風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

はやぶさ君ふたたび

2010-06-17 01:06:22 | 時事放談
 「はやぶさ後継機」の開発のため、文部科学省は今年度予算で約17億円を概算要求していましたが、政権交代に伴う歳出見直しで5000万円に減額された上、昨年11月の事業仕分けで更に3000万円にまで減額されていたことが判明しました。
 それだけなら、ああ、やっぱりと、事業仕分けはこの程度の見識かと、もう一段、評価を地に落として終わるところでしたが、それでも予算という事業仕分けの評価軸を守り通すことが出来たはずでした。ところが、「はやぶさ君」人気が全国で沸騰したばかりに、蓮舫行政刷新担当相は、昨年11月の事業仕分けの判定を再検討する考えを示したそうで、世間の評判にやすやすとおもねる姿勢は、事業仕分けの評価軸すらも壊しただけでなく、民主党政権の性格そのものがポピュリズムに堕し易い欠陥をはしなくも露呈してしまったと思います。
 もはや事業仕分けは、パフォーマンスですらもなくなってしまいました。
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W杯番狂わせ

2010-06-16 00:55:25 | スポーツ・芸能好き
 嬉しい番狂わせでした。いまひとつ波に乗り切れないカメルーンに助けられましたが、数少ないチャンスを見事にものにした日本が、貴重な一勝を挙げました。
 前半39分のことでした。家族が寝静まった後の、深夜の鮮やかなパス・ワークに、思わず歓喜のガッツポーズで、誰もが押し殺した雄叫びをあげたことでしょう。あれから丸一日の間に、何度、繰り返し見たことか。キーパー川島が蹴り上げたボールを受けた本田が遠藤へ、更に遠藤からの長いパスを受けた右サイドの松井が、切り返しのフェイントを入れて相手のズレを誘い、絶妙な右クロスを、ゴール前で待ち構える大久保にカメルーンのDFが食らい付く隙を突いて、バックに回った本田が受けて、一呼吸置いて冷静にゴール。
 後半は相当力で押し込まれましたが、カメルーンにはいつものキレがなく、体力のない日本でもぎりぎりのところで組織力で持ち堪え、粘り勝ちしました。
 土曜日のオランダ戦が俄然人気を呼んで、JTBは急遽1泊4日ツアーを復活募集したといいますから、現金なものです。岡田監督は、さんざん叩かれ続け、期待されて来なかった恨みつらみもあるかも知れませんが、WBCの原監督と比べると如何にも陰気に映りますし、スタイルの違いとは言え表現力にも劣ります(だからと言って長嶋さんのような意味不明を口走って良いものでもありませんが)。いずれにしても、前日のはやぶさ君と言い、サムライ・ジャパンと言い、久しぶりに元気が出るニュースが続き、寝不足続きでも気分が良い二日間でした。
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はやぶさ君

2010-06-15 02:33:43 | 時事放談
 久しぶりに日本の科学技術の健在ぶりを目の当たりにして胸が熱くなりました。2003年5月9日に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」は、2005年11月、地球から3億キロ離れた小惑星イトカワへ着陸し、数々のトラブルに見舞われ、予定されていた2007年夏より3年近く遅れながら、60億キロの宇宙の旅を終え、昨6月13日夜、地球に無事帰還し、内臓カプセルを切り離してオーストラリアのウーメラ砂漠に落とし、自らは燃え尽きました。その潔さもまた感涙ものです。
 世界の惑星探査史上、月以外の天体に着陸した探査機が地球に戻って来たのは初めてのことで、自律的な判断能力を備えてロボットの性格を持つ「はやぶさ」の成果には目覚ましいものがあります。新技術のイオン・エンジンの開発を主導したのはNECで、地球の重力を利用して軌道の方向や速度を変える地球スイングバイを世界で初めて成功させ、自律航行の技術を実証し、運転継続時間も大幅に記録を更新しました。内臓カプセルを担当したのはIHIエアロスペースで、スペースシャトルの1・5倍に相当する秒速12キロ以上で大気圏に飛び込む時、カプセルの周囲の空気は1万~2万度になるとみられ、急激な減速によって受ける力は重力の50倍に達するため、要求される性能は高く、何度も試験を繰り返したと伝えられます。
 そんな2メートル角に満たない小さな「はやぶさ」は、いつの間にか擬人化され、小惑星「イトカワ」の岩石を採取して地球に持ち帰るという「おつかい」ロボットとして、成功するかどうかがネットでも話題になりました。人気にひと役買ったのは、JAXA研究員と会津大学准教授が描いたキャラクター「はやぶさ君」で、エンジン4基のうち3基が故障した上、姿勢を制御する装置3台のうち2台も故障し、地球との通信が7週間途絶えながらも乗り越えていく姿を描いた「はやぶさ君の冒険日誌」がJAXAのホームページに掲載され、人気を博したそうです。動画サイトでは、「はやぶさ」をテーマにした個人制作のアニメや楽曲も人気らしい。
 民主党の事業仕分けでは、次世代スーパー・コンピューターの開発を巡って「どうして世界2位ではだめなのか」という耳を疑うような不見識な発言が飛び出し、飽くまで予算という視点でしか見ることがなかった事業仕分けの限界を曝け出したとともに、蓮舫議員は大いに評価を下げてしまいました。科学技術に「世界2位」はあり得なくて、夢やロマンを追い求める側面もあることを、今回、多くの人があらためて思い出したことと思います。
 JAXAは、後継機「はやぶさ2(仮称)」の開発を計画し、別の小惑星から有機物を含む岩石試料を持ち帰り、生命の起源に迫ると意気込むそうですが、とりわけ子供たちに、再び科学の夢を見せて欲しいと思います。
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W杯開催地アフリカ

2010-06-12 20:53:51 | 永遠の旅人
 ワールドカップが開幕しました。私は子供の頃から野球派で、サッカーには詳しくなくて、Jリーグ設立の熱狂からも無縁でしたが、それでも一億総評論家で、ごくあたり前に日本チームの苦戦を予想しつつ、活躍を密かに期待しています。
 このたびの開催地アフリカは、遠い存在です。実はアフリカと日本との関係は古く、桃山時代の狩野内膳筆による「南蛮屏風」にはアフリカ人奴隷が描かれていますし、そうした奴隷の中から、弥介という名前をもらって、織田信長の家来になった人もいました。天正の遣欧少年使節団は、ローマへの往復で、モザンビークにあるポルトガルの城砦に寄航し、嵐のせいで半年間滞在しています。
 私にとってのアフリカは、大阪万博や「素晴らしい世界旅行」などで見聞きして以来、知識はそれほど増えていません。それでもどこか遠くないイメージを持っているのは、従兄の一人が、万博前後の1960年代~70年代に、アフリカに渡って貿易に従事していたからかも知れません(私にはこうした放浪の血が流れているのかも)。今では聴いた話の殆どを忘れてしまいましたが、毎晩、枕の下に拳銃を隠し持っていて、命からがら日本に逃げ帰って来たということだけは、子供心に頭にこびりついています。シエラレオネや象牙海岸(今のコートジボワール)といった国から、家族宛に送られた絵葉書を見せてもらったことがありますが、日本の切手が四角四面であるのと対照的に、三角形やダイヤモンド型など形も様々、色とりどりだったことと、素朴なアフリカの人々の姿や、青い海などの素朴な自然が、鮮明に記憶に残っていて、外国に興味を向けるきっかけの一つになったのだろうと、今にして思います。
 現在、アフリカは53の独立国を抱えますが、ワールドカップが開催されることになったのは、仏領を中心とする17ヶ国もの国が独立した「アフリカの年(1960年)」から50年の節目を迎えることと無縁ではないでしょう。しかしアフリカ諸国は独立後も政情不安で、部族対立による内戦やクーデターが絶えませんし、先進国との経済格差が広がる南北問題や、発展途上国の中でも産油国と非産油国との間で経済格差が広がる南南問題は今なお続いています。
 市場調査会社や当社をはじめとして民間企業が世界市場を分ける時には、EMEA(Europe, Middle East and Africa)として、かつての宗主国だったヨーロッパ諸国とひと括りにされますが、最近は、中国による資源外交に席巻され、中国やアメリカとの交易が増えていると言います。日本の影は薄いのかと言えば、マンデラ元大統領が27年間の投獄生活を終えて初めて乗り込んだ車はトヨタだったそうですし、同社の南アフリカへの工場建設は1966年とブラジルと並んで早い時期に行われ、今も25%前後の圧倒的なシェアを誇り、30年間トップの座にあるそうです。東アフリカに行くと、見かける車の9割は日本の中古車が占め、地元の人たちが普段利用するミニバスの多くはトヨタや日産のバンが使われているので、このタイプの車を「ニッサン」と呼ぶ人もいるぐらいの浸透度だそうです。
 植民地時代の「惜しみなく与える」ばかりで貧困に喘いで来た時代から、対等のパートナーとして自立出来るよう見守って行く必要がりますし、少子化で人口が増えない先進国をよそに、遅れてきた新興国群として、今後、世界市場での比重が増して行きそうで、目が離せません。
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井戸端会議

2010-06-10 23:52:30 | 日々の生活
 それにしても日本人は、ワイドショーやバラエティ番組好きです。週末、ぼんやりテレビを見ていて、そう思いました。
 海外でもクイズ番組はありますし、討論番組や、コンテスト番組(ダンス・コンテストや筋肉番付もどき)を好みます。アメリカは「クイズ100人に聞きました」や「ファニー・ビデオ」の本家ですし、イギリスは「タレント・スカウト・キャラバン」の本家ですが、バラエティ番組のようなものは余り見かけないように思います。ところが日本では、週日はワイドショー、週末はバラエティ番組が花盛り。買い物情報、グルメ情報、芸能情報、映画・演劇情報、その他お得情報満載で、はたまたゲストを呼んで近況や生い立ちを聞き出したり、お笑いを交え、ニュース解説まで加えて、ワイドショーやバラエティ番組と呼び習わしますが、その実、こうした情報番組はいわばTV版の井戸端会議とでも呼んでもよいもので、日本で独特の発展を遂げているように思います。
 こうして見ると、本当に日本人は井戸端会議が好きなのですね。もっともスタイルは違いますが、欧米人だってパーディ好きではありますが。
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ナパ・バレー

2010-06-10 02:13:57 | 永遠の旅人
 今日のニュースに、懐かしい地名を見つけました。石田純一さんと東尾理子さんが、アメリカ・カリフォルニア州ナパ・バレーのワイナリーで結婚式を挙げたそうです。さすがに石田純一さんのやることは気障、否、お洒落ですね。
 ナパ・バレーは、カリフォルニア・ワインの産地として有名で、サン・フランシスコから北東方向へ車で約40分、州都サクラメントとのほぼ中間に位置する渓谷です。内陸性の暑い気候に、サン・フランシスコ湾からアラスカ海流の冷たい海風が流れ込んで、寒暖の差が激しくなり、この土地の起伏の変化と相俟って、葡萄の果実に複雑な味わいを増すのに上手く作用しているようです。HPによると、最初に住みついたのはインディアンのワポ族で、「ナパ」は「豊潤の地」を意味し、河川には産卵のために上ってきた鮭が溢れ、(中略)、平地にはワイルドキャット、エルク、黒熊、グリズリーベアーが自由奔放に動き回り、野生の葡萄も豊かに実っていたそうです(http://www.napawine.jp/home/index.aspx)。そして、商業ベースの葡萄栽培が始まったのは1836年のことで、今では一帯に325ものワイナリーが散在します。実はナパは、カリフォルニア・ワインの耕作面積で10%、生産量で4%程を占めるに過ぎないと、今日、初めて知りましたが、私のイメージの中でカリフォルニア・ワイン=ナパなだけでなく、一般にナパが有名なのは、生産量が少ないながらも優良プレミアムワインの宝庫だからです。
 私もかつてワインのテイスティングのツアーを楽しんだことがあり(つまりワイナリーをハシゴしてワインを試飲します)、カリフォルニア・ワインで最上位クラスに挙げられるOpus Oneは、今なお、私がこれまで飲んだワインの中で最上位クラスに位置します(日本ではフランス・ワインが圧倒的に有名で、美味しいワインも圧倒的に多いはずですが、値段も圧倒的に高いので、私自身が敬遠しているせいもあります)。そのほか、アメリカ滞在中は、カリフォルニア・ワインの元祖ともいうべきRobert Mondaviや、最も古い歴史を誇るSIMI、当時は設立されて15年にしかならなかったFrog’s Leap(今では一番人気らしい)を楽しんだものでした。
 ナパが文字通り渓谷であるのは、11年前に彼の地で行われたマラソン大会を走ってみて分かりました。マラソン・コースは、当時も今も、北の端、カリストガという山際の街から、幹線29号と並行する裏街道のシルベラド通りを、南の端、ナパ市街に至る、短路42キロの緩やかな下りで、これら幹線29号やシルベラド通りはまさに山あいを縫うように走ります。ゴール付近には、喉が渇いたランナーのために、土地柄、ワインの試飲コーナーがあって驚かされましたが、私の身体はひたすら甘いジュースを欲しがったのを、今でも恨めしく思い出します。当時の完走者1600名、今年3月に行われた32回大会でも完走者も1700名余りと、11年経った今なお変わらず小ぢんまりとしたローカルな大会ですが、観光がてら走ってみるのも面白いのではないでしょうか(http://www.napavalleymarathon.org/)。
 石田純一さんたちの結婚の話に戻ります。テレビで、石田さんの、幸せさでだらしないくらいにふやけた様子を見ていると、いくつになっても「恋は盲目」ということを思い知らされます。因みに、この言葉を調べてみると、シェイクスピアの「ベニスの商人」が出所のようです。
 ・・・But love is blind, and lovers cannot see the pretty follies that themselves commit.(しかし、恋は盲目であり、恋人たちは自分たちが犯す愚行に気づかない。)
 オメデタイなあ、と半ば白けつつ、もう半分では羨ましくもあった、というのが大方の見方だったのではないでしょうか。なにはともあれ、オメデトウゴザイマス・・・
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官に頼らせない菅の政治

2010-06-09 00:33:48 | 時事放談
 本日、菅内閣が発足しました。市民運動出身の菅総理大臣のもと、自民党所属経験がない党役員人事と、小沢さん色を極力排した閣僚人事は、支持率が20%まで下がった鳩山政権と比べると、格段に好感され、支持率を60%台まで回復しました。民主党内の小沢さんに近い筋からは、選挙対策内閣とのやっかみの声が聞こえて来ますが、同じ党にいながら全く見苦しい発言です。先ずは無難な船出を祝福したいと思います。
 今日の菅総理大臣の決意表明のニュースを見ていると、「奇兵隊内閣」と並んで、「最小不幸の社会」をキャッチフレーズの一つとされました。その心は、政治の役割は、例えば貧困や戦争のような、人々を不幸にする要素を少なくすることだと明言する辺りは、ちょっと期待させます。やはり、今の日本で、鳩山さんのように妙に張り切らない方が良いですし、私たち国民も政治に期待し過ぎない方が良い。
 菅総理大臣と言えば、これまで普天間基地移設問題について直接的に、あるいは外交や安全保障問題に関して間接的に、とんと発言されたのを聞いた記憶がなく、一体どんな主張を持っているのかよく分かりませんでした。それもあってか、6月4日の民主党代表選の立候補演説では、敢えて大学時代の恩師・永井陽之助さんの代表作「平和の代償」を引き合いに出し、永井さんに倣って軽武装・経済重視の現実主義的な立場を取ることを暗に伝えたかったように見えます。永井さんと言えば、私が学生時代に私淑した高坂教授と並び、日米安保反対の左派・進歩的知識人が主流の当時にあって、日本が平和を維持し経済成長を遂げるためには、日米安保を是とするほかない右よりの少数意見を主張されたことで有名です。惜しむらくは、当該書籍は1967年出版と、ちょっと古過ぎて、最近は余り勉強していないことを暴露したようなものだったことでしょうか。そうは言っても、駐留なき安保を信条としながら封印し、方向は間違っていなくても現実離れしていた鳩山さんとは違って、安心して見ていられる堅実さを見て取れることは間違いなさそうです。
 また、民主党と言えば、労働組合を中心とする特定集団を支持基盤とするところに、誰もが不安を感じていることと思います。民主党が「国民の皆さん」と叫ぶほどには国民全てを利するわけではなく、概して手続きの透明性や結果の公平感も確保されているとは思えません。派遣法改正はその典型例と言えましょう。また、例えが悪く不謹慎であることを承知の上で言いますが、宮崎県の口蹄疫被害に関連して、子供が大学に行く学資を支払えないと不安を訴える農家の気持ちは分かりますし、それに対して政府が何がしかの支援をすることに反対するつもりはありませんが、冷たい言い方をすれば、口蹄疫問題と言えどもビジネス・リスクの一つであって、サラリーマンの私としては、リストラされるサラリーマンと変わるところはないのではないかと言いたくなります。勿論、被害を拡大させないために、口蹄疫被害がないところでも強制的に殺処分させた政治判断を受け入れたことに対して補償する必要がありますが、一体、政府はどこまで支援しようとしているのか、どうしても信用し切れないところがあるのを、私自身は禁じ得ません。
 いずれにせよ、民度以上の政治はあり得ません。国民のレベル以上の政治家が出てくることを期待するのは無理筋と言うものです。とりわけ失われた20年の責任は、政治と言うより、変革を遂げられなかった我々自身、とりわけ経済人に帰すべきところ大と考えます。菅政権には、スタンド・プレイやパフォーマンスなど選挙対策としか思えないような前面に出ることは控えてもらって、経済主体や国民一人ひとりが菅ならぬ官に頼ることなく、生き生きと主体性を発揮でき、自立出来るような仕組みを、是非とも考えて頂きたいと思います。
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星新一ワールド

2010-06-08 00:39:35 | たまに文学・歴史・芸術も
 週末、子供を連れて近所のBook offを訪れたところ、星新一さんの子供向けショート・ショート集を見つけて、思わず購入してしまいました。小・中学生の頃、なけなしの小遣いをはたいて買い集め、夢中になって読み耽った記憶が蘇り、子供にも、あの時の感動を味わわせてやりたいと思ったわけです。
 ところが自宅に戻ると、早速、手に取り、子供より先に読み耽ってしまいました。子供向けと言うのは、字を大きくして振り仮名を付けているだけで、中身はオトナもコドモもありません、短くてすっきり分かりやすい文章は、あの頃のままでした。
 久しぶりに読んで、あらためて多彩なスタイルに驚かされました。童話あり、寓話あり、はたまた子供に読ませるのを躊躇うほどのブラック・ジョークあり、人生論のアフォリズムを思わせるような余韻を残す切れ味鋭い秀作もあります。また、ある条件設定のもとに話を始め、テンポ良く読み進めさせ、流れるような論理的帰結に導きながら、予想外のオチで唸らせて裏切らない、いわばSF落語とでも呼べるような構成にも感心させられます。そして、さまざまな未来予想を描きながら、決してハッピー・エンドに終わることはなく、気が付くと虚無主義の闇が広がっていて、さりとて悲観するでもなく、まさに空想の世界で存分に遊ばせてくれて、現実世界に戻る時には、爽やかな一服の清涼感を与えてくれる。不思議な魅力と言うほかありません。
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ミュシャ展(下)

2010-06-07 01:12:24 | たまに文学・歴史・芸術も
 ミュシャの絵は、これまでなかなか見る機会がなくて、ミュシャ本人の画集やアールヌーボー特集の画集で見ただけでしたが、あらためて本物がもつ迫力に圧倒されました。微妙な色合い、繊細さ、そして長い風雪に耐えた紙のくたびれ具合。そんな本物の作品を通して、何十年、場合によっては何百年の時を経て、作家と触れ合った気がする一瞬の独特の緊張感が、こうした展覧会の醍醐味だと思うのです。
 つい最近、音楽CDは所詮はコピーに過ぎなくて、コンサートや生演奏こそホンモノの音楽だ、といったような内容の雑誌記事を読みました。
 音楽情報もデジタル化されて以来、コピーされても劣化しないため、著作権侵害が騒がれて来ましたが、実は正規品CDやDVDですらも、演奏をコピーしているという意味ではニセモノなのであって、更に海賊版CDは、流通権・頒布権というものがあるとしたら、その侵害には違いないですが、本人の演奏を手軽に楽しめる商品に仕立てあげているという点では、正規品のCDと変わるところはないわけです。本当の意味での著作権侵害は、ある作品の着想を借りて別の作品に一定限度以上に流用することであって、そういう意味で、限られたお小遣いを携帯やゲームなどの他の娯楽と取り合っているという構図で語られることが多かったCD売上の話などは、音楽そのものの議論ではなく、音楽産業、しかもレコードやCDを生産し流通する業者、いわば記録音楽産業に特有の議論に過ぎません。更に言うと、CDを何枚売ったから音楽家として成功したと思いがちですが、それは記録音楽産業にとっては意味があっても、本来の音楽とは関係がない世界の話だと言うべきかも知れません。
 かつて、ニューミュージック全盛の頃、井上陽水や中島みゆきといったアーチストは、テレビ出演を頑なに拒否していたことで有名ですが、コンサートやライブで生の演奏を聴いて欲しいという気持ちは、今となっては分からなくはありません。それならレコードやCDは音楽としてニセモノなのだから、販売を拒否すればよかったではないかと、イジワルな見方をしてしまいがちですが、レコードやCDは単にプロモーションのための方便であって、彼らにとってその売上はどうでも良かったのかも知れません。実際、アメリカでもCDが売れなくなって久しいようですが、コンサートの売上は逆に増え、今では、ミュージシャンの収入源の三分の二はコンサートだとも言われています。主な収入が生演奏であるならば、CDはタダで配っても、それによってコンサートに客が来てくれれば良いと考えるアーチストが増えているのだそうです。CDといった記録音楽産業だけではなく、コンサートの興行も含めた音楽産業全体として見れば、縮小しているわけではないのかも知れません。
 印刷技術が進歩して、画集にあっても、本物を忠実に再現出来るようになったことでしょう。しかし、本物の作品が描かれている素材感や大きさや、さらに風化した度合いまで再現することは難しい。彫刻や建築物であればなおさらです。10年ほど前、北斎展を見に行って、青色の鮮烈さに衝撃を受けたことがありました。それは画集のテカテカの良質の紙に印刷された鮮明な青ではなく、和紙に写された透明感のある青でした。
 情報がいとも簡単にコピー&ペイストされ入手できる時代になって、情報のもつ意味あいをもう少し真面目に考えた方が良いのかも知れません。ある言葉や出来事をGoogleで調べるてみると、孫引きはおろか、曾孫引き、そのまた引用・・・と平気で行われていて、世の中はコピーだらけになってしまったことに気が付きます。ある大学教授は、最近の学生の卒業論文が似通ってきたことを嘆いていました。タダほど高いものはないと言いますが、自ら思考しなくなった社会、本物の音楽を知らない、あるいは本物の芸術を知らない社会は、薄っぺらで空恐ろしい気もします。ミュシャ展で、荘厳な雰囲気に包まれながら、そんなことをつらつら考えていました。
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ミュシャ展(上)

2010-06-06 15:00:12 | たまに文学・歴史・芸術も
 会社帰りに、三鷹駅前のギャラリーで開催中のミュシャ展に立ち寄りました。アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha、ミュシャはフランス語の発音による表記であり、アメリカの画廊ではよくムカーと呼ばれていたような気がしますし、彼が生まれたチェコの言葉ではムハとなるそうです)は、言わずと知れた、アール・ヌーボーを代表するグラフィック・デザイナーで、私のお気に入りの作家の一人です。
 世の中を見渡せば、私たちの身の回りは工業デザインで覆い尽くされています。その特徴は、シンプルで機能的で合理的。私たちはそんな無機質の空間に、花や絵を飾ったり、装飾品を置いて、束の間の憩いを求めるわけですが、その昔、暮らしの日用品そのものに装飾が生きていた時代がありました。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパに沸き起こった、文字通り新しい芸術運動、それまでにない新しい様式であるアール・ヌーボーは、当時、広まりつつあった工業用品や近代建築の世界において、所謂モダンなものが普及する前の20~30年の間に、伝統的な芸術が存在感を示したものと言えます。それまでの芸術が実現され得なかった鋼やガラスのような新しい素材に、花や植物などの有機的なモチーフを生かし、自由曲線を取り入れた優雅な装飾が職人の手によって施されたのでした。
 そうした様式に相応しく、この展示会でも、ミュシャの手になる書籍や雑誌の挿絵や、紙幣やステンドグラスのデザインや、煙草用巻紙(JOB社)やチョコレートやシャンペン(モエ・エ・シャンドン社)や自転車(ウェイバリー自転車)などのパッケージ・デザインやカレンダーのポスターが展示されています。勿論、ミュシャはれっきとした画家であり、堂々とした油絵の秀作も揃っていて、あらためて目を見張るわけですが、しかし何と言っても、彼の作品の中で目を引くのは、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターでした。Wikipediaの解説によると、「威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした」のでした。
 ミュシャの作品の女性像は、彼自身がスラブ民族でもあって、スラブ的な顔立ちに哀愁を帯びた表情が魅惑的です。そうした女性の衣装や装飾品にもスラブ文化が色濃く反映し、西洋と東洋との中間的な、あるいは西洋でも東洋でもない、独特のパステル調の色彩感覚と優美な幾何学的デザインが生かされています。晩年は祖国チェコに戻り、20年の歳月をかけてスラブ民族の歴史を描いた「スラブ叙事詩」や、チェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群を手がけたように、彼には一貫してスラブの血が流れていました。1918年にハプスブルク家のオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、財政難の新国家のために紙幣や切手や国章などのデザインを無償で請け負ったと言われます。それもあって1939年、ナチス・ドイツがプラハに入城した時、「その絵画は、国民の愛国心を刺激するもの」という理由でミュシャは逮捕され、その後、釈放されましたが、老齢の身に拘束はこたえたのでしょうか、ほどなくして亡くなりました。彼の作品はそうした彼の生きざまを映し、益々、妖しい魅力をたたえます。
 宣伝するわけではありませんが、今回は、国内にあるミュシャの有力コレクションの一つ、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館の「ドイ・コレクション」(カメラのドイの創業者によるもの)からも多く出品されており、見応えがあります。
 今から10年ほど前、アメリカ滞在から帰国する記念に、ミュシャの作品を求めて、サンフランシスコのダウンタウンや郊外の港町サウサリートを散策しました。さすがに人気があるためか見つからず、代わりに購入したのは、上の写真のように、ミュシャとは似て非なる、むしろロートレックの雰囲気を漂わせるリトグラフでした。これはこれで世紀末の当時の熱狂と退廃が伝わる、私の宝物の一つです。
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