るから・・・そんなエリート主義の古き良き伝統が、辛うじて大英帝国のなれの果てにも生き残っているように思います。
日本の行政も、江戸以来の伝統で、有能な人間に支えられて来ましたが、政治の世界からはいつの間にか(多分、戦争に敗れてから)武士がいなくなり、今では、統治能力の適格性がないまま政権交代を実現してしまった民主党と、野党としての適格性がないまま政権交代を許してしまった自民党の、ある時には慣れ合いで裏で手を握り、それ以外にはたいてい足を引っ張り合う醜い泥仕合・・・いわば茶番ばかりが続く有様です。かつて高度成長を達した頃は、経済は一流、政治は三流、と蔑まれ、経済が二流に堕しかねない今もなお、手を拱いている政治は、ポピュリズムを至上として政局しか頭になくて、その無力ぶりは明らかです。かつて、小沢さんには期待したことがありましたが、すっかり色褪せてしまって、今、彼の頭の中を床にぶちまけると、選挙戦術と数のことしか出てこないのではないか、そして最後に、その中心に居座っている「怨念」がコロコロと転げ落ちてくる、そんなイメージを抱いてしまいます。政界で何か仕掛けようとする気持ちは分からないではないですが、政治理念やら信念らしきものはあるようでいて、その実、選挙のための方便としか思えず、いずれ面が割れると、いつもの破壊屋の本領が発揮されるだけのようで、ちょっとがっかりです。そういう意味で、過激な言説を繰り返す石原都知事や、一見(と一応言っておきます)チンピラ風の橋下市長にまがりなりにも人気があるのは、理由があります。今の日本で待望されるのは、サッチャー女史のような「信念」の政治家だからです。
政治のせいばかりにしていてもラチが明かないので、日本の政治状況は、翻って日本の社会的な成熟の後れを反映しているのではないかと考えてみることにしましょう(実は私の時事ブログは、そういうコンセプトで書き続けてきたつもりです)。
政治家一人ひとりの資質には若干疑問があるにしても(実際に、新進気鋭の女性作家が、政治家のインタビューを通して、政治家にならずとも企業社会で成功していたであろうと思えるような人は少なかったと、女性的な感性で率直な印象を述べていました)、企業にしても、官僚にしても、一人ひとりはとても優秀なのに、組織になるとまるでダメなのは、一体どうしたことでしょう。そこに日本の社会再生のカギがあるように思います。日本的なリーダーシップ論や組織論は、欧米との比較で終わる一種の文化人類学に過ぎなくて、かくあるべしという、高みを求める芸術論にはなかなかなり得ません。なんとなく引き籠りがちの昨今の日本人は、所詮は日本人なのだと開き直る傾向がある上に、昨年来、東日本大震災を乗り越える中で、日本的な価値観が見直されて、益々、世界の潮流から離れているのではないかと思えてなりません。
戦後の日本は、どうも国家や社会を担う人材を育てることを、そうしたリーダーを受容し機能させる組織や社会システムを構築することを、真面目に考えて来なかったのではないでしょうか。「末は博士か大臣か」という価値観も、完全に過去のものになりました。反論が出て来るであろうことを承知で言いますが、今の受験制度は、記憶力だけでなく、高等教育を受けるに足る基本的な資質を問う点ではよく出来ていると私は思っていて、勿論、それが必要条件ではあっても十分条件とは言えませんが、(もしかしたら上位のエリート的なところだけかも知れませんが)素材を見分ける“ふるい”にはなっていると思います。しかし、素材の良さだけで世の中を担えるわけではありません。素材を、意識的な訓練を通して磨くことによって、国家や社会を担う人材に育てなければならない。これまでの日本は、それを企業社会(やそれぞれの社会)の自律的な体制に任せて来ました(国としては何もしないで、よきにはからえ、といったところでしょうか)。企業社会は、それに応えて、時間とカネをかけて、若者を、良い意味で遊ばせて来ましたが、多くの優秀な企業戦士を輩出して来ただけでした。そういう点では、政治の世界はもっと貧困なのは想像に難くありません。教科書的な意味で(つまり日本的ではないという意味で)、政治家の器量を育てるシステムがあるとは思えませんから(それでも、かつての自民党政治は、派閥の長を経験させることによって、それなりにムラオサ的なリーダーを育てることは出来たと思います)。
ところが、冷戦崩壊と真の意味でのグローバル化が進展する中で、日本経済が長らく停滞する昨今、企業社会にそういう余裕はなくなって来ました。政治も停滞し、世間の信認を失って益々特異な世界へと孤立し、政治の世界だけではもはや変化を期待できないといったような諦観に支配されています。そして相変わらず公と私の領域は、水と油のように混じり合うことなく離れたまま。こうした、日本の社会のそこかしこで見られる制度疲労、ある種のダイナミズムの退潮に、大いなる危惧を覚えるのは私だけではないと思います。今こそ日本は、国家や社会を担う人材と意識を育てることを、真剣に考えるべきだと思います。「お上」と呼んで遠ざける私たちの意識を変え、社会を担うのは私たち一人ひとりだという意識を変えない限り、そして、そうした中から国家や社会を担うリーダーが育って来ない限り、社会的な成熟にはほど遠いように思います。
サッチャー女史のような人が出て来たのは、イギリス政治の必然だろうと思います。さすがに今はどうか知りませんが、優秀な若者は政治を志す、何故なら主権は国民に存するのではなく、女王陛下と国会が半分ずつ握るから・・・そんなエリート主義の古き良き伝統が、辛うじて大英帝国のなれの果てにも生き残っているように思います。
日本の行政も、江戸以来の伝統で、有能な人間に支えられて来ましたが、政治の世界からはいつの間にか(多分、戦争に敗れてから)武士がいなくなり、今では、統治能力の適格性がないまま政権交代を実現してしまった民主党と、野党としての適格性がないまま政権交代を許してしまった自民党の、ある時には慣れ合いで裏で手を握り、それ以外にはたいてい足を引っ張り合う醜い泥仕合・・・いわば茶番ばかりが続く有様です。かつて高度成長を達した頃は、経済は一流、政治は三流、と蔑まれ、経済が二流に堕しかねない今もなお、手を拱いている政治は、ポピュリズムを至上として政局しか頭になくて、その無力ぶりは明らかです。かつて、小沢さんには期待したことがありましたが、すっかり色褪せてしまって、今、彼の頭の中を床にぶちまけると、選挙戦術と数のことしか出てこないのではないか、そして最後に、その中心に居座っている「怨念」がコロコロと転げ落ちてくる、そんなイメージを抱いてしまいます。政界で何か仕掛けようとする気持ちは分からないではないですが、政治理念やら信念らしきものはあるようでいて、その実、選挙のための方便としか思えず、いずれ面が割れると、いつもの破壊屋の本領が発揮されるだけのようで、ちょっとがっかりです。そういう意味で、過激な言説を繰り返す石原都知事や、一見(と一応言っておきます)チンピラ風の橋下市長にまがりなりにも人気があるのは、理由があります。今の日本で待望されるのは、サッチャー女史のような「信念」の政治家だからです。
政治のせいばかりにしていてもラチが明かないので、日本の政治状況は、翻って日本の社会的な成熟の後れを反映しているのではないかと考えてみることにしましょう(実は私の時事ブログは、そういうコンセプトで書き続けてきたつもりです)。
政治家一人ひとりの資質には若干疑問があるにしても(実際に、新進気鋭の女性作家が、政治家のインタビューを通して、政治家にならずとも企業社会で成功していたであろうと思えるような人は少なかったと、女性的な感性で率直な印象を述べていました)、企業にしても、官僚にしても、一人ひとりはとても優秀なのに、組織になるとまるでダメなのは、一体どうしたことでしょう。そこに日本の社会再生のカギがあるように思います。日本的なリーダーシップ論や組織論は、欧米との比較で終わる一種の文化人類学に過ぎなくて、かくあるべしという、高みを求める芸術論にはなかなかなり得ません。なんとなく引き籠りがちの昨今の日本人は、所詮は日本人なのだと開き直る傾向がある上に、昨年来、東日本大震災を乗り越える中で、日本的な価値観が見直されて、益々、世界の潮流から離れているのではないかと思えてなりません。
戦後の日本は、どうも国家や社会を担う人材を育てることを、そうしたリーダーを受容し機能させる組織や社会システムを構築することを、真面目に考えて来なかったのではないでしょうか。「末は博士か大臣か」という価値観も、完全に過去のものになりました。反論が出て来るであろうことを承知で言いますが、今の受験制度は、記憶力だけでなく、高等教育を受けるに足る基本的な資質を問う点ではよく出来ていると私は思っていて、勿論、それが必要条件ではあっても十分条件とは言えませんが、(もしかしたら上位のエリート的なところだけかも知れませんが)素材を見分ける“ふるい”にはなっていると思います。しかし、素材の良さだけで世の中を担えるわけではありません。素材を、意識的な訓練を通して磨くことによって、国家や社会を担う人材に育てなければならない。これまでの日本は、それを企業社会(やそれぞれの社会)の自律的な体制に任せて来ました(国としては何もしないで、よきにはからえ、といったところでしょうか)。企業社会は、それに応えて、時間とカネをかけて、若者を、良い意味で遊ばせて来ましたが、多くの優秀な企業戦士を輩出して来ただけでした。そういう点では、政治の世界はもっと貧困なのは想像に難くありません。教科書的な意味で(つまり日本的ではないという意味で)、政治家の器量を育てるシステムがあるとは思えませんから(それでも、かつての自民党政治は、派閥の長を経験させることによって、それなりにムラオサ的なリーダーを育てることは出来たと思います)。
ところが、冷戦崩壊と真の意味でのグローバル化が進展する中で、日本経済が長らく停滞する昨今、企業社会にそういう余裕はなくなって来ました。政治も停滞し、世間の信認を失って益々特異な世界へと孤立し、政治の世界だけではもはや変化を期待できないといったような諦観に支配されています。そして相変わらず公と私の領域は、水と油のように混じり合うことなく離れたまま。こうした、日本の社会のそこかしこで見られる制度疲労、ある種のダイナミズムの退潮に、大いなる危惧を覚えるのは私だけではないと思います。今こそ日本は、国家や社会を担う人材と意識を育てることを、真剣に考えるべきだと思います。「お上」と呼んで遠ざける私たちの意識を変え、社会を担うのは私たち一人ひとりだという意識を変えない限り、そして、そうした中から国家や社会を担うリーダーが育って来ない限り、社会的な成熟にはほど遠いように思います。