甥っ子が表計算の資格試験を受けるので、連日その受験対策のサポートをしている。受験するエクセルのバージョンを2003か2007のどちらにするか、選ばなければならないので、日頃使っているExcel2003を選ばせた。以前から受験バージョンを選ぶということはあったが、今ほどのバージョンの差はなかった。今は二つのバージョンで操作性がかなり異なるので選び間違ったら大変だ。これは資格試験に限らず、実際のビジネス現場も同じような状況があるようだ。エクセルやワードなどのオフィスシリーズは今でも2003のバージョンを使っているところが、まだ圧倒的に多いと聞く。あえて2007に替えなければならない理由がないのでそんな状態が続いているのだろう。聞くところによると、さらに新しいバージョン2010がリリースされるそうだが、ビジネス現場とは無関係なマイクロソフト・オフィスのバージョンアップは今後も続くのだろうか。ある意味でパソコンの発展を支えてきたマイクロソフト・オフィスだけに動向が気になる。
今夜も男子サッカーの試合は歯がゆい思いで終った。こんなこともあるんだなと思う反面、本番じゃなくてよかった、とホッと胸をなでおろした。
それはさておき、なでしこジャパンが6大会連続のワールドカップ出場を決めた。男子とはメディアの扱いも比べものにならないほど小さいが、彼女たちは恵まれない環境の中で、本当によく頑張っていると思う。心から敬意を表したい。できることなら男子より先に世界のベスト4を達成し、男子チームを叱咤してほしい。また、その可能性は十分にあると思う。これからも男子以上に、なでしこジャパンをウォッチし、声援を送り続けたい。
それはさておき、なでしこジャパンが6大会連続のワールドカップ出場を決めた。男子とはメディアの扱いも比べものにならないほど小さいが、彼女たちは恵まれない環境の中で、本当によく頑張っていると思う。心から敬意を表したい。できることなら男子より先に世界のベスト4を達成し、男子チームを叱咤してほしい。また、その可能性は十分にあると思う。これからも男子以上に、なでしこジャパンをウォッチし、声援を送り続けたい。
今日は家内と映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」を観に行った。田園風景の中を走る電車の画を見ただけで心にグッと来るものがある。どこか懐かしい、いわば心の原風景みたいなものだ。人間の生きがいや夢、そして家族などについて考えさせられるハートウォーミングないい映画だ。ずらりと並んだ脇役陣もすごい。密かに(?)応援している本仮屋ユイカちゃんもよかった。顔が小っちゃくて色が白い。
ところで、この映画を制作しているロボット社の勢いがすごい。「三丁目の夕日」シリーズで一躍有名になったが、一昨年の「BALLAD」の熊本ロケでは2週間にわたってお手伝いさせていただいたこともあって、日頃から注目しているが、この「RAILWAYS」以降も
・SPACE BATTLESHIP ヤマト
・FLOWERS -フラワーズ-
・THE LAST MESSAGE 海猿
・踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!
などの話題作が公開を控えており、勢いはとどまるところを知らないという感じなのだ。今後の動向から目が離せない。
ところで、この映画を制作しているロボット社の勢いがすごい。「三丁目の夕日」シリーズで一躍有名になったが、一昨年の「BALLAD」の熊本ロケでは2週間にわたってお手伝いさせていただいたこともあって、日頃から注目しているが、この「RAILWAYS」以降も
・SPACE BATTLESHIP ヤマト
・FLOWERS -フラワーズ-
・THE LAST MESSAGE 海猿
・踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!
などの話題作が公開を控えており、勢いはとどまるところを知らないという感じなのだ。今後の動向から目が離せない。
ヒットメーカー、松本隆をトリビュートしたコンピレーションアルバム「松本隆に捧ぐ -風街DNA-」がリリースされた。中でも楽しみだった「赤いスイートピー」綾瀬はるかバージョン。素直な歌い方がとてもここちよい。
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今では日本、海外を問わず、女優さんが歌うのはちっとも珍しくなくなったが、昔は、ミュージカル女優は別にして、歌える女優さんはそう多くはなかった。そんな時代にイタリアのソフィア・ローレンは出演する映画でよく歌った。「河の女(1955)」の“マンボ・バカン”、「島の女(1957)」の“イルカに乗った少年”そして下の「月夜の出来事(1958)」の“ビン・バン・ボン”などは日本でもヒットした。まだソフィア・ローレンが20代の前半の頃で、スクリーンからあふれ出すようなセクシーな魅力に少年だった僕らは圧倒された。「月夜の出来事」で共演したケイリー・グラントが恋に落ちたのも無理はない。
ナポリ湾(1960)より
今年は小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが来日して120年ということで八雲ゆかりの各地で記念イベントが開かれるようだが熊本も例外ではない。八雲が熊本の五高の英語教師として赴任したのは、来日した翌年、1891年の11月のことである。以来3年余りを熊本で過ごし、その間に多くの作品を書いている。彼が住んだ家は現在、記念館として熊本市安政町(鶴屋デパートの裏手)に残されている。ちなみに、彼を熊本に招いたのは、その当時、五高の校長を務めていた嘉納治五郎(日本柔道の父)であり、彼の後任の英語教師として赴任したのが夏目漱石である。下の文は、熊本に住んでいた時期に書いた「夏の日の夢」の一節で、長崎から熊本への旅の途中に立ち寄った三角の旅館「浦島屋」のことが書かれている。
その宿屋は、わたくしには極楽のように思われた。そして、そこの女中たちは、まるで天女かなんぞのように思われた。というのは、ちょうどその時わたくしは、近代的設備ならなんでもそろっている、ゆっくりと手足ののばせるようなヨーロッパ風のホテルはないものかと思って、この国のある開港場へそれをさがしに行って、じつはそこからほうほうのていで逃げ出してきたところだったからである。そんなわけで、そこの宿屋のゆかたにくつろぎ、ひんやりとした当りのやわらかな畳の上にあぐらをかいて、すずしい声をした女中たちにかしずかれ、きれいなものに身のまわりをとりまかれながら、ゆっくりと足腰をのばしたときには、まず、十九世紀のあらゆる心労からほっと救われたような思いがした。
朝の膳には、竹の子とハスの煮つけが出た。それから、極楽のおみやげに、うちわを一本くれた。そのうちわには、波打ちぎわに、大きな波がひとつどんと白く砕け散っている上に、あさぎ色の空へむらむらぱっと舞いあがっている、チドリの絵がかいてある。この絵ひとつを見るだけでも、ここまでわざわざ出かけてきた旅の苦労を、きれいさっぱり忘れるだけの値打があった。みなぎる光り、人を威圧する壮大な生動、汐風の凱歌、――この三つのものが、渾然と一幅の画中にとけあっている絵だ。それを見たとき、わたくしは思わず、あっと快哉を叫びたくなったくらいであった。
二階ざしきの縁がわの、杉丸太の柱のあいだから、海ぞいの、くすんだ色をした美しい町の家並が、ひと目に見わたされる。碇をおろしたまま、うつらうつら眠っているような幾そうかの黄いろい帆かけ舟、見上げるばかりの深緑の断崖が両がわから迫りよったあいだにひらけている入江の口、そのむこうに、はるかかなたの水平線まで、いちめんにぎらぎら光り輝いている夏の海。その水と空と相つらなるあたりに、さながら古い思い出を見るように模糊として打ち霞んでいるアイタイとした山のすがた。そうしてしかも、くすんだ色のその町並と、黄いろい幾そうかの帆かけ舟と、深緑の断崖とをのぞいたあとは、なにもかも、天地はただひといろの紺碧に塗りこめられているのである。
そのとき、恍惚としたわたくしの瞑想のなかへ、ふと風に鳴る風鈴の音のようなすずしい声が、しとやかな挨拶のことばを奏でだした。わたくしは、その声の主が、この玉楼の女将だなとすぐに心づいた。おかみは、茶代の礼を言いにあがってきたのである。わたくしは、さっそくおかみのまえに手をついてあいさつをした。おかみというのは、まだごく年の若い、それこそ惚れ惚れするような愛嬌したたる婦人で、ちょっと、国貞えがくところの青娥の小婦、胡蝶の美人といったおもむきがある。そのおかみをひと目見て、わたくしは、なんということなしにふと死というものを考えた。すべて美しいものは、どうかすると悲しみの予感となることがあるものだ。
おかみは、わたくしがこれからどこへ行くのか、しだいによっては、お俥をお呼びいたしましょうかといってたずねた。そこで、わたくしは答えた。
「これからわたしは熊本へ行くのだがね。行くまえに、ひとつお宅の屋号を、念のためにうかがっておきたいな。いつまでも忘れずにおぼえておきたいから……」
すると、おかみは言った。「まあ、ほんに手前どもでは、お客さんのお部屋もおそまつで、女中もまことに行きとどきまっせんでなあ。屋号は『うらしまや』と申します……。そんなら、ちょっと、お俥を申しつけてまいりましょう」
琴でもかなでるようなおかみの声が、そのまま部屋から立ち去って行ってしまうと、わたくしは、にわかに妖しいクモの絲かなんぞにからだじゅうを十重二十重に巻きつかれでもしたように、身のまわりに何かねっとりとした恍惚感が、じんわりと落ちてきたような心もちがした。というのは、ほかでもない、その宿屋の屋号が、人をまぼろしの世界へと誘いつれてゆく、ある歌ものがたりに出てくる名前とそっくりおなじだったからである。
その宿屋は、わたくしには極楽のように思われた。そして、そこの女中たちは、まるで天女かなんぞのように思われた。というのは、ちょうどその時わたくしは、近代的設備ならなんでもそろっている、ゆっくりと手足ののばせるようなヨーロッパ風のホテルはないものかと思って、この国のある開港場へそれをさがしに行って、じつはそこからほうほうのていで逃げ出してきたところだったからである。そんなわけで、そこの宿屋のゆかたにくつろぎ、ひんやりとした当りのやわらかな畳の上にあぐらをかいて、すずしい声をした女中たちにかしずかれ、きれいなものに身のまわりをとりまかれながら、ゆっくりと足腰をのばしたときには、まず、十九世紀のあらゆる心労からほっと救われたような思いがした。
朝の膳には、竹の子とハスの煮つけが出た。それから、極楽のおみやげに、うちわを一本くれた。そのうちわには、波打ちぎわに、大きな波がひとつどんと白く砕け散っている上に、あさぎ色の空へむらむらぱっと舞いあがっている、チドリの絵がかいてある。この絵ひとつを見るだけでも、ここまでわざわざ出かけてきた旅の苦労を、きれいさっぱり忘れるだけの値打があった。みなぎる光り、人を威圧する壮大な生動、汐風の凱歌、――この三つのものが、渾然と一幅の画中にとけあっている絵だ。それを見たとき、わたくしは思わず、あっと快哉を叫びたくなったくらいであった。
二階ざしきの縁がわの、杉丸太の柱のあいだから、海ぞいの、くすんだ色をした美しい町の家並が、ひと目に見わたされる。碇をおろしたまま、うつらうつら眠っているような幾そうかの黄いろい帆かけ舟、見上げるばかりの深緑の断崖が両がわから迫りよったあいだにひらけている入江の口、そのむこうに、はるかかなたの水平線まで、いちめんにぎらぎら光り輝いている夏の海。その水と空と相つらなるあたりに、さながら古い思い出を見るように模糊として打ち霞んでいるアイタイとした山のすがた。そうしてしかも、くすんだ色のその町並と、黄いろい幾そうかの帆かけ舟と、深緑の断崖とをのぞいたあとは、なにもかも、天地はただひといろの紺碧に塗りこめられているのである。
そのとき、恍惚としたわたくしの瞑想のなかへ、ふと風に鳴る風鈴の音のようなすずしい声が、しとやかな挨拶のことばを奏でだした。わたくしは、その声の主が、この玉楼の女将だなとすぐに心づいた。おかみは、茶代の礼を言いにあがってきたのである。わたくしは、さっそくおかみのまえに手をついてあいさつをした。おかみというのは、まだごく年の若い、それこそ惚れ惚れするような愛嬌したたる婦人で、ちょっと、国貞えがくところの青娥の小婦、胡蝶の美人といったおもむきがある。そのおかみをひと目見て、わたくしは、なんということなしにふと死というものを考えた。すべて美しいものは、どうかすると悲しみの予感となることがあるものだ。
おかみは、わたくしがこれからどこへ行くのか、しだいによっては、お俥をお呼びいたしましょうかといってたずねた。そこで、わたくしは答えた。
「これからわたしは熊本へ行くのだがね。行くまえに、ひとつお宅の屋号を、念のためにうかがっておきたいな。いつまでも忘れずにおぼえておきたいから……」
すると、おかみは言った。「まあ、ほんに手前どもでは、お客さんのお部屋もおそまつで、女中もまことに行きとどきまっせんでなあ。屋号は『うらしまや』と申します……。そんなら、ちょっと、お俥を申しつけてまいりましょう」
琴でもかなでるようなおかみの声が、そのまま部屋から立ち去って行ってしまうと、わたくしは、にわかに妖しいクモの絲かなんぞにからだじゅうを十重二十重に巻きつかれでもしたように、身のまわりに何かねっとりとした恍惚感が、じんわりと落ちてきたような心もちがした。というのは、ほかでもない、その宿屋の屋号が、人をまぼろしの世界へと誘いつれてゆく、ある歌ものがたりに出てくる名前とそっくりおなじだったからである。
菊池郡大津町のホームページが、平成22年度全国広報コンクールのウェブサイト町村部門で、最高賞にあたる「総務大臣賞」を受賞したというニュースを見た。この町のホームページは見たことなかったが、このニュースを見て、さっそく覗いてみた。たしかに丁寧な作り方に、担当者の熱意とセンスが感じられる。なかでも昭和25年8月分から掲載されている広報紙のバックナンバーは凄い。僕は県内外を問わず、いろんな町の情報を調べる時、ホームページ上に置かれている広報紙を見ることが多い。僕が見た中では、こんな古くからのバックナンバーは見たことがない。ホームページはもちろんだが、広報紙自体も丁寧な作りで感心する。人口3万人規模の小さな町でも、何かキラリと光るものを作ることはできるんだなぁとあらためて感じる。僕は会社勤務時代、広報も永い間担当したので、ご苦労はよくわかるが、実際作っている一人や二人の担当者によって出来不出来は決まると思うし、その意味で大津町はいい人材をお持ちだと思う。
戦後10年くらい経った頃の茨城県霞ヶ浦地方。敗戦から立ち直り、日本人が貧しくも逞しく生きていた時代。半農半漁の村に生きる人々の姿を描く。今はもう見ることはできない昔の農作業風景や帆引き漁など、今日では昭和史の貴重な映像資料とも言える。
今井正監督初のカラー映画として作られたこの映画は、1957年度のキネマ旬報日本映画ベストテンの第1位に選ばれているが、この年、今井監督は、「純愛物語」が同ベストテンの第2位を占めるという快挙を成し遂げている。また、この年のベストテンには、他に木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」、川島雄三監督の「幕末太陽伝」、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」と「どん底」など日本映画史に残る名作がズラリ。今井監督の充実ぶりが一層光る。
【出演】江原真二郎、中原ひとみ、中村雅子、望月優子、木村功、加藤嘉、原泉、南原伸二、藤里まゆみ、森下義秀ほか
今井正監督初のカラー映画として作られたこの映画は、1957年度のキネマ旬報日本映画ベストテンの第1位に選ばれているが、この年、今井監督は、「純愛物語」が同ベストテンの第2位を占めるという快挙を成し遂げている。また、この年のベストテンには、他に木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」、川島雄三監督の「幕末太陽伝」、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」と「どん底」など日本映画史に残る名作がズラリ。今井監督の充実ぶりが一層光る。
【出演】江原真二郎、中原ひとみ、中村雅子、望月優子、木村功、加藤嘉、原泉、南原伸二、藤里まゆみ、森下義秀ほか
今日、NHK-BS1で1970年のワールドカップ・メキシコ大会決勝、ブラジル対イタリアの試合を放送していた。この映像を見るのは40年ぶりだ。ペレ率いるブラジルは一つの黄金期を迎えていて、あまりにも強かったので、この決勝ではイタリアを応援した。なかでもエース・ストライカーのルイージ・リーバは、グラディエーターを思わせる精悍な顔と左足の強烈なシュートが魅力でお気に入りの選手だった。
この1970年という年は、僕にとっておそらく生涯で一番忘れられない年になるだろう。この年、転職をして人生のターニングポイントになったことに加え、歴史に残るような出来事が多かった。ビリー・ジョエルの歌に「ハートにファイア(We Didn't Start the Fire)」という歌があるが、彼の半生の中で、忘れられない人名や出来事を羅列した歌詞が綴られている。この歌にならって、僕にとっての1970年の忘れられないキーワードを綴ってみた。
玉の海・北の富士横綱昇進、大阪万博、よど号ハイジャック事件、新日本製鐵誕生、箕島高校、島本講平、プロ野球黒い霧事件、池永正明、ビートルズ解散、アポロ13号事故、瀬戸内シージャック事件、歩行者天国、三島由紀夫自決、モハメド・アリ復帰、ジェリー・クォーリー、小柳ルミ子、ワールドカップメキシコ大会、ペレ、トスタン、リベリーノ、ジャイルジーニョ、カルロス・アルベルト、ジェルソン、ルイージ・リーバ、ジャシント・ファケッティ、ベンフィカ・リスボン、エウゼビオ、釜本邦茂、ネルソン吉村、メル若林、映画「ひまわり」、ヴィットリオ・デシーカ、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ
この1970年という年は、僕にとっておそらく生涯で一番忘れられない年になるだろう。この年、転職をして人生のターニングポイントになったことに加え、歴史に残るような出来事が多かった。ビリー・ジョエルの歌に「ハートにファイア(We Didn't Start the Fire)」という歌があるが、彼の半生の中で、忘れられない人名や出来事を羅列した歌詞が綴られている。この歌にならって、僕にとっての1970年の忘れられないキーワードを綴ってみた。
玉の海・北の富士横綱昇進、大阪万博、よど号ハイジャック事件、新日本製鐵誕生、箕島高校、島本講平、プロ野球黒い霧事件、池永正明、ビートルズ解散、アポロ13号事故、瀬戸内シージャック事件、歩行者天国、三島由紀夫自決、モハメド・アリ復帰、ジェリー・クォーリー、小柳ルミ子、ワールドカップメキシコ大会、ペレ、トスタン、リベリーノ、ジャイルジーニョ、カルロス・アルベルト、ジェルソン、ルイージ・リーバ、ジャシント・ファケッティ、ベンフィカ・リスボン、エウゼビオ、釜本邦茂、ネルソン吉村、メル若林、映画「ひまわり」、ヴィットリオ・デシーカ、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ
今日は朝から、来春開業する九州新幹線熊本駅の駅舎見学を目的とする“JR九州ウォーキング大会”に、家内と一緒に参加した。ウォーキングといっても、新幹線の線路周辺をチャチャッと歩くのかと思いきや、なんと集合場所の上熊本駅から、熊本城内を抜けて新町や古町などの街中を巡って熊本駅へ至る本格的なウォーキング。そんな心構えでは参加してなかったので、思いもかけぬ大汗をかいた一日だった。肝心の駅舎は、まだ稼動しているわけではないので今いちピンと来なかったけれど、駅周辺の風景の変わり方にはさすがに、良い面悪い面いろいろ感じるところがあった。
先日、「信さん 炭鉱町のセレナーデ」を観ながら、ふと「わが谷は緑なりき」を思い出していた。なんと言っても炭鉱映画の元祖みたいなものだから。この作品がアカデミー作品賞、監督賞を受賞した1941年は、今やアメリカ映画のオールタイムベストワンに位置づけられる「市民ケーン」も作られている。オーソン・ウェルズはジョン・フォード作品に学んで、あの傑作「市民ケーン」を作ったと言われているが、インタビューで「尊敬する監督は?」と問われて「ジョン・フォード、ジョン・フォード&ジョン・フォード」と答えたという有名なエピソードは、「市民ケーン」をもってしてもジョン・フォードに勝てなかった複雑な想いも込められているのかもしれない。ジョン・フォードの不朽の名作となった、この「わが谷は緑なりき」も、当初は「ベン・ハー」や「ローマの休日」などで有名なウィリアム・ワイラーが監督する予定だったことはあまり知られていない。スケジュールが合わず、ジョン・フォードが後を引き継ぐ形となったが、出来上がった作品を見てワイラーはどんな想いだったろうか。
この映画が日本公開されたのは戦後になってからで、僕が初めて見たのは大学生の時だから、作られてからすでに20年以上経っていた。だから成人したロディ・マクドウォールを何本も見ており、初めて見る少年時代の彼は、顔が大人に見えて不思議な感じがした。とにかく、登場人物たちはみな粉塵ですすけているが、心が洗われるような映画だ。
この映画が日本公開されたのは戦後になってからで、僕が初めて見たのは大学生の時だから、作られてからすでに20年以上経っていた。だから成人したロディ・マクドウォールを何本も見ており、初めて見る少年時代の彼は、顔が大人に見えて不思議な感じがした。とにかく、登場人物たちはみな粉塵ですすけているが、心が洗われるような映画だ。
昨夜のNHK「SONGS」は、デビュー30周年を迎えた松田聖子の特集第一夜だった。そうか、あれからもう30年か。東京に転勤して間もない頃だった。ある日、職場の上司が言った。「オレの知り合いの娘が歌手デビューするから、ひとつ応援よろしく頼むよ!」。それが松田聖子の名前を聞いた最初だった。彼女がテレビやラジオに出てくると気になった。「あんな田舎臭くて大成するだろうか?」。でも彼女が歌う唄は結構ヒットした。すぐに映画にも出演した。「野菊の墓」。いい映画だったのに、彼女の桃割れ髪姿が出てくると、観客の失笑が洩れた。歌は次々にヒットした。でも80年代の半ばくらいまで、その頃、たくさんいたアイドル歌手のワン・オブ・ゼムに過ぎないと思っていた。それがある曲を聴いてから印象がガラッと変わった。それが「Sweet Memories」だ。この曲を知ったのは横浜のカラオケ屋だった。その頃、懇意にしていただいていたドクターに誘われて、横浜の街を飲み歩いた後、カラオケ屋に行った。同行していたのはそのドクターの取引関係にある製薬会社のプロパーさん。その彼は、学生時代、音楽を専門的にやっていたらしかった。順番に歌い、その彼が歌ったのが「Sweet Memories」だった。ムードたっぷりの素晴らしい歌唱だった。コマーシャルで聴いた記憶はあったが、なんという曲なのか彼に聞いた。松田聖子の「Sweet Memories」という曲で、彼女の曲の中でも特に良い曲だと彼は力説した。彼が言ったとおり、今では松田聖子の代表曲となった。
YさんからWindowsXPのパソコンが壊れて、最新のWindows7機に換えたのでセットアップしてほしいとのヘルプ依頼あり。僕自身、まだWindowsXPを使っているので、何の予備知識もなく、のこのこと出かけた。ところが、これまでWindowsXP上で使っていたワードやエクセルをインストールしようとしたら、無情にもはねつけられる。なんじゃこりゃ!と知人に電話したり、ネットで調べたりしてみると、XPモードとやらをマイクロソフトのサイトからダウンロードしてインストールしないと、これまでのワードやエクセルは使えないらしい。スッタモンダしながら、やっとの思いでセットアップがなんとかできたが、作業しながらふと思った。「これってオレのせい?」つまり、古いパソコンやソフトを使っているユーザーが悪いのか?何かがおかしい。マイクロソフトのサイトでにこやかに微笑むお姉さんの眼鏡の奥が、「それ見たことか」と底意地悪く光っているように見えた。
今まで観たなかで、好きな映画をリストアップしてみると、ある特徴に気付く。どれもがいとおしくなる映画ばかりだ。その1本1本を、思い出すままに書き連ねてみたい。
今日は、1960年、フランスの社会派監督アンドレ・カイヤットの名作「ラインの仮橋」。
第二次大戦、ドイツ軍の捕虜となったフランス人のパン職人ロジェと新聞記者のジャン。二人はライン河にかかった軍用仮橋の上で出会い、一緒に労役に服するため、あるドイツの村へと送られる。ここから二人の男の人生観と生き様が、際立った対照を見せながら、物語は進行する。村長の娘ヘルガを誘惑し、利用して脱走を図ったジャン。フランスへ逃げのび、レジスタンス運動に走る。一方、従順に労役をこなし、ドイツ人の信頼を得たロジェはやがて、男たちが兵役に駆り出された村で、村長代理を務めるほどの存在となる。そして、終戦、解放されてフランスへ帰還したロジェはどうしても、片思いのヘルガのことが忘れられない。ジャンに見送られながら、二人が出会ったあのラインの仮橋を渡り、再びドイツへと戻って行く。
※観たのはまだ高校生の時だったが、「人生ってなんだろう?」と考えさせられた。
今日は、1960年、フランスの社会派監督アンドレ・カイヤットの名作「ラインの仮橋」。
第二次大戦、ドイツ軍の捕虜となったフランス人のパン職人ロジェと新聞記者のジャン。二人はライン河にかかった軍用仮橋の上で出会い、一緒に労役に服するため、あるドイツの村へと送られる。ここから二人の男の人生観と生き様が、際立った対照を見せながら、物語は進行する。村長の娘ヘルガを誘惑し、利用して脱走を図ったジャン。フランスへ逃げのび、レジスタンス運動に走る。一方、従順に労役をこなし、ドイツ人の信頼を得たロジェはやがて、男たちが兵役に駆り出された村で、村長代理を務めるほどの存在となる。そして、終戦、解放されてフランスへ帰還したロジェはどうしても、片思いのヘルガのことが忘れられない。ジャンに見送られながら、二人が出会ったあのラインの仮橋を渡り、再びドイツへと戻って行く。
※観たのはまだ高校生の時だったが、「人生ってなんだろう?」と考えさせられた。
今夜の「龍馬伝」には、千葉城町の高橋公園にある維新群像5人のうち4人が登場した。特に熊本ゆかりの横井小楠の登場には注目した。勝海舟の命を受け、龍馬が勝塾の資金調達のため、福井藩の松平春嶽を訪ね、そこで春嶽によって横井小楠と引き合わされる設定になっていた。実際にはその前に、江戸の福井藩邸で引き合わされていたらしい。それはさておき、横井小楠が龍馬に対して、土佐藩の武市半平太や平井収二郎のことを口にする。実際そんなことを言ったのかどうかはわからないが、あれは、小楠のリアリスティックな一面を表現するために言わせたセリフだと思われる。最終的に龍馬と小楠は互いに尊敬し合いながらも、長州の扱いについて意見が合わず、訣別するが、その伏線なのかもしれない。
坂本龍馬、勝海舟、横井小楠、松平春嶽、細川護久
坂本龍馬、勝海舟、横井小楠、松平春嶽、細川護久