ピーター・ドラッカーと言えば、ユダヤ系オーストリア人の経営学者として著名で、ドラッカー学会があるほど、日本人には相変わらず人気が高いのですが、ほぼ96年の長寿の人生で、結婚後ほどなくアメリカに移り住んで、ベニントン大学、ニューヨーク大学、クレアモント大学院大学で教鞭をとるなど、人生の三分の二以上をアメリカに暮らしながら、今ではその著作はアメリカ人には余り読まれないという話もよく聞きます。自ら「社会生態学者」を名乗る彼の社会観について、あるセミナーで、「競争的」と「協調的」のうち、彼のマネジメント論は「協調的」な社会観をベースにしているのだと説明されたことがあり、ハタと納得したことがありました。ここで競争的な社会観とは、社会は絶え間ない競争に晒され、組織が消滅するのは競争相手に負けるからであり、そのために競争戦略を生み出す排他的な組織文化をもつことになると見るのに対し、協調的な社会観とは、社会は多様な協調関係から成り、組織が消滅するのは相手(利用者)から見放されるからであり、そのために社会を協調・連携を生むエコシステムと見るものです。企業人の端くれとして、どちらかと言うとマイケル・ポーター的な競争論にどっぷり浸り、勝ち負けに拘って、疑似戦争のように戦略論を戦わせるのが常態であったればこそ、時にドラッカーのマネジメント論に触れてオアシス的なものを感じたのは、まさにそうした事情によるのでしょう。このあたりは、ドイツ語名をペーター・ドルッカーと言うように、純粋なアメリカ人ではないところが影響しているように思いますし、日本人にも人気が高い所以なのだろうと思います。
前書きが長くなりましたが、中国、韓国、ロシアなどのユーラシア諸国と日本を比べる時に、この「競争的」社会観と「協調的」社会観の違いを思わないわけには行きません。前回、前々回と「韓国の成熟」というタイトルで、産経新聞の前ソウル支局長が在宅起訴された問題を、どうにもやりきれない思いで取り上げたわけですが、韓国における表現や言論の自由の扱い、あるいはそのありようが、先進諸国に比べて後れていること、そして、それが相変わらず反日の文脈で利用され歪められているという、ごく当たり前のことを勿体をつけて言ったまででした。どうも言い足りないので、若干補足します。
万里の長城の総延長は、2012年6月、中国の当局によって従来の2倍以上の21,196.18kmと発表されました(現存する人工壁の延長は6,259.6kmだそうですが)。秦の始皇帝に始まると、歴史の授業で習いましたが、既に戦国時代には戦国七雄のすべての国が外敵に備えるために長城を建設していたそうです。城壁ですから、欧州の城塞都市と似たような発想なのでしょうか。いったん唐王朝は長城防衛そのものを放棄したあと、女真族が建国した金の時代に復活しましたが、長城を難なく越えて侵入したモンゴルによって金は滅亡され、モンゴル人の元は長城を築きませんでしたが、南方から興った漢民族の明が元王朝を北方の草原へ駆逐し、それでも首都を南京に置いた朱元璋は長城を復活しませんでしたが、首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した第三代皇帝の永楽帝は長城防衛を復活させ、現存の万里の長城の大部分はその明代に作られたのだとWikipediaにあります。この城壁にかける執念を見れば、中原を巡る民族の興亡の激しさが想像されます。
かつてイザヤ・ベンダサンこと山本七平氏は「日本人とユダヤ人」の中で、日本の歴史を俯瞰して、「日本最大の内乱といえば関ヶ原の戦いだが、この決戦が何と半日で終わっている。戦争というより、大がかりな騎士団のトーナメントである。(中略)付近の農民が、手弁当でそれを見学に出掛けるとあっては、およそ、ユーラシア大陸の戦争には縁が遠い催し物である」「いや、日本にも戦国時代があった。戦乱相つぐ百年があったと言われるかも知れない。しかしあの程度のことなら、中東では、実に三千年もつづいた状態のうち、比較的平穏だった時代の様相にすぎない」と、日本が世界に比べれば実に平和であったと述べておられます。さらに日本の戦国時代のことは、「日本の戦国の角逐が、これ(ブログ注:主にパレスチナとその周辺のことと比較されてのこと)とは根本的にちがうことは(中略)当時日本に来たイエズス会宣教師の手紙をごらんになればよい。西欧も中東もインドも中国も(ということは当時の世界の殆どすべてを)直接に見たか間近に見てきたこれらの人びと、当時には珍しい、ほぼ世界中を直接に見聞した人びとが、戦国の日本のことを何とのべているか。その手紙とパレスチナ周辺の農民とを比べてみれば、少なくとも次のように言えることは確かである。戦国時代の日本は、当時の世界で、最も平和で安全な国の一つであったと」とも述べておられます。
この著作自体は、ユダヤとの比較論で、中東に見る民族興亡の激しさは日本の内乱とは比べものにならないというのが結論です。民族興亡の激しさという意味では、頻度や規模の違いはあれ中国も例外ではなさそうで、そもそも漢民族は西方の遊牧民をルーツとし、中原に定着したものと言われますし、「漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の戸籍に登録されている500万人を切った。この後は(中略)北族の時代を迎え、岡田英弘はこの時点でオリジナルな漢民族は滅亡したと主張している」(Wikipedia)と言われるほど、中国では王朝交代期に人口が激減する殺伐とした歴史を繰り返してきたと主張する研究は多いようです(呉松弟や曹樹基の「中国人口史」など)。物資を略奪し人民を捕虜・抹殺するのにとどまらず、文化をも抹殺し、ご丁寧に王朝毎に歴史を書き換える徹底ぶりは、歴史の授業でも習いました。
韓国は、ユーラシア大陸の東端に位置するとはいえ、陸続きで、常にそんな民族の興亡を繰り返す中国にへばりつき、海を隔てる日本とは比べものにならないほど、その鼓動を間近に感じていたことでしょう。韓国人に言わせれば、海を隔てる日本が羨ましい、ということになります。ドラッカー風に社会生態学的な言い方をしますと、韓国は、常に外敵が襲来する恐怖に備え、緊張感を孕む極めて競争的で不安定な社会だったのに対し、日本は、地震や火山の噴火や台風などの自然災害こそ多く、常に揺らぎがある不安定な土地柄ですが、海という天然の要害に守られて、外敵の襲来はほとんどなく、長い目で見れば極めて安定した、動的平衡を保つ協調的な社会だったと言えます。もしこうした社会観の違いが正しければ、お互いにお互いを理解し合うのは難しそうです。日本人が憲法九条を素直に受け入れて、独立を果たしてもなお自主憲法を制定することなく守り続けたのは、日本史で未曾有の災厄となった大東亜戦争の後だったからだけではなく、また自衛権の一つではありながら集団的自衛権に対する心理的抵抗が根強いのは、リベラルのメディアに煽られているからだけではなく、そもそも日本人には協調的で牧歌的な土壌があるからではないかと思われます。
中国、韓国(及び北朝鮮)、ロシアなど、東アジアの戦略環境の難しさは、「ポスト・モダニズムの迷妄」とその続編「ポスト・モダン考」などのブログをはじめとして、何度となく書いてきました。韓国は、この文脈で言うと、まさにナショナリズムを高揚させ、国家を形成する「近代(国民国家)」の過程にあると言えます(そのため前回、前々回のブログ・タイトルは敢えて「未成熟」とはせず「成熟」としました、非難するのが目的ではありませんし・・・)。中国は、習近平国家主席は中国人民に向かってチャイナ・ドリームと話しかけ、170年以上前の(アヘン戦争での屈辱にまみれる以前の)帝国を志向しており、表向きは「近代(国民国家)」のステージにいるように見えますが、その実、「国民国家」の確立と言うより中国共産党の統治を正当化することが第一義という意味で、従い、「国民に向かって」ではなく「中国人民に向かって」語りかける、と書くのが相当のように、「国民国家」の名に値せず、議論のあるところでしょう。それはともかく、韓国の、どうにも日本の理解の埒外にある国柄は、こうした歴史の位相の違いのほかに、日本に対する民族の記憶(前回触れました)や、競争的な戦略環境など、いろいろな要素が混ざっていそうです。
最後にもう一つ、やはり朴槿惠大統領自身の性格からくる影響も考えないわけには行きません。
「自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く」「ある時は日本に擦り寄り、ある時は中国に接近し、中国を捨てると今度はロシアと結んだりと、智謀家ではあったが、倫理が無く」などと形容され、「誰からも支持を得られなかった“彼女“は、外国勢力に頼り、自身の権力欲のために中国を引き入れ、朝鮮を日清戦争の地としたのは“彼女”である」と言われたのは、一瞬、朴槿惠大統領のことかと思ったのではないかと思いますが、日清戦争という言葉から分かる通り、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃である閔妃のことです(前二者は崔基鎬著「韓国 堕落の2000年史」から、後者は朴垠鳳著「わかりやすい朝鮮社会の歴史」から、いずれもWikipediaから)。最近は、韓国専門家からも、朴槿惠大統領の独裁的な性格を閔妃に譬える声が出ているほどで、良くも悪くもお父ちゃんの影響から逃れられないのは分からなくはありませんが、日本政府が言うことには悉く盾突き、アメリカや中国の言うことにしか耳を傾けない頑なさや、世界から孤立することが分かっていながら暴走する最近の彼女の独善的な行動は、そうした理解の枠を超えており、先行きは不透明です。
前書きが長くなりましたが、中国、韓国、ロシアなどのユーラシア諸国と日本を比べる時に、この「競争的」社会観と「協調的」社会観の違いを思わないわけには行きません。前回、前々回と「韓国の成熟」というタイトルで、産経新聞の前ソウル支局長が在宅起訴された問題を、どうにもやりきれない思いで取り上げたわけですが、韓国における表現や言論の自由の扱い、あるいはそのありようが、先進諸国に比べて後れていること、そして、それが相変わらず反日の文脈で利用され歪められているという、ごく当たり前のことを勿体をつけて言ったまででした。どうも言い足りないので、若干補足します。
万里の長城の総延長は、2012年6月、中国の当局によって従来の2倍以上の21,196.18kmと発表されました(現存する人工壁の延長は6,259.6kmだそうですが)。秦の始皇帝に始まると、歴史の授業で習いましたが、既に戦国時代には戦国七雄のすべての国が外敵に備えるために長城を建設していたそうです。城壁ですから、欧州の城塞都市と似たような発想なのでしょうか。いったん唐王朝は長城防衛そのものを放棄したあと、女真族が建国した金の時代に復活しましたが、長城を難なく越えて侵入したモンゴルによって金は滅亡され、モンゴル人の元は長城を築きませんでしたが、南方から興った漢民族の明が元王朝を北方の草原へ駆逐し、それでも首都を南京に置いた朱元璋は長城を復活しませんでしたが、首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した第三代皇帝の永楽帝は長城防衛を復活させ、現存の万里の長城の大部分はその明代に作られたのだとWikipediaにあります。この城壁にかける執念を見れば、中原を巡る民族の興亡の激しさが想像されます。
かつてイザヤ・ベンダサンこと山本七平氏は「日本人とユダヤ人」の中で、日本の歴史を俯瞰して、「日本最大の内乱といえば関ヶ原の戦いだが、この決戦が何と半日で終わっている。戦争というより、大がかりな騎士団のトーナメントである。(中略)付近の農民が、手弁当でそれを見学に出掛けるとあっては、およそ、ユーラシア大陸の戦争には縁が遠い催し物である」「いや、日本にも戦国時代があった。戦乱相つぐ百年があったと言われるかも知れない。しかしあの程度のことなら、中東では、実に三千年もつづいた状態のうち、比較的平穏だった時代の様相にすぎない」と、日本が世界に比べれば実に平和であったと述べておられます。さらに日本の戦国時代のことは、「日本の戦国の角逐が、これ(ブログ注:主にパレスチナとその周辺のことと比較されてのこと)とは根本的にちがうことは(中略)当時日本に来たイエズス会宣教師の手紙をごらんになればよい。西欧も中東もインドも中国も(ということは当時の世界の殆どすべてを)直接に見たか間近に見てきたこれらの人びと、当時には珍しい、ほぼ世界中を直接に見聞した人びとが、戦国の日本のことを何とのべているか。その手紙とパレスチナ周辺の農民とを比べてみれば、少なくとも次のように言えることは確かである。戦国時代の日本は、当時の世界で、最も平和で安全な国の一つであったと」とも述べておられます。
この著作自体は、ユダヤとの比較論で、中東に見る民族興亡の激しさは日本の内乱とは比べものにならないというのが結論です。民族興亡の激しさという意味では、頻度や規模の違いはあれ中国も例外ではなさそうで、そもそも漢民族は西方の遊牧民をルーツとし、中原に定着したものと言われますし、「漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の戸籍に登録されている500万人を切った。この後は(中略)北族の時代を迎え、岡田英弘はこの時点でオリジナルな漢民族は滅亡したと主張している」(Wikipedia)と言われるほど、中国では王朝交代期に人口が激減する殺伐とした歴史を繰り返してきたと主張する研究は多いようです(呉松弟や曹樹基の「中国人口史」など)。物資を略奪し人民を捕虜・抹殺するのにとどまらず、文化をも抹殺し、ご丁寧に王朝毎に歴史を書き換える徹底ぶりは、歴史の授業でも習いました。
韓国は、ユーラシア大陸の東端に位置するとはいえ、陸続きで、常にそんな民族の興亡を繰り返す中国にへばりつき、海を隔てる日本とは比べものにならないほど、その鼓動を間近に感じていたことでしょう。韓国人に言わせれば、海を隔てる日本が羨ましい、ということになります。ドラッカー風に社会生態学的な言い方をしますと、韓国は、常に外敵が襲来する恐怖に備え、緊張感を孕む極めて競争的で不安定な社会だったのに対し、日本は、地震や火山の噴火や台風などの自然災害こそ多く、常に揺らぎがある不安定な土地柄ですが、海という天然の要害に守られて、外敵の襲来はほとんどなく、長い目で見れば極めて安定した、動的平衡を保つ協調的な社会だったと言えます。もしこうした社会観の違いが正しければ、お互いにお互いを理解し合うのは難しそうです。日本人が憲法九条を素直に受け入れて、独立を果たしてもなお自主憲法を制定することなく守り続けたのは、日本史で未曾有の災厄となった大東亜戦争の後だったからだけではなく、また自衛権の一つではありながら集団的自衛権に対する心理的抵抗が根強いのは、リベラルのメディアに煽られているからだけではなく、そもそも日本人には協調的で牧歌的な土壌があるからではないかと思われます。
中国、韓国(及び北朝鮮)、ロシアなど、東アジアの戦略環境の難しさは、「ポスト・モダニズムの迷妄」とその続編「ポスト・モダン考」などのブログをはじめとして、何度となく書いてきました。韓国は、この文脈で言うと、まさにナショナリズムを高揚させ、国家を形成する「近代(国民国家)」の過程にあると言えます(そのため前回、前々回のブログ・タイトルは敢えて「未成熟」とはせず「成熟」としました、非難するのが目的ではありませんし・・・)。中国は、習近平国家主席は中国人民に向かってチャイナ・ドリームと話しかけ、170年以上前の(アヘン戦争での屈辱にまみれる以前の)帝国を志向しており、表向きは「近代(国民国家)」のステージにいるように見えますが、その実、「国民国家」の確立と言うより中国共産党の統治を正当化することが第一義という意味で、従い、「国民に向かって」ではなく「中国人民に向かって」語りかける、と書くのが相当のように、「国民国家」の名に値せず、議論のあるところでしょう。それはともかく、韓国の、どうにも日本の理解の埒外にある国柄は、こうした歴史の位相の違いのほかに、日本に対する民族の記憶(前回触れました)や、競争的な戦略環境など、いろいろな要素が混ざっていそうです。
最後にもう一つ、やはり朴槿惠大統領自身の性格からくる影響も考えないわけには行きません。
「自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く」「ある時は日本に擦り寄り、ある時は中国に接近し、中国を捨てると今度はロシアと結んだりと、智謀家ではあったが、倫理が無く」などと形容され、「誰からも支持を得られなかった“彼女“は、外国勢力に頼り、自身の権力欲のために中国を引き入れ、朝鮮を日清戦争の地としたのは“彼女”である」と言われたのは、一瞬、朴槿惠大統領のことかと思ったのではないかと思いますが、日清戦争という言葉から分かる通り、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃である閔妃のことです(前二者は崔基鎬著「韓国 堕落の2000年史」から、後者は朴垠鳳著「わかりやすい朝鮮社会の歴史」から、いずれもWikipediaから)。最近は、韓国専門家からも、朴槿惠大統領の独裁的な性格を閔妃に譬える声が出ているほどで、良くも悪くもお父ちゃんの影響から逃れられないのは分からなくはありませんが、日本政府が言うことには悉く盾突き、アメリカや中国の言うことにしか耳を傾けない頑なさや、世界から孤立することが分かっていながら暴走する最近の彼女の独善的な行動は、そうした理解の枠を超えており、先行きは不透明です。