YouTubeで相互にチャンネル登録していただいている“0klz”さんが「熊本井関音頭」をアップされたのでさっそく聴いてみた。昭和32、3年頃に製作されたもののようだが、何だかとても懐かしい気がした。これには理由があって、実は昭和24年に井関農機熊本工場が創業した時、僕の父が社員として勤務したことがあるからである。
父は戦時下の昭和16年、三菱重工業熊本航空機製作所の青年学校の教諭に転身した。戦況が悪化の一途をたどる中、日本各地から集められた多くの青少年たちの教育に携わるかたわら、戦闘機の生産活動にも従事したという。終戦と同時に軍需工場から民生品への転換を迫られた三菱重工は残った設備で農機具を作ることになった。多くの従業員が解雇される中、父は青年学校の後始末兼人事課員として三菱に残った。しかし三菱重工の農機具生産はうまくいかず、井関農機に事業譲渡することになった。父も井関農機に転籍することになった。ところが井関農機も当初は業績があがらず、給料遅配が起こったり、人員整理が告知される状況となった。ここが転機と見た父は教職員への復帰を決意したのである。そんなわけで、父にとっては良い想い出ばかりではなかったかもしれない。しかし、もし父が生前この歌を聞いていたらおそらく昔を懐かしみ喜んだに違いない。
▼熊本井関音頭
作詞:園田次男 作曲:松村義人 唄唱:浅野靖子

昭和18年10月4日 三菱熊本青年学校第7小隊(中央が父)
父は戦時下の昭和16年、三菱重工業熊本航空機製作所の青年学校の教諭に転身した。戦況が悪化の一途をたどる中、日本各地から集められた多くの青少年たちの教育に携わるかたわら、戦闘機の生産活動にも従事したという。終戦と同時に軍需工場から民生品への転換を迫られた三菱重工は残った設備で農機具を作ることになった。多くの従業員が解雇される中、父は青年学校の後始末兼人事課員として三菱に残った。しかし三菱重工の農機具生産はうまくいかず、井関農機に事業譲渡することになった。父も井関農機に転籍することになった。ところが井関農機も当初は業績があがらず、給料遅配が起こったり、人員整理が告知される状況となった。ここが転機と見た父は教職員への復帰を決意したのである。そんなわけで、父にとっては良い想い出ばかりではなかったかもしれない。しかし、もし父が生前この歌を聞いていたらおそらく昔を懐かしみ喜んだに違いない。
▼熊本井関音頭
作詞:園田次男 作曲:松村義人 唄唱:浅野靖子

昭和18年10月4日 三菱熊本青年学校第7小隊(中央が父)