徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

歴史再発見! ~ 海達公子のルーツ ~

2011-12-31 18:06:39 | 文芸
 今日、年末の書類整理をやっていたら下の切り抜き記事が出てきた。3年前、海達公子のルーツを徳島県美波町に訪ねて行った時、応待していただいた郷土史研究家、真南卓哉先生に後日送っていただいた資料だ。日頃の整理が悪く、行方不明となっていた。この記事は15年(?)ほど前、当時由岐町と言っていた頃の由岐町公民館報に載った記事で、由岐町の教育長を務めておられた大西和一先生によって書かれたものだ。内容は海達公子の生い立ちを発掘調査された規工川祐輔先生の著述とは若干食い違う点もあるが、儚く散った郷土出身の天才詩人に対する熱い想いが伝わってくる。



マイブログ2011 ベスト10

2011-12-30 23:22:22 | その他
 今年は1月1日から昨日まで、このブログに369本の記事を書き込んだ。その中で特に印象深い記事10本を選んでみた。

京町測候所、109年の歴史終える!(2/1)
 子どもの頃から京町測候所として馴染んできた熊本地方気象台が、新しく出来た熊本地方合同庁舎に引っ越して行った。明治35年(1902)に始まった京町での歴史を終えた。移転に当って永年親しまれてきた桜の開花標本木を無情にも切り倒して行ったのはどうしても納得できない。

東北地方太平洋沖地震!(3/11)
 翌日に九州新幹線全線開業を控え、リレーつばめのラストランの写真を撮りに行った田原坂で大地震発生を知る。行きの車中なぜか、そろそろ大地震が、などと話をしながら行ったが、あまりの偶然に言葉もなかった。

なでしこジャパン! ~ 平成の東洋の魔女! ~(7/18)
 男子サッカーに比べ、極めて恵まれない環境の中で頑張ってきた日本女子サッカーが、男子に先んじて世界のタイトルを獲ってしまうという皮肉。あらためて日本女性の逞しさに敬意。サッカー界にとどまらず、日本全体に与えた勇気と希望ははかりしれない。

わが家にテレビが来た日 ~ アナログ放送終わる ~(7/24)
 テレビのアナログ放送58年余の歴史が幕を閉じた。わが家にテレビが来たのは昭和33年(1958)の春。皇太子殿下と美智子様のご成婚パレードの映像は今でも鮮明に憶えている。

消えた女子フットボーラーを悼む ~ なでしこフィーバーの陰で ~(8/6)
 かつて益城ルネサンス熊本FC女子サッカーチームの中心メンバーとして活躍していた佐藤恵利子さんが東日本大震災で亡くなっていた。熊本県民の一人としてあらためて彼女に御礼と哀悼の言葉を送りたい。

九州新幹線で鹿児島へ!(8/14)
 孫たちも一緒に初めて九州新幹線で鹿児島へ行った。鹿児島は何度も行っているが、その距離感の違いにはあらためて驚く。

野林祐実 久々の会心のレース!(9/17)
 熊本の陸上短距離のホープ、野林祐実選手に期待して春先から彼女のレースをほとんど見に行った。しかし、今シーズンはケガもあってなかなか実力を発揮できなかった。来シーズンこそと期待している。

坂崎先生が描いた熊本城(11/17)
 父母の教員仲間でもあった坂崎健二郎先生が3月に亡くなり、毎年末、先生が描かれた熊本城の水彩画をパソコンに取り込む楽しみがなくなった。本当に寂しい。

母の卒寿を祝い人吉旅行(11/19)
 母の卒寿祝いでわが兄弟姉妹4組の夫婦連れ立って人吉への一泊旅行をした。あいにくの雨天だったが、人吉市内観光と人吉旅館での宿泊、そして翌日の五木村、五家荘の紅葉見物は忘れられない想い出になった。

Traditional arts of Japan which young girls perform(12/6)
 今年も少女舞踊団ザ・わらべには楽しませてもらった。彼女たちの踊りを見ると心から癒される。お蔭で僕も日本の伝統芸能に結構詳しくなった。また、このブログを海外の人が見ていることがわかり、ザ・わらべの英語版紹介記事を初めて作った。

 

 

 

 

 

♪春は嬉しや

2011-12-29 19:22:11 | 音楽芸能
 厳しい寒さは続くが、年が明ければもう季語は春。新年こそは希望に満ちた春が来てほしい。そんな想いを込めて「春は嬉しや」を聴いてみた。これは京都の四季の風情と恋模様を歌った端唄であるが、題名や唄い出しから春の歌のイメージが強い。さて、新年は今年中止された「観桜坪井川大園遊会」は開かれるだろうか。映像は2010年の「観桜坪井川園遊会」の模様。



♪春は嬉しや 二人揃うて花見の酒 庭の桜に朧月
  それを邪魔する雨と風 チョイト 咲かせて また散らす(ア ヒヤヒヤ)

♪夏は嬉しや 二人揃うて鳴海の浴衣 団扇片手に 夕涼み
  雲が悋気で 月隠す チョイト 蛍が身を焦がす

♪秋は嬉しや 二人揃うて月見の窓 色々話を 菊の花
  しかとわからぬ 主の胸 チョイト 私が気を 紅葉

♪冬は嬉しや 二人揃うて雪見の酒 障子開ければ 銀世界
  話も積もれば 雪も積む チョイト 解けます 炬燵中(ア ヒヤヒヤ)

ラフカディオ・ハーンゆかりの百貫港 ~ チェンバレン宛の手紙より ~

2011-12-28 17:42:55 | 文芸
拝啓 先に長崎からお手紙を差し上げると申しておりましたが、それはかなわない事になりました。というのは、実際、私は長崎から逃げ帰って来たからです―― 何があったか、そのいくつかをお話しします。
 七月二〇日の早朝、私は、一人、熊本を出発し、百貫(ひゃっかん)経由で長崎へ向かうつもりでした。熊本から百貫までは人力車で一時間半あまりの距離でした。百貫は水田の中の、くすんだ小さな村です。土地の人たちは淳朴で善良です。そこで、漢文を勉強している生徒の一人に会いました。そこからは、小舟で蒸気船に向かいます。この舟の舳先(へさき)は壊れていました。コールリッジの詩にあるような静かな海をゆらりゆらりと四里ばかり進んで行きました。それは退屈でした。そして、停泊して一時間以上も待たされましたが、海面をじっと見ていると、さざ波が繰り返し/\押し寄せて来るので、まるで反対方向に引っ張られて動いているような、奇妙な錯覚を覚えました。他には見るものとてありません。ついに、私は、はるか水平線上にコンマを逆さまにしたような船影を見つけました。それが近づいて来ます。ついに、ボーッという汽笛を聞いたときは、嬉しくなりました。けれどそれは別の船でした。先の小舟に乗ったまま、さらに一時間も待たされたあげく、やっと目当ての船が現れたのです。・・・(後省略)
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 これは小泉八雲が1893年7月22日付で友人の東京帝大教授バジル・ホール・チェンバレンへ出した手紙の冒頭の部分である。後に発表する「夏の日の夢」の前段とも言うべき内容が書かれている。長崎への船旅に出発した百貫港や船中でのくだり、酷暑の長崎からほうほうの体で脱出するくだり、熊本への帰途に立ち寄った三角の旅館「浦島屋」でのまるで龍宮城のような体験をしたくだりなどとても興味深い。
 百貫港は熊本市内を流れる坪井川の河口にあり、加藤清正が築いたといわれ、細川藩時代から明治初期まで熊本の外港として賑わった。明治7年に京町台の新堀に遷座した加藤神社に参拝するため、天草や島原からの参拝客が百貫港を経由して坪井川をさかのぼり、加藤神社の崖下を流れていた坪井川の岸辺が船着場となり、新堀は賑わったという。そのために新堀に遊郭もできたと言われている。




遠く雲仙岳を望む坪井川河口の百貫港


百貫港のシンボル、百貫港灯台


「夏の日の夢」に登場する三角西港の浦島屋

おてもやん伝説 ~ あとはどうなときゃあなろたい! ~

2011-12-27 20:01:11 | 音楽芸能


♪おてもやん あんたこの頃嫁入りしたではないかいな
 嫁入りしたこつぁしたばってん
 ご亭どんが ぐじゃっぺだるけん まあだ杯はせんだった
 村役 鳶役 肝煎りどん あん人たちのおらすけんで
 あとはどうなときゃあなろたい
 川端町っつあん きゃあめぐろ
 春日ぼうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃあで 花盛り 花盛り
 ピーチクパーチク雲雀の子 げんぱく茄子のいがいがどん

♪一つ山越え も一つ山超え あの山越えて
 私やあんたに惚れとるばい
 惚れとるばってん いわれんたい
 追々彼岸も近まれば 若者衆も寄らすけん
 熊んどんの夜聴聞詣り(よじょもんみゃあり)に ゆるゆる話をきゃあしゅうたい
 男振りには惚れんばな 煙草入れの銀金具が それが因縁たい
 アカチャカベッチャカ チャカチャカチャー


【歌詞について】
 この歌の歌詞についてはいろんな解釈を目にするが、明治17年生まれの僕の祖母が使っていた言葉とほぼ同じなので、僕なりの解釈をしてみた。
 「ぐじゃっぺ」は祖母もよく口にしていたが、醜女、醜男のことで、祖母は特に女性に対して言っていた記憶がある。「川端町っつぁん きゃあめぐろ・・・」これは多分、普賢寺の夜聴聞に行く時、川端町の方が表門になり、人が大勢集まって賑やかな様子を歌っているのだろう。「春日ぼうぶらどんたちゃ・・・」以降は、現代でも人を芋や大根などに例えたり、おしゃべりを鳥のさえずりに例えるように揶揄表現だと思われる。なお、「尻ひっぴゃあで」というのは「引っ張って」ではなく「ひっ剥いで」の意味で、品のない格好を指している。
 「熊んどんの夜聴聞詣りに・・・」ここで「熊んどん(熊本の人)」という言葉を使っているのは、おても自身は熊本のはずれに住んでいる人という設定のようだ。「男振りには惚れんばな 煙草入れの銀金具が・・・」男っぷりに惚れたわけではなく、上等な煙草入れを見て金持ちとにらんだ、というわけだ。


立方のザ・わらべはともかく、福島竹峰、藤本喜代則、中村花誠といった地方(じかた)のそうそうたる顔ぶれが凄い。

くまモンと熊本の由来

2011-12-26 23:32:26 | 熊本
 “くまモン”が熊本のイメージキャラクターとしての地位を確立しつつあるようだ。しかし、もともと熊本は隈本と呼ばれていた所で、動物の熊とは何の関係もない。隈本を熊本と表記するように変えたのは加藤清正だと言われている。そもそも隈とはどういう意味かと言うと国語辞書には「 曲がって入り込んだ所。また、奥まった所。」と書いてある。それではなぜ隈本と呼ばれていたのか、言い換えればどんな地形にあったからそう呼ばれたのかという話になるが、これは熊本市内を流れる最大の河川、白川の流れが関係している。白川はもともと下図のように蛇行して流れていた。つまり白川が曲がって入り込んだ一帯を隈本と呼んでいたのである。加藤清正よりも100年ほど前に今の第一高校の所に鹿子木寂心が建てた城を隈本城と呼んでいた。この白川の流れを変える工事を行ったのも加藤清正である。清正がなぜ、隈本を熊本に変えようと思ったのか、熊の方が強そうだからとか、地形そのものが変わったからとか、新たに築城する城を古城の隈本城とはっきり区別したかったからとか、諸説あるがいずれも定かではない。いずれにせよ、清正が熊本に変えていなければ、400年後に“くまモン”が登場することもなかったろう。


下通りは川の中だった!(熊本県の資料より)


長塀前を流れる坪井川はもと白川だった!

ドラマ「坂の上の雲」完結!

2011-12-25 22:56:46 | テレビ
 3年にわたって放送されたNHKのドラマ「坂の上の雲」が今夜完結した。「とうとう」と言うべきか、「やっと」と言うべきか。ドラマの出来はともかく、僕にとっては明治期の日本や日本人についてあらためて考え直す良い機会になったことだけは確かなようだ。考えてみれば、これは決して遠い昔の話ではない。日露戦争が終わったのが今から数えて106年前、僕の祖母は既に成人しており、父が生まれる6年ほど前の話だ。そう考えるととても身近な時代に思えてくる。さて、この物語から僕らが学ぶべきは何なのか。「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」で始まるオープニングでは、明治時代の日本人について、司馬遼太郎は「楽天主義」と評しているが、はたして現代の日本人は何と評したらよいのだろう。

真央ちゃんスマイル戻る!

2011-12-24 22:29:11 | スポーツ一般
 昨日から始まったフィギュアスケートの全日本選手権。今夜は女子ショートプログラム。何と言っても注目は御不幸があった直後の大会に臨んだ浅田真央がどんなスケーティングを見せるのか、だった。大阪なみはやドームを埋めた観衆も最大の注目はその点にあったようだ。まるで自分の家族が滑っているかのように視線を送る観衆の心配がテレビ画面からもヒシヒシと伝わってくる。当の真央ちゃんはまるで何事もなかったかのような普段どおりの演技を見せてくれた。そして演技終了後はあの真央スマイル。点数なんかどうでもいい。あのしなやかなスケーティングとスマイルさえ見せてくれれば。

荒尾競馬場と海達公子

2011-12-23 21:49:42 | 文芸
 今日、荒尾競馬場が83年の歴史に幕を降ろした。開設された昭和3年というのはまだ三池炭鉱の景気で荒尾や大牟田の街は活況を呈していた時代。荒尾競馬場も大いに賑わっていたことだろう。また一つ荒尾の灯が消えた。
 大正末期から昭和初期、荒尾に現れた天才少女詩人、海達公子の研究で知られる規工川祐輔先生の著書「評伝 海達公子」によれば、開設間もない荒尾競馬場に公子が母マツヱに連れられて行ったことが記されている。昭和5年、高瀬高等女学校の女学生だった公子の家庭は父が朝鮮へ出奔し、経済的には困窮していたはずだが、母マツヱは幼い頃から日本各地を行商して周るという環境で育ったせいか、射幸心の強い人だったようだ。公子の日記には「馬券を8円で買ったが2円80銭しか戻って来なかった。でも楽しうありました」と書かれているという。つましい暮らしの公子にひと時の夢を与えた荒尾競馬も歴史のかなたへ消えてしまった。

タイヤカフェと石原さとみ

2011-12-22 17:00:27 | テレビ
 OBの一人としてブリヂストンのテレビCMは気になる、ということは以前にもブログに書いた記憶があるが、昨日送られてきた社内報に現在オンエア中の「TAIYA CAFE」に出演している石原さとみちゃんのインタビュー記事が載っていた。このCMは僕が今まで見たブリヂストンのテレビCMの中でも最も好感が持てるものの一つだ。彼女いわく、「私が『TAIYA CAFE』に入ってくるシーンの『こんちは~』の言い方は、軽いけど雑にならないように実は結構練習しました(笑)」だって。また、「私自身、『ブリヂストン』と聞いて真っ先に思い浮かぶのがテニスラケット。テニス部だった中学生の頃、ブリヂストンのラケットを使っていました。今はブリヂストンの電動自転車にも乗っています」とも語っている。もともと好きな女優さんなのだが、こんな話を聞くとますます好きになりそうで・・・


城下町文化のつたえびと ~ 上村ファミリー ~

2011-12-21 22:06:08 | 熊本
 今朝の熊日新聞に、観光客を連れて古町を案内するげんぞーさんの写真が載っていた。げんぞーさんとは古町の一角、魚屋町でキャンドルショップ・居酒屋・バーベキューケータリングなどを営む上村元三商店の店主であり、古町の名案内人でもある上村元三さんのことである。上村さんは店の経営の傍ら古町・五福校区で古い町屋を活かした町づくりに率先して取り組んでいる。キャンドルショップを経営するのは奥様の敏子さん。また、上村ご夫妻は少女舞踊団「ザ・わらべ」の一員、あやのちゃんのご両親でもある。加藤清正の時代から変わらない町割りと風情ある城下町の景観を守り、あわせて城下町で育まれた伝統芸能を支える上村ファミリーに心から声援を送りたい。

■げんぞーさんのブログ
 「源ちゃんのつぶやき源ゾーン
■敏子さんのブログ
 「キャンドルハウス

※記事をクリックすると拡大します



少女舞踊団ザ・わらべ(左からかえちゃん、くるみちゃん、あやのちゃん)

Those Were The Days ~ あの頃はよかった ~

2011-12-20 17:04:33 | 音楽芸能
 自分のブログを振り返ってみると「昔はよかった」的な記事が多くなっていることに気付く。歳をとった証拠だ。僕が大学を卒業した年、イギリスのメリー・ホプキンという女性歌手の唄う「悲しき天使(Those Were the Days)」という歌がヒットした。ビートルズのポール・マッカートニーがプロデュースしたこの曲は原曲はロシアの歌だそうだが、ちょっと悲しげな旋律が受けた。原題の「Those were the days」とは、「あの頃はよかった」というようなニュアンスの慣用句で、歌詞も若い頃をノスタルジックに思い返している心境を描いている。当時はメリー・ホプキンの可愛らしさと綺麗な歌声に心を奪われていたが、今日聴きなおしてみるとその歌詞が心に響く。英語の歌詞の最初の部分だけ、拙いながら自分で和訳してみた。

Once upon a time there was a tavern
Where we used to raise a glass or two
Remember how we laughed away the hours
And dreamed of all the great things we would do

Those were the days my friend
We thought they'd never end
We'd sing and dance forever and a day
We'd live the life we choose
We'd fight and never lose
For we were young and sure to have our way.
La la la la...

昔、一軒の居酒屋があった
そこで僕たちはよく1杯か2杯のグラスを傾けあったものだ 
僕らは時の経つのも忘れて笑い合い、将来の大きな夢を語り合ったことを
よく憶えている

友よ あの頃はよかった
僕らはそんな時が永遠に続くと思っていた
僕らは来る日も来る日も歌ったり踊ったりしていられると思っていた
僕らはそれぞれ自らの人生を選び、戦い、そして負けることなんかないと思っていた
なぜなら僕らは若かったし、自分の思い通りの人生を歩もうと思っていたから
ララララ・・・


朝ドラ「カーネーション」が面白いわけ

2011-12-19 17:55:30 | テレビ
 NHKの朝ドラ「カーネーション」がなかなか好調のようだ。近年の朝ドラでは一番面白いという声もよく聞く。これはいろんな要因があると思うが、僕はやっぱり渡辺あやの脚本をまずあげたい。この話にはモデルとなった人物はいるものの原作はない。従って登場人物のキャラクター設定やストーリー展開はすべて渡辺あやのオリジナルだ。彼女が今日の地位を築いたのは、2003年の映画「ジョゼと虎と魚たち」での成功体験が原点となっていることは間違いない。そんな意味で最近「ジョゼと虎と魚たち」を見直してみた。何度見ても面白い。特に登場人物ひとりひとりのキャラクターが作り込んであり、それぞれの存在感に納得性があるので、その口から出てくるセリフが実に自然なのだ。この「ジョゼと虎と魚たち」の原作は田辺聖子のわずか25頁の短編だ。だからこれはまぎれもなく渡辺あやの創作力が生きた映画だということができる。これは一昨年、大評判をとったドラマ「火の魚」にも言える。「火の魚」の原作は室生犀星の20頁にも満たない短編だ。しかし、ここでも渡辺あやの創作力によって登場人物たちに見事に命が吹き込まれた。彼女を「カーネーション」の脚本に抜擢したNHKの狙いはそこにあったのだろう。
 それから次はやはり尾野真千子という女優をキャスティングしたことが大きいと思う。中学生の時に河瀬直美監督に偶然見いだされ、映画「萌の朱雀」のヒロインに抜擢された彼女は「演技をしない」ことを徹底的に叩き込まれたそうだ。それは彼女の原体験として今もなお体に染みついているという。また、「火の魚」で渡辺あやと出会っていたことや、「カーネーション」と同じく大坂の市井の人々を描いた朝ドラ「芋たこなんきん(2006)」に出演していたことなど、彼女が「カーネーション」のヒロインを演じることは前から運命づけられていたような気もする。しかも「芋たこなんきん」は前述の田辺聖子さんの原作だったというのも妙な因縁だ。


渡辺あやの出世作、映画「ジョゼと虎と魚たち(2003年、犬童一心監督)」
主演の妻夫木聡と池脇千鶴


連続テレビ小説「カーネーション」のヒロイン糸子を演じる尾野真千子


尾野真千子のデビュー作「萌の朱雀(1997年、河瀬直美監督)

荒木精之さんの想い出

2011-12-18 17:49:19 | 文芸
 荒木精之さんの没後30年記念特別展「人間 荒木精之」が熊本近代文学館で開催されているというので見に行った。荒木精之とは戦後、熊本にあって文芸界のリーダー的な役割をはたした作家である。既にこのブログでも何度か書いたことがあるが、荒木先生とはたった一度だけお会いする機会があった。もう40年近く前のことだ。展示された物の中に見覚えのある懐かしい本があった。その本を眺めながら遠いあの日のことを想い出していた。
 あれは僕が会社に入って2年目の頃だった。当時の工場長から社内報を発行するようにとの指示があった。人事労務担当の新人だった僕にそのお鉢がまわってきた。社内の編集委員会なるものを組織し、記事内容を話し合ったが、その中の一つとして定例的に地元ネタを載せようということになった。いろんな案の中で、ある先輩社員が提案した「肥後の民話」が採用された。そしてその先輩は、ネタは荒木精之先生に相談してみたらと言う。その頃僕は荒木先生のことなど全く知らなかった。怖いもの知らずでいきなりご自宅を訪問した。アポなし突撃というやつだ。熊本市の薬園町にあったご自宅の格子戸を開けて声をかけると、右の写真の通り、文士らしく着物姿の先生が現われた。来意を説明すると先生は「わかった!」と言って奥の部屋へ。しばらくして戻ってきた先生は一冊の本を携えていた。「これを使ったらどうか!」一瞬ためらった僕に先生は「いいから持ってけ!」それが下の「続 肥後民話集」である。それっきり先生にお会いすることはなかったが、その後、先生の著作や業績を知るにつけ、なんと無礼なことをしたのだろうと恥じ入ったものだ。

 

昭和41年8月、三島由紀夫は遺作となった長編小説「豊饒の海」の第2部「奔馬」を執筆するに当たり、神風連について取材するため、荒木先生を熊本に訪ねた

朝原宣治&江里口匡史 陸上短距離技術指導!

2011-12-17 18:10:10 | スポーツ一般
 北京オリンピック陸上男子リレー100m×4の銅メダリスト、朝原宣治さんと現在日本の短距離第一人者の江里口匡史選手(鹿本高出身)による陸上短距離の技術指導が今日、熊本県民総合運動公園陸上競技場(KKWING)で行われた。午後からの実技指導は一般の観覧もフリーだったので見に行った。厳しい寒さもものともせず、多くの高校生・中学生が熱心に指導を受けていた。朝原さんは骨盤の位置を意識した走り方や踏み出した前足にしっかり体重を乗せることなど、ランニングの基本中の基本を繰り返し指導していたのが印象的だった。また、今シーズン故障などもあって実力を十分発揮できなかった熊本期待の野林祐実選手(九州学院)も楽しそうに参加していた。


江里口選手の手本を見せながらの朝原さんの指導に熱心に聞き入る参加者たち。


チームメイトと楽しそうに走る野林祐実選手