前々々回の続きです。若干中途半端なところもありますが、時機を逸するのは本意ではないので、とにかく書き終えてしまいます。
制度的には整備されていながら個人や組織の資質によって、あるいは制度がないのに小手先の対応によって、打ち手を遅らせ問題を大きくしてしまった属人的な事例が山積しているのもまた事実です(産経新聞、週刊ポスト、関連書籍を総合)。
そもそも東電が1・2号機の注水機能喪失を伝える、原子力災害対策特別措置法(原災法)15条に基づく通報を行ったのは震災当日午後4時45分のことで、首相は“直ちに”「緊急事態」を宣言し、「原子力災害対策本部」を設置することを定めていますが、実際の宣言は午後7時3分と2時間以上遅れました。国会事故調で、菅氏は「理由があって引き延ばしたとか、押しとどめたという気持ちは全くない」と弁明しましたが、政府事故調は、菅氏が午後6時12分から開催された与野党党首会談に出席するため「上申手続きは一時中断した」と述べました。国会事故調で海江田氏(当時経産相)は「首相の理解を得るのに時間がかかった」と証言しました。東電の解析では、1号機の炉心損傷開始は午後6時50分頃とされ、宣言に手間取る間も、原子炉の状況の悪化は進んでいたことが知られます。
翌12日午前中、菅氏自らヘリで現場視察を強行したというのも賛否両論相立つエピソードですが、「根本的な状況の説明が残念ながら(現場から)なかった。特にベントが何時間経っても行われない。本当に困った。私としては現場の状況が把握できるのではないかと思った」と弁明し(確かに菅氏の周辺が官僚に洗脳されて機能していなかったと皮肉るジャーナリストもいます)、その上で「現場を知るという意味では、極めて大きなことだった。(現場スタッフの)顔と名前が一致したことは極めて大きなことだった」と意義を強調しました。しかし危機的な状況にあって最高指揮官が現場スタッフの顔と名前を覚える必要があったのかは大いに疑問です。むしろ当時の現場は極限状況の真っ只中にあり、政府事故調は、視察が、現場の復旧作業の負担になった可能性を示唆していますし、民間事故調は「稚拙で泥縄的な危機管理」と酷評しました。これに関して、枝野氏(当時官房長官)は、菅氏に対し「客観的に正しかったとしても感情的な政治的批判は免れず、とてもお勧めできない」と視察を思いとどまるよう助言したと語りましたし、海江田氏(当時経産相)も、視察については、部屋が別々だったことを理由に「詳細な経緯を知らない」と言葉を濁しましたが、菅氏が内閣府原子力安全委員会の班目春樹委員長を視察に同行させたことにより、技術的な専門家集団のトップである班目氏と経産省の協議が数時間中断したことは認めました。枝野氏のロジックは今一つ解せませんが、菅氏による、対応の後れを誤魔化すための特有の独りよがりのパフォーマンスで、結果として現場を混乱させ、ベントなどの取るべき対応を益々後らせたと批判する方に軍配をあげたくなります。なお、公平を期すため、東電事故調は、「視察により、ベント実施作業が遅れたということはない」と、何故か菅氏に配慮した記述となっていることを申し添えます。
同じ12日、第一原発1号機への海水注入をめぐり、菅氏自らが中止を指示したというのも有名なエピソードですが、本人はそんなことはなかったと改めて強調し、「淡水から海水に変えても再臨界が起きることはない。それは私もよくわかっていた」と弁明しましたが、後半部分はやや疑問です。また、第一原発に「官邸の意向」として中止を伝えたのは、官邸に連絡役として常駐していた東電の武黒一郎フェローだったと指摘し、「原子力のプロ中のプロがなぜ注水を止めろと言ったのか、率直に言って理解できない」などと批判する始末です。しかし、当時、複数の政府関係者による情報として、東電から海水注入方針について事前報告を受けた菅氏が、原子力安全委・委員長(斑目氏)に「海水を注入した場合、再臨界の危険はないか」と質問し、班目氏が「あり得る」と返答したため、首相は午後6時に原子力安全委と原子力安全・保安院に対し、海水注入による再臨界の可能性について詳しく検討するよう指示したのは事実のようであり、それが「直接の指示」ではなくとも「事実上の指示」に相当する「懸念」を表明したもの、つまり自らの影響力を無視して逃げるような答弁は詭弁だと言わざるを得ません。
また15日早朝(深夜)に東電本社に乗り込んで怒鳴り込んだのも有名なエピソードですが、菅氏は「私の気持ちでは、叱責というつもりは全くない。『命をかけても頑張っていただきたい』ということは強く言った。『現場としても逃げ切れないですよ』ということも言った。しかし、叱責という気持ちは全くなかった」と弁明しました。そして「やや厳しく受け止められたとすれば、私の本意ではない」とした上で「私の夫婦げんかよりは小さな声でしゃべったつもりだ」などと冗談めかして説明したそうで、なんとも場違いな笑えない冗談です。当時、居合わせていた東電幹部は「三日間徹夜で事故対応にあたり、ようやく初めて休憩を取ることになったところに、総理が来るというので急に招集がかかった。(中略)あの時、我々は全員、命を張っていたが、冷静に事に当たるべき総理大臣がこんなにキレていて大丈夫かと心配になった」と述べています。菅氏の狭量ぶり・狼狽ぶりが目に浮かびますが、指揮官のあり方としては大いに問題があると言わざるを得ません。もっとも利害が相反する東電幹部の声もそのままでは信じ難いところですが、ひとまず措いておきます(というのも、3月15日未明に東電が第1原発から「全面撤退」の意向を示したかどうかも争点で、東電はこれまで「全面撤退の意向を伝えたことはない」と主張していますが、海江田氏(当時経産省)は、国会事故調で、東電の清水正孝氏(当時社長)が電話で「第1から第2に退避する」と連絡してきたことについて、「『全員』という言葉はなかったが、社長がわざわざ私に電話してくるのは重い決断が後ろにあったのだろう」と述べ、この発言を受けて東電が全面撤退を考えていると判断していたことを明らかにし、双方の主張は平行線のままです)。
こうした事故発生直後の対応について、菅氏は「(昨年3月)15日に(東電との)統合対策本部を立ち上げるまで、日々、新たな事象が起こった。その段階で制度的に全体のグランドデザインを考える余裕は率直のところなかった」と述べました。実は統合本部を設置したことそのものについては、民間事故調は「官邸の介入に有効事例が少ないなか、一定の効果があった」とし、政府事故調も統合本部設置以降は「政府と東電の連携が図りやすくなったと評価する者もいる」と理解を示しています。確かにそn通りでしょう。実際、市民運動家に過ぎなかった菅氏が真に国家的な危機に遭遇して、さぞ当惑したであろうことは想像がつきますし、同情をひきたい気持ちも分からないではないですが、当時の状況を、海江田氏(当時経産相)は、国会事故調で、総合対策本部を設置するまでの官邸と東電、同原発の情報連絡の悪さを「伝言ゲームのようだった」と表現、反省点の一つに挙げています。やはりここは菅氏個人が対応を検討するのではなく、国家の機関として対応を検討させなければならなかったわけであり、これほどの危機的状況で、統合対策本部が15日になるまで立ち上がらなかったことを、やはり問題視すべきだろうと思います。
さらにSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が、ベントの際、原発から北北西の方向に高い濃度の放射性物質が拡散するとの予測を出していたにもかかわらず、政府が公表しなかったがために、緊急避難する住民がわざわざ濃度の高い地域に移動して被曝する事態を招いたのも有名なエピソードです。これに対して枝野氏(当時官房長官)は、国会事故調で、「各政府や機関がそれぞれHPで公表しても国民は分からない。どこかが取りまとめて整理して、地図に落として示さなければならないという問題意識で、(中略)敢えて言えば、公表するために汗をかけと指示した」と弁明しました。実は「官邸幹部からSPEEDI情報は公表するなと命じられた」という文部省幹部の証言があるそうですし、細野氏(当時首相補佐官)は5月2日の会見で「パニックを心配して公表しなかった」と認めました。他方、国際原子力機関(IAEA)には逐次報告され、30日の記者会見ではIAEA事務次長が飯館村住民に避難を勧告するよう日本政府を促しているのです。危機に際して都合の悪い事実を公表することの難しさは理解できなくもありませんが、やはり正確な情報を伝えなかった事実は重く、受け手としての国民の対応を含めて国として大いに議論されるべき課題と思います。
菅氏に対する個人攻撃の様相です。しかし菅氏の責任逃れはやはり看過すべきではありません。例えば、「原子力事故にあたってどのような権限が首相あるいは(対策本部の)本部長としてあるのか、首相に就任して以降、事故の間までに詳しく聞いたことはなかった」と開き直りました。これ自体、根幹に関わるところであり、重要なポイントですが、国会事故調のある委員に、平成22年10月に中部電力浜岡原発事故を想定した防災訓練に首相として出席したこと(以前、私のブログでも紹介しました)を指摘されると豹変し、「もっと早くからしっかりとした説明を受けて知っておいた方がよかった」と釈明したそうです。また、事故直後、無資格(後に内閣官房参与)で官邸に招き入れた情報処理の専門家である日比野靖氏が第1原発に電話で「極めて初歩的な質問」(ある委員)を行い「仕事の邪魔」をしていたと追及されると、「やや抽象的なお尋ねで答えに困る。内容的にはっきりしないので答えようがない…」などと誤魔化しました。谷口武俊・東京大政策ビジョン研究センター教授(リスク管理)は「今回の事故では、法律に定めのないその場しのぎの対応がさまざまな局面で見られた。首相の仕事は本来、法の限界の対応策を官僚に洗い出させ、全体の基本方針を定めて関係者に共有させることだ。菅直人氏がチェルノブイリ事故などを念頭に思い描いた状況に合わせて、部下からの報告を解釈していることが伺われる。直感に強く依存して偏った判断があったのではないか。危機的な状況下でも、トップが質の高い意思決定をできるような仕組みを考えるべきだ」と分析されています。宮崎慶次・大阪大名誉教授(原子力工学)は「なぜ福島第1原発を視察したかについて、『情報が上がってこないので、現状を理解するためだった』という理由は分からなくもないが、当時の現場は極限状態の真っ最中。混乱を与えたことに、納得のいく説明はなかった。また、『理系総理』として、『(原発について)何でも知っている』という気負いが、言葉の端々に感じられた」と語り、中途半端な専門性が却って現場を混乱させた可能性を示唆されています。
国民の一人ひとりは、このたびの大震災で、自然災害の脅威を再認識し、備えの必要性を感じたでしょうし、首都圏で水不足を察知して自衛のために買占めに走った浅はかさを反省したでしょうし、絆と言う言葉に代表されるような、人と人つまり地域の繋がりの重要性をも再認識したことでしょう。自治体の中にも、備えを着々と進める動きがあります。しかし肝心の国家としての危機対応、国民の安全を守るための意識が希薄で動きがいまひとつ鈍いように思えて仕方ないのは、私の思い過ごしなのか、そうであれば良いと心から思います。
制度的には整備されていながら個人や組織の資質によって、あるいは制度がないのに小手先の対応によって、打ち手を遅らせ問題を大きくしてしまった属人的な事例が山積しているのもまた事実です(産経新聞、週刊ポスト、関連書籍を総合)。
そもそも東電が1・2号機の注水機能喪失を伝える、原子力災害対策特別措置法(原災法)15条に基づく通報を行ったのは震災当日午後4時45分のことで、首相は“直ちに”「緊急事態」を宣言し、「原子力災害対策本部」を設置することを定めていますが、実際の宣言は午後7時3分と2時間以上遅れました。国会事故調で、菅氏は「理由があって引き延ばしたとか、押しとどめたという気持ちは全くない」と弁明しましたが、政府事故調は、菅氏が午後6時12分から開催された与野党党首会談に出席するため「上申手続きは一時中断した」と述べました。国会事故調で海江田氏(当時経産相)は「首相の理解を得るのに時間がかかった」と証言しました。東電の解析では、1号機の炉心損傷開始は午後6時50分頃とされ、宣言に手間取る間も、原子炉の状況の悪化は進んでいたことが知られます。
翌12日午前中、菅氏自らヘリで現場視察を強行したというのも賛否両論相立つエピソードですが、「根本的な状況の説明が残念ながら(現場から)なかった。特にベントが何時間経っても行われない。本当に困った。私としては現場の状況が把握できるのではないかと思った」と弁明し(確かに菅氏の周辺が官僚に洗脳されて機能していなかったと皮肉るジャーナリストもいます)、その上で「現場を知るという意味では、極めて大きなことだった。(現場スタッフの)顔と名前が一致したことは極めて大きなことだった」と意義を強調しました。しかし危機的な状況にあって最高指揮官が現場スタッフの顔と名前を覚える必要があったのかは大いに疑問です。むしろ当時の現場は極限状況の真っ只中にあり、政府事故調は、視察が、現場の復旧作業の負担になった可能性を示唆していますし、民間事故調は「稚拙で泥縄的な危機管理」と酷評しました。これに関して、枝野氏(当時官房長官)は、菅氏に対し「客観的に正しかったとしても感情的な政治的批判は免れず、とてもお勧めできない」と視察を思いとどまるよう助言したと語りましたし、海江田氏(当時経産相)も、視察については、部屋が別々だったことを理由に「詳細な経緯を知らない」と言葉を濁しましたが、菅氏が内閣府原子力安全委員会の班目春樹委員長を視察に同行させたことにより、技術的な専門家集団のトップである班目氏と経産省の協議が数時間中断したことは認めました。枝野氏のロジックは今一つ解せませんが、菅氏による、対応の後れを誤魔化すための特有の独りよがりのパフォーマンスで、結果として現場を混乱させ、ベントなどの取るべき対応を益々後らせたと批判する方に軍配をあげたくなります。なお、公平を期すため、東電事故調は、「視察により、ベント実施作業が遅れたということはない」と、何故か菅氏に配慮した記述となっていることを申し添えます。
同じ12日、第一原発1号機への海水注入をめぐり、菅氏自らが中止を指示したというのも有名なエピソードですが、本人はそんなことはなかったと改めて強調し、「淡水から海水に変えても再臨界が起きることはない。それは私もよくわかっていた」と弁明しましたが、後半部分はやや疑問です。また、第一原発に「官邸の意向」として中止を伝えたのは、官邸に連絡役として常駐していた東電の武黒一郎フェローだったと指摘し、「原子力のプロ中のプロがなぜ注水を止めろと言ったのか、率直に言って理解できない」などと批判する始末です。しかし、当時、複数の政府関係者による情報として、東電から海水注入方針について事前報告を受けた菅氏が、原子力安全委・委員長(斑目氏)に「海水を注入した場合、再臨界の危険はないか」と質問し、班目氏が「あり得る」と返答したため、首相は午後6時に原子力安全委と原子力安全・保安院に対し、海水注入による再臨界の可能性について詳しく検討するよう指示したのは事実のようであり、それが「直接の指示」ではなくとも「事実上の指示」に相当する「懸念」を表明したもの、つまり自らの影響力を無視して逃げるような答弁は詭弁だと言わざるを得ません。
また15日早朝(深夜)に東電本社に乗り込んで怒鳴り込んだのも有名なエピソードですが、菅氏は「私の気持ちでは、叱責というつもりは全くない。『命をかけても頑張っていただきたい』ということは強く言った。『現場としても逃げ切れないですよ』ということも言った。しかし、叱責という気持ちは全くなかった」と弁明しました。そして「やや厳しく受け止められたとすれば、私の本意ではない」とした上で「私の夫婦げんかよりは小さな声でしゃべったつもりだ」などと冗談めかして説明したそうで、なんとも場違いな笑えない冗談です。当時、居合わせていた東電幹部は「三日間徹夜で事故対応にあたり、ようやく初めて休憩を取ることになったところに、総理が来るというので急に招集がかかった。(中略)あの時、我々は全員、命を張っていたが、冷静に事に当たるべき総理大臣がこんなにキレていて大丈夫かと心配になった」と述べています。菅氏の狭量ぶり・狼狽ぶりが目に浮かびますが、指揮官のあり方としては大いに問題があると言わざるを得ません。もっとも利害が相反する東電幹部の声もそのままでは信じ難いところですが、ひとまず措いておきます(というのも、3月15日未明に東電が第1原発から「全面撤退」の意向を示したかどうかも争点で、東電はこれまで「全面撤退の意向を伝えたことはない」と主張していますが、海江田氏(当時経産省)は、国会事故調で、東電の清水正孝氏(当時社長)が電話で「第1から第2に退避する」と連絡してきたことについて、「『全員』という言葉はなかったが、社長がわざわざ私に電話してくるのは重い決断が後ろにあったのだろう」と述べ、この発言を受けて東電が全面撤退を考えていると判断していたことを明らかにし、双方の主張は平行線のままです)。
こうした事故発生直後の対応について、菅氏は「(昨年3月)15日に(東電との)統合対策本部を立ち上げるまで、日々、新たな事象が起こった。その段階で制度的に全体のグランドデザインを考える余裕は率直のところなかった」と述べました。実は統合本部を設置したことそのものについては、民間事故調は「官邸の介入に有効事例が少ないなか、一定の効果があった」とし、政府事故調も統合本部設置以降は「政府と東電の連携が図りやすくなったと評価する者もいる」と理解を示しています。確かにそn通りでしょう。実際、市民運動家に過ぎなかった菅氏が真に国家的な危機に遭遇して、さぞ当惑したであろうことは想像がつきますし、同情をひきたい気持ちも分からないではないですが、当時の状況を、海江田氏(当時経産相)は、国会事故調で、総合対策本部を設置するまでの官邸と東電、同原発の情報連絡の悪さを「伝言ゲームのようだった」と表現、反省点の一つに挙げています。やはりここは菅氏個人が対応を検討するのではなく、国家の機関として対応を検討させなければならなかったわけであり、これほどの危機的状況で、統合対策本部が15日になるまで立ち上がらなかったことを、やはり問題視すべきだろうと思います。
さらにSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が、ベントの際、原発から北北西の方向に高い濃度の放射性物質が拡散するとの予測を出していたにもかかわらず、政府が公表しなかったがために、緊急避難する住民がわざわざ濃度の高い地域に移動して被曝する事態を招いたのも有名なエピソードです。これに対して枝野氏(当時官房長官)は、国会事故調で、「各政府や機関がそれぞれHPで公表しても国民は分からない。どこかが取りまとめて整理して、地図に落として示さなければならないという問題意識で、(中略)敢えて言えば、公表するために汗をかけと指示した」と弁明しました。実は「官邸幹部からSPEEDI情報は公表するなと命じられた」という文部省幹部の証言があるそうですし、細野氏(当時首相補佐官)は5月2日の会見で「パニックを心配して公表しなかった」と認めました。他方、国際原子力機関(IAEA)には逐次報告され、30日の記者会見ではIAEA事務次長が飯館村住民に避難を勧告するよう日本政府を促しているのです。危機に際して都合の悪い事実を公表することの難しさは理解できなくもありませんが、やはり正確な情報を伝えなかった事実は重く、受け手としての国民の対応を含めて国として大いに議論されるべき課題と思います。
菅氏に対する個人攻撃の様相です。しかし菅氏の責任逃れはやはり看過すべきではありません。例えば、「原子力事故にあたってどのような権限が首相あるいは(対策本部の)本部長としてあるのか、首相に就任して以降、事故の間までに詳しく聞いたことはなかった」と開き直りました。これ自体、根幹に関わるところであり、重要なポイントですが、国会事故調のある委員に、平成22年10月に中部電力浜岡原発事故を想定した防災訓練に首相として出席したこと(以前、私のブログでも紹介しました)を指摘されると豹変し、「もっと早くからしっかりとした説明を受けて知っておいた方がよかった」と釈明したそうです。また、事故直後、無資格(後に内閣官房参与)で官邸に招き入れた情報処理の専門家である日比野靖氏が第1原発に電話で「極めて初歩的な質問」(ある委員)を行い「仕事の邪魔」をしていたと追及されると、「やや抽象的なお尋ねで答えに困る。内容的にはっきりしないので答えようがない…」などと誤魔化しました。谷口武俊・東京大政策ビジョン研究センター教授(リスク管理)は「今回の事故では、法律に定めのないその場しのぎの対応がさまざまな局面で見られた。首相の仕事は本来、法の限界の対応策を官僚に洗い出させ、全体の基本方針を定めて関係者に共有させることだ。菅直人氏がチェルノブイリ事故などを念頭に思い描いた状況に合わせて、部下からの報告を解釈していることが伺われる。直感に強く依存して偏った判断があったのではないか。危機的な状況下でも、トップが質の高い意思決定をできるような仕組みを考えるべきだ」と分析されています。宮崎慶次・大阪大名誉教授(原子力工学)は「なぜ福島第1原発を視察したかについて、『情報が上がってこないので、現状を理解するためだった』という理由は分からなくもないが、当時の現場は極限状態の真っ最中。混乱を与えたことに、納得のいく説明はなかった。また、『理系総理』として、『(原発について)何でも知っている』という気負いが、言葉の端々に感じられた」と語り、中途半端な専門性が却って現場を混乱させた可能性を示唆されています。
国民の一人ひとりは、このたびの大震災で、自然災害の脅威を再認識し、備えの必要性を感じたでしょうし、首都圏で水不足を察知して自衛のために買占めに走った浅はかさを反省したでしょうし、絆と言う言葉に代表されるような、人と人つまり地域の繋がりの重要性をも再認識したことでしょう。自治体の中にも、備えを着々と進める動きがあります。しかし肝心の国家としての危機対応、国民の安全を守るための意識が希薄で動きがいまひとつ鈍いように思えて仕方ないのは、私の思い過ごしなのか、そうであれば良いと心から思います。