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もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

イプセン「人形の家」を観る

2012年11月24日 | 浜松・静岡
 「フェミニズム」という言葉を聞いても、今や、特別な響きを感じることがなくなった。それは、日本人の「女性」に対する意識がいい意味で変わったのだと捉える向きもあろうが、なんだかあまりにも言葉だけが意味から乖離して世の中に広く撒き散らされたおかげで、無味乾燥な空気みたいな存在になってしまった。タバコ屋のおやじさんが、「あっ、ハイライトですね」というように、「あっ、フェミニズムですね」って感じに…。
 昨晩、静岡で劇団「静火」によるイプセンの「人形の家」を観て思ったこと。夫に操られた「人形」に例えられたステレオタイプの妻(女性)らしさやその生き方に対する疑問、そして「人形」の放棄、「人形」からの開放を、「家」からの離脱により解決するという結末。1911年に初演された日本において、この作品が女性解放運動と結びついていったことを理解するのは容易い。ノラを演じた松井須磨子自身がまるでノラを地でいくような人生を歩いたようにも思えるし。
 大正期、坪内逍遥により演出された「人形の家」は、わが国の新しい演劇として、その後の演劇史に大きな影響を与えたことは事実である。しかし、一部のフェミニストは別にしても、ほとんどの日本人はこの「フェミニズム」を語る物語を皆目理解できずにいたのではないか。女性解放運動など、まるで自分とは無関係な場所に存在し、しかも女性の生き方に関する価値観が今と全く違う時代、この劇はまるで自分の住む世界と無関係なものに映り、自分の生き様に置き換えて考えることなど全く不可能だったと思うのだ。
 しかし、「フェミニズム」が空気になった現代、観客たちはこの話を遠い夢物語として感じる者はいないだろう。男性の多くは「ぼくはヘルメルのような男じゃない」と何度も自分の心に言い聞かせるし、女性は「私は人形なんかに絶対にならないし、なれない」そして「あんな男とは初めから一緒になるはずがない」と自分とは無関係な女としてクールな目線でノラを見つめるのか?しかし、果たして本当にそうだろうか?
 今、人々は、自ら「ノラ」になることを望み、「ヘルメス」になることを夢みていやしないか? 「フェミニズム」が透明になってしまった今だからこそ、心のどこかで封建的時代の「男と女」の立ち位置を「神聖化された理想像」のように崇めてはいないだろうか?だからこそ、今、イプセンの「人形の家」を上演する意味がある。空気のように形を帯びなくなり無味乾燥となった「フェミニズム」について、もう一度、その輪郭を描き、形も意味もあるものへと引き戻さなればならない。