徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

菫(すみれ)の俳句

2025-02-11 19:56:34 | 文芸
 フォローさせていただいているブログ「ころころの毎日が俳句・ハイク」さんは、いろんな方が詠まれた俳句を季節季節に応じてまとめて紹介されるので楽しみに拝見している。今日掲載されたのは春の季語「すみれ」を使った俳句21句。
 そのなかで僕が好きな句を二つ選んだ。

  野すみれの咲くや馬籠の石だたみ   白鳥光江
  神宿る小さき棚田や花すみれ     栗田やすし

 いずれもハッキリと映像が目に浮かぶところが選んだポイント。

 「すみれ」を季語とした俳句で有名な作品のひとつに夏目漱石が熊本時代に詠んだ

  菫程な小さき人に生まれたし

がある。

 2016年の「漱石生誕150年、来熊120年」に当り、熊日新聞に掲載された「熊本の漱石」と題する著名人のコラムの中に、テレビの俳句番組で著名な夏井いつきさんのコラムがあった。夏井さんは次のように述べている。

--漱石の俳句でいちばん好きなのは、熊本時代に詠んだ「菫程な小さき人に生まれたし」です。こういう独白が作品になりうることと、そのかれんな心根に、衝撃を受けました。澄み切った感性が漱石という人間をぴーんと貫く核だったのかと思うと、猫でも坊っちゃんでもない漱石像が見え、惚れ直しました。--


漱石記念緑道(京陵中学校前)の漱石句碑

オフィーリア

2025-02-01 21:36:00 | 文芸
 昨日、マリアンヌ・フェイスフルさんの訃報のことを書きながら、かつて彼女がトニー・リチャードソン監督の映画「ハムレット」でオフィーリアを演じたことをふと思い出した。
 その数日前、NHK-Eテレで妙なミュージックビデオを見た。「オフィーリア、まだまだ」というタイトルで、NHKの紹介記事にはこう書かれている。

--シェークスピアの戯曲の一場面を描いた「オフィーリア」(ミレイ画)。川に流され溺死を待つばかりの主人公が「背泳ぎは得意」と思い出して力強く泳ぎ出す様子を想像して曲を作った。「♪まだまだ溺れちゃいられないのよ」という歌詞は、ブルーな気持ちになっているすべての人に贈る応援歌!--

   ※絵をクリックするとYouTubeの映像が再生されます。

 そういえば随分前、ミレーの「オフィーリア」を図鑑か何かで見た時、僕自身がかつて水泳選手だったせいか、オフィーリアは泳げないのだろうかと思った記憶がある。同じ発想の人がいるんだと思うと可笑しくなった。
 ところが、夏目漱石の「草枕」の中に次のような一節がある。

--長良の乙女が振袖を着て、青馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。--

 夢の中の話ということにはなっているが、漱石は今から120年も前に既に同じような発想をしていることにあらためて驚く。


ミレーの「オフィーリア」


山本丘人「草枕絵巻」より「水の上のオフェリア(美しき屍)」

草枕と民謡「田原坂」

2025-01-25 20:01:31 | 文芸
 僕の愛読書は夏目漱石の「草枕」と言っていいだろう。と言っても何度読んでもよくわからないところが多いので読み直す回数が多いと言った方が正しいかもしれない。それはともかく、「草枕」の魅力の一つは随所に長唄や民謡や謡曲などが散りばめられていることがあげられる。第二章にこんな一節がある。

--やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画にかいた声だ。
   馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨
と、今度は斜に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。--

 この句自体はどうやら正岡子規の句をもじったものらしいが、「鈴鹿馬子唄」が聞こえてきた情景を描いている。ただ、馬子が本当に唄っていたのかどうかはわからない。第七章の「那古井の宿」の浴場で、子供の頃、酒屋の娘が「旅の衣は篠懸の…」と長唄「勧進帳」のお浚いをしていたことを回想する場面があるが、それと同じように「鈴鹿馬子唄」も過去の出来事の回想だったのかもしれない。歴史研究家で作家であり、漱石の孫娘婿でもあった半藤一利氏(2021年没)が「草枕は一種のファンタジー」とおっしゃるのも頷ける。

 ところで、熊本民謡「田原坂」は「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」という歌詞から、「鈴鹿馬子唄」の「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」や「箱根馬子唄」の「箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」という歌詞との類似性が指摘されることがある。「鈴鹿馬子唄」と「箱根馬子唄」ともに江戸時代から唄われていて、「田原坂」は明治10年の西南戦争後だいぶ経ってから作られた唄といわれているので、作者(不詳)は二つの馬子唄の影響を受けたことは大いに考えられる。ただ、民謡にはそういう例は多いらしい。


鳥越の峠の茶屋へ向かう道

舞 踊:植木町民謡田原坂保存会
 唄 :本條秀美
三味線:本條秀太郎

八雲とアニミズム

2024-12-26 20:51:40 | 文芸
 来年秋から放送の朝ドラが小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻セツをヒロインとする「ばけばけ」に決まったことを受けて、NHK熊本局でも八雲に関する話題を取り上げた番組が多くなった。
 小泉八雲が五高教師として熊本へやって来たのは明治24年(1891)11月、41歳の時のこと。その前年に日本へやって来て、横浜港に降り立ち、咲き乱れる日本の桜を初めて目の当たりにした時の思い出を次のように書いている。

――この神々の国では樹木は人間から大切に育てられかわいがられてきたので、木にも魂が宿り愛される女のように、樹木はさらに美しさを増して人間への感謝を示そうとするのであろうか――

 9年前、NHK-Eテレの「100分de名著」で八雲の「日本の面影」を取り上げた時、この回の指南役である早稲田大学教授、池田雅之氏は、八雲はアイルランド人の父とギリシャ人の母という血筋から、アニミズム(生物・無機物を問わず万物に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方)の感性が備わっていたのではないかと解説された。 
 八雲が来日早々感じとった、木々にも魂が宿るという考え方は古より日本にあり、能や歌舞伎舞踊など古典芸能の格好の題材となっている。八雲の代表作となる短編集「怪談」に収録されている「青柳のはなし」もまさにそんな一編である。
 八雲の来熊120年となった2011年には熊本では様々な記念行事が行われた。その中のひとつが創作舞台「青柳」公演だった。八雲「怪談」の「青柳の話」「十六桜」「乳母桜」を素材に、「樹齢」をテーマとした創作舞台で、八雲について数々の著書がある平川祐弘東大名誉教授が書かれたオリジナルの「夢幻能 青柳」をもとに、能、日舞、演劇による創作舞台が繰り広げられた。
 せっかく朝ドラで盛り上がっていることでもあり、この創作舞台の再演も検討していただけるとありがたいのだが。

▼来熊120年記念公演「青柳」の舞台より


菊本澄代(観世流能楽師)


高濱流光華々(日本舞踊家)




谷川俊太郎さんの訃報

2024-11-19 18:48:09 | 文芸
 久しぶりに風邪で寝込んでテレビを見ていたら、谷川俊太郎さんの訃報が流れた。いろいろ書きたいこともあるが、今日はとりあえず、これまでブログに書き込んだ谷川俊太郎さんに関する話題を再掲することにした。

 心よりお悔やみ申し上げます どうか安らかにお眠りください

◇43年目の真実「東京オリンピック」(2007.6.19)
 17年前、ネットで東京オリンピック1964について調べていたら、南都上緒さんという方のサイト「なんとかかんとか」に迷い込んだ。そこには、映画「東京オリンピック」の製作裏話が詳細に記述されていた。その中に次の記述があった。以下、原文のまま

「脚本を見ると、『 水球。決勝。水中撮影で選手たちの下半身の激しい動作、それに伴う水の乱れを捉えたい。』・・・

 公開された映画にはこんなシーンはない。しかし、僕は60年前のオリンピック終了後のある日、東京体育館プールで行われた追加撮影に参加した。そして、この脚本に沿った水中の格闘シーンを撮影した。
 早速、南都さんにメールを出してみた。すぐに丁寧な返事が来た。このシーンはオリジナル版(劇場公開版)、ディレクターズカット版ともに入っていないと。つまりカットされたわけだ。
 南都さんによれば、東京オリンピックで銅メダルを獲った男子バレーボールチームも後日、追加撮影をしたそうだが、結局使われたのは金メダルを獲った東洋の魔女チームだけだったと、男子監督だった松平康隆さんが著書で述懐していたそうである。この映画の公開直後、その記録性について、市川崑監督と河野一郎国務大臣(オリンピック担当)との間で激しい論争があったことは記憶に新しい。
 僕はそのシーンの脚本が確かに存在していたことを確認できただけでも嬉しかった。この映画の脚本は和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑という大物4人の共同執筆である。追加シーンのエキストラの仕事が僕らのチームに回って来たのは、谷川俊太郎さんのお父さん、谷川徹三先生が当時僕らの大学の総長だったからではないかとにらんでいる。

◇ヤーチャイカ(2008.7.12)
 製作前からNHKの番組などで紹介され、公開を心待ちにしていた映画。「写真映画」というコピーがついているが、1000枚のスチール写真をナレーションと音楽で綴った映画いわば長編スライドショーだ。つまり先般、自分が作ったスライドショーと基本的には同じ作りだ。そういう意味でもとても興味があった。出来映えもだいたい期待どおりだった。自分の作品は客観的な評価が難しいが、他人の作品は良し悪しがよく見える。この作品を見たことで自分の作り方が間違っていなかったなぁと自信にもなった。一つ言わせてもらうと、谷川俊太郎と覚和歌子という二人の詩人が作っているので、ナレーションはもっと詩的なものになるのかと期待していたが、オリジナルの物語だからやむをえないとは思うが、どうしても説明的になってしまうのが残念だった。しかし、覚さん自らやっている語りは好感が持てるし、香川照之の演技達者ぶりは静止画でもわかる。さらに尾野真千子はこれまで出演したどの動画よりも魅力的だ。

◇くまもと連詩(2010.3.20)
 今日は午後から、青年会館ホールで行なわれた「くまもと連詩 声がつながる 口承連詩の試み」を見に行く。谷川俊太郎、覚和歌子、ジェローム・ローゼンバーグ、四元康祐、伊藤比呂美の5人の詩人たちと通訳・翻訳のジェフリー・アングルスによって練り上げられた30編の連詩が、作者本人の朗読によって紹介された。詩の朗読しかも連詩などというのは、見るのも聴くのも初めてだったので、とても新鮮で、軽いカルチャーショックを受けた。さすがは当代一流の詩人たち、いずれ劣らぬ“言葉の匠”ぶりを発揮していた。
 また、冒頭では阿蘇神社の氏子たちによる「御田唄」が披露され、続けてジェローム・ローゼンバーグ氏が、セネカ族インディアンの唄を披露したが、二つの口承文化が、あまりにも似通っていることはちょっと感動的だった。そう言えば、岡本喜八監督の映画「EAST MEETS WEST 」(1995)で同じような話があったことを思い出した。


漱石くまもとの句 ~秋~

2024-11-07 20:10:02 | 文芸
 1週間ほど前、市立図書館へ行った時、郷土関連図書のコーナーで「くまもとの漱石 : 俳句の世界」という本が目に入った。これはまだ読んでなかったなと思い借りて来た。夏目漱石来熊120年記念の年に出版されたもので、漱石が熊本時代に詠んだ俳句をまとめたものらしい。
 今日は秋の句の中から三句選んでみた。

▼合羽町の家
 「病妻の閨(ねや)に灯ともし暮るゝ秋」

 明治29年秋、光琳寺の家から引っ越してすぐ鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものだろう。何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
 この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。


合羽町の家

 「行秋や此頃参る京の瞽女(ごぜ)」

 当時は熊本にも京から瞽女(女性の盲人芸能者)がやって来たのだろうか。僕が幼かった戦後間もない頃まで、いろんな物売りが遠方からもやって来たが、瞽女の姿を見たことはない。明治中期の頃は熊本市は九州一の大都市だったのではるばるやって来る価値があったのかもしれない。

▼大江村の家
 「傘(からかさ)を菊にさしたり新屋敷」

 明治30年暮れ、正岡子規に送った俳句の中の一句。この時、漱石が住んでいた熊本三番目の新屋敷(大江村)の家は、明午橋の少し下流、現在の白川小学校の裏手辺り。どこに植えられていた菊かわからないが、隣接する「傘(からかさ)丁」と掛けているのかもしれない。


大江村に住んでいた頃の漱石夫妻。書生、使用人とともに

 漱石は熊本時代に900句余りの句を残したといわれる。秀句も多く、俳句の才能が花開いたのが熊本時代だった。

小泉八雲の妻・セツ

2024-10-08 20:38:03 | 文芸
 2025年秋から放送のNHK朝ドラ「ばけばけ」のヒロインが小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻セツをモデルとして描かれると発表されてから、急に小泉セツを取り上げたイベントや番組などが目立つようになった。今日、小泉八雲熊本旧居でも「小泉八雲の妻・セツの素顔とは」と題する講座が開かれたので聴きに行った。講師は小泉八雲熊本旧居館長の坂本弘敏さん。ハーンが熊本で五高教師として過ごした月日は3年。熊本でのドラマロケも予定されているという。
 ハーンに「日本人の善良性が彼女の中に濃縮されているように思う」と評されたセツは、家族を守りながら、リテラリー・アシスタントとして夫の執筆作業を陰で支え続けたといわれる。没落士族の娘として生まれ育ったセツの波乱万丈の生涯が坂本館長から語られたが、ドラマではどう描かれるのか大いに楽しみである。
 47年前に他界した僕の祖母も明治16年に士族の娘として生まれ、嫁いだ後に実家は没落した。そんなことも重ねながらドラマを見たいと思う。今日の講座参加者もセツ(ドラマでは松野トキ)を誰が演じるのかに興味津々だったが、近々オーディションで選ばれるらしい。


小泉八雲熊本旧居座敷

漱石内坪井旧居にて

2024-09-22 20:16:14 | 文芸

夏目漱石内坪井旧居の座敷から庭を眺める

 昨夜来の断続的な強い雨も昼過ぎにはやんだので、猛暑で控えていた散歩に久しぶりに出た。いつも車で通り過ぎる「夏目漱石内坪井旧居」の門を約1年ぶりにくぐった。8名ほどの来館者と一緒になったが、そのうち5名は外国人だった。ひととおり見て回った後、座敷に腰を下ろして庭を眺めながらひと息ついていると、床の間の掛軸の句「菫ほどな小さき人に生まれたし」が目に入った。この句については以前、ブログのネタにしたのでさておき、2,3日前に再読した漱石の「草枕」に登場する俳句のことを思い出した。
 「草枕」の峠の茶屋の段において、画工が茶屋の婆さんとひとしきり会話した後、茶屋の鶏を写生していると、馬の鈴が聞こえてくる。そこで鶏の写生をやめて、帳面の端に次の俳句を書いてみる場面。

 春風や惟然が耳に馬の鈴

 画工の旅は春の設定なので、「春風」という季語を使ってのどかな春の山道の風景を詠んだものだろうが、「惟然(いねん)」というのは「広瀬惟然」という江戸前期の俳人で松尾芭蕉の弟子のこと。芭蕉の没後、師の俳句を讃歌に仕立てた「風羅念仏」を唱えて各地を追善行脚したという。つまり漱石は「惟然」も旅の途で聞いたであろう馬の鈴に発想を飛ばしたのだろう。
 この後さらに、馬子唄が聞こえてくる。「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」という聞き覚えのある「鈴鹿馬子唄」が春雨の中に聞こえてくれば、これはもう夢現(ゆめうつつ)の状態としか思われない。

 馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨

 この句の後、「帳面に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。」と言葉を濁している。


鳥越の峠の茶屋に立てられた漱石の句碑


小泉セツの生涯

2024-09-20 20:51:42 | 文芸
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)夫妻といえば必ずと言っていいほど使われるのがこの写真。これは明治25年(1892)に熊本市新町の冨重写真所で撮影された写真。


 椅子に座る女性がセツ夫人。2025年度後期の朝ドラ「ばけばけ」のヒロインはこの小泉セツをモデルとしている。ドラマでは松江の没落士族の娘として生まれたセツが、松江に英語教師として赴任してきたラフカディオ・ハーンの世話をするようになり、当時はまだ珍しかった国際結婚をする。時にセツ23歳。そしてハーンの再話文学を陰で支えることになる人生が描かれる。
 
 小泉八雲熊本旧居では、来る10月8日、下記の講座が開かれる。ぜひ参加してみたい。

初萩とさおしか

2024-09-03 21:45:09 | 文芸
 先月中旬、味噌天神の福栄堂さんがかつて製造販売されていた銘菓「さおしか」の復刻版を作られたというので訪問して試食させていただいた。しかし、「さおしか」という商品名が他店で商標登録されているため、福栄堂さんは再販売に当たって「初萩」という商品名にしたいとおっしゃっていた。
 これは、万葉集の
  「わが岡にさをしか(小牡鹿)来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさをしか」
という「大伴旅人」が詠んだ歌にあるように「さおしか」と「萩の花」がまるで夫婦のように寄り添う様子から発想されたもの。

 万葉集の成立から約200年後に完成した清少納言の「枕草子」第六十七段「草の花は」の條に次のような一節がある。

   萩、いと色深う、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れて、
   なよなよとひろごり伏したる。
   さを鹿のわきて立ち馴らすらむも、心ことなり。八重山吹。

 ここでも萩の花のそばに立つ「さおしか」が描かれている。清少納言はもちろん万葉集は読んでいたと思われるし、上記の「大伴旅人」の歌も知っていたであろう。というより萩の花と「さおしか」を対で詠むのは常套句のようなものだったのかもしれない。


藤田嗣治画伯旧居跡に咲く萩の花

漱石の句いろいろ

2024-09-01 20:25:09 | 文芸
 京陵中学校前の漱石記念緑道を散歩していると漱石句碑がコスモスに覆われ、上の句しか読めない。毎年秋のお馴染みの風景だ。
 「すみれ程の小さき人に生れたし」
 

 この句はいろんな解釈がされているが、熊本に来て初めての正月を迎えた合羽町の家にいた頃詠んだといわれているので、正月の来訪者の煩わしさに懲りた漱石の心境が反映しているのかもしれない。「道端に人知れず咲くすみれのようにひっそりと生きたい」とでも思ったのだろうか。

 一方、熊本大学黒髪キャンパス(旧五高跡)に建立されている漱石句碑は対照的だ。
 「秋はふみ吾に天下の志」


 五高教授時代に詠んだ句で、「勉学に励み、志を高く持って、いずれは天下に名を成す気概を」という漱石先生から五高生へのエールなのだろう。

夏目漱石「草枕」の風景

2024-08-15 21:21:13 | 文芸
 だいぶ前から見たいと思ってはいたが、何分にも長尺なのでついつい先延ばしにしていた動画を今日やっと見た。それは令和4年度五高記念館文化講座における五高記念館の村田由美客員准教授による講座「夏目漱石『草枕』を読み解く」の録画映像である。
 「山路を登りながら、こう考えた。」この有名な冒頭からはじまる「草枕」は、いつからどのようにして小天温泉(現在の熊本県玉名市)が舞台と言われることになったのか。その漱石の旅の背景や、漱石にとってこの小説がどんな位置付けだったのかなどについて語っておられる。
 「草枕」の題材となった熊本市内から小天温泉までの通称「草枕の道」約16kmを家内と二人で歩いてからもう15年の歳月が流れた。その後も区間を限って歩いたことも何度かある。「草枕の道」を進みながら思うのは、見える風景が小説のどこかに書いてあったかなということだ。しかし、実際には「これだ!」という風景には出会わなかった。
 今回見た映像の中で、村田先生は極めて興味深い話をしておられる。たしかに漱石がこの「草枕の道」を歩いたであろうことを裏付ける絵画があるという。それは甲斐青萍という熊本の画家が描いた「金峰山遠望」という1枚の絵である。描かれたのは漱石が歩いた時期に近いという。


 「京町台から見た金峰山」というこの絵の金峰山の手前に描かれている一本松の山が「石神山」だという。そして「草枕」の第1章にはこんな描写がある。

--立ち上がる時に向うを見ると、路から左の方にバケツを伏せたような峰が聳えている。杉か檜か分からないが根元から頂までことごとく蒼黒い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引いて、続き目が確と見えぬくらい靄が濃い。少し手前に禿山が一つ、群をぬきんでて眉に逼まる。禿げた側面は巨人の斧で削り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋めている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。--

 このことからも漱石がこの絵と同じような風景を見ながら歩いたことはほぼ間違いないという。

 僕はこの絵は初めて見たのだが、甲斐青萍が描いたポイント(金峰山町のどこか)に立って一度確認してみたい。絵が描かれた当時とはすっかり風景が変わっているとは思うが。


「草枕 鏡が池」のモデル

2024-05-18 20:30:45 | 文芸
 昨日、子飼へ車の給油に行った帰り、泰勝寺跡の前を通ったのでちょっと立ち寄った。昨年、一時干上がった池の現状が気になっていたからだ。満水まではいかないが4分の3くらいまで水位が戻っていて安心した。
 2016~2017年に開催された夏目漱石記念年事業の一環として出版された「漱石の記憶」(熊日出版)の中に、中村青史先生(元熊大教授、2023年8月没)の「草枕 鏡が池のモデル」という小論が掲載されていて、漱石の「草枕」に登場する「鏡が池」は泰勝寺の池がモデルではないかと推論されている。
「草枕」の「鏡が池」のくだりでは、画工と那美さんのやりとりの後、「鏡が池」の描写がある。
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「あなたはどこへいらしったんです。和尚が聞いていましたぜ、また一人散歩かって」
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々投げるかも知れません」
 余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧りみてにこりと笑った。茫然たる事多時。

 鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二股に岐かれて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の縁には熊笹が多い。ある所は、左右から生い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な形で、ところどころに岩が自然のまま水際に横たわっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連ねている。
 池をめぐりては雑木が多い。何百本あるか勘定がし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌え出でた下草さえある。壺菫(つぼすみれ)の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
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 中村先生曰く「吾輩は猫である」の舞台となっている立田山麓の、寺田寅彦の下宿先や泰勝寺や五高などの描写から、漱石が泰勝寺の池を見ていたことは間違いなく、「吾輩は猫である」の「鵜の沼」や「草枕」の「鏡が池」のイメージは泰勝寺の池がモデルになったのではないか。実際に泰勝寺の現地で「鏡が池」の描写を思い浮かべながら池の周囲を見て回って確信されたようだ。一般的に「鏡が池」のモデルは小天の庭池とされているが、そこがあまりにも小説のイメージと異なることに疑念を抱いておられたようだ。


水位を回復しつつある泰勝寺の池


満水だった頃の泰勝寺の池


山本丘人「草枕絵巻」より「水の上のオフェリア(美しき屍)」

鏡子夫人の証言

2024-04-21 22:06:24 | 文芸
 漱石夫人の夏目鏡子さんが口述し、娘婿の松岡譲さんが筆録した「漱石の思い出」を読んでいると、関係者しか知り得ない漱石作品の「behind the scenes」を見るようでなかなか興味深い。
 その中の一つ、「草枕」の一節、画工が「那古井の宿」の浴場に入っている時、湯煙の中に「那美さん」が手拭いを下げて湯壺へ降りてくる場面についての鏡子夫人の証言が面白い。
 小説の登場人物は画工と那美さんの二人だけだが、実際には漱石と同行した山川信次郎の二人が浴槽に入っているところへ裸で入って来た前田の姉さん(那美さんのモデル)がびっくりしてあわてて逃げ出したが、実は別の女中さんも裸になりかけていたというのが真相のようだ。また、漱石と山川信次郎は、名士を迎えるために造られたというこの前田家別邸で一番上等の「三番の部屋」に逗留したが、家の人たちはみな「三番のご夫婦さん」と呼んでいたそうで、二人の関係性がうかがわれる。


「三番の部屋」と呼ばれた漱石が逗留した部屋

 小説にはこう描かれている。


松岡映丘筆「草枕絵巻・湯煙の女」


浴槽

山路を登りながら、こう考えた。~草枕の世界~

2024-04-17 21:08:42 | 文芸
 「山路を登りながら、こう考えた。」
 これは漱石の「草枕」冒頭の有名な一節である。そしてこの山路というのは鎌研坂(かまとぎざか)のことといわれている。熊本市島崎の岳林寺辺りから金峰山に登る最初の険しい山道でもある。
 先月末日に行われた本妙寺桜灯籠を見に行った時、参道の一角で米屋を営む中学時代の親友の家を訪ねた。と言っても親友は11年前に既に他界している。僕がまだ「草枕」のことなど何も知らなかった中学時代、その親友と毎週のように登った山道だ。今日では自動車道が並行しているが、当時は「けもの道」のような山道が一本あるだけ。お互いに母親が作ってくれた弁当をリュックに詰め、一路金峰山を目指した。二人とも大の映画好き。道中は互いに知っている限りのまめ知識を披露し合うのである。当時は西部劇の全盛期で、話題は見た西部劇のストーリーや好きなスターの話ばかり。話に夢中で険しい鎌研坂もあっという間に峠の茶屋へ着いたものだ。2年ほど前、昔を思い出して鎌研坂を登ってみようと竹林に分け入ったのだが、あまりの過酷さに早々に断念した。
 漱石が小天温泉を目指してここを登った時は五高の同僚、山川信次郎が一緒だったようだが二人の間に会話はあったのだろうか。
※上の写真は「草枕の道」の起点となっている岳林寺
映像は鎌研坂で撮影したものです。