僕が大学を卒業して最初に就いた仕事はカーディーラーのセールスマンだった。父の知人の紹介で入った会社はメーカーM社のトラックやバスを販売していた。実はここには1年余りしかいなかった。入社以来ずっと抱いていた漠然とした将来への不安みたいなものが払しょくできず辞めたのだが、このわずか1年余りの経験が、後にいろんな意味で生きることになった。
販売するのがトラックなので対象となる顧客は運送業や土木建設業などに限られ、新入社員が新規顧客を開拓することは難しかった。先輩たちが開拓した顧客に定期的に挨拶とご用聞きをして回ることが主な仕事だったが、それらの顧客の中に運よく買い替え時期の顧客がいると自分の販売実績となった。もちろん、新規開拓のために他メーカーのユーザーも回るのだが、メーカーを乗り換えることはほとんどなかった。
この1年余に多くの人々に出会い、いろんな出来事があったのだが、中でも特に忘れられない想い出がいくつかある。
▼前途多難を予感させた映画「卒業」
入社後まもなくM社の水島工場でのメーカー研修に参加した。2週間の研修の中にはエンジンの組立て実習などもあった。中日に休日があったので一緒に参加した同期生を連れ立って岡山市内へ映画を観に行った。ちょうど「卒業」が公開されたばかりだった。ダスティン・ホフマン演じる主人公の青年の、大学を卒業して故郷へ帰って来たという設定が自分と同じで、彼が抱く虚無感や鬱屈した気持がものすごく共感できた。映画のトンデモない展開を見ながら、自分自身の人生にも前途多難を予感したものだ。
▼日常茶飯事だった飲酒運転
販売契約が成立して新車を納車ということになると自分でトラックを運転し同僚が乗用車で同行した。また同僚が納車する時は乗用車で付いて行ったものだ。僕の担当テリトリーは阿蘇・上益城地区だったが、その頃はまだ舗装された道は少なく、車幅ギリギリの狭い山道を登ることも度々だった。怖さよりも新車を傷つけないかとそれだけが心配だった。新車しかも商売道具なので顧客にとって納車は祝事だった。必ず祝い酒が振る舞われた。当時はまだ「運転が・・・」などと断る時代ではなかった。付いてきた同僚とともにしこたま酒を飲まされた。帰りはいったいどんな運転だったのか想い出すだにおぞましい。
▼ルーズな相乗り
1960年代後半はまだマイカーはそれほど普及しておらず、特に阿蘇などの山間部にカローラなどに乗って行くと羨ましがられたものだ。顧客回りをしていると顧客の娘さんなどから「ついでに○○まで乗っけてくれ」などと頼まれることも多かった。山道では下校途中の小中学校の女の子が普通に手をあげて車を停め、乗り込んできた。その当時の小中学生の間では一つの流行みたいなものだったようだ。今ではとても考えられない。道をたずねようと車を停めて声をかけようもんなら、不審者に対する目つきで睨まれ、足早に立ち去られるのがオチである。
(次回に続く)
左端後ろから二人目が僕