徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「母の日」に想いだすこと

2024-05-12 20:41:22 | ファミリー
 今日は「母の日」。僕は「母の日」に必ず想いだすことがある。今年102歳となった母はもう炊事をすることはないが、まだ元気に炊事をしていた頃、時々作ってくれたのが「炊き込みご飯」だった。といっても、にんじんと揚げとゴマメを入れ、醤油で味付けしただけの質素な「炊き込みご飯」である。実はこれ、昭和15、6年頃、母が勤めていた島崎尋常高等小学校で、待労院(慈恵病院の前身)から登校していた孤児たちに給食として食べさせていた一品らしい。おかずはない。孤児たちはこれが大好きで喜んで食べていたそうだ。
 2006年だったか、慈恵病院が「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を立ち上げた時、メディアなどでは売名行為などと批判する声もあった。時の某首相など、この件を記者から尋ねられると、あからさまに不快な表情を隠さなかった。孤児の救済を戦前からやっていた慈恵病院にとっては、ごく自然な取り組みだったのである。新聞やテレビで取り上げられるたびに母は「昔からやってたのにね」と言った。そして、母は必ず当時の孤児たちと、この給食のことを思い出すらしかった。

父が生きた時代

2024-05-08 20:35:26 | ファミリー
 来る5月19日はわが父の祥月命日である。今年は没後24年になり、コロナで23回忌を見送ったかわりに、今年25回忌を行なうことを菩提寺のご住職と相談して決めた。
 これまで父の祥月命日には父が書き残した備忘録の中から選んで記事を投稿してきたが、今回は戦前の3題をあらためて再掲することにした。

【1】昭和11年3月、天草上村で・・・(2011.5.19)
 今日は父の11回目の祥月命日。先日、母を連れて、かつて父が赴任していた上天草市の上小学校を訪問したが、その後、父の古いアルバムの中に、その当時の写真があるのを発見した。当時の上村尋常高等小学校の教職員の集合写真だった。昭和11年3月撮影と記されていた。ということは父が24歳、教員になってから既に5年ほど経った頃のようだが、真ん中で腕組みをしているところを見ると、結構生意気な若手教師だったのかもしれない。すぐそこに戦争の影が忍び寄っている頃だが、皆さん、その後どんな人生を送られたのだろうか。父の手記の中に、この写真について下記のようなメモが書かれていた。

――これは本校の裏庭です。当校には他に野釜(離島)、賤之女分校がありました。この写真にはそれらの職員(3名)も加わっています。本県では昭和8年教職員の標準服が制定されました。そしてそれは当時、学習院型とか海軍将校型とか言われたものです。これを一着持っていれば、常時はもちろん当時の三大節(四方拝・紀元節・天長節)の儀式もこれで済まされたので経済的ではありました。この写真に見るように、この頃までは男職員が多かったのですが、昭和14年頃から兵役に召集される者が多くなったために次第に男女の比率が逆転していきました。――



【2】父と天草(2021.5.19)
 今日は21回目の父の祥月命日。父は生前、自分史のようなものを書き残している。これまで何度もこのブログのネタにさせてもらったのだが、いろんなエピソードの中でも最も印象深い一つがこの話。
 戦前の昭和11年、天草・大矢野島の上村小学校に勤務していた頃、貧しい家の少女たちが、「からゆきさん」として中国や東南アジアなどに売られて行った悲しい思い出である。そんなこともあってか父は天草をことのほか愛した。まだ元気だった頃はよく家族で天草旅行に行ったものだ。
 命日に当たって今一度読み直してみた。



2012.4.7 熊本城本丸御殿中庭~桜の宴~ 少女舞踊団ザ・わらべ「愛の南十字星」
「からゆきさん」として異国に売られて行った天草の少女たちの悲しい運命を描いたラジオドラマ
「ぬれわらじ」(木村祐章 作)をモチーフとして、長唄三味線の今藤珠美さんが作曲した舞踊曲。

【3】親父の生きた時代(2009.5.19)
 今日は親父の祥月命日(しょうつきめいにち)。もう9年が過ぎた。午前中に母と家内と一緒に墓参りを済ませ、午後からは、亡くなってからは一度も見たことがなかった親父のアルバムを引っ張り出してみた。なにしろ生まれたのが明治44年(1911)なので、古写真のデータベースで見たような写真ばかりだ。親父はずっと教員をやっていたが、下の写真は島崎尋常高等小学校の訓導をやっていた昭和13年頃と思われる。野外教練でもやったのだろうか、橋の欄干に座って得意げなのが親父だが、まだ20代の後半なので生徒たちにちょっと危ないことでもやって見せていたのだろう。場所はさだかではないが、下を流れているのが井芹川と思われるので、今の横手町から城西小学校に向かう道にかかった橋の上だと思われる。日中戦争が既に始まっている頃なので、軍靴の音高い社会情勢の中で親父や生徒たちは何を考えながら、この写真に写ったのだろう。


叔母の旅立ち

2024-04-26 20:21:19 | ファミリー
 御殿場の叔母が旅立った。いつ見てもニコニコしている叔母だった。まだ80を過ぎたばかりと思っていたのにあっけない最期だった。叔父(母の弟)は若い頃からずっと御殿場の自衛隊にいたので御殿場で知り合って結婚した。もう60年近くも前になるが、僕は大学生で川崎に住んでいたので、唯一の花婿側親族として結婚式に出席した。初めて叔母を見た時、玉名の叔母(叔父の姉)の若い頃にそっくりだなと思った。叔父にそのことを言ったら、「そうかなぁ」と首をひねっていたが、叔父は無意識に姉上に似た人を選んでいたのかもしれない。僕は学生時代や東京勤務時代に何度も御殿場の叔父の家を訪れた。東京を離れてからは行く機会がなくなった。叔母が健在なうちにもう一度行きたかった。今頃叔母は早世した長女と再会していることだろう。今でも時々、叔父の結婚式で初めて御殿場へ行った時、東横線、東海道線、御殿場線と乗り継いで行った旅のことを懐かしく思い出す。
 叔母への感謝と愛を込めて。


御殿場から見る富士山 FUJIYAMA DAYS. http://shikinofuji.com/さんより

孫娘の成人

2024-02-27 21:39:57 | ファミリー
 今月でgooブログを始めて19年。その最初の記事は孫娘が可愛いという、ただの「じじい馬鹿」の内容でした。その時、孫娘はもうすぐ満1歳になるという頃で、僕のパソコンのところへヨチヨチ歩きでやって来て、キーボードをメチャクチャに叩いていたものです。彼女も明後日29日にハタチの誕生日を迎えます。今、大学生です。時の流れはなんと早いことでしょう。これからの彼女の人生をいつまで見届けられるでしょうか。



母の退院

2024-01-31 21:55:30 | ファミリー


 母が5週間ぶりに退院した。年末から正月をほとんど寝たきりで辛かったろう。あと2週間で102歳を迎える。病院から車に乗せて帰り道、坪井川沿いの八景水谷の脇を通った。ここは母が幼稚園に勤めていた頃、園児を連れて遠足や園遊会で度々訪れた思い出の地。八景水谷は桜の名所でもある。「桜の季節ももうすぐだね」と語りかけると、母は「桜を見られるだろうか」とつぶやいた。3月下旬、八景水谷の桜が満開になったら何としても母を連れて来ようと思った。


桜の季節の八景水谷

想い出の家族旅行

2023-11-04 22:14:15 | ファミリー
 母の卒寿を祝おうと、母とわが兄弟姉妹4組の夫婦連れで、人吉~五木村~五家荘を旅してからやがて12年。旅行好きだった亡父が特に好きだった県南を巡ってみようと思い立っての家族旅行だった。
 12年の歳月が流れ、今年101歳を迎えた母は、幸い何とか生きながらえているが、一緒に旅した義兄(姉婿)と弟は既に鬼籍に入った。僕を含め残った兄弟姉妹もみな健康面で問題を抱えており、家族旅行の再現は難しそうだ。
 毎年この時季になると決まってこの旅行のことを懐かしく思い出している。


青井阿蘇神社に参拝


小雨の中、樅木の吊橋を渡って五家荘へ向かう


宿泊でお世話になった人吉旅館の女将さんと娘の嘉恵さん


 嘉恵さんは当時「少女舞踊団 ザ・わらべ」に所属していた。(真ん中が嘉恵さん)

あれから50年

2023-09-30 17:18:57 | ファミリー
 明日から早くも10月。今朝の熊日新聞に「RKKラジオ、10月1日に開局70年」という記事が載った。RKKラジオ(熊本放送)は昭和28年(1953)、現在のびぷれす熊日会館(熊本市中央区上通町2)の場所で「ラジオ熊本」として開局して70年を迎えるのだそうだ。
 この記事を見て50年前の懐かしい思い出が甦った。昭和48年(1973)10月、RKKは放送開始20周年の特別番組をやった。番組の企画として中継車が市内を回った。たまたまわが家の近くを中継車が通りかかり、生まれたばかりの長男を抱いて歩いていた家内がつかまった。そして、スペシャル・インタビュアーの永六輔さんが家内にマイクを向けた。そして永さんはギャグのつもりか、家内に抱かれた長男にもマイクを向けた。長男はひとこと「グー(goo !)」と言った。仕事でいなかった僕は帰宅後、そんな顛末を家内から聞いた。するとたまたま放送を聞いていた僕の同級生が「放送聞いたぞ!」と電話をくれた。その赤ん坊だった長男も今年50歳を迎える。

      上を向いて歩こう
歌:坂本九 作詞:永六輔 作曲:中村八大

祖母のはなし。

2023-05-22 23:44:45 | ファミリー
 昭和52年(1977)に93歳で他界した僕の父方の祖母は、娘時代、父親が飽託郡大江村の村長を務めていて割と裕福な家だったので芝居見物などにもよく行っていたようである。僕は両親が共働きだったので、幼い頃はもっぱら祖母に育てられたが、よく芝居や歌手の公演などに連れて行ってもらった。歌舞伎のことに妙に詳しかったのもきっと若い頃、隆盛を極めていた大和座や東雲座などの劇場へも観劇に行っていたのだろう。しかし、夫(僕の祖父)が早世してからは機織り仕事で生活費を稼ぎ、苦労して二人の息子を育て上げた。その頃には実家も水道町一帯の大火で持ち家十数軒が焼失するなどもあって没落していたらしい。
 祖母を助けることになった機織り仕事は、十六歳の時、大江村にあった河田経緯堂という絹織物工場に通って身に付けたという。この工場は、かの文豪・徳富蘇峰先生が開いた大江義塾があったところである。先生がこの塾を閉鎖して上京するや、先生の姉婿河田精一氏がその屋敷を譲り受け、この工場を開設したそうである。
 祖母は、この工場で身に付けた機織り仕事に夜を日に継いで働き、父と叔父の幼い兄弟と出戻りの義姉を養っていたのである。娘時代、機織りの工場に行った理由について、縮緬、羽二重、絽などの特殊な織りの技術を身に付けるためであって、けっして労賃目当てではないと言い張った。父親が大江村の村長時代、祭りや折々に家で盛大な宴会が行われていたことなどを父に何十遍、何百遍となく聞かせていたそうだ。
 父が小学六年生の頃、祖母と二人で街を歩いていると向う側からやってきた七十歳前後と思しき老婆が急に立ち止まり、「お人違いかもしれませんが阿部さんのお嬢さんではありませんか?」。祖母も一瞬驚いたが、それからなんと一時間にもおよぶ立ち話が続いたという。酒盛りのこと、火事のことなど話題は尽きない様子だったが、その老婆は阿部家の酒宴の時によく呼んだ町芸者で「土手券」と呼ばれて人気があったそうである。
 祖母の実家は女系の家だったから、父が生まれると曾祖父は六キロの道もいとわず、孫の顔を見に日参したという。その曾祖父も父が生まれた翌年には他界した。そんなわけで祖母は山あり谷ありの人生だったようである。


幼い頃、歌謡公演などを見に祖母が僕をよく連れて行ってくれた熊本市公会堂

熊本市公会堂で記憶に残っている渡辺はま子の「支那の夜」

父の祥月命日と謡曲「田村」

2023-05-12 21:46:29 | ファミリー
 昨夜、ブラタモリ・セレクション 「京都・清水寺編」を放送していた。6年ぶりの再見だ。清水寺は坂上田村麻呂ゆかりのお寺。と思って見ていたら、来週の父の祥月命日のことを思い出した。
 2000年に他界した父の思い出の謡曲が「田村」だった。父がまだ四つか五つの頃、立田山麓の泰勝寺に住んでおられた長岡家(細川刑部家)に日参していた。お坊ちゃまの遊び相手としてだったが、お屋敷で謡曲のお稽古が行われる日は、幼い父も末席に侍らせられていたという。父は門前の小僧よろしく謡曲「田村」の「ひとたび放せば千の矢先・・・」という一節だけは終生忘れなかった。
 昨年が父の二十三回忌にあたる年だったのだが、まだコロナ感染が危惧される時期だったので菩提寺のご住職と相談し、2024年に二十三回忌と二十七回忌を合わせた法要を行うことにした。
 謡曲「田村」のことはこのブログでもう何度もネタにしたが、毎年命日には供養のつもりで「田村」のキリの部分を聴くことにしている。


細川家立田別邸(泰勝寺跡)


立田自然公園(泰勝寺跡)の茶室仰松軒



異母姉(再掲)

2022-11-17 22:47:42 | ファミリー
 gooブログを始めて約18年、投稿記事数は5000本を超えていると思われるが、その中には何年たっても忘れない記事が何本かある。たまにはそんな記事を再掲してみたいと思う。今日は2013年11月29日の「異母姉」。

 母には一人の異母姉がいた。母がその人の存在を知ったのは高等女学校に上がってからだという。祖父が若い頃、一度結婚に失敗し、子供までもうけていたことに母は少なからぬショックを受けたらしい。僕にとっては伯母にあたるその人がどういう家庭でどんな風に育ったのか母は今でもよく知らないという。その人が母を突然訪ねて来たのは、お互いに嫁いだ後のことである。その人は自分の異母妹や異母弟のことをずっと気にかけていたらしい。戦後間もない、食べる物もろくにない頃、その人はわが家を突然訪ねて来た。母はその人を家に入れなかった。それは姑(僕の祖母)が士族の家に育った厳格な人だったこともあるだろう。しかし、そのことは伯母にとって終生心の傷として残っていたという。実は伯母の嫁ぎ先は裕福な家だった。食うや食わずの生活をしているであろう妹を心配し、少しでも援助してやりたいとの思いからやって来たのだった。伯母の家は二本木で遊郭を経営していた。母と伯母とのわだかまりが氷解した後、何度か二本木を訪ねて行った。行く度に当時はなかなか食べられないようなご馳走でもてなされ、衣類などの提供を受けた。まだ幼かった僕も遊郭の座敷にちょこんと座って待っていたことを憶えている。現金なもので、厳格だった僕の祖母も何の抵抗もなく二本木について行くようになった。昭和33年の売春防止法施行後、伯母の家は解体業などに商売替えをし成功した。その後も伯母を訪問する度に母が手ぶらで帰ることはなかった。伯母が病に倒れてから母はよく見舞いに行った。伯母はしゃべれなくなっていたが、母の顔を見ると涙を流して喜んだ。その伯母も昨年亡くなり、今は古町のある寺の一角に眠っている。


曽孫の七五三

2022-10-26 20:46:40 | ファミリー
 わが母の曾孫にあたるYちゃんが今日、加藤神社で七五三参りをすませ、綺麗な着物姿を曾祖母に見せるため立ち寄ってくれた。お下がりの振袖を肩上げした姿がなんとも可愛らしい。今年百歳を迎えた母とYちゃんの年の差なんと93歳。並んで写真に納まる様子を見ながら、この二人が一緒に写真に写るのは奇跡に近いなと思った。四姉妹の末っ子であるYちゃんは、「カムカムエヴリバディ」ではないが、明るい表通りを歩いて行ってほしいと願っている。


母と曽孫



弟の一周忌

2022-03-26 20:07:30 | ファミリー
 今日は弟の一周忌。わが家の菩提寺である浄照寺で家族と弟の近しい友人のみの法要を営んだ。
 朝はいつもより早く目覚め、自然と弟の思い出にひたった。幼い頃のキャッチボール、弟が大学受験で上京した時のこと、僕が熊本で就職した後、時々職場へ金の無心に来たこと等々。どれも懐かしい思い出ばかりだ。弟と来世で再会するのもそう遠い日ではないだろう。

光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏



本渡下田線

2022-03-14 21:41:14 | ファミリー
 昨夜の「ポツンと一軒家」(テレ朝系列)は熊本県は天草下島のほぼ中央の山中の一軒家。画面に表示されたGoogleマップを見てすぐにピンときた。亡父が大好きで何度も訪れた下田温泉へ行く本渡下田線の中間辺りから少し南の方へ入ったところらしい。調べてみると天草市枦宇土町(はじうとまち)という住所のようだ。
 聞きなれない町名だが「枦(はじ)」はこの地域で沢山自生していた「櫨(はぜのき)」のことらしい。また、宇土は宇土半島の由来と同じく島を意味する「浮土」からきているとの説があるそうだ(諸説あり)。
 この一軒家に住むのは67歳の山田さんという大工さんのご一家。築100年以上の古民家を元にご自身であらたに 設計、立派な日本家屋に建て替えたらしい。お義母さまから山椒畑を受け継いだ山田さんの奥さんは「五木の子守唄」で知られる五木村出身でこの家での生活が大好きだという。そういえば、本渡下田線をもう少し下田方面へ車を走らせると「福連木の子守唄」で知られる福連木地区がある。この唄は奥さんご出身の「五木の子守唄」の元唄との説もあるのでご縁があったのかもしれない。


孫娘の卒業

2022-03-01 20:39:29 | ファミリー
 今日、孫娘が高校を卒業する。小学校に入学する日(右の写真)、嬉しそうにランドセルを背負っていた姿を昨日のことのように思い出す。あっという間の12年間だった。
 この12年を振り返ると、まさに激動の時代だった。東日本大震災や熊本地震、そして豪雨災害など度重なる自然災害。時代は平成から令和へと変わり、今度はコロナウィルスの襲来。僕らが子供の頃のような平穏無事な学校生活ではなかった。この間の体験は彼女の一生にいったいどんな影響を与えるのだろうか。
 彼女には将来の夢があるようだ。その夢が叶うようこれからも出来る限りの応援をしていくつもりだ。
 今夜は「Song for the close of school」(仰げば尊し)を聞きながら、小・中・高12年間の無事修了と高校卒業を祝いたい。


百寿を迎えた母

2022-02-15 18:31:40 | ファミリー
 母は今日めでたく百歳を迎えた。
 大正11年2月15日、玉名市大浜町の理容店を営む家に呱々の声をあげた。かつて菊池川河口の港町で、廻船問屋が建ち並び、浜千軒と呼ばれ大いに栄えた大浜町は、大正時代の頃までその名残があり、理容店は多くの客で繁盛した。割と恵まれた環境で育った母は、高瀬高等女学校に進んだ。女学校を卒業すると看護職を目指し、熊本医師会の看護学校で資格を取り、さらに養護教諭を目指して勉強した。念願の養護教諭となった母は、島崎校、花園校に勤務、さらに熊大附属幼稚園へと転じる。その間、昭和17年に父と結婚した。附属幼稚園には結局36年間勤務することとなる。母がよく思い出す卒園児の中に喜多流能楽師の狩野了一さんやNHKアナウンサーの武田真一さんらがいる。
 残念ながらコロナ情勢を考慮し、大勢で集まる祝宴は当面やらないことにしたが、晴れてファミリー揃ってお祝いがやれる日まで元気でいてくれることを願うばかりである。
※写真は高瀬高等女学校時代の母(後列左端)