徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

もう一度歩きたい!この道

2024-06-18 22:36:21 | 
 僕が熊大附属幼稚園に通ったのは戦後間もない昭和25・26年だった。朝の登園は幼稚園の職員だった母と一緒に、家から新坂を下り、内坪井を通って坪井川沿いに行く最短コースで登園した。しかし、帰りは基本的に一人だったので、その日の気分でコースを選んた。中でも一番楽しかった思い出が残るコースが下記の図(赤いライン)である。幼稚園児が一人でこんなコースを歩いて帰るなど、今の時代にはあまり考えられないが、随分と大様な時代だったのだろう。


 熊大附属幼稚園(現城東町)を出ると千葉城橋を渡って旧国道3号線(現県道303号線)に出る。左折して厩橋のところまで下り、須戸口門から熊本城に入る(当時の熊本城は出入りフリー)。平御櫓から一気に十八間櫓を目指す。十八間櫓の前で左折して石段を登り、本丸の広場に出る。当時は大天守も小天守も、もちろん本丸御殿もなく、ただの広場だった。広場を西に向かって抜け、頬当御門を出て右折。唯一残っていた宇土櫓を右に見ながら進み、監物台を左折し、新堀橋へ向かう。新堀橋を渡ると、愛染院の前から加藤神社(当時は新堀町に鎮座)の脇道を通って加藤神社の中へ。さて、ここが道中の一番のお楽しみである。ちょうど今頃、梅雨の季節になると拝殿・本殿を囲む玉垣の根っこあたりに小さなカエルがいっぱい出てくる。これを捕まえてポケットに入れて帰るのである。ここで時間を費やした後は、神社の裏口を出て、裁判所の前を通り、中坂を横切って京町測候所の前へ。そして柳川小路を下って新坂へ出る。これがおおよそのコースだった。
 熊本地震の前、幼稚園時代を想い出しながらこのコースを歩いてみたが、大人の足でも結構歩きがいのあるコースだった。もう一度歩いてみたいものだが、熊本城復旧工事が完了するまでにはあと30年近くかかるらしいのでもう無理かもしれない。


大小天守が復元される前の宇土櫓

ジェット・ストリーム(再編集版)

2024-05-27 17:49:19 | 
 20代の頃、会社の担当者会議でよく東京に出張した。1日で会議が終わる時は熊本ー東京間を飛行機で日帰りした。
 ある時の出張の帰り、熊本へ向かうJAL最終便の離陸を待つ機内でラジオを聴いていた。少し遅れて搭乗してきたダンディな紳士が隣りに座った。この紳士、他の乗客と様子が違っていた。離陸する時、頭を傾げてじっと聞き耳を立てていた。僕は気にしない素振りをしていた。飛行機が上空に上がって安定飛行に入った時、その紳士が突然話しかけてきた。「いや、私もね、この飛行機を操縦するもんですからね、離陸と着陸は気になるんですよ」。そうですかと答えた僕に「今日の機長は上手いですよ」と続けた。それからしばらく、お互いの身の上などを語り合った。紳士が「どこにお住まいですか」とたずねたので、「京町です」と答えた。すると紳士は「それじゃ森さんはご存じですか」という。僕は「米屋の?もちろん知っていますよ」と答えた。それは僕の家近くの森さんという老舗のお米屋さんだった。ちょっとコワモテのご主人は僕より10歳ばかり歳上の高校の先輩だった。高校卒業後、防衛大に進み、航空自衛隊に入ったらしいとは聞いていた。僕が大学を卒業し、熊本に帰ってきた時、森さんは既に自衛隊は退職し、家業の米屋の主人におさまっていた。実はその紳士の航空自衛隊時代の操縦訓練の教官が森さんだったらしい。紳士は「森さんは私にとって神様のような方です!」と言った。そして「森さんは凄い腕を持ったパイロットでした!」。
 飛行機が熊本空港に近づき、着陸態勢に入ると紳士は再び聞き耳を立てた。着陸した時、「ほら、上手いでしょ」と言った。空港での別れ際、紳士は「森さんにくれぐれもよろしく!」と言い残して颯爽と去って行った。実は僕がそのことを森さんに話したのは何年もたってからだった。森さんは「アイツか」と言って何ともいえない笑みを浮かべた。
 聞くところによるとその紳士はJALのB777の機長として名を馳せ、パイロット引退後はJALの重役になったらしい。

庭の山椒の木

2024-04-24 20:58:29 | 
 家内と庭の山椒の木の実を摘んだ。葉の中にうっかり手を突っ込むとトゲが刺さるので用心には用心を重ねて実を摘もうとするのだが、やっぱり時々刺さって痛い。古い山椒の木はトゲがなくなるとも聞くが(人間と同じか)、やはりトゲがあったほうが若々しい感じがする。家内が作る「ちりめん山椒」が楽しみだ。
 「庭の山椒の木・・・」と聞くと、必ず思い出すのが宮崎県民謡「ひえつき節」の歌詞問題だ。下の動画を公開してしばらく経った頃、冒頭の歌詞「庭の山椒の木」というのは間違いで、「山茱恪(さんしゅゆ)の木」が正しいというご指摘を数件いただいた。これは一種のフェイク情報で、この唄の発祥地・椎葉村の担当課が「さんしゅうと唄うのは地元の方言で山椒が正しい」というメッセージを発信されてから鎮静化したが、一時は舞踊の指導的立場の方まで「山茱恪」説を唱えておられたと聞く。フェイク情報というのはこうして広まって行くんだなぁと認識させられた経験だった。






ブログ開設から7000日

2024-04-18 20:46:32 | 
 ブログ編集画面の左上の隅に「ブログ開設から7001日」と表示されていることに気付いた。昨日が7000日だったわけだ。2005年2月にブログを立ち上げて20年目に入った。この間にはいろんな思い出深いブログネタがあったが、その中から今回は2つを取り上げてみた。

馬頭琴コンサート開催
 2007年3月、熊本市国際交流会館ホールで馬頭琴のコンサートを開いた。中国・内モンゴル自治区の緑化事業に取り組んでいるNPO法人どんぐりモンゴリの主催で、同自治区出身の馬頭琴奏者リポーさんを招き、内モンゴルの民俗芸能を熊本市民に紹介し、緑化事業への協力をお願いする目的で企画されたもの。実質的な主催者である同法人熊本支部代表の梅林強さんから依頼を受けた僕が総合プロデュースの役割を務めさせていただいた。会社員時代に何度かブリヂストン吹奏楽団の市民コンサートを開いた経験が生きた。この写真は、当時の幸山熊本市長を表敬訪問し、リポーさんと市長を囲んで関係者が一堂に会した時の1枚。事前のPR活動も効いて会場は立ち見が出るほどの盛況だった。




スライドショー「海達公子」試写会開催
 2008年7月、玉名の料亭はなつばき(現在は閉店)で、スライドショー「海達公子」の試写会を開催した。当時僕は「評伝 海達公子」の著者・規工川祐輔先生にご好誼を賜っていたが、大正から昭和初期に天才少女詩人と謳われた海達公子の生涯をスライド化したいと思い、先生のご指導を受けながら1本のスライドにまとめた。そのお披露目をしたいと友人知人に声をかけ10名の方にご参加いただいた。情報提供した熊日新聞も記者が取材に訪れた。松田真美さんの生ナレーションが素晴らしく、皆さんに感動していただいた。当日、特別ゲストとして、海達公子の親友で、唯一の生き証人だった岩本澄さんにも出席いただいた。その岩本澄さんも規工川祐輔先生も既に鬼籍に入られ、この日の催しも遠い日の思い出になりつつある。


一期一会

2024-03-14 21:00:47 | 
 京町の熊本地方裁判所に併設されていた京町拘置所は大江に移転し、建物は解体撤去され、更地となっている。ここの前を通る度に思い出すことがある。
 あれは10年前の秋のことだった。僕は京陵中学校での熊本市長選挙の投票を終えて帰る途中、一人の高齢の婦人に出逢った。京陵中学校のテニスコートのフェンス沿いに「すみれ程の小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句碑が立っている。その婦人はその句碑を撮影しようとカメラを構えていた。背中のリュックが旅行者を思わせた。通り過ぎて京町本丁の四つ角で信号待ちをしていると、追いついて来たその婦人に「壷川小学校はどちらの方向になりますか?」とたずねられた。僕は婦人の年恰好から壷川小学校まで歩くのは大変かなと思い、「バスで行かれたらどうですか」と答えた。しかし、婦人は「壷川小学校は幼い頃通学していたので歩いて行きたいのです」とおっしゃる。それじゃ途中までご一緒しましょうと歩き始めた。道々、熊本にいたのは戦前の6年間だったこと。京町1丁目に住んでいて壷川小学校に通ったこと。その後、父親の転勤で熊本を離れたことなどを話された。そして「たしか道の左側に刑務所があった」とおっしゃった。京町拘置所のことだとわかったが、既に新坂をだいぶ進んでいたので、今さら観音坂へ回るのは大変だと思い、とにかく新坂を下って壷川小学校を目指すことを勧めて別れた。彼女は丁寧にお礼を述べて去って行った。家に帰り着いた後、彼女にとって懐かしい子供時代の思い出の熊本を訪れるのは、おそらくこれが最後なのだろうと思うと、なぜ、遠回りしてでも通学していた観音坂へ連れて行ってあげなかったのだろうと悔やんだ。そしてなぜか「一期一会」という言葉が頭に浮かんだ。
 「一期一会」とは、茶道の始祖である千利休の教えといわれ「人との出会いや機会は二度と繰り返されることがなく一生で一度きりの出逢いだと思い誠意を尽くすべきである」という意味だそうである。


解体撤去され更地となった京町拘置所跡

   Till We Meet Again - New Orleans Stompers

柳暗花明又一村

2024-03-12 22:51:32 | 
 今日は子飼へガソリンの給油に行ったが、浄行寺交差点のあたりが渋滞していたので、熊大脇から立田山の山裾を抜けて帰ることにした。途中、泰勝寺跡の前を通るのでちょっと立ち寄った。ひとつは昨年秋から干上がっていた池がどうなったか気になっていた。満水とはいかないがかつての池の半分くらい水が戻っていた。入門受付の方に聞くと2月に降り続いた雨によってだいぶ回復したという。マガモも戻ってきているのでさらに今後の雨に期待したい。


泰勝寺山門跡


茶室仰松軒


水がだいぶ回復した池で泳ぐマガモ

 わが父はこの泰勝寺境内に隣接するわが家の本籍地で生まれ育った。父が書き遺した備忘録には「この辺り一帯は数百㍍隔てて、彼処に一戸、此処に二戸と人家の点在する寂しい山里だったが、自然の眺めは四季を通じて素晴らしく、ことに春の風情はこの地を訪れる人に『柳暗花明又一村』の感懐を抱かせたのでは…」と書いている。
 僕が幼い頃、初めてこの地に連れて来られた時のことをよく憶えている。ここが俺の生家があったところだと教えてもらった。戦後間もない頃で現在の風景とは全く違っていた。その時の心に残る風景と全く同じような風景を10数年前に見つけた。それは「神戸の空の下で。~近畿の史跡めぐり~」というサイトに掲載されていた1枚の写真だった。実は京都市右京区嵯峨の古刹・往生院祇王寺の写真だった。苔庭から仏殿を望むその風景は僕の心に残る父の生家のイメージにそっくりだった。すぐにサイト管理者にお願いしてその写真をブログに使わせていただいた。
 
※「柳暗花明又一村」という表現は南宋時代の中国の詩人陸游の「遊山西村」の中の一節で、「柳が生い茂り、明るく花が咲いている村がまた現れた」という旅人の気持を明るくさせる美しい風景を表現しているという。

往生院祇王寺の苔庭から仏殿を望む写真

花二題 ~菜の花と木瓜~

2024-03-11 21:16:07 | 

菊池川河川敷の菜の花畑

菜の花

 まつだまみさんのFBに素敵な写真が掲載されていた。場所は菊池川玉名橋の少し上流左岸の河川敷。ちょうど今頃は菜の花が咲き乱れる映えポイントである。実はここは妻の実家から近く、毎年写真を撮ろうと出かけるのだがいつも天気が悪く良い写真が撮れない。今回はまみさんにお願いして写真を貸していただいた。
 また、この写真の奥の方の川べりは川の映像を撮るのに絶好の撮影ポイント(下の写真参照)である。上流にカメラを向けると建物や構築物など一切入らないので「滔々と流れる川」のイメージを撮るため今まで何度も足を運んだ。


菊池川の川べり

木瓜(ぼけ)の花

 今日散歩していたらある民家の庭に「木瓜の花」が鮮やかな赤い花びらを開いていた。しばらく眺めた後、写真におさめて帰ろうと思ってカメラを覗くとそのお宅の部屋が写ってしまうことに気付いた。アングルを変えてもやっぱり入ってしまうのでまずいなと思い写真はあきらめた。ふと漱石の句が頭に浮かんだ。
 木瓜咲くや 漱石拙を 守るべく
(上の写真はフリー素材)


鎌研坂公園の漱石句碑

岩戸の里で出逢った旅人

2024-03-08 22:14:25 | 
 今日は所用で玉名市大浜町の母の生家へ出かけた。帰りは久しぶりに河内町から山越えの道を選んだ。雲厳禅寺だけ立ち寄った。本堂の前に僕と同じ年配と思しき男性が立派なカメラを提げて立っていた。お参りを済ませて岩戸の里を展望するベンチの方へ歩いていくと、その男性が声を掛けてきた。
「ここから下に降りる近道は知りませんか?」
「車ですか?そしたらいったん上の農道(パイロット道路)に上がって道なりに行けば下の海沿いの道に出られますよ」と答えた。
「どこから来られたんですか?」とたずねてみた。
「千葉県です」
「ヘェ~千葉県ですか!」と言うと
「ここら辺はみかん畑が凄いですね!」
「えぇ、このあたりは漱石の時代からみかん栽培が盛んですよ」と言ってみたが無反応だった。
 夏目漱石の「草枕」にこの地域のみかん畑の話が出てくるのだが、読んでおられないのか、「草枕」の舞台がここのすぐ近くであることをご存じないのか。
「これから宇土の御輿来海岸(おこしきかいがん)を撮りに行くんです!今が一番いい季節と聞きまして」と先を急ぐ素振り。
「天草へ渡られるんですか?」と聞くと
「今回は天草へは渡りません」
「それじゃお気をつけて」
「ありがとうございます」ということで別れた。


松尾地区のみかん畑


河津桜よ また来ん春のたねになるべき

2024-02-24 22:40:55 | 
 昨日は未明の強い雨と冬に逆戻りしたかのような寒風の中、坪井川遊水地の河津桜は散ってしまうのではと川沿いの道を歩いて見に行った。幸いまだそれほど散ってはいなかったがそろそろ今年の終わりが近いようだ。
 ところで河津桜の発祥地・河津といえば「伊豆の踊子」の舞台でもある。河津というひびきが僕を青春時代に誘う。
 川端康成の小説に次のような一節がある。場面は湯ケ野の木賃宿。
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 その次の朝八時が湯ケ野出立の約束だった。私は共同湯の横で買った鳥打ち帽をかぶり、高等学校の制帽をカバンの奥に押し込んでしまって、街道沿いの木賃宿へ行った。二階の戸障子がすっかりあけ放たれているので、なんの気なしに上がって行くと、芸人たちはまだ床の中にいるのだった。私は面くらって廊下に突っ立っていた。
 私の足もとの寝床で、踊子がまっかになりながら両の掌ではたと顔を押えてしまった。彼女は中の娘と一つの床に寝ていた。昨夜の濃い化粧が残っていた。唇と眦の紅が少しにじんでいた。この情緒的な寝姿が私の胸を染めた。彼女はまぶしそうにくるりと寝返りして、掌で顔を隠したまま蒲団をすべり出ると、廊下にすわり、「昨晩はありがとうございました。」と、きれいなお辞儀をして、立ったままの私をまごつかせた。
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 東京在勤の頃、会社の水泳仲間とともに西伊豆には何度も行った。ダイビングが目的だった。高校の時に読んだ「伊豆の踊子」のことはずっと頭の片隅にあったのでいつかは舞台となった東伊豆に行ってみたいと思っていたが、そのうち転勤となり願いはついに叶わなかった。河津桜を見ると必ずそのことを思い出す。
 また来年、一段と成長した河津桜が花を咲かせる頃を楽しみに待つことにしよう。


坪井川遊水地の河津桜


     ▼吉永小百合が歌う「伊豆の踊子」

母の誕生日と春めく野辺

2024-02-15 21:23:11 | 
 今日は母の102歳の誕生日。姉と妹夫婦だけに声を掛け、一緒に昼食をとりながらささやかなお祝いをした。一昨日はかかりつけ医による退院後2週間の診察も受け、経過は順調のようだ。姉も妹夫婦もわれわれ夫婦も既に高齢者。話題といえば、どこの具合が悪いの、あの病院はどうだのといった話ばかり。これからも老々介護の日々が続く。

 午後2時から訪問看護師さんが来られたので、僕は寺原田畑の坪井川沿いを散歩した。関東地方だったか春一番が吹いたというニュースが流れていたが、空には雲が広がっていたものの妙に暖かく春本番といってもいいほどだった。1週間前に咲き始めていた坪井川遊水地の河津桜が七、八分咲きくらいになっていた。土手道をジョギングしていた高齢の男性が「だいぶ咲きましたね」と声を掛けて走り去って行った。思わず顔がほころぶ。

  土手沿いの河津桜や紅淡し


七、八分咲きとなった河津桜



102歳を迎えた母



上熊本駅界隈

2024-02-13 22:00:25 | 
 今日は買物ついでにひさしぶりに上熊本駅界隈を散策した。行く時は新坂を下ったが、帰りは「赤尾口の坂」を上って帰った。

 漱石先生を無視して通り過ぎるわけにはいかないので一応ご挨拶。相変わらず先生は128年前に上熊本駅に降り立った時のように新坂方向を向いてござる。ここから人力車で新坂を越えて行かれた。


 熊本電鉄上熊本駅は中華圏からの観光客と思しき団体で賑わっている。相変わらず「くまモン」が人気のようで、ラッピングを背景に記念撮影ラッシュ。

 前方直進が新坂。赤い車の処から左折が「赤尾口の坂」この坂を上った右の丘の上に、加藤清正公の時代、熊本城の外城「赤尾丸城」が構えていた。清正公が亡くなった時、この丘で荼毘に付された。


 「赤尾口の坂」を上り切ったところにわが母校・熊大附中があり、その先に古刹往生院がある。境内のしだれ梅はまだ三分咲きくらいか。本堂と百体目の放牛石仏に手を合わせた。
(P.S.)その後、しだれ梅は散りじまいだったことが判明。昨年の満開が2月20日頃だったので勘違いしてしまった。

運転免許センターにて

2024-02-07 22:39:15 | 
 今日は2度目の運転免許高齢者更新をしに熊本県運転免許センターへ。3年前の更新の時、「これが最後の免許更新になるかもしれない」な~んて思ったりしたものだが、3年経ってみるとトンデモナイ!車への依存度はますます高くなるばかり。自分の運転能力の低下という現実は認識しており、いつかは免許を返納せざるを得ない時が来るのは覚悟しているが、今の生活から車というものが無くなった時のことを考えると空恐ろしい。
 思えば、昭和42年(1967)に初めて運転免許を取得し、翌年大学卒業と同時に両親にブルーバードの中古車を買ってもらい、その後何台も乗り替えながら今日まで56年。各地を転勤してまわった会社員生活の時も、いつも車は一緒に異動した。そして車と別れなければならない日も近づいている。


初代マイカーのブルーバード

菊池川ノスタルジー

2024-01-23 22:54:52 | 

大浜橋から菊池川河口方向を望む。

 玉名市大浜町の母の生家には年に5,6回は訪れる。玉名駅を過ぎて車を走らせていると小浜で菊池川右岸の道に入る。この道を走っていると高瀬駅(現玉名駅)から母に手を引かれ、てくてく歩いた幼い頃を思い出す。
 しばらく菊池川を眺めながら走っていると必ず思い出すのが海達公子の「川口」という詩である。この詩に歌われているのが菊池川だとはひと言も書いていない。しかし、公子は高瀬高女時代、親友で同級生の規工川澄さんの岱明町の家に度々遊びに行き、小浜から大浜まで小舟で川下りを楽しんだと書き残している。川口というのはおそらく菊池川河口のことだと思われる。澄さんの甥で海達公子研究の第一人者として永年活躍された規工川佑輔先生も7年前に他界され、今となってはそれを証明する人は誰もいない。


かつて玉名市小浜の菊池川右岸に「一本榎」と呼ばれていた大木があった。

白梅が咲き始めるころ

2024-01-20 21:22:17 | 

 わが家の白梅が咲き始めていたので今年は開花が早いのかなと思い、過年度の写真を調べてみたら、この時期に既に咲き始めている年もあった。平年並みなのかもしれない。
 昨日から宮崎にいる長男が仕事の合間を縫ってやって来た。今年は正月に帰れなかったし、祖母の見舞いもしたかったのだろう。今日の午後、彼を母の入院している病院へ連れて行った。コロナやインフルエンザが増勢にあるため、面会が再び厳しくなり、病室へ入室できるのは1日に一人だけ、しかも10分限りということで、長男だけが見舞いをして僕はロビーで待っていた。母も僕たち家族もちょっとつらいな。



 帰宅してから、見に行くことができなかった「大江幸若舞」(毎年1月20日開催)のライブ配信を見て過ごした。全部見ると4時間以上かかるので、とりあえず今日は「高館(たかだち)」だけを見た。
【高館】(みやま市の資料より)
 源義経の最後の地となる衣川を見下ろす「高館」を舞台とした合戦絵巻。川を背にし高館を死守する義経一党の獅子奮迅の戦い ぶり や義経の最後を物悲しく描く物語 。

 とあるが、今日演じられたのは義経主従が奥州の高館で討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなかに、鈴木三郎が熊野より到着し、翌日の合戦で鈴木・亀井兄弟ともに奮戦して果てる前段の義経とのやりとりのくだりだったと思う。内容について特に説明はなかったので断片的に聴き取れた詞章から判断したもの。

梅の蕾

2024-01-04 20:41:18 | 
 母を病院に見舞った後、久しぶりに二の丸周辺を散歩した。護国神社の前にさしかかり、鳥居の前で一礼して通り過ぎようとしたが、せっかく通りかかったのだから参拝して行こうと思い直した。実は今年はまだわが家の氏神である藤崎宮も地元の加藤神社にも初詣をしていないことが引っ掛かっていたからだ。どうせ後日お詣りするのだから順番は気にしないことにした。
 お詣りを済ませて境内の早咲きの梅の木を見上げると紅梅の蕾がだいぶ膨らんでいた。春はもうすぐそこまでやって来ていることを実感する。

   年こゝにあらたなる梅の蕾哉(正岡子規)