今日は磐根橋を渡った先から坪井の方へ降りる道を散歩した。曲がりくねった坂を下りながら、3年前、熊本博物館学芸員の中原幹彦先生からお誘いいただき、考古学講座の皆さんと熊本県伝統工芸館の裏にかつてあった坪井川船着場の現地調査に参加させていただいた時のことを思い出した。旧坪井川の船着場跡のほか棒庵坂から下る「あずき坂」や旧坪井川に架かる「折栴檀橋」の痕跡をと思ったのだが、残念ながら生い茂った草木で前に進めず断念した。
その「折栴檀橋」について以前、津々堂さんが「明治初期の熊本の町名にある比丘尼橋は折栴檀橋の誤りである」と書かれたブログ記事があった。たしかに「折栴檀橋」が正しい呼び名なのだろう。しかし、仮にも熊本県(当時は白川県)が明治6年に発行した町名図の表記を間違うだろうかとずっと疑問に思っていた。ひょっとしたら「比丘尼橋」というのが俗称だったのではあるまいか。そんな時、ふと郷土史家・鈴木喬先生(2010年没)が「市史編さんだより」の中に書かれた「熊本の花街」シリーズのことを思い出した。鈴木先生の文章の中に次のような一節がある。
――文化年間(1804ー1818)のはじめ頃、城の三の丸の西側に当る段山一帯には私娼が群をなしていた。城内の大身の武家屋敷や新町・古町の商家にも近いため、知行取りの仲間、小者や町家の若者らの中には段山通いが普通のこととなっていた。このような私娼は本山や竹部にも巣喰っていたといい、熊本府中町筋のそこここにある料理茶屋や飲み屋にも住み込みで、浮かれ男を誘う芸事半分の娼妓も多かった。藩ではこのような状況を粛正しようとして、無届けの料理茶屋に廃業や転業を命じているが、大した効果も上らぬままに幕末を迎えるに至ったのである。――
旧藩時代、熊本城の城下町は「古町、新町、坪井、京町」の四町を中心に整備されていた。三の丸の西側の風紀の乱れは反対側の坪井周辺も似たような状況にあったことが考えられる。坪井方面から登城する侍らが通る「折栴檀橋」付近にも私娼が跋扈していた可能性はある。鈴木先生の文章にも「竹部」が含まれている。橋のたもとで屯する私娼たちを見て、いつの頃からか人々は「比丘尼橋」と呼び始めたのかもしれない。これはあくまでも僕の想像に過ぎないが。
3年前の現地調査エリア(〇で囲った部分)
▼旧坪井川の様子(2024.11.15)
その「折栴檀橋」について以前、津々堂さんが「明治初期の熊本の町名にある比丘尼橋は折栴檀橋の誤りである」と書かれたブログ記事があった。たしかに「折栴檀橋」が正しい呼び名なのだろう。しかし、仮にも熊本県(当時は白川県)が明治6年に発行した町名図の表記を間違うだろうかとずっと疑問に思っていた。ひょっとしたら「比丘尼橋」というのが俗称だったのではあるまいか。そんな時、ふと郷土史家・鈴木喬先生(2010年没)が「市史編さんだより」の中に書かれた「熊本の花街」シリーズのことを思い出した。鈴木先生の文章の中に次のような一節がある。
――文化年間(1804ー1818)のはじめ頃、城の三の丸の西側に当る段山一帯には私娼が群をなしていた。城内の大身の武家屋敷や新町・古町の商家にも近いため、知行取りの仲間、小者や町家の若者らの中には段山通いが普通のこととなっていた。このような私娼は本山や竹部にも巣喰っていたといい、熊本府中町筋のそこここにある料理茶屋や飲み屋にも住み込みで、浮かれ男を誘う芸事半分の娼妓も多かった。藩ではこのような状況を粛正しようとして、無届けの料理茶屋に廃業や転業を命じているが、大した効果も上らぬままに幕末を迎えるに至ったのである。――
旧藩時代、熊本城の城下町は「古町、新町、坪井、京町」の四町を中心に整備されていた。三の丸の西側の風紀の乱れは反対側の坪井周辺も似たような状況にあったことが考えられる。坪井方面から登城する侍らが通る「折栴檀橋」付近にも私娼が跋扈していた可能性はある。鈴木先生の文章にも「竹部」が含まれている。橋のたもとで屯する私娼たちを見て、いつの頃からか人々は「比丘尼橋」と呼び始めたのかもしれない。これはあくまでも僕の想像に過ぎないが。
3年前の現地調査エリア(〇で囲った部分)
▼旧坪井川の様子(2024.11.15)