毎月、花童の舞踊会でお世話になっている水前寺公園の玄宅寺はいろいろ由緒のあるお寺で、前にもこのブログに書いたが、寛永9年(1632)に肥後細川藩初代藩主、細川忠利公が肥後に入府された時、前任地の豊後から伴って来られたのが玄宅禅師。忠利公はこの水郷の地に「水前寺禅寺」を創建し、玄宅禅師を初代住持とされたという水前寺発祥のお寺であること。また、玄宅禅師は今日、熊本名物の一つとなっている「からし蓮根」の考案者でもある。細川忠利公は病弱だったため、健康食として玄宅禅師が考案したのが「からし蓮根」。そしてそれを忠利公の食事に供したのが細川家の賄方だった森平五郎で、森家は現在も新町に老舗の「森からし蓮根」として続いている。僕はその森家の息子さんと高校の同級生で、一時、同じ職場で働いたり、また、玄宅寺にお墓がある、忠利公に殉死した寺本八左衛門直次の末裔である方とお知り合いになったり、この玄宅寺には妙な因縁を感じている。
次男が久留米大学病院で内視鏡による大腸ポリープ切除を受けるというので、家内と一緒に見舞いに行った。無事に終わり、特に問題も無さそうでホッとした。
だいぶ待時間があったので、久しぶりに大学病院周辺を散策した。久留米に住んでいた頃の社宅は大学病院と通りを挟んで向かい側にあり、100mほど離れたところに篠山城址がある。住んでいた頃も行ったことはあるが、じっくりと見て回ったことはない。あまり近過ぎるとそんなものかもしれない。というわけで今日は時間をかけて見て回った。
篠山城は、正式には久留米城というが、久留米に住んでいた時も地元の人から篠山城としか聞いたことがない。なぜ篠山城と呼ぶかというと、丹波福知山の小大名だった有馬豊氏が丹波篠山城の築城に関わり、その後の大坂夏の陣(1615年)で功を挙げ、元和6年(1620)、21万石に加増され久留米に転封された。豊氏は丹波篠山城を懐かしみ、久留米に新たに築いた城を篠山城と呼んだと伝えられる。
そんな歴史も振り返りながら見て回ると、見慣れた風景も実に味わい深いものがある。
だいぶ待時間があったので、久しぶりに大学病院周辺を散策した。久留米に住んでいた頃の社宅は大学病院と通りを挟んで向かい側にあり、100mほど離れたところに篠山城址がある。住んでいた頃も行ったことはあるが、じっくりと見て回ったことはない。あまり近過ぎるとそんなものかもしれない。というわけで今日は時間をかけて見て回った。
篠山城は、正式には久留米城というが、久留米に住んでいた時も地元の人から篠山城としか聞いたことがない。なぜ篠山城と呼ぶかというと、丹波福知山の小大名だった有馬豊氏が丹波篠山城の築城に関わり、その後の大坂夏の陣(1615年)で功を挙げ、元和6年(1620)、21万石に加増され久留米に転封された。豊氏は丹波篠山城を懐かしみ、久留米に新たに築いた城を篠山城と呼んだと伝えられる。
そんな歴史も振り返りながら見て回ると、見慣れた風景も実に味わい深いものがある。
昨夜のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」はゲストに阿川佐和子を迎えて山口県下関市の旅の前編だった。下関の豊北町に阿川という地区があり、かつて父の阿川弘之とともにルーツ探しに来たことがあるという阿川佐和子のリクエストによる旅だった。
番組を見ながら、6年前の家内との山口旅行を思い出した。旅行の主目的は防府勤務時代の同僚の墓参だったが、旅の最後に悲しい偶然が待っていようとは思いもしなかった。防府での墓参を済ませ、津和野や萩、長門へ足を延ばした後、北浦街道沿いに西下し、豊北町の角島を見物した後、豊北町の神田上という地区に住んでいるかつての同僚を訪ねた。すると玄関に「還浄」の張り紙が。まさかと思いながらおそるおそる声をかけると、懐かしい元同僚が現れ、「実は妻が2週間前に逝ってね」と衝撃のひと言。社宅仲間で奥様とも親しかった家内は僕以上に衝撃を受けたようだった。弔いに始まり、弔いに終った山口旅行だったが、そろそろもう一度訪れてみたいなという思いがうごめき始めた。
番組を見ながら、6年前の家内との山口旅行を思い出した。旅行の主目的は防府勤務時代の同僚の墓参だったが、旅の最後に悲しい偶然が待っていようとは思いもしなかった。防府での墓参を済ませ、津和野や萩、長門へ足を延ばした後、北浦街道沿いに西下し、豊北町の角島を見物した後、豊北町の神田上という地区に住んでいるかつての同僚を訪ねた。すると玄関に「還浄」の張り紙が。まさかと思いながらおそるおそる声をかけると、懐かしい元同僚が現れ、「実は妻が2週間前に逝ってね」と衝撃のひと言。社宅仲間で奥様とも親しかった家内は僕以上に衝撃を受けたようだった。弔いに始まり、弔いに終った山口旅行だったが、そろそろもう一度訪れてみたいなという思いがうごめき始めた。
その昔、肥後の殿様や薩摩の殿様、そして篤姫や西郷隆盛なども通った豊前街道の京町番所。その北側に掘られていた堀の最後の名残りがこのほど埋められた。マンション建設のためだと思われるが、かつての城下町の面影がまた一つ消え、寂しい限りだ。

1650年頃の京町絵図。有吉家下屋敷の右側に「城壁(堀)」と書かれた部分が今回埋められた。

堀の面影を残していた窪地(2年前に撮影)

すっかり埋められて堀の面影は消えた(上の写真の反対側から撮影)

かつての堀に沿って流れる排水溝が、かすかに堀の名残りを感じさせる

1650年頃の京町絵図。有吉家下屋敷の右側に「城壁(堀)」と書かれた部分が今回埋められた。

堀の面影を残していた窪地(2年前に撮影)

すっかり埋められて堀の面影は消えた(上の写真の反対側から撮影)

かつての堀に沿って流れる排水溝が、かすかに堀の名残りを感じさせる
今日は南阿蘇村の「神楽の里・神楽殿」で行われた花童の公演を見に行く。遠路大阪からやってくるS氏を迎えに熊本駅の新幹線口へ。すると異様な人だかりと大勢の警察官の姿。天皇皇后両陛下が新幹線でご出発の時間とぶつかったことに気付く。何とかS氏をピックアップして一路南阿蘇村へ。ちょっと時間的に余裕があったので俵山越えのコースを選び、久しぶりに峠の公園で阿蘇五岳を眺める。南阿蘇村は若い頃、仕事で毎日のように通った懐かしい村。しかし、当時はなかった道が何本もできていて、すっかり様変わりした。神楽殿へ行くのは初めてだが、長野神社の傍のなかなかいい雰囲気の場所にあった。約2時間の公演をゆっくり楽しめた。S氏の帰りの新幹線の時間があるので、ラストの演目の途中で退席、一路熊本駅を目指す。ところが57号線が大渋滞。やっぱり両陛下の行幸の影響らしい。結局、S氏は予定の新幹線には間に合わず、お気の毒なことになってしまった。
好評を博した朝ドラ「カーネーション」が終わって1年半が過ぎた。しかし、このドラマの作者である脚本家・渡辺あやさんのその後の情報がいまだ伝わってこない。10年来の渡辺あやファンの一人として、一日も早く次回作の話が聞けることを願っている。
このほど、サイト「迷路の森」およびBBS「迷路の森」を運営しておられる MEIRO さんのご厚意により、昨年8月17日に神戸国際会館「こくさいホール」で行われた渡辺あやさんの講演のリポートを転載させていただいた。渡辺あやファンとしては、極めて興味深い内容であり、MEIRO さんに心より感謝申し上げたい。
◆「迷路の森」
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/meiro/
◆BBS「迷路の森」
http://8212.teacup.com/meiromori/bbs



このほど、サイト「迷路の森」およびBBS「迷路の森」を運営しておられる MEIRO さんのご厚意により、昨年8月17日に神戸国際会館「こくさいホール」で行われた渡辺あやさんの講演のリポートを転載させていただいた。渡辺あやファンとしては、極めて興味深い内容であり、MEIRO さんに心より感謝申し上げたい。
◆「迷路の森」
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◆BBS「迷路の森」
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最近はとんと目が悪くなったせいで、本を読むのが少々つらくなってきた。漱石の「草枕」を読み直そうと、父がまだ40代か50代の頃、購入した夏目漱石全集を引っ張り出したものの根気が続かない。ネットの「青空文庫」を開いてもやっぱり続かない。そこで思いついたのがネット上にある朗読サービスのサイト。いくつかあったが、その中で「ニコニコ動画」のやつを選んだ。草野大悟さんの朗読はまるでラジオドラマを聞いているようで、本を読む時とはまた違った世界が広がる。さらにパソコンのウィンドウをもう一つ開いて「青空文庫」の「草枕」で字面を追いながら聞いているとなおよくわかる。小説の朗読サービスはまだタイトル数が少ないのが残念だが、これからはできるだけこのスタイルで小説を楽しむことにしよう。
▼ミレーのオフェリヤ
▼ミレーのオフェリヤ

明治前期生まれの二人の女流作家がいる。一人は山形県鶴岡に医家の娘として生まれ、第二の樋口一葉と嘱望されながら、23歳の若さでで夭折した田沢稲舟(たざわいなぶね)。そしてもう一人は、東京日本橋の弁護士の娘として生まれ、明治・大正・昭和前期にわたり、劇作家、小説家として、また女性地位向上の活動家としても活躍した長谷川時雨(はせがわしぐれ)である。下の写真の左が田沢稲舟(1874 - 1896)、右が長谷川時雨(1879 - 1941)。

この二人については別の機会に譲るとして、先日、「青空文庫」で長谷川時雨が、田沢稲舟のことを書いた短編小説を読んだ。この中に面白い一節を発見した。それは、稲舟(錦子)が後に結婚することになる小説家の山田美妙斎に憧れ、絵画を学ぶため上京した後の話なのだが、神田猿楽町の叔父の家に下宿していた錦子が、神保町の下宿屋街の一角で、ヨカヨカ飴屋の一団から「さいこどん節」でからかわれる場面がある。ヨカヨカ飴屋というのは江戸時代から明治時代にかけて主に関東一円で流行した飴売りのことだ。派手な着物を着て、飴を入れた大盤台を頭に載せ、柄のついた太鼓をたたき、歌いながら売り歩いていたという。小説の時代背景は明治24年頃と思われる。
▼小説の一節-------------------------------------------------------
錦子が神保町へおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぱいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が門並といっていいほどあって、手すりに手拭がどっさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだった。
書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。
ヨカヨカ飴屋は二、三人連れで、一人が唄うと二人が囃した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥のようなものを乗せて、太鼓を叩いているが、畳つきの下駄を穿いた、キザな着物を東からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎っぽいものだった。
ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃した。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、
――お竹さんもおいで、お松さんも椎茸さんも姐ちゃんも寄っといで。といやらしく言って、
――恋の痴話文ナ、鼠にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。
二階から書生どもはワッと笑いたてた。
------------------------------------------------------------------
ここで僕が食いついたのは「さいこどん節」。以前にもこのブログに書いたことがあるが、明治時代に流行したという「さいこどん節」と「肥後の俵積出し唄」は元歌は同一のものと思われる。「肥後の俵積出し唄」は高瀬(現玉名市高瀬)の御蔵から米を積み出し、船へ積み込む様子を歌った民謡だ。僕はどちらが先かはさして重要とは思わない。ただ、どちらが先にせよ、どういう伝わり方をしたのか、民俗学的な興味がある。長谷川時雨は、おそらく自分自身が見聞きした情景を書いたと思われるので、明治24年頃の東京では普通に見られた風景なのだろう。また新たな手掛かりになりそうだ。
▼♪さいこどん節(サイコドンドン節)(唄:本條秀太郎)
▼♪肥後の俵積出し唄(唄:本條秀美)


この二人については別の機会に譲るとして、先日、「青空文庫」で長谷川時雨が、田沢稲舟のことを書いた短編小説を読んだ。この中に面白い一節を発見した。それは、稲舟(錦子)が後に結婚することになる小説家の山田美妙斎に憧れ、絵画を学ぶため上京した後の話なのだが、神田猿楽町の叔父の家に下宿していた錦子が、神保町の下宿屋街の一角で、ヨカヨカ飴屋の一団から「さいこどん節」でからかわれる場面がある。ヨカヨカ飴屋というのは江戸時代から明治時代にかけて主に関東一円で流行した飴売りのことだ。派手な着物を着て、飴を入れた大盤台を頭に載せ、柄のついた太鼓をたたき、歌いながら売り歩いていたという。小説の時代背景は明治24年頃と思われる。
▼小説の一節-------------------------------------------------------
錦子が神保町へおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぱいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が門並といっていいほどあって、手すりに手拭がどっさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだった。
書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。
ヨカヨカ飴屋は二、三人連れで、一人が唄うと二人が囃した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥のようなものを乗せて、太鼓を叩いているが、畳つきの下駄を穿いた、キザな着物を東からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎っぽいものだった。
ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃した。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、
――お竹さんもおいで、お松さんも椎茸さんも姐ちゃんも寄っといで。といやらしく言って、
――恋の痴話文ナ、鼠にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。
二階から書生どもはワッと笑いたてた。
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ここで僕が食いついたのは「さいこどん節」。以前にもこのブログに書いたことがあるが、明治時代に流行したという「さいこどん節」と「肥後の俵積出し唄」は元歌は同一のものと思われる。「肥後の俵積出し唄」は高瀬(現玉名市高瀬)の御蔵から米を積み出し、船へ積み込む様子を歌った民謡だ。僕はどちらが先かはさして重要とは思わない。ただ、どちらが先にせよ、どういう伝わり方をしたのか、民俗学的な興味がある。長谷川時雨は、おそらく自分自身が見聞きした情景を書いたと思われるので、明治24年頃の東京では普通に見られた風景なのだろう。また新たな手掛かりになりそうだ。
▼♪さいこどん節(サイコドンドン節)(唄:本條秀太郎)
▼♪肥後の俵積出し唄(唄:本條秀美)

その清少納言の父親が、三十六歌仙の一人で肥後国司を務めた清原元輔。91年の生涯を任地熊本で終えた。北岡神社の北側の斜面の下にある小さな清原神社に祀られている。なお、ここには元輔と親交のあった女流歌人・檜垣も祀られている。
今まで断片的にしか知らない「源氏物語」と「枕草子」だが、ネット上ではどちらも現代語訳と合わせて読める。じっくりと読んでみようかと思う。
▼清原神社

そんな折、今日、Xp機で使っていたブラウン管式のモニターを2台処分した。処分したといっても無料の家電廃品置場に持って行っただけなのだが。この2台のモニターはXp全盛時代に使っていたモニターのうち最後まで残っていた2台で、10年以上にわたって仕事に趣味に使ってきて愛着も強かった。もう何ヶ月も前に色がよく出ないなどの不具合が発生したため、使わなくなっていたのだが、いざ捨てるとなると何だかしのびない気がして今日までズルズル部屋の隅に置いていた。
パソコンやその周辺機器に限らず、例えば車を買い替える時や、その他の家電品を廃棄する時など、僕はこれまで無造作に捨てていた気がするが、先般、「こんまり流整理術」を見ていて、その中に「捨てる時には感謝の気持ちを込めてお別れすること」とあって「ハッ!」と気付かされた。今までの自分を大いに反省した。今日はモニターたちと別れる時に「長い間頑張ってくれてありがとう!」と心の中でつぶやいた。
安政2年(1855)10月2日夜、江戸を「マグニチュード6.9」という大地震が襲った。家屋の全壊と焼失は一万四千戸以上、死者は七千人以上と伝えられる。江戸時代、地震は地下で大鯰が大暴れすることによって発生すると考えられていた。
安政の大地震をきっかけに、大地震を起こしたという鯰や、それを押さえつける鹿島大明神など、鯰を題材とした多色摺りの「鯰絵」が発売され大ブームを呼んだ。鯰を擬人化し、社会を風刺した「鯰絵」は、大災害に遭いながらもそれを洒落のめす、江戸庶民の「諧謔(かいぎゃく)」趣味にあふれている。
▼鯰絵

この「とんとん鯰」という曲は、鯰を題材に、舞台は熊本だが、粋で洒落た江戸情緒あふれる今藤珠美さんの快作。歌詞(佐藤幸一さん)の中には、大昔、阿蘇大神すなわち健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇外輪山の数鹿流ヶ滝(すがるがたき)の辺りを蹴り崩して阿蘇湖をお干しになった時、湖の主であった大鯰が流れ出て、上益城郡嘉島の辺りで止まった。それ以来、この地を鯰村(なまずむら)と呼ぶようになった、という「肥後國志」にも出てくる民間伝承が織り込まれている。
東日本大震災の前後から「中央構造線断層」という言葉をよく見たり聞いたりするようになったが、実は、大鯰を押さえつけるという鹿島大明神のある鹿島と阿蘇は、この「中央構造線」の真上に乗っかっているのである。大昔の人は経験的にそれを知っていていろんな民間伝承が生まれたのかもしれない。
安政の大地震をきっかけに、大地震を起こしたという鯰や、それを押さえつける鹿島大明神など、鯰を題材とした多色摺りの「鯰絵」が発売され大ブームを呼んだ。鯰を擬人化し、社会を風刺した「鯰絵」は、大災害に遭いながらもそれを洒落のめす、江戸庶民の「諧謔(かいぎゃく)」趣味にあふれている。
▼鯰絵

この「とんとん鯰」という曲は、鯰を題材に、舞台は熊本だが、粋で洒落た江戸情緒あふれる今藤珠美さんの快作。歌詞(佐藤幸一さん)の中には、大昔、阿蘇大神すなわち健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇外輪山の数鹿流ヶ滝(すがるがたき)の辺りを蹴り崩して阿蘇湖をお干しになった時、湖の主であった大鯰が流れ出て、上益城郡嘉島の辺りで止まった。それ以来、この地を鯰村(なまずむら)と呼ぶようになった、という「肥後國志」にも出てくる民間伝承が織り込まれている。
東日本大震災の前後から「中央構造線断層」という言葉をよく見たり聞いたりするようになったが、実は、大鯰を押さえつけるという鹿島大明神のある鹿島と阿蘇は、この「中央構造線」の真上に乗っかっているのである。大昔の人は経験的にそれを知っていていろんな民間伝承が生まれたのかもしれない。
朝から熊本城二の丸公園に「武田流騎射流鏑馬(たけだりゅうきしゃやぶさめ)」を見に行く。特設馬場の縄張りの程よいところに陣取って開始を待つ。3回の騎射をする前に神事があったり素馳(すばせ)が行われたりと結構待ち時間が長い。気がつくと隣りにうら若き外国人の女性が一人、芝生に腰を下ろして開始を待っていた。他にも外国人の姿が結構目立つ。やがて騎射が始まった。それとなく周りの様子を観察していると、どうも日本人より外国人の方が熱心に見ている。写真撮影が目的の「カメラじじい」(かくいう僕もそうだが)はともかく、日本人の観光客は「何これ!やぶさめ、フ~ン、行こ!」てな感じの人が多い。外国人の観光客はもともと日本文化に興味があってやって来た人が多いのだろうが、明らかに日本人との観る眼の温度差を感じた。オイ!日本文化、大丈夫かぁ?
熊本の郷土料理は?と問われて、いつも答えに窮するのだが、昔から郷土料理の中に、地味~に名を連ねているのが「ヒトモジのぐるぐる」だ。地味なのは当たり前で、肥後細川藩8代藩主細川重賢公の時(1700年代半ば)の藩政改革、いわゆる「宝暦の改革」の時、厳しく倹約が求められる中で考え出された料理らしい。実は僕も美味いと思い始めたのは割と最近で、子供の頃は口に入れて噛んだ時のあの「ニュルッ」とした感触が苦手だった。「熊本県大百科事典」には次のように記されている。
ヒトモジを使った春先の手軽な郷土料理。細川藩八代藩主重賢の時代に、藩政立て直しを図って出された節倹令にこたえて考案された酒の肴といわれている。まずヒトモジを芯の硬さがやや残る程度にサッとゆで、うす口しょうゆをかけて下味をつける。次に白根の上から二つ折りにして青い葉を巻きつけ、葉先を少し摘みとって内部から出てくる粘液ではりつける。辛子酢みそがよく合う。春先の貝類を添えるとなおよい。(松永喜美子)
ヒトモジを使った春先の手軽な郷土料理。細川藩八代藩主重賢の時代に、藩政立て直しを図って出された節倹令にこたえて考案された酒の肴といわれている。まずヒトモジを芯の硬さがやや残る程度にサッとゆで、うす口しょうゆをかけて下味をつける。次に白根の上から二つ折りにして青い葉を巻きつけ、葉先を少し摘みとって内部から出てくる粘液ではりつける。辛子酢みそがよく合う。春先の貝類を添えるとなおよい。(松永喜美子)