今日は立田山にある家の墓にお参りしたついでに、久しぶりに立田自然公園の中にある泰勝寺跡を訪れてみた。ここは肥後藩主細川家の菩提寺があった所で、代々の墓がある。中でも有名なのは忠興公夫人のガラシャ夫人の墓だ。平日とあって観光客の姿はほとんどなく、庭園内はひっそりと静まり返っていた。実は、この泰勝寺の参道の脇道から歩いて1分のところにわが家のルーツとなった場所がある。亡き父や叔父が幼少の頃まで過ごした家があったところだ。なにしろ90年くらい前のことなので今は民家やアパートが建っていて正確な場所は判然としない。父の話では泰勝寺は子どもの頃の遊び場所だったそうだ。亡くなる2、3年前、しきりに立田山の泰勝寺周辺に行きたがっていたことを思い出す。
≪細川ガラシャ≫
ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。織田信長の仲立ちで細川忠興の妻となったのは天正六年(1578)のことであったが、同十年本能寺の変で父光秀が主人の信長を殺したため、玉子は離別され味土野の山中に幽閉された。その後、豊臣秀吉の許しで復縁し、同十五年にキリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。
慶長五年(1600)忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人達を人質として大阪城内に入れようとした。玉子はその要求を拒み「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ、三十八歳の生涯を終えた。(御廟の説明書より)
「ガラシャ夫人像」橋本明治画 大正12年 島根県立博物館蔵

古色蒼然とした庭園内

細川ガラシャ夫人の御廟
≪細川ガラシャ≫

慶長五年(1600)忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人達を人質として大阪城内に入れようとした。玉子はその要求を拒み「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ、三十八歳の生涯を終えた。(御廟の説明書より)
「ガラシャ夫人像」橋本明治画 大正12年 島根県立博物館蔵

古色蒼然とした庭園内

細川ガラシャ夫人の御廟