徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

み姿を拝みまつりて

2014-02-27 17:48:53 | 歴史


 今朝の熊日新聞にこの写真が掲載された。写真と紹介文だけでは見た人のほとんどが状況や時代背景は全く分からないだろう。この年の9月には満州事変が起こっていて、重大な時局を迎えつつある中、熊本で歴史に残る陸軍特別大演習が天皇陛下を迎えて行なわれた。尚絅高女で行われた奉迎式典には県下の女学校から選抜された女学生が集められた。軍靴の響きが徐々に高くなってきた暗い時代のはじまりであった。
 「評伝 海達公子」(規工川祐輔著 熊日出版)の記述を読みながらこの写真を眺めていると時代の空気のようなものが読み取れる。

 昭和6年11月18日、(中略)昭和天皇を熊本に迎えての御親閲式が熊本市であった。その際、特別に募集された女学生は御親閲式奉迎歌を高唱し、マスゲームを演じた。3年生の公子は奉唱隊に参加した。その時の感激を「御親閲記念錦水会雑誌」14号(昭和7年3月)に、生徒を代表して作文を書いている。その前半の部分を紹介しておこう。

み姿を拝みまつりて
三ノ三 海達公子

 前へ進めの旗は振り卸されました。私達は愈々陛下の御前まで行くのです。何万といふ女学生や処女会員から成る奉唱部隊が、玉座を中心として三方から進んで行くのです。止れの信号旗が振られる迄はただ無念無想でありました。
 緑濃き金峰山と、深く深く何処までも澄み渡つた秋の大空を背景に、純白の玉座に立たせ給ふ陛下の御姿をただただなつかしいやうな有難いやうな気持でじつと打仰いで最敬礼を致しました。静かに頭を上げると此の天地の間には何一つ音もなく神々しさが日の光と一緒に充ち溢れてゐました。軍楽隊が、「あゝこゝに」の奉唱歌を奏し初めました。私達も奏楽に合せ緊張して奉唱致します。一所懸命です。唯頭に刻みこまれたのは、陛下の御姿が静かにましまして何とも申上げられない程神々しかつたこと、歌の響が殷々として大空をわたつたことでありました。鳴呼我等生けるかひありと歌ひ上げた時には思はず眼がしらが熱くなつて涙が頬を伝ひました。歌ひ終つても暫くの間は、万感胸に満ちて、感激にをののいてゐました。あれだけの群集であるのにしはぶき一つ聞えません。陛下にはまた挙手の御答礼を遊ばされます。(以下略)

■御親閲奉迎歌
あゝこゝに すめらみことのみくるまを 迎へまつれり
みくるまを迎へまつれりみ光に 阿蘇の高嶺も
有明の海もかがよふ

あゝ今し すめらみことの御姿を 拝みまつる御姿を
拝みやつるみ惠の いかなる幸か かしこさに涙こぼるる

をゝわれら 生けるかひありおほけなき 今日のほまれを
おほけなき今のほまれを萬世に語りつぎつゝ
ことほかむひとつ心に

S さんとの不思議な縁

2014-02-26 16:12:09 | 友人・知人
 日頃、親しくさせていただいているSさんから写真を収めたCDが送られてきた。水前寺公園の玄宅寺で踊る花童の子たちの写真集だった。いつか写真を見せてくださいと僕がお願いしていたことを思い出した。先日の「水前寺こいあかり」の時に手渡すつもりで持ってきていただいたらしいが、あいにく僕がまだ体調不良で行けなかったものだから、わざわざ郵送していただいたようだ。申しわけない。
 Sさんとお知り合いになって2年ほどになる。きっかけは3年ほど前から僕が熊本市歴史文書資料室へ調べ物をしに行くようになってからだ。そこにSさんの娘さんが勤めておられて、いろいろ史料探しのお手伝いをしていただいた。お父様のSさんと年齢的にも近く同じような趣味の僕をご紹介いただいたようだ。その後しばらくしてからSさんから僕のブログへコメントをいただくようになった。何度かやりとりがあってから、僕がブログで名優 笠智衆さんのことを書いたところ、なんと笠智衆さんの生家である来照寺にSさんの姪御さんが嫁いでおられるという。前から一度来照寺を訪ねてみたいと思っていたので、Sさんのアポで母と一緒に訪問が実現。おかげで心温まる歓待を受けた。そして、僕にはもう一つ気になっていたのが玄宅寺。森鴎外の「阿部一族」の中に出てくる寺本八左衛門直次の墓が玄宅寺にあることは知っていた。訪ねてみたいがなかなか機会を見出せなかった。ところがなんとSさんの奥様が寺本家の末裔であるという。なんという偶然。そしてまるで時を合わせたかのように花童の月例舞踊会が玄宅寺で始まった。8月1日の舞踊会にSさんご夫妻をお誘いし、その時初めてSさんご夫妻との対面が実現したのである。
 Sさんが撮影された写真の中から、とりあえず二つご紹介したい。僕には出せない独特の味があって極めて興味深い。

▼ Sさんがとらえた花童@玄宅寺




檜垣は 遊女たちの 守り神

2014-02-25 18:13:56 | 歴史
年ふればわが黒髪も白川の、みつはぐむまで老いにけるかな




蓮台寺の檜垣の塔をお参りした人は、塔を囲む玉垣の門柱(石柱)に刻まれた遊郭らしき名前の数々に気付くだろう。

    


【左】
世話人 富貴楼、橋立楼、日本亭
寄付者 八起楼、豊遊楼、幸支店、松島楼、小松楼、第一翁、高砂支店、八千代楼、越楽楼、
    益城屋、第二翁、二葉楼、昭和楼、旭屋、第二日本亭、老松楼、清漣楼、第二三遊楼、
    一心楼、旭屋支店など

【右】
発起人 蓮台寺、幸楼本店、清川楼
寄付者 鴬楼、湊川楼、福恵楼、花月楼、相生楼、一楽、板倉楼、松ヶ枝楼、銀杏閣、舞鶴楼、
    大富楼、松琴楼、美人荘、松亀楼、博多楼、第二一楽、松屋、三遊楼、梅ヶ枝、都本店、
    東京亭、松濱楼、有明楼、都支店、第二松鶴

 これらは玉垣が造られた昭和初期(?)の二本木遊郭の妓楼名である。
 一部判読が難しいものもあり、誤読はご容赦を。

 玉垣の寄進者になぜ、遊郭の名前がずらっと並んでいるかというと、それは檜垣が遊女たちの守り神として崇敬されていたからである。女流歌人として知られる檜垣は若い頃、都の白拍子(しらびょうし)だったと伝えられる。白拍子というのは平清盛の愛妾だった祇王が有名だが、高貴な人たちを相手に歌舞を行なう遊女だったといわれる。二本木遊郭の遊女たちは、ほど近い蓮台寺に祀られた檜垣を心の拠りどころとして生きていたのだろう。

今日の出来事

2014-02-24 18:12:15 | 
 法人市民税の申告は今月末まで。10年ほど前に事業所は閉鎖したが、法人登記抹消するだけで数万円もかかると聞いて、登記はそのままにしてある。だから毎年、事業収入ゼロという申告書と事業休止中という異動届を提出しなければならない。数年前から申告書用紙も送って来なくなったので、今日もらいに出かけた。1週間以上も風邪で寝込んでいたので久しぶりの外出だ。市役所の市民税の窓口は今、申告の真っ盛りということで臨時のスタッフがいっぱい立って待ち構えていた。僕にもすぐに一人の30代だか40代の女性が「ご用件は?」とたずねてきたので「法人市民税の申告書を!」と言い、市民税と間違わないように「法人市民税ですよ!」と2回念押しした。ところが持ってきたのは案の定、市民税の申告書。もう一つの「異動届」にいたっては「何の異動届ですか?」と他のスタッフにも聞いているがよくわからない様子。結局、カウンターの奥にいる正職員と思しき女性が出てきて話が通じた。実はこれ、毎年同じやりとりを繰り返している。正職員とか臨時スタッフとかこちらには関係ない。こちらは市役所から指導を受けた通りの手続きをやっているわけだから、もっと打てば響くように対応してくれよ!
 ちょっとムッとしながら、駐車場の精算も終えて5階から車を降ろし、1階のチェックも停滞なく通れるかと思っていると、なんと前の車のオバちゃんが「駐車料金が高い!」と係員にクレームをつけ始めた。「民間の駐車場より安いと思って市役所に停めたのに、何この料金は!」てなことを言っているらしい。係員のオッサンは「私に言われましても…」と繰り返すばかり。なんだこのつまらないコントは、と思いながらイライラして待っていると、僕の後ろにもどんどん車がつながり始めた。それをチラッと見たオバちゃん、さすがにマズイと思ったのか、オッサンの両手に小銭をいっぱいぶちまけ、金を投入させて悠々と出て行った。デケ~ン!オバちゃんな。

▼気分直しに、みつきちゃんの歌でも聞いて寝よ!

祖母と歌舞伎

2014-02-23 17:40:13 | ファミリー
 僕は両親が共稼ぎだったので、幼い頃、日中はほとんど祖母のそばで過ごした。祖母はご近所から口うるさい“やかましモン”と言われていたらしいが、結構いろんな人が訪ねてきて会話にふけっていたのを憶えている。そんな会話の中で祖母の口から「モリタ カンヤ」という名前をよく聞いた。ものごころついてから、それは「守田勘彌」という役者の名前であることが分かった。守田勘彌といえば由緒ある歌舞伎の大名跡。14代目が昭和50年に亡くなった後、後を継ぐ人が出ていないが、いずれ養子の坂東玉三郎が襲名するかもしれない。
 それはさておき、若くして夫と死に別れ、貧しい生活の中、苦労して二人の子供を育て上げた祖母には歌舞伎を観ることなどできなかったはずだ。しかもテレビもまだない時代。守田勘彌について熱く語る祖母の情報源はいったい何だったのだろう。気になっていろいろ調べてみた。確証は得ていないが、一つだけ可能性があることがわかった。それは守田勘彌が新派女優の水谷八重子と結婚していた頃、一緒に新派の劇団を主宰していて全国各地を巡っていたらしいということだ。ひょっとしたら、そんな公演にでも行く機会があったのだろうか。そういえば、最近も守田勘彌の娘である二代目水谷八重子が出演する松竹新派の公演ポスターを街中で見たことがある。

さわぎ唄 の はなし

2014-02-22 20:29:38 | 音楽芸能
 しばらくぶりに再び「さわぎ唄」について。
 今日では国語辞書にも載っており、下記のように説明されている。

1.江戸時代、遊里で三味線や太鼓ではやしたててうたったにぎやかな歌。転じて、広く宴席でうたう歌。
2.歌舞伎下座音楽の一。揚屋・茶屋などの場面で、酒宴・遊興の騒ぎを表すもの。大鼓・小鼓または太鼓のにぎやかな囃子(はやし)を伴う。

 もともと江戸時代の吉原発祥の固有の唄だった「さわぎ唄」。正式名「吉原さわぎ」は、他地区の遊里などで唄う場合は吉原の許可を必要としたという。各地に広まっていくと遊里や酒宴の席などで、座を盛り上げるために三味線や太鼓に合わせてにぎやかに唄われた。当時の日本人のグルーブ感を上げるのには絶好の音楽だったのだろう。
 歌舞伎などでも廓や茶屋などの場面でにぎわいを表現するために蔭囃子として演奏されることが多い。吉原でも当初は音曲のみ、しかも太鼓のみで歌う短い曲だったそうだが、その後三味線が加わり、さらに振りを付けて、舞台などでも踊るようになったので曲が長くなったそうだ。そしてお座敷の最後には必ずこの唄で締めたという。
 ちょっとシュールな「さわぎ」の映像を見つけたので、ザ・わらべ の「熊本さわぎ」とともに掲載してみた。




春のくまもとお城まつり 2014

2014-02-21 11:37:14 | イベント
 先日、このブログでご紹介した一連の 「くまもと春のまつり」の中でも、最も中心的なお祭りである「春のくまもとお城まつり」の実施概要は下記パンフレットのとおり。
 中でも、今年3回目となる「城下町くまもと時代絵巻」と昨年雨天のため、本丸御殿での縮小開催となった「くまもとをどり」が特に楽しみだ。

▼画像をクリックすると拡大します

三味線のルーツと邦楽の発展

2014-02-20 19:57:57 | 音楽芸能
 先日行なわれた片岡愛之助さんのトークイベントの際、披露された新作舞踊曲「肥後春想」は長唄三味線の杵屋五司郎さんの作曲である。五司郎さんは数年前から注目して拝見しているので、今回のイベントでもぜひ聴きたかったのだが、生憎体調を崩して行けず残念だった。またいつか必ず聴く機会はあるだろう。
 ところで、五司郎さんは三味線の日本伝来の物語をモチーフとした「JAPAN」という曲を作曲しておられる。今日の邦楽には欠かせない三味線の歴史に想いを致しながら、この曲を味わうのも一興だと思う。五司郎さんのホームページからこの曲にアクセスできるようになっている。

▼杵屋五司郎さんのホームページ
 http://gosirou.syami.com/gosirou/

 随分前になるが、シルクロードと三味線について、このブログに書いたことがあったのを思い出したので、参考までに下に引用してみた。

▼シルクと三味線(2012.10.2)
 歌舞伎、人形浄瑠璃、長唄・端唄、民謡ほか、邦楽には三味線が欠かせない。三味線の起源は諸説あるが、中国の「三弦」が14世紀末の明の時代に琉球に伝わり、琉球で「三線(さんしん)」となったものが、室町時代の終わり(1560年)頃、大阪の堺港に渡来したと言われる。それを琵琶法師たちが演奏したのが三味線の始まりで、その後、日本人好みの音色が出るように材質や形や大きさを変え、象牙や木製の撥を使うなどの改良が加えられ、江戸時代、庶民の間で普及した。
 しかし、さらにその起源を遡ると紀元前の古代ペルシアの時代に既に三弦の楽器が存在していたという。それがシルクロードをへて中国へ、そして琉球へ、さらには日本に伝わったとされている。
 2007年に公開された映画「シルク」は19世紀のフランスから一人の青年が、世界一美しい絹糸を吐く蚕の卵を求めてシルクロードを辿り、日本へやってくる物語だった。この映画には日本の三味線音楽の重鎮、本條秀太郎さんが三味線弾きの役で出演していたのも深い意味が込められていたのかもしれない。


渡辺あや なんと “フィルム・ノワール” でカムバック!

2014-02-19 13:59:55 | テレビ
 朝ドラ「カーネーション」以来、待望久しかった渡辺あや脚本の連続ドラマが4月から放送されるという。しかも、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説「ロング・グッドバイ」をもとにした作品だというから驚きだ。
 いわゆる「私立探偵フィリップ・マーロウ」ものは、僕にとって映画で見るハンフリー・ボガートやロバート・ミッチャムはさておき、テレビという文明の利器が生活に入って来た昭和30年代半ば、フィリップ・ケリー演じる「フィリップ・マーロウ」TVシリーズで最も懐かしいテレビドラマの一つ。
 設定が、戦後復興が終わりを告げた1950年代の東京となるらしいが、チャンドラーの「フィルム・ノワール」の世界を、渡辺あやがどう描き出すか見ものである。しかし、よく考えてみると彼女は「約三十の嘘」でサスペンスは経験しているし、「ジョゼと虎と魚たち」や「メゾン・ド・ヒミコ」などで怪しい世界も上手く描いてきたのできっと成功するだろう。

▼ロング・グッドバイ
  2014年4月19日(土)21:00からNHK総合 全5回
  出演:浅野忠信、綾野剛、小雪、古田新太、冨永愛、滝藤賢一、田口トモロヲ、
     岩松了、堀部圭亮、でんでん、石田えり、遠藤憲一、柄本明ほか

「熊本城歌舞伎」 もし実現したならば・・・

2014-02-18 18:16:16 | 音楽芸能
 「熊本城歌舞伎」がいよいよ現実味を帯びて来た。いったいどんな公演になるのだろうか。6年前、熊本城本丸御殿落成記念イベントの一つとして、二の丸広場で行われた「坂東玉三郎特別舞踊公演」のブログ記事を振り返りながら、いろいろな場面を想像してみた。



▼坂東玉三郎特別舞踊公演(2008.4.30)
 熊本城本丸御殿落成記念イベントの目玉、「坂東玉三郎特別舞踊公演」が今夜、熊本城二の丸公園で行われたので、家内と母を連れ立って見に行った。開演3時間前から事前にもらった整理券を座席指定券に交換するため長蛇の列ができた。席に座れない観客も開演前から会場を取り囲み、異様な熱気で包まれた。午後7時、加藤家の蛇の目紋と細川家の九曜紋の陣幕と、ライトアップされた熊本城をバックに『長唄 君が代松竹梅』と『長唄 藤娘』が披露され、およそ1万2000人の観客が坂東玉三郎さんの華麗な舞いに酔いしれた。




小田巻(おだまき)ノスタルジー

2014-02-16 19:35:43 | 
 小田巻という料理がある。簡単に言うとうどんの入った茶碗蒸しのことだが、量が多くなるので丼で作る。今でも好きな料理の一つであるこの小田巻には懐かしい想い出がある。
 それは僕が高校生の時のことだ。高校2年生になると僕は、担任の先生のサジェスチョンもあって、スポーツ推薦での大学進学に目標を絞った。そうなると当然のことながら勉学には身が入らなくなる。見る見る成績は下がり、3年生への進級も危ぶまれる事態となった。中でも数学が一番深刻で、両親の強い勧めで数学の家庭教師に来てもらうことになった。この先生が定時制の先生で、定時制の授業が終わってから来られるので、個人授業が始まるのは夜の9時くらいだった。先生は夕食もとらずに来られるわけで、教える合間にでも手っ取り早く食べられるものはないかと、母が考えたのが小田巻だった。僕が練習問題を解いている間に先生が小田巻を食べられるわけだが、最初は先生が美味そうに「ズーズー」とうどんをすする音が気になって、問題に集中できないほどだった。僕は夕食は済ませているのだが、何しろ一番「腹っ減らし」の年頃。結構つらいものがあった。しかし、そのうちそんな状況にも慣れ、学習も進むようになった。かくして先生の夜食は小田巻が定番となった。おかげで数学の成績もV字回復、落第だけはまぬがれることができた。今でも小田巻を食べると、おいしそうに食べる先生の表情やそれを無視して練習問題に取り組む自分の姿が目に浮かぶ。
 ちなみに小田巻という名前の由来は、紡いだ麻糸を巻いて玉にした苧環(おだまき)から来ているという。


日本人の音楽とは!?

2014-02-13 15:14:42 | 音楽芸能
 NHK・Eテレ「スコラ 坂本龍一 音楽の学校」シーズン4 “日本の伝統音楽” 編が先週木曜日からスタートした。この番組は好きでよく見るが、これまで西洋で生まれた音楽をテーマとして来た。今回初めて日本の伝統音楽を取り上げたわけでとても興味がある。5回シリーズで雅楽や能・狂言、浄瑠璃など、日本独特の音楽を、その起源に遡って紐解いていくという。
 第1回目では、各地に出土した先史時代の楽器、石笛、土鈴、土笛などを紹介していた。これから時代を下るにつれて日本の音楽がどう発展し、今日の邦楽あるいは和楽といったものを形作っていくのか楽しみである。


水前寺出水神社・薪能

ちいさなボクの大冒険

2014-02-12 16:37:08 | 
 僕が熊大附属幼稚園に通ったのは戦後間もない昭和25・26年だった。朝の登園は幼稚園の職員だった母と一緒に、家から新坂を下り、内坪井を通って坪井川沿いに行く最短コースを歩いた。しかし、帰りは一人だったので自由にコースを選べた。僕にとって帰り道は楽しみな冒険だった。日によっていろんなコースを選んだが、中でも一番記憶に残っているコースが下記の図である。園児が一人でこんなコースを歩いて帰るなど、今の時代には考えられないが、随分と大様な時代だったものだ。



 まず、幼稚園を出ると千葉城橋を渡って国道3号線(当時の)に出る。左折して厩橋のところまで下り、須戸口門から熊本城に入る(当時の熊本城は出入りはフリー)。平御櫓から一気に十八間櫓を目指す。十八間櫓の前で左折して石段を登り、本丸の広場に出る。当時は大天守も小天守も、もちろん本丸御殿もなく、ただの広場しかなかった。広場を西に向かって抜け、頬当御門を出て右折。唯一残っていた宇土櫓を右に見ながら進み、監物台を左折し、新堀橋へ向かう。新堀橋を渡ると、愛染院の前から加藤神社(当時は新堀町に鎮座)の脇道を通って加藤神社の中へ。さて、ここが道中の一番のお楽しみである。神社内には雨の日や雨の前後になると小さなカエルがいっぱい出てくる。これを捕まえてポケットに入れて帰るのである。相当な時間を費やした寄り道の後は、神社の裏口を出て、裁判所の前を通り、中坂を横切って京町測候所の前へ。そして柳川小路を下って新坂へ出る。これがおおよそのコースだった。先般、昔を想い出しながらこのコースを歩いてみたが結構登りはきつく、歩きがいのあるコースだった。


須戸口門から熊本城に入り、平御櫓から一気に十八間櫓を目指す

禿(かむろ)の話

2014-02-11 15:46:32 | 歴史
 毎月数回、母を連れて行く新市街の松本外科医院。この医院の前を通る道のことを「かむろ坂」と呼ぶ、と津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」に紹介されていた。名前の由来が気になるところだが、その前にまず、今日ではどう見ても平坦な道で「坂」ではない。これは「津々堂のたわごと日録」の中でも解説されているように、藩政時代、藩主のお屋敷「花畑邸」の南側には馬の調練のための「追廻(おいまわし)」という馬場があり、その横の窪地を「追廻田畑」と呼んでいた。「追廻田畑」は旧坪井川の流路に沿った低地だったため、「追廻」と「追廻田畑」には高低差があり、その間をつなぐ道は当然坂道だったということのようだ。また、「追廻」と「追廻田畑」を区画する土手には桜が植えられ花見の名所でもあったそうだ。この一帯は下級武士の屋敷町があり、藩主の鷹狩り用の鷹を訓練する鷹匠の居住地区だったことから、南北に走る道は「鷹匠小路」と呼ばれ、後に一帯を鷹匠町と呼ぶようになったという。この窪地が埋められ、平地になったのは昭和20年の戦災で街が破壊された後の戦後復興の時だという。
 そこで「かむろ」という坂の名の由来だが、いくつか文献を当ってみたがわからない。「禿(かむろ、かぶろ)」という文字は「はげ」とも読むが、そもそもの意味を国語辞書で調べてみると、「はげ頭、髪を短く切りそろえて垂らした子供の髪形およびその髪形の子供、上級の遊女に仕えて見習いをした少女」の三つの意味で使われている。また、「河童(カッパ)」のことを「かむろ」という地域もあるようだが、これは子供の髪形がもともと頭頂部のみを円形に剃った、いわゆる「おカッパ頭」だったことから来ているらしい。「かむろ坂」の名前もこの中のどれかに由来することは間違いないだろう。
(追記)
 その後、津々堂さんからまた情報をいただく。「かむろ坂」の名前の由来は、この坂で禿(かむろ)が転んだからだとか、低地で水を「かぶる」からだとかいわれているそうである。

▼かむろ坂



▼歌舞伎舞踊「羽根の禿」