巨人の阿部慎之助選手が、13日の広島戦で、通算2000安打をマークした。日本プロ野球史上49人目の快挙である(なんとなく最近は試合数も増えたし指名打者制もあって、投手に比して打者が有利で多い気がすると思って調べてみたら、投手26人に対して打者53人らしい、但しこれは名球会在籍者数とは異なり、日米通算を含む数字)。
巨人の生え抜き選手では、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、柴田勲に次いで5人目だという。この大先輩4人は全て監督まで経験した名選手であり、その域に達したのかと思うと感慨深い(実に37年振りということだが、確かに4人は巨人のV9を支えた監督と選手たちだ)。また、駒田や松井のように野球人生の半分を巨人で過ごして他球団に移籍してから達成した選手や、落合や清原や小笠原のように他球団出身で巨人に在籍中に達成した選手もいる中で、モノは考えようだが巨人一筋、生え抜き達成は幸せなことだとしみじみ思う。
阿部慎之助と言えば、巨人の第18代主将(2007年~2014年)であり、日本プロ野球史上3位の年俸6億円プレーヤー(2014年)であって、2000安打以前に既に押しも押されぬ大選手なのだが、彼らしい弾丸ライナーの鋭さや野球技術的なところは言うまでもなく、何より野球に向かうひたむきさや(今では珍しいかも知れない)体育会系ならではのケジメある明るさや(勝負強さとも結びつく)頼りがいある存在であるところには、大いに人を惹きつけるものがある。そんな印象を形成した足跡を辿ってみた。
父・東司氏はあの掛布雅之と習志野高校で同期で、掛布とクリーンナップを組み、掛布が3番、父上が4番を打ち、甲子園出場経験があるそうである。そんな血をひく彼の安田学園3年時から中央大学の4年間を含めて計5年間を追いかけたという、阿部の担当スカウトだった中村和久氏は、初めて阿部を見た高校3年春を振り返って、「前年の夏から2年生捕手として注目されていた。スイングがとにかく速くて、右中間、左中間にライナーで運ぶ姿が印象に残っている。捕手としても肩が強くて、様になっているなと。そういう印象でしたね」と言うのは、まさに今のイメージと重なり感慨深い。大学時代、「慎之助は野球道具をきっちり並べて、グラウンドでは常に先頭で全力疾走。野球への取り組みも素晴らしかった。中大での4年間、ずっと変わらなかった」と回想するのも、彼らしさが伝わって来る。長嶋茂雄監督(当時)は野手を獲得する際、「プロでタイトルを獲れるか?」と上位指名の基準は高かったというが、中村氏は球団幹部に「プロでクリーンアップを打てる。打撃タイトルも獲る」と進言したという(以上はスポニチ記事から、以下はWikipediaから)。
2000年のドラフト1位(逆指名)で巨人入りし、2001年3月30日の阪神との開幕戦、巨人では山倉和博以来23年ぶりとなる「新人捕手開幕スタメン」として先発出場(8番・捕手)し、初打席・初安打・初打点を含む4打点を挙げる活躍を見せて、いきなり勝負強さを発揮した。翌2002年、シーズン後半から高橋由伸の故障に伴い3番打者に起用され、8月の3度を含む4度のサヨナラ打を記録して、「サヨナラ慎ちゃん」と呼ばれるようになる(懐かしい・・・)。
2004年は当たり年で、4月9日から16日にかけて6試合連続本塁打、4月28日には3本塁打を放ち、4月に放った16本塁打は王貞治の球団記録を更新した(1981年の門田博光、1994年の江藤智と並ぶ日本タイ記録)。5月12日にはマーク・マグワイアが1998年に記録した従来の世界記録である「開幕35試合目での20本塁打」を2試合更新する「開幕33試合目での20本塁打」なる珍記録?まで生まれた。残念ながらこの後ペースは失速し、シーズン33本塁打に終わったが、巨人所属捕手として球団史上初の30本塁打、規定打席到達で自身初の打率3割を記録した。
2007年にはチームの主将に任命されるとともに、6月9日の楽天戦では「球団史上第72代目4番打者」となり(この日、2本塁打5打点と活躍)、名実ともにチームの柱となる記念すべき年となった。
記録については、2010年に44本の本塁打を放ち、捕手として野村克也・田淵幸一に次ぐ史上3人目のシーズン40本塁打を記録したのをはじめ、2012年には初のタイトルである首位打者(.3404は、1991年に古田敦也が記録した.3398を上回る捕手としての最高記録)と打点王(両リーグで唯一100を超える104打点)の「2冠」に輝き、更に最高出塁率(.429は両リーグでトップ)のタイトルも獲って、セ・リーグ最優秀選手に選ばれた。ベストナインやゴールデングラブ賞には2014年まで選ばれているが、成績はこの年(33歳)がピークだったようで、実際、月間MVPに三度選ばれ、三振数は規定打席到達者の中でリーグ最少、また、264塁打、8犠飛、6敬遠、OPS.994はリーグ・トップ、そして長打率.565は両リーグ・トップと、記録づくめだった。総合評価指標WARにおいて、2012年、2013年にはそれぞれ9.7、8.4といずれも両リーグNo.1の数値を記録している。
2014年以後は、怪我や不振に泣かされる。一塁手として出場することもあり、この年オフに捕手から一塁手へコンバートされ、2015年開幕から一塁手として出場した(が、相川亮二が故障で離脱したこともあり急遽4月3日には捕手に復帰)。2016年に就任した高橋由伸監督の方針で再び捕手登録に戻るが、オープン戦で肩に違和感を感じて登録抹消され、開幕は二軍で迎えた。7月8日から8月10日まで23試合連続安打という、自己最長を記録したりもしたが、この年は一塁手または指名打者として試合に出場し続け、最終的にプロ入り後初めて捕手としての出場を果たせなかったシーズンとなった(以上Wikipedia)。
入団当時の巨人編成部長だった末次利光氏は、「活躍は予想していた。アマチュア時代から、攻守両方を兼ね備えた選手だったが、なにより、精神的に強かった。いい意味で図太い。プレッシャーを楽しむことができる心の強さが、巨人軍の生え抜きの選手としてこれだけ活躍できる理由ではないか」と分析している(読売新聞)。
長嶋終身名誉監督は、「バッティングは大学時代からの評判通り、非凡なものを持っていました。一方で捕手としてのリード面は、プロとして経験を積む必要があると判断し、1年目から少々の失敗には目をつぶって起用し続けました。本人が努力を重ねた結果、みなさんご存じのように打者としても捕手としても、巨人軍の歴史、そしてプロ野球を代表するような選手に成長しました。それだけに今回の記録の達成は、私としても大変感慨深いものがあります」と語っている(スポニチ)。本人も捕手というポジションへのこだわりがあったようで、2005年オフに原辰徳監督から一塁手へのコンバートを勧められたが、捕手として勝負したいと辞退したという(Wikipedia)。2000安打達成後のインタビューでは、これまでの17年間で苦しかったことを問われて、「たくさんありすぎて分かりませんが、首、肩がダメでキャッチャーをできなくなったことですかね。キャッチャーをやりながら打ちたかったですが、こういう道を僕と考えてくれたおやじと原監督には、すごく感謝しています」と答えている(日刊スポーツ)。
守備への負担が大きい捕手というポジションをもっと早くに離れていれば打者としての記録はもっと伸ばしていたかも知れないが、捕手じゃない阿部慎之助というのは考えにくいのも事実だ。もう捕手の守備につくことはないと思うが、もう少し彼の雄姿を眺めていたい。
巨人の生え抜き選手では、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、柴田勲に次いで5人目だという。この大先輩4人は全て監督まで経験した名選手であり、その域に達したのかと思うと感慨深い(実に37年振りということだが、確かに4人は巨人のV9を支えた監督と選手たちだ)。また、駒田や松井のように野球人生の半分を巨人で過ごして他球団に移籍してから達成した選手や、落合や清原や小笠原のように他球団出身で巨人に在籍中に達成した選手もいる中で、モノは考えようだが巨人一筋、生え抜き達成は幸せなことだとしみじみ思う。
阿部慎之助と言えば、巨人の第18代主将(2007年~2014年)であり、日本プロ野球史上3位の年俸6億円プレーヤー(2014年)であって、2000安打以前に既に押しも押されぬ大選手なのだが、彼らしい弾丸ライナーの鋭さや野球技術的なところは言うまでもなく、何より野球に向かうひたむきさや(今では珍しいかも知れない)体育会系ならではのケジメある明るさや(勝負強さとも結びつく)頼りがいある存在であるところには、大いに人を惹きつけるものがある。そんな印象を形成した足跡を辿ってみた。
父・東司氏はあの掛布雅之と習志野高校で同期で、掛布とクリーンナップを組み、掛布が3番、父上が4番を打ち、甲子園出場経験があるそうである。そんな血をひく彼の安田学園3年時から中央大学の4年間を含めて計5年間を追いかけたという、阿部の担当スカウトだった中村和久氏は、初めて阿部を見た高校3年春を振り返って、「前年の夏から2年生捕手として注目されていた。スイングがとにかく速くて、右中間、左中間にライナーで運ぶ姿が印象に残っている。捕手としても肩が強くて、様になっているなと。そういう印象でしたね」と言うのは、まさに今のイメージと重なり感慨深い。大学時代、「慎之助は野球道具をきっちり並べて、グラウンドでは常に先頭で全力疾走。野球への取り組みも素晴らしかった。中大での4年間、ずっと変わらなかった」と回想するのも、彼らしさが伝わって来る。長嶋茂雄監督(当時)は野手を獲得する際、「プロでタイトルを獲れるか?」と上位指名の基準は高かったというが、中村氏は球団幹部に「プロでクリーンアップを打てる。打撃タイトルも獲る」と進言したという(以上はスポニチ記事から、以下はWikipediaから)。
2000年のドラフト1位(逆指名)で巨人入りし、2001年3月30日の阪神との開幕戦、巨人では山倉和博以来23年ぶりとなる「新人捕手開幕スタメン」として先発出場(8番・捕手)し、初打席・初安打・初打点を含む4打点を挙げる活躍を見せて、いきなり勝負強さを発揮した。翌2002年、シーズン後半から高橋由伸の故障に伴い3番打者に起用され、8月の3度を含む4度のサヨナラ打を記録して、「サヨナラ慎ちゃん」と呼ばれるようになる(懐かしい・・・)。
2004年は当たり年で、4月9日から16日にかけて6試合連続本塁打、4月28日には3本塁打を放ち、4月に放った16本塁打は王貞治の球団記録を更新した(1981年の門田博光、1994年の江藤智と並ぶ日本タイ記録)。5月12日にはマーク・マグワイアが1998年に記録した従来の世界記録である「開幕35試合目での20本塁打」を2試合更新する「開幕33試合目での20本塁打」なる珍記録?まで生まれた。残念ながらこの後ペースは失速し、シーズン33本塁打に終わったが、巨人所属捕手として球団史上初の30本塁打、規定打席到達で自身初の打率3割を記録した。
2007年にはチームの主将に任命されるとともに、6月9日の楽天戦では「球団史上第72代目4番打者」となり(この日、2本塁打5打点と活躍)、名実ともにチームの柱となる記念すべき年となった。
記録については、2010年に44本の本塁打を放ち、捕手として野村克也・田淵幸一に次ぐ史上3人目のシーズン40本塁打を記録したのをはじめ、2012年には初のタイトルである首位打者(.3404は、1991年に古田敦也が記録した.3398を上回る捕手としての最高記録)と打点王(両リーグで唯一100を超える104打点)の「2冠」に輝き、更に最高出塁率(.429は両リーグでトップ)のタイトルも獲って、セ・リーグ最優秀選手に選ばれた。ベストナインやゴールデングラブ賞には2014年まで選ばれているが、成績はこの年(33歳)がピークだったようで、実際、月間MVPに三度選ばれ、三振数は規定打席到達者の中でリーグ最少、また、264塁打、8犠飛、6敬遠、OPS.994はリーグ・トップ、そして長打率.565は両リーグ・トップと、記録づくめだった。総合評価指標WARにおいて、2012年、2013年にはそれぞれ9.7、8.4といずれも両リーグNo.1の数値を記録している。
2014年以後は、怪我や不振に泣かされる。一塁手として出場することもあり、この年オフに捕手から一塁手へコンバートされ、2015年開幕から一塁手として出場した(が、相川亮二が故障で離脱したこともあり急遽4月3日には捕手に復帰)。2016年に就任した高橋由伸監督の方針で再び捕手登録に戻るが、オープン戦で肩に違和感を感じて登録抹消され、開幕は二軍で迎えた。7月8日から8月10日まで23試合連続安打という、自己最長を記録したりもしたが、この年は一塁手または指名打者として試合に出場し続け、最終的にプロ入り後初めて捕手としての出場を果たせなかったシーズンとなった(以上Wikipedia)。
入団当時の巨人編成部長だった末次利光氏は、「活躍は予想していた。アマチュア時代から、攻守両方を兼ね備えた選手だったが、なにより、精神的に強かった。いい意味で図太い。プレッシャーを楽しむことができる心の強さが、巨人軍の生え抜きの選手としてこれだけ活躍できる理由ではないか」と分析している(読売新聞)。
長嶋終身名誉監督は、「バッティングは大学時代からの評判通り、非凡なものを持っていました。一方で捕手としてのリード面は、プロとして経験を積む必要があると判断し、1年目から少々の失敗には目をつぶって起用し続けました。本人が努力を重ねた結果、みなさんご存じのように打者としても捕手としても、巨人軍の歴史、そしてプロ野球を代表するような選手に成長しました。それだけに今回の記録の達成は、私としても大変感慨深いものがあります」と語っている(スポニチ)。本人も捕手というポジションへのこだわりがあったようで、2005年オフに原辰徳監督から一塁手へのコンバートを勧められたが、捕手として勝負したいと辞退したという(Wikipedia)。2000安打達成後のインタビューでは、これまでの17年間で苦しかったことを問われて、「たくさんありすぎて分かりませんが、首、肩がダメでキャッチャーをできなくなったことですかね。キャッチャーをやりながら打ちたかったですが、こういう道を僕と考えてくれたおやじと原監督には、すごく感謝しています」と答えている(日刊スポーツ)。
守備への負担が大きい捕手というポジションをもっと早くに離れていれば打者としての記録はもっと伸ばしていたかも知れないが、捕手じゃない阿部慎之助というのは考えにくいのも事実だ。もう捕手の守備につくことはないと思うが、もう少し彼の雄姿を眺めていたい。