ある雑誌に、英エコノミスト誌の記事が紹介されていた。タイトル“The uses of history”(歴史の効用(と言うより利用))、サブ・タイトル“Asian views of Japan’s 20th-century expansionism are not all negative”つまり日本の20世紀の拡張主義に対するアジアの見方は必ずしも全てがネガティブというわけではない、と言うので、一ヶ月以上も前のもの(8/29付)だったが、あらためて原文に当たって読んでみた。
親日で知られる李登輝氏(元・台湾総統)が、馬英九氏(現総統)が日本の敗戦70周年を記念するのを、「日本に嫌がらせし、中国のご機嫌をとる(harass Japan and curry favour with China)」ものと批判し、台湾の若者は日本に対して戦ったのではなく、日本のために戦ったのだと述べたことに対し、馬英九総統は逆に李登輝氏に対し批判の声をあげ、中国のメディアも「馬鹿げた発言」と罵声を浴びせたが、エコノミスト紙は、歴史的に見て李登輝氏こそ的を射ていると述べる。そして李登輝氏の見解は台湾では普通であり、アジア全体で見ても、日本の植民地の歴史について(一方的に断罪するのではない)両義的(アンビバレント)な感情がごく普通に見られるとする。そして、東南アジアで、日本の罪の意識や反省が(中・韓ほど)問題にならないのは、日本の侵略が過酷であっても、歴史的には西洋の植民地時代と独立までの短い間合いで起こったからであり、更に日本は援助国、貿易相手国、投資国であり、最近は台頭する中国に対する潜在的な同盟国でもあるからで、仲良くしない手はないと言う。対照的に、中国共産党は、対日闘争を、自らの統治の正統性を主張するのに利用し、かつて階級闘争が演じた役割をナショナリズムに担わせているし、韓国のナショナリズムも反日を基礎に形成されていると言う。
同誌は、日本の戦争を(恐らく、西欧の植民地主義を終わらせた恨み辛みで以て)断罪する論調を一貫して掲げて来たとされるが、たまには公平な見方をすることもあるようだ。こうした歴史認識についての冷静な記事を読み、またこの夏の70年談話や安保法制を巡る一連の喧騒を振り返るにつけ、日本人自身が先の戦争を総括して来なかったツケを、今、払わされているのだとつくづく思う。
一部の識者が言ったように、本来、東西冷戦が終わったときにこそ、その軛から放たれた日本は自ら先の戦争を総括し、PKOを通した世界の平和や地域の安定への貢献も含めて、日本の安全保障のありようを議論し、その結果として法整備を(ひいては憲法改正を)検討すべきだったのだと、今さらながら思う。実際、東西冷戦が終結して、ソ連の脅威に代わって俄かに日本がアメリカにとって最大の脅威になったと回顧するアメリカ人戦略家がいる。そしてそのとき日米安保の必要性があらためて議論の俎上に載ったというのである。それが、今頃になって、つまりソ連崩壊から四半世紀が経ち、また21世紀も15年が経ち、中国が韜光養晦という伝統的な外交方針をかなぐり捨てて経済的のみならず政治的にも台頭し、韓国も力をつけるにつれて妙な自信もつけ、彼らの中で華夷秩序が復権し、日本との関係がぎくしゃくするようになって、あらためて国内ですら憲法9条違反との批判が巻き起こるほどの集団的自衛権論争でこれら近隣国との間に余計な波風を立て、日米ガイドライン改訂とそれを実現するための安保関連法整備にやおら着手したのは、明らかに時機を逸したものだったと思う。間が悪いったらありゃしない。
先日、開戦時と終戦時の外務大臣(東郷茂徳氏)を祖父にもつ元外交官の東郷和彦氏の講演を聞いた。この夏の70年談話を巡る議論では「侵略性」がひとしきり話題になったが、日本を「侵略者」と決めつけるのは正しくない、正確には、日本はアジアでは侵略者だが、英・米・蘭との間では帝国主義同士で対等であり、ソ連との間では被害者である、と分けて分析されて、なるほどと唸らされた。私なりにアジアの部分を言い換えあるいは付け加えるならば、アジアの中でも、満州事変では侵略者呼ばわりされ(英・米の策動や国際共産主義が暗躍したことは事実であろう)、シナ事変には巻き込まれ、(誤解を恐れずに言うなら)東南アジアを戦場とした(だから、先のエコノミスト誌記事でも、植民地支配の宗主国が英・蘭・仏から日に変わっただけのようなニュアンスで書かれた)というのが実態ではなかったかと思う。今からでも遅くないので、国民をあげて大いに議論すべきだと思う。
親日で知られる李登輝氏(元・台湾総統)が、馬英九氏(現総統)が日本の敗戦70周年を記念するのを、「日本に嫌がらせし、中国のご機嫌をとる(harass Japan and curry favour with China)」ものと批判し、台湾の若者は日本に対して戦ったのではなく、日本のために戦ったのだと述べたことに対し、馬英九総統は逆に李登輝氏に対し批判の声をあげ、中国のメディアも「馬鹿げた発言」と罵声を浴びせたが、エコノミスト紙は、歴史的に見て李登輝氏こそ的を射ていると述べる。そして李登輝氏の見解は台湾では普通であり、アジア全体で見ても、日本の植民地の歴史について(一方的に断罪するのではない)両義的(アンビバレント)な感情がごく普通に見られるとする。そして、東南アジアで、日本の罪の意識や反省が(中・韓ほど)問題にならないのは、日本の侵略が過酷であっても、歴史的には西洋の植民地時代と独立までの短い間合いで起こったからであり、更に日本は援助国、貿易相手国、投資国であり、最近は台頭する中国に対する潜在的な同盟国でもあるからで、仲良くしない手はないと言う。対照的に、中国共産党は、対日闘争を、自らの統治の正統性を主張するのに利用し、かつて階級闘争が演じた役割をナショナリズムに担わせているし、韓国のナショナリズムも反日を基礎に形成されていると言う。
同誌は、日本の戦争を(恐らく、西欧の植民地主義を終わらせた恨み辛みで以て)断罪する論調を一貫して掲げて来たとされるが、たまには公平な見方をすることもあるようだ。こうした歴史認識についての冷静な記事を読み、またこの夏の70年談話や安保法制を巡る一連の喧騒を振り返るにつけ、日本人自身が先の戦争を総括して来なかったツケを、今、払わされているのだとつくづく思う。
一部の識者が言ったように、本来、東西冷戦が終わったときにこそ、その軛から放たれた日本は自ら先の戦争を総括し、PKOを通した世界の平和や地域の安定への貢献も含めて、日本の安全保障のありようを議論し、その結果として法整備を(ひいては憲法改正を)検討すべきだったのだと、今さらながら思う。実際、東西冷戦が終結して、ソ連の脅威に代わって俄かに日本がアメリカにとって最大の脅威になったと回顧するアメリカ人戦略家がいる。そしてそのとき日米安保の必要性があらためて議論の俎上に載ったというのである。それが、今頃になって、つまりソ連崩壊から四半世紀が経ち、また21世紀も15年が経ち、中国が韜光養晦という伝統的な外交方針をかなぐり捨てて経済的のみならず政治的にも台頭し、韓国も力をつけるにつれて妙な自信もつけ、彼らの中で華夷秩序が復権し、日本との関係がぎくしゃくするようになって、あらためて国内ですら憲法9条違反との批判が巻き起こるほどの集団的自衛権論争でこれら近隣国との間に余計な波風を立て、日米ガイドライン改訂とそれを実現するための安保関連法整備にやおら着手したのは、明らかに時機を逸したものだったと思う。間が悪いったらありゃしない。
先日、開戦時と終戦時の外務大臣(東郷茂徳氏)を祖父にもつ元外交官の東郷和彦氏の講演を聞いた。この夏の70年談話を巡る議論では「侵略性」がひとしきり話題になったが、日本を「侵略者」と決めつけるのは正しくない、正確には、日本はアジアでは侵略者だが、英・米・蘭との間では帝国主義同士で対等であり、ソ連との間では被害者である、と分けて分析されて、なるほどと唸らされた。私なりにアジアの部分を言い換えあるいは付け加えるならば、アジアの中でも、満州事変では侵略者呼ばわりされ(英・米の策動や国際共産主義が暗躍したことは事実であろう)、シナ事変には巻き込まれ、(誤解を恐れずに言うなら)東南アジアを戦場とした(だから、先のエコノミスト誌記事でも、植民地支配の宗主国が英・蘭・仏から日に変わっただけのようなニュアンスで書かれた)というのが実態ではなかったかと思う。今からでも遅くないので、国民をあげて大いに議論すべきだと思う。