徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

ドルショックとわが人生

2021-08-31 20:56:32 | 
 今年はドルショックから50年になる。ナニソレ?という世代も多くなったので、正確を期すため精選版日本国語大辞典の解説を引用すると、

――1971年8月15日にアメリカ経済の再建と、ドルの立て直しのためニクソン大統領が発表した「新経済政策」によって海外諸国が受けた衝撃。ドルの事実上の切下げであるフロート化、輸入商品への大幅課税などによって、対米依存度の高いわが国の受けたショックは特に大きかった。ニクソンショック。――

 長い間、1ドル=360円レートに慣れた経済体質の日本への影響は大きかった。それがわが身にどう降りかかったかというと、当時、僕はまだ独り立ちできていない新入社員の一人に過ぎなかった。会社はブリヂストンの化工品部門の別会社として発足したばかりだったが、ドルショックによって経営計画は大きく見直しを迫られた。そして経営陣が下した方針は別会社からブリヂストン本体への吸収だった。熊本県玉名市に建設されたこの会社は一生転勤がないというのが最大の志望動機だったのだが、本体へ吸収されればそんな条件は無くなる。まさに青天の霹靂だった。それから5年は玉名で勤務したが、その間に家庭を持ち、二人目の子供もできた頃、山口県防府へ転勤となった。それからは3年足らずで転勤を繰り返す転勤族になり、結局そんな生活を27年ほど続けたのである。僕自身にとってはどこへ行っても同じ会社なのだが、家族には間違いなく苦労を掛けた。もし、ドルショックなかりせばと考えることもあるが、人生において、はたしてどちらがよかったのか結論は出ない。


ブリヂストン熊本工場(玉名市河崎)

貝殻節(鳥取県民謡)

2021-08-30 21:14:54 | 音楽芸能
 映画やドラマの中に各地の民謡が挿入されることがあるが、今まで見た中で最も印象深い民謡は、80年代にNHKで放送された吉永小百合主演ドラマ「夢千代日記」で度々歌われた「貝殻節」。はる屋の芸者たちが唄い踊る「貝殻節」が忘れられない。このドラマで「貝殻節」が全国に知れ渡ることとなった。ところが、実は「貝殻節」は「夢千代日記」の舞台となった兵庫県の湯村温泉あたりの民謡ではなく、随分離れた鳥取県の鳥取港あたりで生まれた民謡だという。

      芸者置屋はる屋の女将・夢千代(吉永小百合)、半玉の小夢(中村久美)、芸者の金魚(秋吉久美子)
      そして三味線は年増芸者の菊奴(樹木希林)の面々。



NHK新日本風土記アーカイブス「みちしる」にアーカイブされた「貝殻節」



シンガーソングライターの浜田真理子さんがアレンジした「貝殻節」

玄宅寺舞踊会

2021-08-29 20:54:35 | 音楽芸能
 舞踊団花童の舞踊会が、月1回水前寺公園の玄宅寺で行われるようになって8年。しかし、昨年の春、新型コロナ感染防止のため中止されてから1年半が過ぎた。ここでの演舞は彼女たちにとって腕試しの場でもあり、われわれ花童ファンにとっては普段あまり見ることができない演目を間近で見る貴重な舞踊会だった。コロナの一日も早い終息と玄宅寺舞踊会の復活を願ってやまない。


毎月1回、玄宅寺で行われている花童舞踊会。多くの花童ファンが集う。


2013年9月20日は花童舞踊会と観月会が重なり、さらに新曲「水前寺成趣園」の初披露も行われた
ため、いつもの10倍の約500名のお客様で本堂や境内は溢れかえった。


古典の演目から


現代的な舞踊まで


時にはお囃子の披露も


玄宅寺で生まれた創作舞踊曲「水前寺成趣園」

棒庵坂と善蔵遺聞

2021-08-28 20:53:14 | 歴史
 散歩などでよく上り下りするのが熊本城内の棒庵坂(ぼうあんざか)。坂下に加藤清正の寵臣、下津棒庵の邸があったのでその名が付いたといわれる。ここを通るたびに思い出すのが、熊本城築城に携わった高瀬の大工棟梁善蔵の話を聴き取った「御大工棟梁善蔵聞覚控」という古文書。下津棒庵について触れた部分を中心に一部を再掲してみた。

 こゝのお城(熊本城)の出くる前だったか、御先々代様(加藤清正公)の仰せによって、俺ぁ、下津どん(下津棒庵)家来の衆と、大坂と安土表に行くことになった。それは熊本の城下をお建てになるためだった。下津さんな、もとはなんでも京のお公家さんの末のお方げな。何事で、あっちのお寺におんなはったつば、御先々代様がぜひとも言ふて、京からこっちに連れてお出でになったと聞いておった。御納戸のこつは一切この方にまかせきりであったとかで、ここに御城下の出くるやうになったつは、この人の進めなはったこつがもとになったつげな。
 そもそも府中じゃ、どうしてんこうしてん場所が狭かけん、こっちに移しになったが、それから古町に町が出け始めた次第で、この一方にはお城を興さにゃならんちゅうふうになってきたと聞いておった。そこでお城の走りを吟味する内に御先々代様は御国入のずうっと後、かねてあっちこっちとお暇のとき御巡見になった。初めは杉島に目をつけなはったが、摂津守(小西行長)の方とあって残念ながら、取りやめになんなはったばい。俺はその頃あとからお供いたしまわったが、どどの最後の場所が茶臼山だった。
 お城が建つとすれば、天守や 同心町もこれに出けんといかんけん、さてそうなって来っと、お城の建て方の吟味ときた。こうなってくると、まづ、お城の造りかたの見方たい。安土と大坂などのお城の組み合わせの見積りをせにゃならん。お殿様からその申付けがわっち(自分)にあったけん、わるがへん(自分の)父っつあんを連れて旅出した。高麗の陣のときにゃ、随分と苦しい目に遭うたばってん、この他所んお城をいくつも見て回ったことも、一通りの難儀苦労じゃなかったぞ。図引きゃ、父っつあんがさしたが、さて戻ってきてから、いよいよ茶臼山の図引となったときゃ、岩野の御武家で宗さんがこの役になんなはったばい。
 町家の方は下津さんが図引きの役、お城の図引の出け上がった後で、それを御先々代様が飯田(飯田覚兵衛)様、森本(森本儀太夫)様たちと、知恵を出し合わせて長んか間、吟味をしなはったこつを憶えておる。場所が茶臼山に決まってから、山の地均しときたばい、こるが大事であって、その次ぎにゃ、材木と石の詮議、こるが仰山骨が折れた。このほかに瓦焼きは江戸より下しになって、 飯田山の下で焼かせになった。材木の分な、阿蘇、菊池、茶臼山、権現山の方からも、伐り出しになり、石は六甲山、祇園山と拝み嶽、津ノ浦あたりからも取り寄せなはったばい。木馬道から木と石を運んだが、車のあったけん出けたったい。男山と女山の境目を断ち切って、もとの城から茶臼山に引き直しなはった大仕掛けは、初めの城よりも、こと仰山な大普請であった。今でこそ五十四万石の城下と言うとるばってん、慶長三年からお城の建て方に手を着けなはった御先々代の御難渋な働きは、並大抵のこつじやなかった。これにゃ町といわず在郷もんにいたるまで、汗水を流して、お手伝いをしたこつぁ、とても口に筆なんきゃ尽くしきれせん。


棒庵坂。なかなかの急勾配。高校などの運動部のトレーニングに使われる


明治5年の明治天皇九州巡幸に随行した内田九一が撮影した棒庵坂下から大小天守を望む1枚


サントリーの缶コーヒー「プレミアムボス」のCM。加藤清正と重臣たちの城づくり談義

笛太鼓が聞こえる

2021-08-27 22:18:58 | 日本文化
 夕食後、熊本城二の丸広場まで散歩に出かけた。風に乗って笛太鼓の音が聞こえる。県立美術館のところまで行ってみると音はハッキリと銅鑼の音も聞こえた。すぐ近くの護国神社から聞こえるようだ。行ってみた。獅子舞の一団が稽古をしていた。そこでやっと気が付いた。彼らはみな私服で稽古していたが、ここは新町獅子舞のいわば本拠地。この季節は藤崎八旛宮例大祭に備えて準備の最盛期。残念ながら今年も神幸行列は中止となったが、彼らの奉納舞は出番があるのだろう。
 新町獅子舞の歴史は古く、藤崎八旛宮が創建された935年から、西南戦争で焼失する1877年までの942年間、新町は藤崎八旛宮の鳥居基として奉仕してきた。1500年代の終わり頃、加藤清正が入国し、熊本城築城とともに城下町として古町・新町が整備された。加藤清正が朝鮮出兵から無事帰還することができた報恩として藤崎八旛宮の神幸行列を再興した際、新町が獅子舞を奉納したのが「新町獅子連」の始まりと伝えられる。現在は熊本市の無形民俗文化財に指定されている。


ライトアップされた熊本城大小天守


新町獅子保存会の稽古風景(熊本県護国神社)


藤崎八旛宮での新町獅子保存会の奉納舞

晩夏

2021-08-26 20:06:30 | 音楽芸能
 この歌が聴きたい季節になった。姉を駅まで送った後、井芹川沿いの田んぼを見に行った。青い稲がまだ真っすぐに立ち、小さな穂をつけていた。空を見上げると、過ぎゆく夏を感じる。つい「ゆく夏に名残る暑さは夕焼けを…」と口ずさむ。
 ユーミンが荒井由実の時代、1976年にリリースした名曲だ。2005年には平原綾香がカバーしている。カバー盤をリリースする前だったか後だったか、ユーミンのFM番組「Sweet Discovery」にゲスト出演した平原綾香に、「なんでこの歌をカバーする気になったの?」とユーミンが不思議がっていた。カバーするなら他にもいい曲があるのにと言いたかったのかもしれない。平原綾香が感銘したという詩がとにかく素晴らしい。



山鹿灯籠まつりの歴史

2021-08-25 19:45:30 | イベント
 今年の「山鹿灯籠まつり」も一部神事が行われただけで終わった。2年も続くと、来年はやれるんだろうかと心配になる。1年後にコロナが終息しているという保証は何もない。
 
 ところでこの「山鹿灯籠まつり」は景行天皇の九州巡幸の際のエピソードが起源だという。曰く
 景行天皇が、玉名から山鹿に向けて進む際、一面濃霧が立ち込めて進路を阻んだので、里人が松明をかかげて一行を迎え、今の大宮神社辺りへ導いた。その時の松明が山鹿燈籠の起源と伝えられる。

 ただ、この話は日本書紀に書かれている景行12年、西暦でいうと82年の話。日本書紀はフィクション、ノンフィクション取り混ぜた物語なので、そのつもりで読んだほうがよさそうだ。
 この景行天皇の九州巡幸は、時のヤマト王権に従わない熊襲や各地の土蜘蛛(土地の豪族)たちを征伐していく話なのだが、山口県の防府辺りから始まる。九州に上陸すると福岡県、大分県、宮崎県と東側を巡り、さらに鹿児島県、熊本県、長崎県、島原から有明海を渡り再び熊本県へ入る。おそらく長洲あたりに上陸したのだろう。そこから山鹿へ向かうときに上記のエピソードが生まれるわけだ。

 しかし、景行天皇を導いた松明がいきなり灯籠に変わったわけではなさそうだ。灯籠というのは本来仏具。室町時代、枯渇した温泉を祈祷によって復活させた、金剛乗寺中興の祖、宥明法印の没後、追善供養のために灯籠が奉納されるようになり、それが灯籠まつりになったという説もある。1000年以上も続いた神仏習合の時代。いつの頃からか景行天皇の伝説と結びついていったと考えられる。

 今日のような灯籠おどりを中心とした「山鹿灯籠まつり」になったのは昭和も戦後10年ほど経ってからのことであり、まだ70年足らずの新しい祭りでもある。

 能「土蜘蛛」は平安時代の武将、源頼光による妖怪「土蜘蛛」退治の話だが、景行天皇時代の土蜘蛛征伐の伝説が下敷きになっているともいわれる。


2014.8.2 水前寺成趣園能楽殿 出水神社薪能 金春流「土蜘(つちぐも)」

消えたお地蔵さん

2021-08-24 22:16:10 | 熊本
 久しぶりに宇土小路(うとこうじ、うとしょうじ)を歩いた。すると、この界隈のシンボル的存在だった辻のお地蔵さんがない。かわりにセロケースに入れた文書が置いてあった。それによると、ここに建物が立つので撤去した。ついては永代供養をし、お地蔵さんは某寺にて保管するとあった。この辺りの地主さんの名前が書いてあった。
 江戸時代の侍町であった宇土小路は明治時代にその約半分は学校用地となり、江戸時代の小路がほぼそのまま残っている京町東側の柳川小路に比べ影が薄い。シンボルの辻のお地蔵さんまで消え、その痕跡はほぼ消えた。辺りは熊本地震以降、民家の建て替えが進み、町の表情は一変しつつある。まわるまわるよ 時代はまわる。

▼宇土小路とは(熊本県大百科事典より)
 熊本市中央区京町本丁の西側一帯の旧称。慶長五年(1600)関ヶ原の戦に際して、宇土の領主小西行長は西軍に応じたため、東軍に味方した加藤清正はその居城である宇土城を攻撃した。行長の留守を預かる小西隼人長元はよく守ったが、行長の死を聞いて城を開き、自分の命に代えて将士の助命を乞うた。清正はその乞いを許し、小西の旧臣たちを召し抱え、この地域に住まわせたので、宇土衆の侍町というところから、宇土小路の名がついた。現在熊大附属小・中学校、京陵中学校、営林局などのある一帯である。(鈴木喬)


辻のお地蔵さん(昨年の様子)


観音坂の後悔

2021-08-23 21:05:31 | 
 先日、観音坂からの風景について記事を書いたが、実は観音坂を通る度に、後悔の念に駆られる一つの思い出がある。あれは7年前の秋のことだった。
 その日、僕は京陵中学校での熊本市長選挙の投票を終え、わが家の方へ歩いていた。その道は明治29年4月13日、第五高等学校に赴任した夏目漱石が人力車で通った道である。京陵中学校のテニスコートのフェンス沿いに「すみれ程の小さき人に生まれたし」という有名な漱石の句碑が立っている。この句碑の前でカメラを構えている80歳前後と思しき老婦人に気づいた。背中にリュックを背負っていたので「観光客かな」と思いながら通り過ぎ、京町本丁の四つ角で信号待ちをしていると、追いついて来たその老婦人が「壷川小学校はどちらの方向になりますか?」と。僕は壷川小学校まで歩くのは大変かなと思い、「バスで行かれたらどうですか。ここから二つ目ですよ」と言った。しかし、老婦人は「壷川小学校は幼い頃通っていたので歩いて行きたいのです。」とおっしゃる。それじゃ途中までご一緒しましょうと歩き始めた。道々、熊本にいたのは戦前の6年間で、京町1丁目に住んでいて壷川小学校に通ったこと、その後、父親の転勤で熊本を離れたことなどを話された。そして、「たしか道の左側に刑務所があった」とおっしゃった。京町拘置所のことだとわかった。おそらく観音坂を通学していたらしい。しかし、既に新坂をだいぶ進んでいたので、今さら観音坂へ回るのは大変だと思い、とにかく新坂を下って壷川小学校を目指すことを勧めて別れた。彼女は丁寧にお礼を述べて去って行った。家に着いてしばらくの後、彼女にとって懐かしい子供時代の思い出の地・熊本を訪れるのは、おそらくこれが最後なのだろうと思うと、なぜ、遠回りしてでも通学していた観音坂へ連れて行ってあげなかったのだろうと悔やんだ。
 一期一会という言葉は知っていたのに、嗚呼・・・


観音坂

第26回くまもと全国邦楽コンクールの結果

2021-08-22 18:27:25 | 音楽芸能
 「第26回くまもと全国邦楽コンクール」は昨日、熊本市民会館で行われた。本来は昨年6月開催される予定だったがコロナ禍のため1年延期、やっと昨日、無観客で行われた。結果は下表のとおり。
 最優秀賞の中嶋ひかるさん(筝曲部門・東京)は3回連続の本選出場。前回は優秀賞、今回念願の最優秀賞を射止めた。

▼本選の結果



最優秀賞の中嶋ひかるさん

懐かしの昭和歌謡

2021-08-21 22:15:31 | 音楽芸能
 今夜のテレ朝「博士ちゃん」では、昭和歌謡にハマっている子供博士たちが選んだ「昭和歌謡の歌姫ベスト20!」という2時間スペシャル番組をやっていた。20位から11位まで見たところでNHKの「ブラタモリ」に切り替えたのでベストテンに誰のどの曲が選ばれたのか知らない。
 もし自分で選ぶとしたら、昭和世代の一人としてやはり美空ひばりは絶対外せない。彼女の歌で特に好きな曲が、僕が小・中学校の頃ヒットした次の2曲。早いもので今年は彼女の三十三回忌の年だそうだ。

▼港町十三番地(昭和32年)
 当時、マドロスものが流行っていて彼女も何曲か歌っているが、中でも「長い旅路の航海終えて」で始まる歌詞の良さと軽快なメロディが絶品。僕は戦後歌謡曲の最高傑作の一つだと思う。

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▼花笠道中(昭和33年)
 ひばりと大川橋蔵が共演した「花笠若衆」という東映時代劇の中で初めて聞いた。「これこれ石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ」という歌い出しはクセになるほどだった。当時、東映時代劇にハマっていた。

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熊本の風景今昔 ~観音坂から~

2021-08-20 20:58:30 | 熊本
▼この写真は昭和初期と思われる熊本の写真である。いったいどこ?と思うのだが、実は旧坪井川の観音橋付近で舟遊びをする少年少女たちだという。僕が幼稚園に通った戦後間もない頃も旧坪井川は淀んだ泥川として残っていたが、写真のように舟遊びができるほど流れがある旧坪井川を見たことはない。



▼新坂を下り切った辺りから右の階段を降りると旧坪井川が暗渠化された道になる。南の方へ道なりに進んでいくと、小高くなった観音坂に突き当たる。ここがかつて観音橋が架かっていた地点。




▼観音坂は、加藤清正によって茶臼山に熊本城が築城されたとき、天守閣付近にあった観音堂をこの坂の途中に移したので観音坂と名付けられたと伝えられる。観音坂は豊後街道の一部でもあり、参勤交代の御行列もここを通った。




▼観音橋が架かっていた辺りから下流方向を撮影。上の古写真と同じアングルと思われる。今は民家が建て込んでいる。




▼現在、観音堂は残っていないが、坂の途中のお地蔵さんはその身代わりか。





そもそものお話

2021-08-19 22:20:27 | 日本文化
 長唄「風流船揃(ふうりゅうふなぞろい)」は「そもそも船の始まりは」という唄い出しで始まる。本来はそこから、古代中国で貨狄という人が船を発明した「そもそも話」が始まるのだが、舞踊を主とする舞台ではその部分がカットされ、いきなり「見渡せば 海原遠く真帆片帆」という隅田川の風景描写が始まる。つい、そもそも何だったの?と思ってしまう。

 それはさておき、最近気づいたのは僕自身が「そもそも話」が大好きだということだ。歌舞伎なら現代の歌舞伎よりも江戸初期の歌舞伎の始まりといわれる阿国歌舞伎のほうが興味があるし、能楽ならば現在上演される多くの能・狂言の演目よりも「翁」のほうが興味がある。さらに言えば、そもそも芸能の始まりといわれるアメノウズメの天の岩屋戸神話の舞により惹かれる。
 これからも多くの伝統芸能を見るだろうが、「そもそも話」好きは変わらないだろう。


長唄「風流船揃」

コロナと風流踊

2021-08-18 22:12:03 | 伝統芸能
 大雨も心配だが、熊本のコロナ感染者が昨日271名、今日が264名と感染爆発の様相を呈してきた。ワクチン接種も2回接種がやっと50%くらいだし、人流抑制策や飲食店対策などではたして効果はあるのだろうか。

 先月16日から熊本県立美術館で始まった「洛中洛外図屏風と大名文化」展を見に行きたいのだが、コロナ感染が拡大し始めたので足を踏み出せない。
 この展覧会は、今、最も興味を持っている「中世芸能」中でも「風流踊(ふりゅうおどり)」について調べていたので、その手掛かりになりはしないかと期待していた。「洛中洛外図」はいくつかあるが、今回は岡山の林原美術館の所蔵するものなので「池田本」といわれる重要文化財。はたして会期の9月6日までに行けるだろうか。
 ちょうど昨日、FB友の栗田さんが今年も地元の「鶴崎踊」が中止になってさみしいという記事をご自分のFBに書かれていた。実は「鶴崎踊」は中世の「風流踊」の流れを汲んでいる。踊りが二つあって「左衛門」という踊りは、戦国大名・大友宗麟の寵臣だった立花道雪が京の都で踊られていた「三つ拍子」という風流系の踊りを、舞子を招いて移入したと伝えられる。もう一つの「猿丸太夫」も風流系の伊勢踊りがもとになっている。
 そもそも「風流」とは趣向を凝らしたものとか、「拍子物(はやしもの)」をさす言葉だそうで、広辞苑には「中世の、囃子を伴う群舞、風流」とある。
 さて、コロナが終息したら「鶴崎踊」も見に行ってみたいものだ。


鶴崎踊の一場面(栗田弘一さん撮影)