『こんな日本でよかったね ~構造主義的日本論~』(内田樹著、バジリコ株式会社)を読む。
この人の本やブログを読むと、(なるほどね~)という「共感」を超えて、(まいった!)と「感服」のレベルまで達してしまうことがしばしばある。
(以下「未来の未知性」より引用)
潜在的願望と現実が合致した人間は、そこにあたかも宿命に導かれてたどりついたような「錯覚」を抱く。そう「錯覚」なのである。そして「錯覚」であるにもかかわらず、「錯覚できる人間」と「できない人間」との間には、千里の径庭がよこたわっている。
どれほど才能があって、どれほど努力をしても、それがまったく結実しないと嘆く人間がいる一方で、まるで才能もなく、ろくに努力もしないでけれど、どうも「いいこと続き」で困ったもんだとげらげら笑っている人間がいる。
その差は、自分の将来の「こうなったらいいな状態」について「どれだけ多くの可能性」を列挙できたか、その数に比例する。
当然ながら、100種類の願望を抱いていた人間は、1種類の願望しか抱いていない人間よりも、「願望達成比率」が100倍高い。願望達成の可能性は、本質的なところでは努力とも才能とも幸運とも関係がなく、自分の未来についての「開放度の関数」なのである。
面白い。その通りだと思う。若手社員向けのキャリア論としてアレンジできそうだ。
(しかしそもそも、どうやったらこういうふうにウチダ先生のように思考することができるのか・・・!?)
この人の本やブログを読むと、(なるほどね~)という「共感」を超えて、(まいった!)と「感服」のレベルまで達してしまうことがしばしばある。
(以下「未来の未知性」より引用)
潜在的願望と現実が合致した人間は、そこにあたかも宿命に導かれてたどりついたような「錯覚」を抱く。そう「錯覚」なのである。そして「錯覚」であるにもかかわらず、「錯覚できる人間」と「できない人間」との間には、千里の径庭がよこたわっている。
どれほど才能があって、どれほど努力をしても、それがまったく結実しないと嘆く人間がいる一方で、まるで才能もなく、ろくに努力もしないでけれど、どうも「いいこと続き」で困ったもんだとげらげら笑っている人間がいる。
その差は、自分の将来の「こうなったらいいな状態」について「どれだけ多くの可能性」を列挙できたか、その数に比例する。
当然ながら、100種類の願望を抱いていた人間は、1種類の願望しか抱いていない人間よりも、「願望達成比率」が100倍高い。願望達成の可能性は、本質的なところでは努力とも才能とも幸運とも関係がなく、自分の未来についての「開放度の関数」なのである。
面白い。その通りだと思う。若手社員向けのキャリア論としてアレンジできそうだ。
(しかしそもそも、どうやったらこういうふうにウチダ先生のように思考することができるのか・・・!?)