徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

おなご台場と「男なら」

2015-05-31 22:37:05 | 歴史
 今夜の大河ドラマ「花燃ゆ」では、文久3・4年(1863・1864)に攘夷思想にはやる長州藩と英仏蘭米の列強4国との武力衝突事件、いわゆる「馬関戦争」のエピソードだった。萩では、外国船の攻撃に備え、武家の妻女たちが菊ヶ浜に土塁を築いた。「おなご台場」とも呼ばれるこの土塁を築いた武家の妻女たちによって唄われた作業唄が「男なら」である。
 この「男なら」を僕が初めて聞いたのは、高校3年だった昭和38年の山口国体の時だった。宿舎となった美祢市の旅館で地元の女性の皆さんが、この唄と踊りを披露してくれた。それ以来、僕にとって山口県の民謡と言えば「男なら」なのである。


今日の菊ヶ浜


毎年2月、萩観光シーズン開きで披露される「男なら」(萩城趾指月公園)




金峰山エリアMAP

2015-05-30 18:50:47 | 熊本
 熊本市西区役所では「金峰山エリアMAP」なるものを作成し、希望者には無料で配布している。金峰山は熊本市民にとってシンボル的な存在。実は、加藤清正宮本武蔵夏目漱石そして檜垣などのゆかりのスポットがみな金峰山周辺に集まっているのだ。もちろんそれ以外にも湧水群果樹園風光明媚なスポットなど楽しめるところがいっぱい。このMAPによってその全体像がつかめるようになったので行きやすくなった。また、このMAPを片手に歩き回りたいと思っている。




▼金峰山エリアMAPの表紙

高校生 文化の祭典!

2015-05-28 20:14:14 | 音楽芸能
 2015熊本県高等学校総合文化祭の日がやってきた。前回の大会からもう1年経ったかと、時の流れの早さをしみじみと感じる。
 毎年のことながら、高校生たちの溌剌とした声とパフォーマンスには本当に元気をもらう。それにしてもマーチングの玉名女子高と熊本工業は今年もいい音を出していた。











万田坑と海達公子

2015-05-27 18:59:36 | 文芸
 「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産への登録勧告を受けた三井三池炭鉱の万田坑がある荒尾市は、官民こぞって喜びに沸き立っているという感じだ。
 荒尾市万田は、大正から昭和初期にかけて天才少女詩人と謳われた海達公子のふるさとでもある。大正5年、母マツヱの行商先、長野県の飯田町で生まれた公子は、ほどなく母とともに父松一がいる熊本県の荒尾町に移り住む。松一は大正2年から万田坑機械部書記として働いていた。機械部書記といっても実は運転手の仕事だった。家があったのは荒尾北小学校(先般閉校となった荒尾第二小学校)のすぐ近く、万田駅(荒尾駅)から万田坑へ向かう幹線道路沿いにあった。公子が幼い頃は、祖母のキクも同居して海産物の行商(阿波のいただきさん)を続けており、炭住もあって商売繁盛していたらしく、わりと裕福な家庭だったようだ。二階建ての家は大きな藤の木の枝が絡んで「藤の家」と呼ばれていたという。裏には田圃があり小川が流れていた。少し離れたところには厳島神社が見えた。この家には若山牧水夫妻や與田準一など文芸界の大物も訪れた。公子はこの家で14歳まで暮らした。祖母が死に、父の朝鮮出奔などで経済的に困窮し、差し押さえられて引っ越さざるをえなくなった時の公子の悲しみは察するに余りあるものがある。今ではこの家の痕跡も残っていないが、万田坑が世界遺産となった暁には海達公子を顕彰する記念館も合わせて建てられればこんな嬉しいことはないのだが。
※右の絵は海達公子が小学生時代に描いた万田坑の風景
【参考文献】規工川佑輔評伝 海達公子」(熊日出版)


長崎ぶらぶら節

2015-05-26 19:29:23 | 音楽芸能
 「長崎ぶらぶら節」は昔から知ってはいたが、大好きな民謡の一つになったのは、吉永小百合さん主演の映画を見てからだ。映画に描かれていたように長崎丸山の芸者愛八と郷土史家の古賀十二郎によって発掘された古謡だが、元歌は江戸時代中期に江戸の遊里で流行った「やだ中(ちゅう)節」といい、もともと秋の実りを寿ぐ「豊年唄」だったそうである。この「やだちゅう節」が長崎にも伝わり、様々な歌詞をつけて歌われるようになった。その数50近くにもなるという。
※絵は竹久夢二「長崎十二景」


■愛八の唄う長崎ぶらぶら節(試聴)



栗田弘一氏撮影

「利休の茶の精神と手前」を今に伝える ~ 肥後古流 ~

2015-05-25 19:27:33 | 歴史
 利休七哲の一人、細川忠興の遺訓を守り、「利休の茶の精神と手前」を今に伝える肥後古流。肥後古流宗家小堀家は現在、十二代小堀富夫氏が当主を務める。なお、小堀家は小堀流踏水術の宗家でもある。

▼茶室「仰松軒」(泰勝寺跡)
 細川忠興の茶室の設計図をもとに大正12年(1923)に復元された。


▼茶室(本丸御殿)
 文献や類似資料などにより復元された茶室は、利休七哲の一人古田織部好みの間取り。

鎌倉随想

2015-05-24 23:22:16 | 歴史

七里ヶ浜

 先週と先々週の「ブラタモリ」は鎌倉だった。僕は横浜在勤時、鎌倉へは横須賀線でいくらでも行けたのに、行ったのはたったの1回。それも暑い夏の盛り、学生時代の水球仲間と海水浴に行っただけだ。若い頃は「古都鎌倉」には興味がなかったようだ。今になって惜しいことをしたと思う。海水浴客で混雑している浜を避け、若さにまかせて仲間と沖の方まで泳いで出た憶えがある。沖で波にまかせてプカプカと浮かびながら江の島あたりを眺めて過ごした。鎌倉にはそんな思い出しかない。
 鎌倉というと、学校で習ったのか誰かに教わったのか忘れたが、必ずこの歌を思い出す。

♪七里ガ浜のいそ伝い、
 稲村ケ崎、名将の
 剣投ぜし古戦場。

 鎌倉幕府を攻めた新田義貞の武勲を謳った歌詞だったと思うが、新田義貞と同じ時代の武将・楠木正成に最近また注目している。今読んでいる梅原猛著うつぼ舟シリーズ」も4冊目の「世阿弥の恋」に入ったところだが、なんと楠木正成は、能の観世家の先祖に当るというのだ。観阿弥の母の弟、つまり叔父に当るのが楠木正成その人だというのだ。また楠木正成は河内の出だが、もともと楠木家の祖は鎌倉の人であったという説もある。歴史を遡るといろんなことがつながって来て面白い。

海街diary

2015-05-23 14:18:05 | 映画
 最近ではテレビで映画のスポットCMを見ても、見に行こうという気が起こることはほとんどない。安っぽい宣伝文句に乗せられて行ってもロクな映画に出会ったことがない。
 そんな中、久しぶりに見に行ってみようかなという映画がある。是枝裕和監督の「海街diary」という作品だ。是枝作品は「誰も知らない」や「歩いても歩いても」など割と好印象が残っている上、今回の作品は四姉妹の話というのがそそられるのである。
 四姉妹の物語といえば、昔見たアメリカ映画「若草物語(1949)」や日本では「細雪(1950および1983)」など名作が多いからだ。
 しかも、キャストが綾瀬はるか長澤まさみ夏帆という僕の好きな若手女優が一堂に会しているのが最大の魅力。ちなみに末妹役の広瀬すずについてはまだよく知らない。
 それぞれが全く異なる個性を持つ女優さんなので、そんな姉妹いるわけないじゃん、なんていう気がしないでもないがそこは映画。是枝監督のお手並み拝見というところだ。
 ちなみにこの三人の女優の出演映画の中で僕の好きな作品を上げてみた。

綾瀬はるか:「雨鱒の川」「ハッピーフライト」
長澤まさみ:「世界の中心で、愛をさけぶ」「深呼吸の必要」
  夏 帆:「天然コケッコー」「砂時計」





S部長とパソコン

2015-05-22 15:32:43 | 友人・知人
 パソコンなるものと付き合い始めて35年になる。最初の1、2年は思い出すだにおぞましい。当時のパソコンは自らプログラムを作るしか使う方法はなかったからだ。それでも僕が挫折することなく、今日のIT社会にもなんとかキャッチアップできているのは、ある人との出逢いがあったからである。
 その人と初めて出会ったのは僕が新入社員として研修を受けた1970年、横浜工場でのことである。その人、Sさんは当時従業員数2千名を超える工場の総務部長だった。180cmを超える長身でダンディな人だった。夕方になると毎日体育館でのバスケットで一汗流し、コーヒーの紙コップを握って事務所へ戻ってきた。年末の部内パーティーでは女子社員をリードして颯爽と社交ダンスを踊った。なにしろカッコよかった。僕の憧れの存在だった。僕たちの研修が終わり、配置先へ赴任するとSさんとは縁遠くなった。Sさんと再会したのはそれから約10年後、東京本社の地下、生協事務所の片隅だった。折しも、OA化ブームで僕が勤務していた栃木工場の生協にもパソコンシステムを導入することになり、先行していた本社に教わりに行ったのだった。そして、その本社の生協システムを開発したのがSさんだったのだ。あの颯爽とした横浜工場の総務部長だった人がなぜここに?いぶかしがる僕に先輩社員がそっと教えてくれた。それによるとSさんは横浜工場から他工場の総務部長を歴任した後、関連会社の社長として出向していたが、その時何かがあったらしく役付を全部外されたのだという。そこで本人は一念発起、ちょうど始まったばかりのOA化に自分の再生を掛けたのだという。当時既に50代の半ばを過ぎていたと思うが、独学でプログラミングを修得し、生協のシステムを自ら開発したのだった。その努力ぶりを見るにつけ、まだ若い自分に同じことができないわけはないと発奮させられた。そのお蔭で、なんとかCOBOLなどの言語を使って簡単なソフトを作れるようになった。その後、あっという間のパソコンのハード・ソフトの飛躍的な向上にも、なんとかついて行けたのは、Sさんに出会ったからにほかならない。
 ちなみにこのSさん、元宝塚のトップスターだった日向薫さんのお父さんである。

「近松物語」と昭和29年の映画

2015-05-21 23:22:43 | 映画
 今日の昼、BSプレミアムで映画「近松物語」を放送していた。今日は全編を見ることはできなかったが、これまで何回見ただろうか。いつ見ても、最近の映画にはない映像の力には驚く。
 この映画が公開された昭和29年(1954)という年は日本映画の黄金期。日本映画史上に燦然と輝く名作が揃ってこの年を中心とした数年間に作られている。昭和29年だけに限っても

近松物語  溝口健二
宮本武蔵  稲垣浩
二十四の瞳 木下恵介
七人の侍  黒澤明
山椒大夫  溝口健二
ゴジラ   本多猪四郎 etc.

 といった具合だ。これらの作品はいずれも海外でも今日もなお高い評価を受けているものばかりだ。
 こんな時期が日本映画界に再びやってくることを願ってやまない。


「近松物語」の香川京子と南田洋子

人生はドラマだ!

2015-05-20 10:40:51 | テレビ
 NHKの「ドキュメント72時間」。とある街の一角にカメラを据えて3日間、そこを行き交う人々の生き様が垣間見え、われわれが生きる現代というものが見えてくるドキュメンタリー番組。
 昨夜(再放送)は、神戸の下町、小さな駄菓子屋が舞台。子どもたちから、かつて子どもの頃そこに通った大人たちまで、心のよりどころになっている不思議な空間。
 子どもの頃、両親が離婚したことでグレ、少年院の世話になった青年、少年院の思い出のコーヒー牛乳を飲みながら、離婚しないあたたかい家庭をつくるのが夢だという。
 中学3年で妊娠出産した若いシングルマザー、まだ19歳で5歳の子どもを抱え、昼も夜も働いている。
 まだ30代と思われるのに8人も子どもを産んだパワフルなお母さん等々、どの人生もまさにドラマだ。
 いずれも見る者の胸に迫るトゥルーストーリー。昨今のテレビドラマや映画の薄っぺらさを思い知らされる。

父の遺したもの

2015-05-19 20:39:40 | ファミリー
 今日は父の没後15年の日。あらためて父が書き残したものを読み返している。父は特に遺産とか何かを残したわけではないが、備忘録など数多くの文書を書き残した。これこそまさに僕にとって最大の父の遺産。わがファミリーの歴史がよくわかる。中でも、昭和60年(1985)から始めた「ファミリーニュース」は父の没後も受け継いで発行し続けている。今年でちょうど30年を迎えたが、なんとか今後も続け、子や孫の代へと繋いでいきたいものである。

※20数年前、熊本日日新聞で紹介された時の記事

福連木子守歌/五木子守歌

2015-05-18 16:28:32 | 音楽芸能
 父が天草の大矢野島(現在の上天草市)に赴任した昭和10年頃、天草は大小100余りの島々に20数万人の人が暮らす貧しい地方だった。父の備忘録には、40名ほどのクラスの4分の3が、弁当に「かんちょ(上天草の言葉でさつま芋のこと)」を持ってきていたと記されている。当時はまだ「からゆきさん」の風習も残っていたことは、以前このブログに書いたが、家が貧しいために「口減らし」として子守奉公に出された少女たちが、自らの不幸な境遇を子供に歌って聴かせ、自らをも慰めていたという。
 昭和28年(1953)に「五木の子守唄」がレコード化されたことによって全国的に有名となったが、「福連木の子守唄」は熊本県内ですら、まだあまり知られていない。しかし、「五木の子守唄」は「福連木の子守唄」が五木村に伝わってできたという説もある。本條秀太郎さんはそういった歴史を考慮して構成されたのかもしれない。
 なお、福連木は天草下島を本渡から下田方面へ山越えする途中にある山村のことである。
2013.5.22の記事を再編集して再掲しました。


「ひえつき節」にまつわる話

2015-05-17 19:37:31 | 音楽芸能
 九州山地の深奥部、尾根をはさんで東西に位置する宮崎県の椎葉村熊本県の五家荘には、酷似した平家落人伝説が伝えられる。落人討伐にやってきた源氏の武者が平家方の女性と恋に落ちるという展開は同じ。しかも、椎葉村にやって来た武者が、屋島の戦いで勇名を馳せた弓の名手那須与一の弟なら、五家荘にやって来たのは那須与一の息子という具合だ。ただ違うのは物語の結末。五家荘がハッピーエンドであるのに対し、椎葉村はアンハッピーエンド。ほとんど隣り村といってよい二つの村に伝わる伝説の結末がなぜ異なるのか、とても興味深い。
※参照「那須から五家荘へと続く物語



【椎葉村の平家落人伝説とひえつき節】
 1185年、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家の落人たちは、山深い椎葉の地に逃げ延び、つつましい暮らしを送っていました。
 この平家の一族のことを知った源頼朝は、那須大八郎宗久に落人討伐を命じます。しかし、椎葉の地で大八郎が目にしたのは、かつての栄華をみじんも感じない貧しく暮らす落人たちの姿でした。
 平家落人たちのあまりの貧しい暮らしに追討を断念した大八郎は、落人たちに農耕の手ほどきをし、厳島神社を勧請するなどして、ともに椎葉で暮らすようになります。やがて、大八郎は平家の末裔である鶴富姫と恋に落ちますが、鎌倉から帰還の命が下されるのです。
 すでに懐妊していた鶴富に「男子が生まれたならば我が故郷下野の国へ、女子ならば遣わすに及ばず」と言い残し椎葉を後にするのでした。
 月満ちて鶴富は女児を出産し、親子共々、椎葉の地で穏やかな日々を送ったと伝えられています。
 この悲恋物語を歌った「ひえつき節」は、今もこの地で歌い継がれています。
椎葉村「広報しいば」より