徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

比丘尼橋のはなし。

2024-11-15 17:27:33 | 歴史
 今日は磐根橋を渡った先から坪井の方へ降りる道を散歩した。曲がりくねった坂を下りながら、3年前、熊本博物館学芸員の中原幹彦先生からお誘いいただき、考古学講座の皆さんと熊本県伝統工芸館の裏にかつてあった坪井川船着場の現地調査に参加させていただいた時のことを思い出した。旧坪井川の船着場跡のほか棒庵坂から下る「あずき坂」や旧坪井川に架かる「折栴檀橋」の痕跡をと思ったのだが、残念ながら生い茂った草木で前に進めず断念した。

 その「折栴檀橋」について以前、津々堂さんが「明治初期の熊本の町名にある比丘尼橋は折栴檀橋の誤りである」と書かれたブログ記事があった。たしかに「折栴檀橋」が正しい呼び名なのだろう。しかし、仮にも熊本県(当時は白川県)が明治6年に発行した町名図の表記を間違うだろうかとずっと疑問に思っていた。ひょっとしたら「比丘尼橋」というのが俗称だったのではあるまいか。そんな時、ふと郷土史家・鈴木喬先生(2010年没)が「市史編さんだより」の中に書かれた「熊本の花街」シリーズのことを思い出した。鈴木先生の文章の中に次のような一節がある。

――文化年間(1804ー1818)のはじめ頃、城の三の丸の西側に当る段山一帯には私娼が群をなしていた。城内の大身の武家屋敷や新町・古町の商家にも近いため、知行取りの仲間、小者や町家の若者らの中には段山通いが普通のこととなっていた。このような私娼は本山や竹部にも巣喰っていたといい、熊本府中町筋のそこここにある料理茶屋や飲み屋にも住み込みで、浮かれ男を誘う芸事半分の娼妓も多かった。藩ではこのような状況を粛正しようとして、無届けの料理茶屋に廃業や転業を命じているが、大した効果も上らぬままに幕末を迎えるに至ったのである。――

 旧藩時代、熊本城の城下町は「古町、新町、坪井、京町」の四町を中心に整備されていた。三の丸の西側の風紀の乱れは反対側の坪井周辺も似たような状況にあったことが考えられる。坪井方面から登城する侍らが通る「折栴檀橋」付近にも私娼が跋扈していた可能性はある。鈴木先生の文章にも「竹部」が含まれている。橋のたもとで屯する私娼たちを見て、いつの頃からか人々は「比丘尼橋」と呼び始めたのかもしれない。これはあくまでも僕の想像に過ぎないが。


3年前の現地調査エリア(で囲った部分)

▼旧坪井川の様子(2024.11.15)



八幡のはなし。

2024-11-08 20:03:17 | 歴史
 先日の「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」第2夜は五十四番目の伏見宿からわずか4㌔の五十五番目の淀宿だった。なぜここに?というタモリの疑問も、ここから少し街道を進んだところが徳川にとって極めて重要な要衝であったことがわかってくる。二つの山に挟まれた地形は、徳川に反旗を翻し江戸へ攻めのぼる西国大名の関門のようになっており、その山の上に鎮座するのが平安時代から崇敬され京を鎮護する石清水八幡宮。


 わが家は先祖代々藤崎八旛宮を氏神としている。藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたことに始まる。明治16年生まれのわが祖母は藤崎八旛宮のことを「お八幡さん」と呼んでいたが、昔の人々の尊崇の念はとても強かったと聞く。
 そこで思い出すのが、慶長15年(1610)に加藤清正に招かれ、熊本で初めて「阿国歌舞伎」を披露した女性芸能者「八幡の国」のこと。後世の人々から「出雲阿国」と呼ばれたその人である。阿国が熊本で「八幡の国」を名乗ったのは、熊本の総鎮守として藤崎八旛宮を尊崇する領民の心を理解していたからかもしれない。


藤崎八旛宮

ブラタモリ ~東海道五十七次編~ 雑感

2024-11-05 17:24:58 | 歴史
 8ヶ月ぶりに復活した「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」を3日連続で見た。今回のテーマである東海道の別ルートに込めた徳川の思惑もよく理解できた。五十三番目の大津で分岐させ、五十四次:伏見、五十五次:淀、五十六次:枚方、五十七次:守口の四宿を経て大坂高麗橋のゴール地点まで約54kmの旅。旅の様子はNHKプラスで1週間は配信されるのでまた後日ということにして、全体を通じた感想を記してみた。
 まず今回は3日連続の放送だったが、初日のみ45分で、2日目と3日目は28分だったので、できれば2日間にまとめて放送してもらいたかった。オープニングは井上陽水の「女神」をつい待ってしまう。あのラテンブラスとパーカッションのノリの良さが懐かしい。ナレーターのあいみょんは初めてだから無理もないが、まだ存在感を示すところまでは行かなかった。タモリさんのパートナー佐藤茉那アナも初出演で熊本局の新人時代よりも大人しめだったが、枚方鍵屋で案内した学芸員の「ごんぼ汁」の話に「もっと良い記述は」とツッコんだところは良かった。伏見からもっぱら下り船を利用する旅人目当ての「くらわんか舟」の話は面白かったが、客を舟着させるための遊郭や宿の飯盛女の話が出なかったのはNHK的な配慮か。
 タモリさんはやはり歳とったなぁという印象。同世代としてもうしばらく頑張っていただきたい。 


枚方鍵屋にて


淀川舟運と枚方宿

ハーンの熊本時代(1)

2024-10-29 22:03:02 | 歴史
 今日のNHKお昼の番組「列島ニュース」のなかで、来秋放送開始の朝ドラ「ばけばけ」のヒロインに宮崎市出身の俳優、高石あかりさんが選ばれたことが発表され、本人の会見も放送されました。
 ラフカディオ・ハーン夫妻の熊本時代も描かれるそうなので楽しみですが、ハーンの熊本時代はいったいどんな時代だったのでしょうか。


 ハーンが五高の英語教師になるため、島根県立の松江中学を辞し、妻のセツらを伴い、春日駅(熊本駅)に降り立ったのは明治24年11月19日。校長の嘉納治五郎が出迎え、手取本町の不知火館(のちの研屋支店)に案内しました。
 この明治24年7月、門司から熊本まで鉄道が開通し、また熊本電燈会社が操業しています。熊本城そばの厩橋際に火力発電所が設けられ、城内の兵舎の灯りがこうこうと夜空を照らしていたようです。花畑一帯は練兵場が広がり、いまの市役所の場所は監獄でした。五高の構内に外人教師館がありましたが、不知火館近くに赤星家が母屋を明け渡して貸してくれるという話に居を構えます。筋向いに九州日日新聞社(熊日の前身)があり、さっそく購読しています。正月八日の六師団の閲兵式後の宴会にハーンも招待され、それが九州日日に報じられました。
 「檜扇の三ツ紋ある黒羽二重の羽織に仙台平の袴を着し扇子をチャンと差したる有様と目の色の青きに赤髭茫々たる顔と特に目立ちて見へたりければ、さても衆目を一身に引受け、花嫁も及ばぬ程見つめられし次第にて当日第一の愛嬌なりしと」松江からセツの養父母、養祖父などの家族やお手伝い、車夫(これは間もなく解雇)を伴い、料理人の松を呼び寄せます。養祖父の稲垣万右衛門は若いころ、松江藩主の若殿のお守り役だったといい、「愉快な年寄り」でした。熊本城下を「こおり、こおり」とふれ歩く行商人を呼びとめ、「その水は伯耆大山から来るのか」と尋ねるなど、笑いの種をまき散らしました。招魂祭や藤崎宮のお祭りのときにもごったがえす雑踏のなかを出歩き、財布をすられるという騒ぎを起こしています。
 一年後、坪井西堀端町に移り、長男の一雄はここで生まれた。稲垣老人はハーンの書斎に飛び込み、「フェロン公、天晴れだッ!生まれたで」とうれし涙を流し、腕まくりし、こぶしを振り立てて、男児出産を知らせたといます。
 「この町は近代化されています。それから町が大きすぎ、お寺もない、お坊さんもいない、珍しい風習もない」と松江中学の教頭西田千太郎に手紙に書き送っているハーンですが、熊本に移り住んでわずか2、3カ月で9キロも体重が増えています。西洋料理の食材が容易に手に入つたためです。
 そして地蔵祭の日、美しい光景に出会います。地蔵堂はくさぐさの花や提灯で飾られ、大工連が子供たちが踊る屋台をこしらえ、 日が暮れると露店が並びます。日が暮れ、ふと見ると、家の門前に大きなトンボがとまっていました。ハーンが子供組に与えた寄進に対するお礼でした。トンボの胴体は色紙でくるんだ松の枝、四枚の羽は四つの十能(炭火を運ぶ道具)、頭は土瓶でこしらえてありました。しかも、全体があやしく影をさすように置かれ、蝋燭の光で照らされていました。その造り物をこしらえたのが8歳前後の男の子で、「なんと日本の子供たちは美術的感覚の持ち主だろうか」とハーンは驚いています。
 ハーン一家が熊本を去ったのは日清戦争が始まった年の明治27年10月 6日でした。
(ハーン来熊120年記念講演より)

 日清戦争開戦前夜の熊本の騒然とした空気を著作「願望成就」のなかで次のように語っています。



本妙寺浄池廟


祇王寺祇女桜の狂い咲き

2024-10-26 16:25:59 | 歴史
 今日は散歩の途中、監物台樹木園が開いていたので入ってみた。久しぶりに園内を回ってみたが、園内の手入れが行われていないようで雑草が伸び放題の状態だった。「祇王寺祇女桜(ぎおうじぎじょざくら)」の前まで来た時に、3輪の花が開いていることに気付いた。今秋、異常な暑さが続いたので季節を勘違いしたのだろう。今年の春の開花時季には監物櫓が再建工事中だったため、樹木園は閉鎖中でこの「祇王寺祇女桜」の開花を見ることができなかったので、わずか3輪でも見られたことはちょっと得した気がした。
 「祇王寺祇女桜」という桜の種類があることを知ったのは、10数年前、あるブログ記事で見つけた京都市右京区嵯峨の祇王寺の写真が、立田山麓にあった父の生家のイメージとそっくりだったことがきっかけだった。「祇王寺祇女桜」は祇王寺に植栽されていた桜で「平家物語」に登場する白拍子、祇王・祇女の姉妹がその名の由来である。
 祇王の物語のあらすじは「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」をご覧ください。

 白拍子とは「今様」という当時の流行歌謡を歌い、舞を舞う男装の遊女のことで、「平家物語」には
「白拍子の始りける事は、昔 鳥羽院の御宇に 島の千歳、和歌の前、彼等二人が舞出したりける也。」
と、その起源について書かれています。

 下の舞踊「島の千歳」はこの起源をもとに、当時の「今様」を現代の長唄にアレンジしたものです。

長浜と加藤清正

2024-10-13 21:09:17 | 歴史
 ブログをフォローさせていただいている「お気楽忍者のブログ 弐の巻」さんの今日の記事「長浜城から琵琶湖を望む」を拝見しながら、彦根在勤時代のことを懐かしく思い出していた。長浜は彦根から近かったし、琵琶湖沿いの湖岸道路を通って公用私用ともによく行った。豊公園や長浜城本丸跡あたりを眺めながら、長浜の街中に入り、北国街道沿いの黒壁スクエアあたりに向かうのがおきまりだった。
 その長浜は加藤清正ゆかりの地でもある。清正には次のような伝説が残っている。
 清正が長浜城の城主・羽柴秀吉に小姓として仕えていた十代前半、ある時、侍同士の喧嘩の仲裁に入った清正の見事な振舞いに、二匹の兄弟きつねが、きっと将来天下に名を馳せるお方だと見込んだ。以来、二匹のきつねは霊狐として清正を守護することになった。清正が24歳の時、秀吉から肥後北半国十九万五千石を与えられ、肥後国に入るが、その時、二匹のきつねも一緒にやって来て花岡山に住みついた。やがて清正の熊本城築城が始まり、自ら陣頭指揮をして花岡山から石を切り出していたが、八枚石と呼ばれる所だけがどうしても採れなかった。不思議に思いながら、清正が八枚石に腰を下ろし、まどろんでいると二匹のきつねが姿を現した。きつねは清正を慕って長浜からついて来たことや、八枚石が築城には向かない石であることを語って姿を消した。清正はたいそう喜び、兄のきつねは「清藤大明神」として花岡山に、弟のきつねは「緋依大明神」として茶臼山に祀ったと伝えられている。
※右の写真は滋賀県長浜市の豊国神社に立つ加藤清正像

加藤清正(玄海竜二さん)を主役とした「城下町くまもと時代絵巻」の舞台

歴史的な風景!

2024-10-09 20:33:48 | 歴史
 Facebookには「思い出」という機能がある。過年度の同じ日付の記事をリストアップしてくれて、それを自分がシェアすると他の人にも表示されるいう機能である。ネタ作りの助けにはなると思うが、僕はあくまで自分自身が思い出したものしか再掲はしないと決めているので今までこの機能を利用したことはない。
 しかし、今日、2015年10月9日の記事を見せられて、この風景は単なる思い出としてではなく、歴史的な意味があるのではないかと思った。この日、「秋のくまもとお城まつり」の一環として「熊本蔚山友情コンサート」が行われたのだが、出演した舞踊団花童がこの日の演目「竹取物語」のリハーサル中の1枚である。
 僕が注目したのは、背景の熊本城大天守・小天守・宇土櫓や西出丸塀が完全な姿で立ち並んだ風景は、翌年4月の熊本地震以降見られなくなった。地震から既に8年余が過ぎたが、宇土櫓が再建されるのは早くても今から10年後といわれている。つまりあと10年はこの写真と同じような風景は見られないということなのだ。老い先短い後期高齢者にとってつらい現実をあらためて認識させられた。


お座敷文化を支えた町芸者

2024-09-23 19:29:55 | 歴史
 今日9月23日は亡父の生誕113年の日。子飼にガソリン補給に行った帰り、泰勝寺跡のそばの父の生家跡を見て来た。今では民家や集合住宅などが建て込んで痕跡も残っていないのだが。周辺を歩きながら、幼い頃、父に連れられて来た時のおぼろげな記憶をたぐっていた。
 父が残した備忘録の中で印象深いエピソードがいくつかある。その一つがかつて「土手券」と呼ばれた町芸者の話。「土手券」についてはこれまで何度かブログのネタにしたが、父が小学生の頃、祖母と二人で街中を歩いていて出会った老女がかつて祖母の実家の酒宴によく呼ばれていた「土手券」だったという話だ。この話によって祖母の実家の裕福な暮らし向きが初めてわかった。
 この「土手券」について「熊本県大百科事典」にはこう書かれている。

――明治初期、寺原町(現壺川1丁目)に始まった町芸者は同町土手付近に住んでいたことから「土手券」と総称し、全盛時は市内各所に散在し、数々の人気芸者も生み、手軽で便利なことから一時隆盛を極めたが、これは「やとな」(雇い女の略。臨時に雇う仲居の女)の前身というべきものであろう。――

 「土手券」は昭和前期に姿を消してしまったともいわれるが、二本木で旅館を経営していた知人によると、戦後間もない頃まで旅館の宴席に「土手券」を呼ぶことがあったという。
 数年前、彼女たちがどんなお座敷芸を披露していたのか調べたことがある。しかし、それを記録した資料も見出せず、当時のことを記憶している人たちも既におられなかった。ただ、熊本市史などに載っている当時の流行歌などで推測するしかない。熊本では「おてもやん」「おても時雨(自転車節)」「キンキラキン」「ポンポコニャ」「東雲節」「お蔭まいり」などが唄われていたことは容易に想像できる。これらの唄は今日も聞く機会が多い。
 今日はそんなお座敷唄の一つであったにもかかわらず、今日ほとんど聞くことがない「キンニョムニョ」を取り上げてみた。おそらく唄い方の難しさが、唄われなくなった理由と思われる。

舞 踊:藤間きみ藤
  唄:本條秀美
三味線:本條秀邦・大友秀咲

 「キンニョムニョ」は江戸時代後期から明治初期あたりにかけて熊本の花柳界で唄われていた端唄・俗曲の一つだといわれる。歌詞は「七七七五」の口説きに「キンニョムニョ」とか「キクラカチャカポコ」など意味のない囃子詞を間に挟んでいるが、内容は肥後に関係のある歌舞伎・浄瑠璃・講談などの外題を並べたもの。口調の良い文句を羅列しただけで、歌詞として全体の意味がまとまっているわけではない。
<P.S.>
 この映像に、島根県在住の竹下博文さんから次のようなコメントをいただいたことがあります。
--分家民謡のご紹介。島根県、隠岐島前(おきどうぜん)の海士町(あま町)に隠岐キンニャモニャという民謡がございます。時は明治初期、所は熊本田原坂の西南の役の野営地、隠岐から出征した官軍兵士が感銘を受けたのがキンニョムニョ。土産話で伝えたのが「隠岐キンニャムニャ」。違いを確かめてくださいませ。--

「光る君へ」と曲水の宴

2024-09-09 14:30:18 | 歴史
 昨日の大河ドラマ「光る君へ」第34回では、3月3日の「上巳祓(じょうしのはらえ)」の日、藤原道長は中宮彰子の懐妊を願って「曲水の宴」を催した。ドラマでは「ごくすい」と読んでいたが、熊本の代継宮で行われる「曲水の宴」では「きょくすい」と読む。どちらの読みでもいいのだそうだ。
 この「曲水の宴」というのは、庭を流れる曲がりくねった遣水(やりみず、小川)のほとりに歌人たちが座り、上流から流れて来た盃が自分の前を通り過ぎる前に、与えられたお題の歌を詠んで盃を飲み干すという風雅な遊び。奈良時代に始まったという。
 この宴について、室町時代後期の公卿、一条兼良が記した有職故実の書「公事根源(くじこんげん)」には次のように書かれている。

--文人ども、水の岸になみゐて、水上より盃を流して、我が前を過ぎさるさきに、詩を作りて、其の盃をとりて飲みけるなり。羽觴(うしょう)を飛ばすなどいふも、此の事なるべし。--
 注)羽觴(うしょう)とは雀(すずめ)やおしどりを象った盃のこと。

 しかし、この史料は中世も後半になってから書かれたもので、そのずっと前、「光る君へ」の平安時代からこのような「曲水の宴」のやり方だったかどうか、書かれた史料は見出せないという。ひょっとしたら時代が下るにつれ、興趣を加えつつ変わって行ったのかもしれない。


熊本・代継宮の「曲水の宴」。歌人たちは盃が流れ着くまでに歌を詠む。


雀を象った浮きの上に盃が乗せられている。

玉虫姫の故郷をたずねて

2024-09-05 20:24:10 | 歴史
 今日は所用で旧浜線を通ったので足を伸ばして御船町まで行ってみた。この町は若い頃、営業でよく訪れた懐かしい町。今回の目的は、平安時代末期、源平の屋島の戦いで源氏方の那須与一が射落とした扇を掲げた平家の官女・玉虫御前の故郷をたずねること。随分前から話には聞いていたが、現地を訪れたことは一度もない。
 地図で確認はしていたが若い頃に行っていた御船町とはすっかり様子が変わっていて位置関係がよくわからない。何しろ50年以上も前のことだから無理もない。やむなくまず御船郵便局を訪れた。窓口の若い局員が「私も地元じゃないのでわからない」というのですぐにあきらめ、御船警察署へ。窓口の署員が「玉虫寺ですかぁ?」と言って地図を引っ張り出した。地図を見てもよくわからないようで他の署員に声をかけて聞いている。すると外回りから帰ってきた(?)巡査さんがよく知っていて地図で教えてくれた。ただ「道が細いので途中から歩くことになるかもしれませんよ」と言う。3人がかりで対応してくれた署員の皆さんにお礼を言って現地に向かった。現地近くの集落まで行って、はたして車で入れるか確認したかったので誰かいないかなとゆっくり車を走らせていると、70代前後と思しき貫禄のある男性が自宅の庭で煙草をふかしているのが目に入った。すぐに車を停め門の前まで行って声をかけた。するとなんと元区長さんだそうでとにかく詳しい。こちらとしては車で入れるかどうかだけ確認できればと思っていたのだが、玉虫姫に関する話が止まらない。予想外の長話となった。とにかく道は狭いが車で入れることがわかり現地へ向かう。
 何度も写真で見たことのある風景が見えて来た。近くに車を停めるスペースもあり、じっくり見て回ることができた。玉虫御前が平家の菩提を弔うため建てたという玉虫寺は今はないが、そこに地区の公民館が建っている。周辺にはそこがかつて寺であったことを示す六地蔵や五輪塔、石の祠などが散在しており、裏には小さな御堂もある。
 そんな風景を眺めながら、僕がかつて在勤時に度々参拝した栃木県那須の那須温泉神社、那須与一ゆかりの神社のことを思い出し、千数百キロ離れたこの玉虫寺跡と物語が繋がっているという不思議な感動が湧いて来た。


屋島の戦い 扇の的の段


国道445号線を滝尾地区で右折し、御船川を渡る。


橋の名は「たまむしはし」


付近の地図


細い山道を登って行くと玉虫寺の跡「玉虫公民館」が見えてくる。


公民館の周辺には多くの遺物が散在

琴平神社と善光寺

2024-08-22 17:46:02 | 歴史
 今日、所用で琴平通りを通ったので、琴平神社に初めて参拝した。この通りは若い頃勤めていた会社が白山町にあって琴平神社の前をよく通ったのだが参拝したことは一度もない。赤鳥居の扁額には「別所琴平神社」とある。「別所」というからには「本所」があったはずで、これが何かというと「善光寺」なのである。鎌倉時代には信州長野の善光寺が勧請され「瑞応山善光寺」としてここに創建されたという。明治政府による「廃仏毀釈」で「善光寺」は廃寺となり、琴平神社だけが残った。
 参拝した後、境内を見て回っていると参集殿の前で何やら作業をしているカジュアルな装いの男性が目に入った。神社の関係者かと思って聞いてみた。実はこの方は熊本大神宮の権禰宜さんで時々手伝いに来られていることが後でわかるのだが。
 「何か善光寺の痕跡は残っていますか?」
 「石仁王像など善光寺時代からのものもありますが、ハッキリわかるものへご案内しましょう」
と、本殿裏の人目に付かない片隅に僕を連れて行った。そこには「善光寺歴代住職供養塔」がひっそりと佇んでいた。永い神仏習合の歴史を否定する為政者の狭量を感じずにはいられなかった。


鳥居に掲げられた「別所琴平神社」の扁額


本殿には善光寺の鎮守「金比羅大権現」の眷属とされる天狗の面(緑・赤)が掲げられている


本殿裏に「善光寺歴代住職供養塔」がひっそりと

 熊本民謡「ポンポコニャ」には、今はない善光寺が唄い込まれており、この唄が旧藩時代から唄われていたことがわかる。


山鹿灯籠まつり と 木村祐章

2024-08-07 18:27:11 | 歴史
 今年の山鹿灯籠まつりもいよいよ来週に迫った。久しぶりに見に行こうと思っていたのだが、白内障の術後1ヶ月ほどは人混みを避けるようにとの医師の指示で残念ながら断念することにした。
 さて、この祭りが全国区の祭りとなり、今日の隆盛を見るに至った裏に、「影のプロデューサー」の存在があったことはあまり知られていない。その人の名は「木村祐章(きむらゆうしょう)」。戦後昭和に民俗学研究家として、また放送作家として活躍した人である。
 木村は、山鹿灯籠祭りを民俗学的な側面から、単に灯籠奉納行事としてだけでなく、盆踊りの一形式としてプロデュースし復活させる役割を果した。また、NHK番組等を通じた山鹿灯籠踊りの全国への宣伝でも与って力があった。
 大正8年、山鹿の商家に生まれた木村は、昭和12年に鹿本中学を卒業後、東京の國學院大学に進んだ。ここで日本民俗学の巨人であり、歌人でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)との運命的な出会いがあった。折口を顧問とする「青衿派」(せいきんは)の同人となり、その編集にも携わり、終生折口を師と仰いだ。戦後、東京へ出ることを夢見ていたが、師折口の指示に従い、故郷山鹿に住みついて民俗学の研究に励んだ。昭和27年からはNHKの契約作家としてラジオ放送の脚本も書き始め、昭和40年、45歳の若さで世を去るまで民話の発掘、民俗芸能や民謡の振興、地元放送業界の発展等、熊本の地方文化に貢献した。


 僕が木村祐章のことを知ったのは、12年前に少女舞踊団ザ・わらべが踊る「愛の南十字星」を初めて見て、この曲の原作が昭和38年6月にNHK第2「ラジオ小劇場」で全国放送されたドラマ「ぬれわらじ」であることを知った時である。木村が書いたこのドラマは「からゆきさん」を題材にしている。実はちょうどその頃、僕の父が書き遺した備忘録の中に上天草の「からゆきさん」の話があり、いろいろ資料を調べたりしていた。なんとかこのドラマの脚本を見たいと探したが見つからず、ダメもとで問い合わせた山鹿市教育委員会から、元山鹿市立博物館館長でもあるご子息木村理郎氏を紹介していただき、理郎氏にお願いして埋もれていた脚本を探し出していただいた。そんなご縁もあって理郎氏の著書を通じて山鹿灯籠まつりの歴史や灯籠踊りの起源などについて知ることとなった。

▼ラジオドラマ「ぬれわらじ」より「愛の南十字星」
 原作:木村祐章 作曲:今藤珠美 作調:藤舎千穂 舞踊:舞踊団花童/花喜楽

清原元輔と清少納言

2024-08-04 18:18:29 | 歴史
 先日、藤崎八旛宮に八朔詣りをした時、境内の末社詣りをしながら清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代か子の日過ぐさむ」をあらためて読みながら、大河ドラマ「光る君へ」に登場する元輔の娘・清少納言のことを考えていた。元輔が周防国司として赴任した時は清少納言がまだ8歳だったので帯同しているが、肥後国司として赴任した時、清少納言は20歳くらいになっていて、既に15歳の時に橘則光と結婚しており、帯同しなかった。というよりできなかった。元輔が任地肥後で死去したのが83歳、時に清少納言24歳。その3年後くらいから中宮定子に出仕するようになり、その5年後に離婚している。中宮出仕してしばらくしてから「枕草子」を書き始め、中宮定子が亡くなった1年後くらいに完成したと伝えられる。
 肥後とは縁がなかった清少納言だが、「枕草子」の「島」の條には
  「島は 八十島 浮島 たはれ島 絵島 松が浦島 豊浦の島 まがきの島」
と、肥後の「たはれ島(風流島)」が含まれている。史料によっては八代の「水島」が含まれていることもある。当時は海上交通の要衝として都にも知られていたのだろう。


藤崎八旛宮境内の清原元輔の歌碑


緑川河口の有明海に浮かぶ小さな岩島「たわれ島」。背景は金峰山と二の岳

米原長者口説き歌

2024-07-23 19:11:53 | 歴史
 山鹿灯籠まつりの時季が近づいて来た。かつては毎年見に行ったものだが、熊本地震以降すっかり足が遠のいた。今年は久しぶりに見に行こうかと思っている。
 このまつりの呼び物は何といっても、頭上に灯籠を載せた女性たちが「よへほ節」の調べに合わせ、優雅に舞い踊る「山鹿灯籠踊り」。
 しかし、このまつりで踊られる曲は「よへほ節」だけではない。「山鹿盆踊り」と「米原長者口説き歌(よなばるちょうじゃくどきうた)」を合わせた3曲が踊られる。このうち「米原長者口説き歌」は歌自体は現代に作られたものだが、歌われているのは1300年前、ヤマト政権によって築かれた鞠智城(きくちじょう)がある米原地区に当時から言い伝えられている「米原長者伝説」をもとにしたもの。「口説き」というのは、長い物語を同じ旋律の繰り返しにのせて歌うもののことをいう。
 「米原長者伝説」は3部構成となっており、第1部は米原に住む貧しくも働き者の若者のところに、夢のお告げを受けた姫が京から嫁ぎ、彼女が持参した千両の金を元手に長者になったというサクセスストーリー。第2部は、長者となった男が、同じように栄華を極める「駄の原長者」と宝くらべをするというお話。ありったけの金銀財宝を並べた米原長者に対し、駄の原長者は恵まれた多くの子宝を連れて来た。民衆はほとんどが駄の原長者の子供たちに関心を寄せ、米原長者の財宝に関心を寄せたものは数えるほどだった。第3部は、朝廷から「長者」の称号を賜るほどの権勢をほしいままにしていた米原長者は、ある時、田植が思い通りに進まないことに業を煮やし、太陽を呼び戻して三千町歩の田植えを続けさせた。これに天罰の火の輪が降り注ぎ、全財産が灰塵に帰してしまうという転落の物語。
 「米原長者口説き唄」は、この中の第2部を題材にしている。歌詞は30番まであるが、通常の演奏は時間の制約もあり7番まで。(資料提供は本條秀美さん)


米原地区にある八角形鼓楼(鞠智城の一部)


「JIN -仁-」の時代の蘭方医(特別編)

2024-06-29 21:27:00 | 歴史
 破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎をデザインした新千円札の発行が4日後に迫った。そこであらためて4年前のブログ記事「JIN -仁- の時代の蘭方医(その2)」を読み直してみた。これは大阪大学名誉教授の芝哲夫氏が著した文章「北里柴三郎の生涯と適塾門下生」の中から抜粋したものである。

—―オランダ人医学者マンスフェルトが明治4年(1871)に熊本に来て、古城医学校が出発します。柴三郎は親の奨めで、語学を勉強するつもりでこの学校に入りました。実はマンスフェルトは日本語が全然喋れなかったのです。ここにマンスフェルトのオランダ語を通訳し、翻訳して生徒に伝える助教が二人いました。一人は阿蘇の西の日向町出身の高橋正直で、もう一人は山鹿出身の奥山静叔でした。奥山静叔の墓 は熊本市内の池田町の往生院にあります。実はこの奥山静叔が熊本の地で西洋医学を始めた最初の人と言ってよろしいと思います。この奥山静叔と高橋正直の二人が大阪の適塾に入門していて、適塾でオランダ語を勉強してこの熊本へ帰ってきていたのです。マンスフェルトのオランダ語を通訳したのはこの二人でした。奥山静叔は大変よく出来た人で、適塾でも初期の塾頭を勤めたくらいですから緒方洪庵の信頼も厚かったと思います。柴三郎は古城医学校でこの二人にオランダ語をはじめて学びます。柴三郎は後になってドイツ語でも語学的才能を発揮するのですが、既にこの時に適塾生二人に教わったオランダ語を一年くらいで見事にマスターしてしまいました。――


【熊本医学校の写真】中央の外国人がマンスフェルト、向ってその左隣が北里柴三郎、北里の前、
右頬が隠れているのが奥山静叔、その右側、マンスフェルトの前が高橋正直、北里の左下が中山至謙



適塾の塾頭を務めた奥山静叔の墓(熊本市西区池田・往生院)

 折しも、動画配信サービスの「Tver」でTBSドラマ「JIN -仁-」が期間限定無料配信されており、奥山静叔らが学んだ適塾もドラマの舞台の一つとなっている。


TBSドラマ「JIN -仁-」