昨日、ちょっと寄り道をしましたが また京都に戻ります。
一昨日は四条から上がって東側町にある善長寺まで行きました。
そこからほどなく行ったところに浄土宗西山禅林寺派 八葉山 安養寺があります。
本尊は阿弥陀如来立像で、八枚の蓮華を逆さに置いた上に立っているのが特徴で、
このことから倒蓮華寺(さかれんげじ)と呼ばれ無病息災、家運隆盛、祈願成就など
の信仰があります。 洛陽六阿弥陀めぐり第5番で実は昨日音楽会が開かれた
すぐ傍の大和国・當麻(たいま)に恵心僧都が建立した華台院を始まりとすると
いわれています。
1110年頃、証空法弟・隆暹(りゅうせん)が京都樋口(下京区)に移し東山流念仏義を唱えた。
後に、四条西洞院に移ったものの1580年頃、豊臣秀吉の都市改造に伴い現在地に移された。
平安時代後期、旅の老僧が一夜の宿に安養寺を訪れて僧は夜を通して造仏した。
翌朝、僧の姿はなく阿弥陀如来像が置かれていたので安養尼は仏師に蓮華の台座を作らせた。だが、仏像を置く度に台座にひびが入ったそうです。 安養尼が春日権現に祈ると件の老僧が現れた。僧は、仏が女人往生の証拠仏であり、八葉の「さかれんげ」を台座にするように告げた。その通りの台座を作り直すと仏像を安置することができたという。
京都の多くのお寺は豊臣秀吉によって元在った地からかなり違う場所に移転させられたようですね。
それからまた上がって行くと蛸薬師があります。京都十二薬師の第18番
正式な名前を「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」と言い、こちらも元は二条室町にありました。
寺院と生ものの生物である蛸がどう関係しているか?
建長(1249~1256年)の初めの頃にこの寺に住んでいた善光と言う僧。
その母が病にかかり「子供の頃よく食べていた蛸を食べると治るかも知れない」と言うので
僧侶の身ながら買い求め、それを咎めようとした民に「見せろ!」と迫られて箱を開けると
蛸はたちまち薬師如来さまのご加護により八足を変じて八軸の経巻となり霊光を四方に
照らしたという話が伝わっています。
まあ、不思議な話があるものだと感心しながらまたちょいと上がったら、これまたすぐに
浄土宗西山深草派 北亀山 西光寺(寅薬師)が三軒先の細く狭い路地に。
こんなに間口の狭いお寺?と疑いながらずーっと奥に入って行くと、左側に普通の建物。
四枚引きのガラス障子を開けると正面にご本尊の阿弥陀如来さま。
ん?寅薬師って? と思うと入って右側に弘法大師が一刀三礼し刻んだものと言われる
薬師如来が鎮座し、寅の日の寅の刻に完成した事から、その名がついたという。
寅薬師は京都十二薬師の第11番で、近世の名薬師の一つに数えられた。
寅年生まれの守護佛としてだけでなく、広く開運繁栄、無病息災などの諸願成就の霊験あらたかである。堂内には別に安産守護の腹帯地蔵尊像も安置されており、腹帯を授与している。この地蔵尊も近世の京都名地蔵二十一地蔵(?)の一つに数えられ、洛陽四十八願所の第34番でもある。
長くなりますが冒頭の地図にもう一カ寺あるので今しばらくおつきあいを。
ここも入り口は3mほどの狭い処、真言宗泉涌寺派 華岳山 誠心院。
今は”せいしんいん”と呼ばれますが、 かつては”じょうしんいん”と呼ばれて
いました。(昭和37年までの資料では”じょうしんいん”)
寺伝によれば、関白藤原道長が、女(むすめ)の上東門院(藤原彰子(しょうし))に
仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の
起こりといわれていて通称和泉式部(いずみしきぶ)の名で知られています。
和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集におさめられている
和歌は247首に及んでいるんですねぇ。
本堂は小御堂(こみどう)と呼ばれ、道内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。 境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」に因んで、後に植えられたものである。
さあてここまてで中京区新京極六角下る中筋町までやってきました。
新京極の南、四条通から約2/3のあたりとなりました。
もう1/3ほどまたおつきあいください。