徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

忘れ得ぬCMソング

2024-12-20 17:30:07 | 熊本
 現在、熊本市中央区桜町の商業施設「サクラマチクマモト」のところには2015年3月まで「熊本交通センター」とともに商業施設「熊本センタープラザ」があった。その「センタープラザ」のCM曲は多くの熊本県民が今も忘れていないだろう。



CM曲にも歌われる「泉の広場」

 1976年5月、僕は家族を帯同して熊本から山口県防府市に転勤した。防府に着いて一番最初に耳に飛び込んできたのが、黒沢明とロス・プリモスが歌う水中翼船の歌「夢のオレンジライン」だった。その後も車を運転していると必ず聞こえてきて、すっかり耳馴染みとなった。当時まだ3歳だった長男も口ずさんでいた。その水中翼船も1988年には廃止されたらしい。今でも防府を思い出すと必ずこの曲が頭に浮かぶ。残念ながら音源が見つからなかったが、次のような歌詞だった。

海へゆきましょう 瀬戸内海を
水中翼船で ドライブしましょう
オレンジの花 咲き匂う
段々畑や 釣り舟が
駆けてくるくる 波の上
夢をみましょう 潮風甘い
オレンジライン 海の旅



 「センタープラザ」ほどのインパクトはないが、ずっと長い間耳にしてきて刷り込まれている曲のひとつが「鶴屋百貨店」のCMソング。「ハーイ ハーイ ハイセンス つるや!」


焼酎「田原坂」

2024-12-15 18:53:33 | 熊本
 熊本市北区植木町で民謡教室を開いておられる本條秀美さんは、植木町ゆかりの民謡「田原坂」の普及と継承に力を尽しておられる。また、「民謡田原坂全国大会」の実行委員長も長く務めて来られた。
 そんな本條さんから「地元産の焼酎『田原坂』が出来たので試飲してみて」とわざわざ焼酎を持ってきていただいた。焼酎はもう何年も口にしていないが、味見させていただいた。焼酎通というわけでもないが、スッキリした口あたりと米特有の甘みと香りがほのかに感じられた。
 ラベルを見ると手書きの「田原坂」の文字に少年兵と梅の枝の絵があしらってある。ラベルの右上隅に「本格焼酎」と記されている。気になってちょっと調べてみた。酒税法では焼酎は甲類と乙類とに分かれている。簡単に言うと新しい蒸留法が甲類で伝統的な蒸留法が乙類とされているが、「乙類」というのはイメージが悪いので、一定の基準を満たした乙類を「本格焼酎」と呼称するようになったらしい。そこで京都祇園のことを連想した。かつて花街が「祇園甲部」と「祇園乙部」とに分かれていたが「祇園乙部」はイメージが悪いので「祇園東」に呼称を変えたと聞いたことがある。
 それはさておき、この焼酎「田原坂」が植木町の新しい名産になればいいのだが。

 

舞 踊:植木町民謡田原坂保存会
 唄 :本條秀美
三味線:本條秀太郎

石垣復旧の現場

2024-12-04 19:19:44 | 熊本
 散歩で週3回は通る熊本城監物櫓(国の重要文化財)を支える石垣の復旧工事が行われている。通る度にしばらく立ち止まって見物するのだが、ここはおそらく熊本地震で崩落した熊本城石垣の中でも最も近くからその復旧工事を見ることができる場所じゃないかと思う。石垣の復旧方法については城内各所に説明板が設置されているのでだいたいのことは理解しているのだが、実際の現場ではそんな簡単にはいかないと思う。いったん解体した後、土の部分を整え、栗石を敷く。今回は樹脂系の補強材を間に何層か敷いていくらしい。築石はナンバリングされているとは言っても元の位置にうまく収まるのだろうか。1日にせいぜい5,6個しか積めないと聞くのでまさに根気のいる工事だ。だが、そんな工事を見ることができるのは今しかないわけで、できるだけ足を運んで見ておきたい。


監物櫓下の石垣復旧工事


監物櫓

講演会「細川家と熊本のお茶」

2024-11-12 16:00:06 | 熊本
 昨夜は、福榮堂さんからおさそいを受けていた細川護光氏(細川護熙氏の長男)の講演会「細川家と熊本のお茶」を聴きに行った。会場は上通の菓舗まるいわ。1階の茶室でまるいわ名物の「あんさんどら」とお抹茶をいただいた後、3階に上がって講演会に臨んだ。細川護光氏は現在、陶芸家のほか永青文庫(東京都文京区)の理事長や水前寺成趣園の出水神社宮司を務めるなど多忙な日々を送っておられるという。講演の概要は
 鎌倉時代に足利氏の孫である足利義季が下野国から三河国細川郷に移り住み細川姓を名のったことに始まる細川家の歴史。文武に秀で近世細川氏の祖となった細川幽斎。千利休に傾倒し「利休七哲」の一人に数えられた細川三斎。そして三斎や細川忠利に請われ利休の教えを守る「肥後古流」の祖となった茶頭・古市宗庵の話などが語られた。
 講演後、福榮堂さんはかつて泰勝寺(現細川家立田別邸)とのご縁があった銘菓の復活に励んでおられることを参加者の皆様にプレゼンでき、また護光氏にも直接ご挨拶ができて今回の目的を果たされたようで良かった。僕も福榮堂さんのお話しを補足する資料を護光氏にお渡しできて安心した。

 細川幽斎公といえば、「九州道の記」に書かれた、天正15年(1587)、九州平定のために出陣した関白秀吉を福岡・筥崎宮で陣中見舞いし、瀬戸内を船で帰る途中、山口、国府天神(防府天満宮)を廻り、田島(現山口県防府市)へ乗る船が着くまでの間、鞠生浦(まりふのうら)で催された連歌の会の話を読むと、今から40数年前に住んでいた頃の防府、田島や鞠生浦跡の風景を思い浮かべて懐かしさを感じたものだ。


まるいわ名物「あんさんどら」         細川護光氏作陶の茶碗で抹茶を

夏目漱石ゆかりの・・・

2024-10-24 20:40:40 | 熊本
 今日は熊本市現代美術館まで歩いて行った。ただ歩くのもつまらないので、わが家から美術館までの間で「夏目漱石」および漱石作品関連の文字をいくつ見かけるか数えてみようと思った。その結果が下記のとおりである。

 まずわが家から最も近いのがこの新坂の案内板。塗料が落ちて読みづらくなっているので下に数年前の状態を添付した。


 池田停車場(上熊本駅)から人力車で、五高の同僚となる菅虎雄宅へ向かう途中、この場所から熊本の市街地を見下ろして「森の都だなぁ」と言ったとか言わないとかいう話があるが、後年、漱石は九州日日新聞のインタビューに答えて次のように話している。

 ーー松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、まず第一に驚いたのは停車場前の道幅の広いことでした。そうしてあの広い坂を腕車(人力車)で登り尽くして京町を突き抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろしてまた驚いた。そしていい所に来たと思った。あれから眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている。それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い回っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道(豊後街道)の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。ーー

 次に見るのは「夏目漱石内坪井旧居」正面入り口の看板である。ここは漱石の熊本五番目の旧居で、他にも三番目の旧居、六番目の旧居も残っているが、「漱石記念館」として最も整備されているのがこの五番目の旧居である。



 漱石旧居を通り過ぎ県道1号線(熊本玉名線)に出るとFMクマモトのビルの前に「わが輩通り」と書かれた標柱が見える。いうまでもなく漱石の小説第一作「吾輩は猫である」にちなみ、漱石来熊百年に当たる1996年に、漱石旧居にほど近い県道1号線の一部区間を「わが輩通り」と名付けられたもの。柱の猫のオブジェとデフォルメした漱石の顔が可愛らしい。



 広丁の方へ歩いて行くと熊本信愛女学院の校舎の前にさしかかる。正門の脇に目につくのが「三毛子さん」の像。「吾輩は猫である」に登場し、吾輩のことを先生と呼んでくれる唯一の存在。吾輩のマドンナである。



 三毛子さんから100㍍ほど歩くと広丁から上通に入る地点だが、上通側から広丁に出る正面の歩行者信号には「漱石記念館」(内坪井旧居のこと)の案内板が取り付けられている。この地点から450㍍だそうだ。



 上通に入り、並木坂と呼ぶエリアを歩いて行くと、左側に漱石ゆかりの「舒文堂河島書店」が見えてくる。店舗の壁に下のプレートが貼られている。漱石はこの書店に足繁く通ったそうだが、初めて熊本に降り立った明治29年4月13日、上記の新坂の件の後、この書店に早くも立ち寄っていたことは知らなかった。


崩落した奉行丸石垣の石回収始まる

2024-10-04 20:13:47 | 熊本
 昨日、加藤神社に参拝した後、熊本城西出丸広場側の通路を通って二の丸広場へ抜けようと歩いていた時、奉行丸西側の崩落した石垣あたりで工事関係者が入っているのが見えた。熊本地震から既に8年あまりが過ぎ、ここを通る度に、崩れたままの石垣はいったいいつまで放置するのだろうと気になっていた。すると昨日夕方のTVニュースでこの奉行丸西側の石を回収する作業が始まったというニュースが流れた。2024年度中に石の回収を完了し、2040年度から積み直し作業が始まるという。復旧する頃まで生きているかどうかわからないが、ともかく前に進み出したことは喜ばしい。

 奉行丸は旧藩時代、奉行所が集まっていたエリア。1960年の熊本国体ではバレーボールコートになったり、テニスコートとして使われたりしていた。その後、スポーツ施設が各地にできて、スポーツ施設の役を御免となった。熊本地震前には、かつての櫓門や塀などが復元され、お城まつりなど熊本城内のイベント会場の一つとして使われていた。


奉行丸西側石垣の下は、春には美しい桜が咲く遊歩道があった。


熊本地震(2016年4月)で石垣が崩落し遊歩道をふさいでいる。


熊本地震前にはイベント会場として使われた奉行丸(2012年10月 秋夜の宴スペシャルより)

チャリチャリ(シェアサイクル)

2024-09-21 20:22:34 | 熊本
 2年ほど前から始まった熊本市のシェアサイクルサービス(チャリチャリ)実証実験は、今年4月から本格運用が始まった。すると雨後の筍のようにあちこちにチャリチャリ・ポートができ、わが家の周辺でも数ヶ所設置され、赤い自転車を見ない日はない。利用者に聞いてみると「コスパもよくてとても便利だ」という。現在、ベーシック:1分/7円、電動アシスト:1分/17円だそうだ。当初は観光客と思しき利用者をたまに見かけたものだが、最近は利用率が急激に高まっているようで頻繁に見かけるようになった。それもほとんど一般市民のようだ。熊本市としては狙いの一つでもあった交通渋滞の解消の一策という面での効果はまだ見られないらしい。それと利用者のヘルメット着用の問題はどうなるのだろうか。


夏目漱石内坪井旧居のチャリチャリ・ポート

 19世紀の後半頃から、ヨーロッパでは自転車が大流行した。自転車の流行は日本にも伝播し、明治のなかばには国産車も作られ、輸入も行なわれていたが、まだまだ自転車は一般庶民には高嶺の花。そこで自転車の時間貸しという商売が生まれ、借料は高価だったにもかかわらず大流行した。明治42年(1909)に、こんなハイカラ風俗を風刺した演歌師、神長遼月が作った「ハイカラ節」が流行、翌43年(1910)には「自転車節」として広く歌われていたという。時代背景は異なるものの、「チャリチャリ」は令和のハイカラ風俗再来になるのかもしれない。


瀬戸坂とその周辺のはなし。

2024-08-30 17:51:38 | 熊本
 先日放送されたRKK熊本放送「水曜だけど土曜の番組」で「第1回KING OF ドウロ」というちょっとワケのわからない企画をやっていた。熊本県内の個性的な道路をピックアップして№1を決めようというものだが、6つ選ばれたうちの一つになぜか「瀬戸坂」が選ばれていた。坂の街である京町の中でもわが家から最も近く幼い頃から慣れ親しんだ坂である。僕も高校時代はこの坂を通学路としていたが、自転車通学の友人には難所だったという。番組ではこの約300㍍、傾斜角度9.6度の坂をノーギア自転車で一気に登り切れるか番組MCのローカルタレントまさやんがチャレンジし、なんとか成功した。


瀬戸坂

 その話はさておき、「瀬戸坂」、古い文書では「迫門坂」とも書かれているが、その名の由来は、坂を下りきったところに坪井川が流れており、川幅が狭まっていた、つまり「瀬戸(迫門)」があったのでその名が付いたという。昭和初期頃まで坪井川の舟運が盛んで、瀬戸は船着場として物流の要衝だったらしい。
 今日、地域住民の間では常識となっているが、この一帯(旧称 寺原田畑)はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。また、かつて打越では貝塚が発掘されたこともある。ところが、いったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、6千年も前に、まるで和歌にでも出てきそうな美しい地名がつくとは到底思えない。ということは「平安海進」の時ということになるかというと、この一帯が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもそんな史料は見出せない。推測だが、おそらく、海が退いた後、低地が沼沢として残り、かつて海だった記憶が子々孫々まで伝わり、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。ちなみに寺原(てらばる)とはこの地に浄国寺(静国寺)があったことからこの名がついた。現在の浄国寺は北区高平2丁目にあるが、元は瀬戸坂から家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路に入ったところにあった。平清盛ゆかりの寺といわれ、寺号は清盛の法名である静海(浄海)に由来するという。浄国寺は近年、松本喜三郎作の生人形「谷汲観音」があることで有名になり、県内外からファンが訪れている。


ここ見て! ~新町シャッターアート~

2024-08-28 11:11:12 | 熊本
 熊本中央郵便局(熊本市中央区新町2丁目)の前を通られる方はご覧になったことがあるかもしれない。道路を挟んで向かい側の博栄堂印房さんのシャッターには舞台の上の女性らしき絵と「清正舞わせり 出雲阿国」という文字が書かれている。しかし、シャッターが降りているのは営業終了後か休業日なので意外と見たことがないという方が多いようだ。これは新町のシャッターアート・プロジェクトの一つとして描かれたもので、江戸時代前期に書かれた加藤清正の伝記である「続撰清正記」の中に記された「塩屋町三丁目の武者溜りで八幡の国という女歌舞伎が興行をした」という故事に基づいたものである。この「八幡の国」なる女歌舞伎は後世の人々に「出雲阿国」と呼ばれたその人なのである。そして「続撰清正記」に書かれた「塩屋町三丁目の武者溜り」があった場所がまさにこの辺りなのである。


博栄堂印房さんとシャッターアート


シャッターの左側に描かれた「出雲阿国」


シャッターアートのもとになったと思われる「阿国歌舞伎図(一部)」


「続撰清正記」にはこう書かれている。
--八幡の國と云歌舞妓女肥後國へ下たる事
其頃八幡の國と云ややこを下し熊本の鹽屋町三町めの武者溜りにて勧進能をいたし其能の跡に歌舞妓をして家来の諸侍は銀子一枚宛出し桟敷を打て見物し地下町人は八木(米)を持来て鼠戸の前に市をなし押合々々見物したり・・・--

 この辺りは「船場柳御門」があった場所で、熊本城下の南東、船場橋から山崎町方面を監視する関所門で番所が置かれ、門の前には勢屯(せいだまり)があった。この勢屯に小屋掛けしてまず勧進能が行われ、その後に阿国歌舞伎が行われたという。

「京町台から見た金峰山」と晩夏

2024-08-19 20:22:11 | 熊本
 今日、日が暮れかかってから、先日の「夏目漱石『草枕』の風景」の記事で話題にした甲斐青萍が描いた「京町台から見た金峰山」の絵を検証すべく、京町台のかつて金峰山町と呼ばれた辺りからの眺めを確かめに行った。青萍が描いてから既に100年以上が経ち、ビルが立ち並ぶ風景には青萍が見た田園風景はどこにもない。しかし、金峰山を始めとする西山の山並みはおおまかには青萍の絵と一致する。写真の左端に見える鉄塔の右側辺りが件の石神山と思われる。
 薄暮が迫る西の空と山々をじっと眺めているとさすがに「晩夏」を感じる。


今日の「京町台から見た金峰山」


甲斐青萍が描いた「京町台から見た金峰山」

 早く過ぎ去ってほしいと願った猛暑が衰え夏の終わりが近づく。一年のうちで最もメランコリックな季節である「晩夏」。四季に恵まれ、その移ろいの中で育まれた日本人特有の無常観がそこにある。
 ユーミンが荒井由実の時代、1976年にリリースした名曲「晩夏」。2005年には平原綾香がカバーしている。カバー盤をリリースする時、ユーミンのラジオ番組「Sweet Discovery」にゲスト出演した平原綾香に、「なんでこの歌をカバーする気になったの?」とユーミンが不思議がっていたのが印象に残っているが、とにかく詩が素晴らしい。今日は平原綾香バージョンで聴いてみた。


なにをくよくよ川端柳

2024-08-13 19:47:58 | 熊本
 先日、車で明午橋通りを味噌天神方面へ向かって走っていた時、新屋敷の大井手をわたるところで信号停車した。ふと大井手の方に目をやると川端柳が見えた。近頃、川端柳を見る機会が減った。昔はもっと川や井手沿いに多くの川端柳が植わっていたものだが。この大井手沿いには辛うじて昔の風情が残っている。
 そんなことを考えているとつい「東雲節」の一節が口をついて出る。
 「♪ なにをくよくよ川端柳 こがるるなんとしょ」
 これは坂本龍馬の作とも高杉晋作の作ともいわれる都々逸である。「柳に風」なんていうことわざもあるが、要するに「しなやかに おだやかに生きましょう」ということを言っているのだろうと勝手に解釈している。この歳になると妙にその言葉が胸に染みるのである。
 この都々逸は、熊本ゆかりの俗謡「東雲節(ストライキ節)」にも歌い込まれていてなじみ深い。

 〽なにをくよくよ川端柳 こがるるなんとしょ
  水の流れを見てくらす
  東雲の暁の鐘 ごんとつきゃ辛いね
  てなことおっしゃいましたかね


大井手の川端柳(金剛寺の裏あたり)


まぼろしの銘菓「さおしか」復刻!

2024-08-11 20:14:26 | 熊本
 味噌天神の福栄堂さんから電話があり「さおしか復刻版の試作品が出来上がりました!」とのこと。
 今年5月、25回忌を営んだ亡父が幼い頃(大正初期)日参した泰勝寺の長岡家(細川刑部家)でふるまわれた銘菓「さおしか」を製造販売していた老舗菓子舗・福栄堂さんが、味噌天神近くで火曜日だけ営業されているという情報を得たのは昨年11月のことだった。すぐに福栄堂さんに電話をかけて確かめたのだが、今は「さおしか」は作っていないが、復刻を検討しているとのことだった。父の思い出の「さおしか」の復刻を切望していることをお伝えした。
 その後の経過を知りたくて、福栄堂さんのインスタグラムにメッセージを入れてみたりもした。お返事の中に「さおしか」の特長である「皮むき餡」(小豆の芯の部分だけを使った餡)の入手が何とかメドがつきそうなので、近々試作をしてみたいということだった。
 そして今日、復刻版完成のご連絡をいただきさっそく訪問した。「さおしか」の上品な甘さを味わいながら女将さんと「さおしか」談義に花が咲いた。25回忌には間に合わなかったけれど、お盆には父にお供えができる。父もきっと喜んでいるに違いない。困難な条件のもと、復刻を実現していただいた福栄堂さんに心から感謝申し上げたい。


 「さおしか(小牡鹿)」が詠まれた万葉集の和歌を一首
  わが岡にさをしか来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさをしか (大伴旅人)
  (私の岡に若い牡鹿がやって来て、まるで萩の花に求婚をするかのように鳴いている)
  ※大伴旅人は飛鳥時代から奈良時代の歌人で、元号「令和」の由来となった「梅花の宴」を
   開いたことでも知られる。

 なお、商品化に当たっては「さおしか」が他店舗で既に商標登録されているため、上の和歌にも詠まれている「初萩」という商品名にされる予定だという。

熊本と長崎

2024-07-21 20:25:32 | 熊本
 先日、久しぶりに熊本県立図書館へ出かけた。ついでに電車通りをはさんだ向かい側の「ジェーンズ邸」を見て、図書館へ戻ろうと横断歩道の信号待ちしていると、公務員風の中年男性が横に並んだ。「暑いですね~」と声をかけた。男性はうなづきながら僕の方をじっと見て「お元気そうですね~、散歩ですか」と言った。一瞬「ん?」と思ったが、おそらく男性には僕がかなりの高齢に見えたのだろう。後期高齢者には違いないが、他人からそういう風に見られているのだと認識を新たにした。男性は続けて「熊本はこの辺にも名所旧跡が多いのでいいですね」と言う。熊本の人じゃないのかと思って「どちらのご出身ですか?」とたずねると「長崎です」。さらに僕が「長崎のどちらですか?」と聞くと「長与です。ご存じですか?」と言うので「知ってますよ!」と答えると、嬉しそうに「ご存じですか!」と微笑んだ。その時、信号が青に変わり、男性はやって来た電車に乗るのか、「お元気で!」と言いながら横断歩道を駆け出した。
 長崎も随分行っていない。会社員の頃、高校や高専のリクルートで長崎県内も何度か回ったことがある。長与は知っているなどと言ったが、長崎市からどこかへ移動する時に通っただけだ。長崎は熊本に勝るとも劣らない見るべきところが多い県。いつかじっくり見て回りたいものだが、同じ肥州なのに有明海をはさみ近くて遠い。

ジェーンズ邸
 ジェーンズ(Leroy Lancing Janes)とは明治4年、廃藩置県直後の熊本県に招かれて若者の教育をしたアメリカ人である。ジェーンズが教鞭をとった熊本洋学校からは多くの人材が育った。このジェーンズ邸は、当時ジェーンズ一家が住んでいた家で、もともと、現在の熊本県立第一高校がある熊本城域にあったもの。水前寺成趣園の東に移築されていたが、8年前の熊本地震で倒壊し、水前寺成趣園南側に場所を変えて再建されたもの。

 長崎の唄といえばまず思い出すのは「長崎ぶらぶら節」。この唄が大好きになったのは、吉永小百合さん主演の映画(2000年)を見てから。映画に描かれていたように長崎丸山の芸者愛八と郷土史家の古賀十二郎によって発掘された古謡だが、元歌は江戸時代中期に江戸の遊里で流行った「やだちゅう節」といい、もともと秋の実りを寿ぐ「豊年唄」だったそうである。この「やだちゅう節」が長崎に伝わり、様々な歌詞をつけて歌われるようになった。その数50近くにもなるという。

ハーンが見た雨乞太鼓 ~宇土の雨乞い大太鼓~

2024-07-11 16:55:17 | 熊本
 先日、近場の親戚にお盆の挨拶回りをした。とにかく暑い日で車内はがんがんクーラーを効かせて走った。松尾町の坪井川河口辺りで車窓から百貫港が見えた。ふとラフカディオ・ハーンが明治26年7月20日、ここから長崎を目指したことを思い出した。クーラーもない人力車や船を乗り継いで、さぞや暑かったことだろう。長崎のベルビューホテルの暑さに耐えかね早々に熊本へ戻る途中、三角の浦島屋で甘美なひと時を過ごした後、美しい女将が手配した人力車で宇土半島の海岸沿いを一路熊本へ向かうのだが、その途上の村々で行われていた「雨乞い太鼓」を目撃したことが「夏の日の夢」に書かれている。

—―車輪が回転する鋭い音も、ドーン、ドーンと腹に響くような音にかき消されるようになった。ある村のはずれにさしかかったとき、私は開けっ放しの納屋の中で裸の男たちが、たくさんの太鼓を叩いているのを見た。
「オーイ、車屋サン!」と、私は叫んで、「アレデス。アレハ何デスカ?」と訊ねる。車屋は、停止もせずに走りながら、叫んで答えた。
「どこでん、今は、同じこつばやっとります。もうずいぶんなとこ、雨が降っちゃおりまっせんけん、雨乞いばしよるとです。そんために太鼓ば打ちょっとです。」
 他のいくつかの村も通り過ぎたが、そこでも大小様々な太鼓を見たし、音も聞いた。そして、水田の遙か向こうの、見えない村々からも、あちこちの太鼓の音が山彦のように響き、こだましていた。――

 この年、熊本は旱が続いていたため村々で「雨乞い」の太鼓を叩いていたものらしい。「夏の日の夢」を読むとおそらく赤瀬か網田あたりの村を過ぎる時だったと思われる。今日では稲作にかかわる「雨乞い」は廃れてしまったが、「宇土の雨乞い大太鼓」として当時使われていた大太鼓が国重要有形民俗文化財として保存されているという。

   ▼「宇土の雨乞い大太鼓」を使った演奏

熊本市役所移転

2024-06-26 19:42:58 | 熊本
 熊本市役所庁舎の建て替え場所が、桜町のNTT西日本熊本跡地に決まりそうだという。そもそも建て替えの話は熊本地震を経験して耐震性能不足の恐れがあるとの専門家の指摘から始まったようだが、耐震性能不足については反論する専門家もいてイマイチ釈然としないものがある。何の判断材料ももたないわれわれ一般市民はただ成り行きを見守るしかないのだろう。
 建て替え問題が浮上した時、最初に感じたのは「エ!もう建て替え?」ということ。というのは建て替えられた1980年前後、旧庁舎にも所用でよく行ったし、新庁舎に替わった時の印象が強く残っていたからである。本当に耐震性能不足ならば致し方ないと思うが、新庁舎を立てる時にも耐震性能は設計に組み込まれていたはずであり、熊本地震が想定を超える強さだったと言われると、東日本大震災の時の福島第一原発事故を思い出してモヤモヤとしたものが残る。


熊本城本丸御殿中庭から見える熊本市役所の上層階


移転先最有力地のNTT西日本熊本ビル