JR熊本駅近く花岡山の麓に鎮座する北岡神社。その境内の北側、民家が続く一角に小さな鳥居と祠がある。ここが平安時代に肥後国司を務めた清原元輔(きよはらのもとすけ)を祀った神社である。「枕草子」で有名な清少納言の父であり、自らも「小倉百人一首」の歌人の一人として名高い。この清原元輔について郷土史家の鈴木喬先生は「ふるさと寺子屋塾(熊本県観光連盟主催)」の講演で次のように述べている。
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肥後の国司として、また平安時代の歌人として名を馳せた人が清原元輔です。清原家は代々和歌を善くし、学問を指導する家柄でした。祖父深養父(ふかやぶ)は歌人、またその娘清少納言は皆様ご存知の『枕草子』の作者です。また清原家の子孫が肥後藩主細川幽斎(ゆうさい)であり、学問や和歌を学んでいます。
元輔は天暦年間(947~957)に大中臣(おおなかとみ)の能宣(よしのぶ)らとともに和歌所寄人(わかどころよりうど)となり、『万葉集』の読み方を記す訓点を施し、『後選和歌集』の選者を命じられました。当時の和歌の名人達は梨壺(なしつぼ)の五人と称され、元輔もその一人に数えられています。
元輔は寛和2年(986)に肥後の国司となり、妻の周防命婦(すおうみょうふ)を伴って赴任してきました。この時元輔は79歳。元輔の国司としての業績は記録にありませんが、その歌集『元輔集』の中に藤崎宮で子(ね)の日遊び(若い松の木を根ごと採ってきて植える行事)をしたときに詠んだ歌が残されています。
藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代の子の日過ごさむ
元輔と親交を重ねた人物に女流歌人の檜垣(ひがき)がおり、歌を詠み交わしています。檜垣についての記録は、そのまま史実を反映しておらず、歌語りの世界が色濃く映し出されています。また檜垣は架空の人物という説もありますが、熊本の蓮台寺に住み、岩戸観音を篤く信仰したと伝えられています。
元輔は永祚(えいそ)2年(990)6月に83才で亡くなります。熊本市北岡神社の北側にある清原神社は、元輔を祭神としており都に帰れなかったその霊を慰めた跡と伝えられています。
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なお、清原家の子孫である肥後細川家の始祖・細川幽斉公の嫡男・忠興公の夫人、玉子(ガラシア)に仕え、キリシタンの洗礼を与えたとされる清原マリアにとって幽斉公は大伯父にあたる。なんだか凄い一族だ。