徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

山名屋浦里

2016-06-30 15:34:23 | 音楽芸能
 昨年11月26日に投稿した「ブラタモリ発 新作落語 山名屋浦里」の記事に、最近アクセスが急増した。
 これは、3年前に放送されたブラタモリの「江戸の盛り場 ~吉原編~」のロケの時、タモリが現地で聞いた話をもとにした笑福亭鶴瓶の新作落語「山名屋浦里」が評判となり、8月には東京・歌舞伎座でも新作歌舞伎「廓噺山名屋浦里」として上演されることになったことによるものと思われる。



【あらすじ】

 この話は、江戸時代後期、吉原の扇屋の花扇(はなおうぎ)という花魁の実話だが、ヒロインを新内節「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」で広く知られている山名屋の浦里に置き換えたもの。落語の花魁ものでは「盃の殿様」「明烏」「紺屋高尾」「幾代餅」など古典落語の定番の一つとなっているが、この「山名屋浦里」もいつかは古典の一つになるかもしれない。

▼関連記事
 山名屋浦里と法界坊

民謡「おてもやん」 よもやま話

2016-06-28 19:43:10 | 音楽芸能
 今年の火の国まつりは、8月5日(金)・6日(土)に開催する方向で準備を進めるという。この祭りのあり方については以前から検討の余地があると思っているが、熊本地震の被災者が復興に向けて立ち上がろうというこの時期、心の復興という意味でもやる意義は大いにあるだろう。
 今日では火の国祭りの目玉はおてもやん総踊り。このブログでも民謡「おてもやん」については何度も取り上げており、多少重複するけれども今一度取り上げてみた。

 そもそも、この唄は熊本民謡ということになっているが、今では作者がわかっており、民衆の中から自然発生的に生まれ伝承されてきた唄を民謡の定義とするならば、この唄は俗謡と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。
 それはさておき、この唄が三味線や唄の師匠をしていた永田イネによって作られたことが人々に知られるようになったのは、なんと昭和も終りに近づいていた頃。永田イネが作ったのは明治35年前後と推察されるので、80年以上も伏せられてきたことになる。それまでは幕末の頃から唄われていたという説が定説だったようで、わが敬愛する荒木精之先生などは「勤皇党の忍び唄である」と、ちょっと穿ち過ぎの説を唱えておられたようだ。
 さらにおてもやんには富永チモというモデルがいたことも判明し、永田イネとチモとの深い関係もわかってくると、この唄の歌詞の意味が実によくわかる。
 一方、曲については、当初この唄に「熊本甚句」という題名がつけられていたことからも推察されるように「名古屋甚句」などの甚句系の曲が元になったようだ。邦楽の世界では、長唄など唄の合間を繋ぐ三味線の演奏「合方」などはいろんな曲で使いまわされる旋律が多い。今日ではすぐにパクリなどと言って騒ぐけれど、邦楽の世界は実におおらかだ。
 さて、あらためてこの唄の歌詞を僕なりに解釈してみると

 おてもやんと呼ばれる娘がいて、最近、縁談がまとまったらしい。ところが相手の男に会ってみると、これがとんでもない醜男。おてもは嫁に行く気が失せ、祝言はまだあげていない。縁談を持ってきた村の世話役や消防団の人や仲人があとは何とか話を御破算にしてくれるだろう。
 そこから突然、「川端町つぁん きゃあめぐろ」となるのだが、これは2番の歌詞に出てくる夜聴聞詣りとつながっていると思われる。夜聴聞が行われるのは古桶屋町の普賢寺。春日村に住むおてもが祇園橋を渡って普賢寺へ向かうコースは、細工町回りと、川端町回りの二つ。おてもは川端町回りを選んだ。それは、そちらが普賢寺の正門であり、おそらく夜聴聞の日は、参道や境内に多くの若者たちがたむろしていて賑やかなのだろう。「春日ぼうぶら・・・」以下の歌詞は、その賑やかな様子を唄っている。着物の裾をまくった品のない男たちを春日ぼうぶら(かぼちゃ)にたとえ、ペチャクチャとおしゃべりがうるさい女たちを雲雀の子にたとえ、野暮ったく無骨な男たちを玄白なすびにたとえたものと思われる。
 二番に入ると、実は遠く離れた村に、心に秘めた好きな人がいるがとても告白などできないと吐露するのである。そのうちお彼岸の日でも近まってくれば、また多くの若者が集まる夜聴聞詣りの時にでも、ゆっくり事情をお話しましょう。ここであえて「熊んどん(熊本の人たち)」と言っているのは、おてもが住む春日村は熊本市ではなく飽田郡であるからである。この当時は熊本県が成立してからまだ20数年しか経っておらず、熊本市以外を熊本と呼ぶことはなかった。そして、最後はおてもの開き直りともとれるくだり。心に秘めた好きな人の嫁になれないのなら、私はもう金持の男しか縁談の相手にはしません。というわけ。
 後年になって、三番が追加されるが、これは一・二番とは全くコンセプトが異なっていて、自分の息子を叱咤激励する唄ともいわれている。
 
 おてもやんは不器量のイメージで演じられることがある。頬紅を大げさに塗ったり眉毛を太くしたり。赤チークをやり過ぎると「おてもやんメイク」などと言われることもある。ところが歌詞のどこにも不器量のイメージはなく、むしろモテ女に近い。これは、戦後の昭和30年頃、ラジオ熊本(RKK)でレギュラー番組だったり、市内各所の舞台で盛んに催されていた「肥後にわか」に登場するおてもという娘が、器量は悪いが気立ては優しいというキャラクターで、頬紅を大げさに塗っていたことに起因している。


祇園橋横のポケットパークには永田イネと富永チモの銅像が建てられている。


2011年4月15日 熊本城 本丸御殿 春の宴より


新町大祓(夏越の大祓)

2016-06-27 19:30:27 | イベント
 藤崎宮御旅所の新町大祓に行く。今年も雨。特に今年は熊本地震という災厄を祓いたいと雨の中を歩いて出かけた。
 御旅所に来たのは地震以来初めて。能舞台が倒れていないか心配していたが、何とか無事だったようだ。能舞台北側の阿蘇火砕流堆積による崖も少し崩落してはいたが、大規模な崖崩れは免れたようだ。
 降りしきる雨の中、下校途中の女子中学生が二人、輪くぐりをしていた。屈託のない笑顔。薬師坂を登って帰って行った。藤崎台童園の子たちなのだろうか。胸がキュンとなった。


まずは神事が執り行われる


神事が続く間、三三五五、参拝者が集まり始める


神職から輪くぐり


崖崩れは免れたようだ

熊本城復興支援チャリティ ~ビエントコンサート~

2016-06-26 18:29:07 | 音楽芸能
 今日、KKRホテル熊本で行われた熊本城復興支援チャリティイベントに行った。2階のフロアを使っていろんなイベントが行われていたが、お目当てはやはりデュオグループ「ビエント(Viento)」のコンサート。相変わらずの吉川万里さんの独特の語りは、震災の被災体験や、県内外の多くの方々から受けた温かい支援の話が中心。みんなの共通体験であるだけに、ひとつひとつの言葉が胸に響く。これまでビエントのコンサートは何度も見ているが、今回が一番感動したかもしれない。演奏されたどの曲も良かったが、中でも中島みゆきの「糸」の時は思わず涙がこぼれそうになった。ビエントパーカッション部テレピー3名も出演。



いつも変わらぬ美しいサウンド(竹口美紀さんと吉川万里さん)



KKRホテル2階から見る熊本城大小天守。誰もがこの姿を撮っておこうとシャッターを切っていた。

日本陸上選手権 ~リオ・オリンピック代表選考会~

2016-06-25 21:55:52 | スポーツ一般
 今夜は注目の男女100mの決勝。男子は有力候補の一人、高校3年のサニブラウンが左足を痛めて欠場し、桐生祥秀、ケンブリッジ飛鳥、山縣亮太の3人の争いになったが、後半の加速にものいわせたケンブリッジが優勝。既に五輪代表に内定している桐生とともに五輪代表に決定。しかし、後半の伸びを欠いた桐生にはいつも勝っている印象の山縣はいったいどうなる。
 女子は福島千里が7年連続8度目の優勝。3大会連続の五輪代表に決定した。福島の一強時代はいつまで続く。


7連覇を果たした福島千里


しのぎを削る桐生祥秀、ケンブリッジ飛鳥、山縣亮太の3選手

熊本城の話題二つ

2016-06-24 20:47:05 | 熊本
▼観音石
 先般、崩落した加藤神社(旧熊本城北大手門)の石垣の中から、観音菩薩が刻まれた石が出現したことが話題になった。今ではすっかりお詣りの対象となっていて、石の上にはお賽銭も置かれている。
 崩落した石垣群を見ていると、あらためて熊本城の石垣づくりがいかに巨大な工事であったかを思い知らされ、その石材集めはさぞや大変なことだったろうと思うのである。加藤清正公の築城に携わった高瀬の大工善蔵の記憶を書き遺した「大工善蔵より聞覚控」には、「石は六甲山、祇園山、岡見岳、津浦あたりからも取り寄せられた」と書かれているが、この時代の築城は、どこの城も石の確保に苦労したようで、石仏、石塔、石碑、石臼、墓石などを転用するのは当たり前だったという。中でも石仏は石垣に城の安穏の祈りを込めるという意味でもよく使われたらしい。下の写真の加藤神社の観音石がもともと何だったかはわからないが、往時の築城の苦労を偲ばせる。




▼地震に遭っても凄い・・・
 先週土曜日、二の丸広場に行った時、しばらく大小天守を眺めていると、見覚えのある顔の人がすぐそばへ歩いてやって来た。しばらく誰だったっけ?と考えていたが、その人が連れの人と話す声を聞いてハッと思い出した。テレビ番組でお馴染みの歴史学者・本郷和人さん(東京大学教授)だった。講演にでも来られたのかなと思いながら、聞き耳を立てていると、大小天守をしばらくじっと眺めていた本郷さんが感動したような口ぶりで「地震に遭っても熊本城は凄いですね!やっぱりカッコいいですね!」と言われた。おそらく、しゃちほこや瓦が落ちていても凛として立ち続ける威容に感じ入るものがあったのだろう。152年前に勝海舟が感じたことと、現代の著名歴史学者が感じたことはきっと同じなのだろうと誇らしい気がした。


熊本城本丸御殿

2016-06-23 22:15:07 | 熊本
 熊本城本丸御殿の被災状況がわからない。遠目で見てもよくわからないが、建物内部は損壊しているのかもしれない。
 復元されて8年、熊本城観光の目玉の一つになっていた。僕は復元直後に見学した後、2010年からは、大広間で行なわれる春の宴、秋夜の宴および正月の新春の宴を必ず見に行ったので、本丸御殿にはこれまでおそらく30~40回は登ったことになるだろう。
 しかし、こういった催事も数年は行われないかもしれない。本当に寂しいが、本丸御殿で再び華やかな宴が開かれる日が一日も早くやって来ることを祈りたい。

▼熊本地震前の本丸御殿


▼昭君の間


▼宴が開かれる大広間


▼一番奥の若松の間


▼2011年の春の宴



▼2011年の春の宴 「藤寿三番叟」


陸上も県民総合運動公園開催に!

2016-06-22 21:02:11 | スポーツ一般
 来月10日に開幕する全国高校野球熊本大会は今年も藤崎台球場を主会場に行われることが決まったが、4月から延期されていた熊本県陸上競技選手権大会も、熊本県民総合運動公園陸上競技場の使用のメドがつき7月9日・10日の両日、同競技場で行われることが決まった。スポーツの大会も少しずつ熊本地震後の異常事態から復旧しつつあるようでファンとしては嬉しい限りだ。

▼昨年度の熊本県陸上競技選手権大会



▼3年前の熊本県選手権・女子100m決勝

かつて経験したことのない大雨・・・!?

2016-06-21 10:37:31 | 熊本
 昨夜の雨は尋常ではなかった。地震も治まらないうちに今度は大雨かよ!と愚痴りたくもなる。わが家から遠望できる坪井川も危険水位を超えたと昨夜のテレビでは何度も警報が出た。実際、打越に住む姉の家の下の道路は冠水して、朝は汚泥が堆積した状態で車が出せないのだという。しかし、今朝、わが家から見える坪井川は水位も下がり落ち着いた様子に見える。昨夜、雨が一番酷かった頃は、恐怖を感じて、こんな酷い雨は今まであっただろうか?と正直思った。そこで、過去のブログ記事を調べてみた。4年前の7月12日と10年前の6月26日の記事があった。いずれも、坪井川がオーバーフローして遊水地の方へ流れ込んでいる。また、4年前には「テレビでは盛んに、かつて経験したことのない大雨・・・と繰り返している」と書いている。また、10年前には「異常気象が頻発している」とも書いている。ということは今回の大雨は何も特別なことではなく、何年おきかに繰り返される自然現象ということなのか。
 ただ、僕らの年代は昭和28年の“6.26大水害”が原体験のように刷り込まれており、あの時に比べればまだましかなという思いも一方ではある。


▼今朝の坪井川の様子


▼2012年7月12日の坪井川の様子



▼2006年6月26日の坪井川の様子

那須街道の紫陽花

2016-06-19 17:52:25 | 
 1983年の3月から1986年の5月までの3年3ヶ月暮らした栃木県の黒磯(今の那須塩原)は、わが生涯の中でも最も思い出深い地のひとつである。春夏秋冬それぞれの季節に、美しい日本の風景を見ることが出来た。
 僕は週3の頻度で那須高原に登っていた。那須湯本に僕が担当している会社保養所があったからである。那須高原へ登る時は必ず那須街道を通った。黒磯から那珂川を渡って那須街道に入ると道の両側に赤松林が続く。ちょうど今ごろの季節にはその赤松林に沿って鮮やかな色彩の紫陽花が目を楽しませてくれた。おそらく僕がこれまでに見た美しい風景の中のベスト5に入るだろう。




※写真提供:「続・リンゴの叫び!」さん


 那須湯本の会社保養所で用を済ませると、時々、那須岳に向かって車を走らせた。那須街道を5分ほど登ったところに那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)がある。ここは、平安時代末期、屋島の戦いにおいて勇名を馳せた弓の名手、那須与一ゆかりの神社である。
 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、平家の落人たちは、山深い宮崎県の椎葉の地に逃げ延びる。しかし、そこに源頼朝に落人討伐を命じられた、那須与一の弟、那須大八郎宗久がやってくる。那須大八は落人たちのつつましく貧しい暮らしに追討を断念する。そして、ともに椎葉で暮らすようになり、平家の末裔である鶴富姫と恋に落ちる。やがて鎌倉から帰還の命が下された那須大八は、すでに懐妊していた鶴富姫に「男子が生まれたならば我が故郷下野の国へ、女子ならば遣わすに及ばず」と言い残し椎葉を後にする。月満ちて鶴富は女児を出産し、親子共々、椎葉の地で穏やかな日々を送ったと伝えられる。
 この悲恋物語を歌った「ひえつき節」は、今も椎葉の地で歌い継がれている。


今日の熊本城 夜、再び震度4

2016-06-18 21:18:05 | 熊本
 夜になって再び震度4の余震が。いったいいつになったら終息するのだろう。


百間石垣の崩落した石の撤去が進む


撤去された石は二の丸広場の北側(百間石垣の上)に仮置されていく


二の丸広場ではいつものように陸上部の女子高生たちが練習(西出丸では大型クレーンが稼働中)


二の丸広場西側では小雨パラつく中、八代亜紀さん出演の「にほんのうた熊本キャラバン」が

山鹿灯籠おどり の歴史

2016-06-17 20:37:06 | イベント
 昨夜のテレビや今朝の新聞で、世界的ファッションデザイナーの山本寛斎さんが「山鹿灯籠まつり」のアドバイザーに就任したというニュースが報道された。まつりのハイライトである「千人灯籠踊り」の演出をアドバイスするという。ご本人は「エイヤッと大胆に変えるつもりはない。私は助言する立場で、主役は市民。私は東京でアピールする」と述べている。どういう風に変わるのか、あるいは変わらないのか気になるところだが、まつりの1ファンとしては正直、この伝統あるまつりを変にいじくってもらいたくない。
 千年以上の歴史を有する「山鹿灯籠まつり」だが、祭りの呼び物である「灯籠おどり」が今日のような姿になるまでには、先人たちの汗と涙の歴史が込められている。
 最初は昭和8年、温泉町山鹿にかつての賑いを取り戻そうと、旦那衆が、明治時代からお座敷唄として唄われていた「よへほ節」を、大作詞家・野口雨情に依頼し、温泉町の唄として改作したこと。次に、戦後、山鹿出身の民俗学研究家であり放送作家でもあった木村祐章さんが、「山鹿灯籠まつり」を民俗学的な側面から、単に灯籠奉納行事としてだけでなく、盆踊りの一形式としてプロデュースし復活させたこと。そして昭和28年、山鹿市は温泉町を復活させる目玉として、灯籠まつりを彩る灯籠踊りの創作を、山鹿の検番で芸者さんたちに踊りを教えていた藤間富士齋さん(当時18歳)に依頼。富士齋さんは、踊り手の頭に灯籠をいただき「よへほ節」に乗せて踊る、今日の「山鹿灯籠おどり」を考案した。
 そんな歴史の重みが、今日の「山鹿灯籠おどり」のえも言われぬ趣きとなっていると思うのである。
※右は今年度のポスター

▼熊日新聞記事より


▼山鹿灯籠おどり・千人おどり



▼かつてお座敷唄だった頃の「よへほ節」

今日で2ヶ月 やぐら倒壊防ぐ工事始まる!

2016-06-16 20:33:03 | 熊本
 熊本地震の本震から今日で2ヶ月。石垣の隅石が必死に櫓を支えている痛々しい姿で熊本城被災の象徴的な存在となっている飯田丸五階櫓。この櫓の倒壊を防ぐ工事がいよいよ始まったようだ。櫓の部分はもうだいぶ損壊しているようだが、はたして修復はできるのだろうか。おそらくここでの工事のノウハウが他の櫓などの修復にも応用されることになるだろう。復旧への長い道のりの歩みをまた一歩進めたようだ。



隅石が櫓を支える飯田丸五階櫓



こちらも石垣が崩れた馬具櫓


シャチホコや屋根瓦が落ちた大天守と小天守

僕のひそかな楽しみ

2016-06-15 14:39:03 | テレビ
 熊本地震後、僕のひそかな楽しみとなっているのは、NHKの熊本ローカル番組である。と言っても、地震前もNHKのローカル番組は毎日見ていたわけだが、地震後、熊本放送局のアナウンサーが多忙を極めるようになったのだろう。他地区の放送局から応援のアナウンサーがよく来るようになった。中でも、かつて熊本放送局にいたアナウンサーが来てくれるのは嬉しいものだ。
 今朝も、朝の熊本ローカルニュースを渡邊佐和子さんが読んでいた。彼女は10年ほど前、初任配置の熊本で3年間勤務後、福岡局を経て、現在は東京の放送センターで「英雄たちの選択(BS)」「テストの花道(Eテレ)」「SONGS ナレーション(G)」などを担当する人気アナウンサーである。つい先日も、倒壊した北十八間櫓の下で彼女がロケをしている現場を目撃した。その少し前には、渡邊さんと入れ替わりに熊本へ初任配置となった池田伸子さんが熊本のローカル番組「クマロク」で、被災地のレポーターを務めていた。彼女も現在は、東京の放送センターで「NHKニュース7」「超絶 凄ワザ!」などを担当する中堅アナウンサーとして活躍している。その他、男性アナも、新井秀和さんや有田雅明さんなど、かつて熊本に在籍した人たちが応援に来てくれていたが、熊本をよく知る人が応援に来てくれるのはとても心強い思いがする。