徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

Two Way Player

2018-12-19 15:52:29 | ビジネス
 昨日、くるみさんが学校の帰りに立ち寄ってくれた。彼女は幼い頃からの夢をあきらめきれず、医療専門学校に通い、夢実現へ向かって奮闘中である。でも彼女は「勉強は楽しい!」と言う。何に取り組むにしても楽しいことが一番だ。
 一方、彼女は20年を超える日本舞踊歴があり、3年前に「はつ喜月若」という名取名を許されている。舞踊の道もずっと続けていくつもりのようなので、いずれ「Two Way Player」つまり「二足のわらじ」あるいは「二刀流」を目指していることになる。今年は大谷翔平が「Two Way Player(二刀流)」としてアメリカでも話題になったが、数年後、くるみさんの夢がかない、晴れて「Two Way Player」になることを祈ってやまない。



オムニチャネル!?

2018-02-25 17:36:08 | ビジネス
 かつてタイヤ業界の端くれに身を置いた一人として、やっぱりタイヤのCMは気になる。最近、「オムニチャネル」などという聞き慣れない言葉を耳にする。要するに「店頭販売」と「ネット販売」が融合したようなチャネルのことをいうらしい。タイヤ業界のオムニチャネルとして、最近よく目にするのが「TIREHOOD」。ネットで調べてみると、三菱商事エネルギー㈱グループが、ガソリンスタンドと組んで始めた新サービスらしい。タイヤ購入や取付交換など、ユーザーにとってどれほどのメリットや利便性があるのか、いま一つよくわからないが、元フェアリージャパン(新体操日本代表)の一員だった畠山愛理さんが登場するCMが気になってついつい見入ってしまう。

車夫が足りない!

2017-09-26 19:07:53 | ビジネス
 外国人観光客が急増し、外国人には特に人気のある人力車の車夫が全国的に不足しているんだそうな。人材の育成を始めた自治体もあるようだが、基本的な体力はもちろんのこと、運転技術の習得に加え、観光スポットを勉強したり、おもてなしのスキルを身につけたりと、なかなか簡単ではないようだ。育成期間も長期にわたると、途中で挫折する人も多いらしく車夫としてデビューできる人はほんのひと握りだという。
 未来に残したい日本の風景「Rickshaw」の運命は!?


2016.4.13 漱石来熊120年記念行事「お帰りなさい 漱石先生」より


2015.10.12「はつ喜月若さん名取披露」より

動かぬWindows と LCCと

2015-03-10 19:24:19 | ビジネス
 阿蘇の西原村に住む知人から「パソコンが動かない!」という悲鳴。ヘルプに出かけた。パソコンはWindows Vistaでまだサポートは終了していないが、今日では基本的性能が不足しているやつだ。常駐プログラムを解除したり、画面をクラシックスタイルに戻したり、視覚効果をパフォーマンス優先に変更したり、ディスクのクリーンアップをしたり、考えつくことをいろいろやってみた。結果、動きはだいぶ改善したようだ。
 帰りは朝の小雪まじりの天気がウソのようなドピーカン。中岳の噴煙を振り返ると、東の空から阿蘇の峰々を越えてジェット機が飛んできた。近距離で機体を見るのは久しぶりだ。


東の空から飛行機が飛んできた。


ジェットスター!東京から熊本まで2000円くらいで来れるやつかな!?

“ロータス(Lotus)1-2-3”よ ありがとう!

2013-07-10 16:42:38 | ビジネス
 パソコンの表計算ソフト「Lotus1-2-3」が市場から撤退するという。会社勤めの頃、このソフトにはとてもお世話になった。80年代の半ばから10年ほど使ったろうか。特に「マクロプログラミング」の基礎を学んだのも「Lotus1-2-3」だった。90年代に入り、会社の標準ソフトが「Excel」に変わった。僕は「Lotus1-2-3」には何の不満もなかったが、渋々「Excel」に切り替えざるを得なかった。パソコンソフトの世界では「一度流れができると、その流れを変えるのは不可能に近い」とよく言われる。ワープロソフトの「一太郎」から「Word」への流れもまた然りだった。
 僕はパソコンがオフィスワークに使われ始めた80年代の初頭からパソコンを使わざるを得ない環境にあったが、思えばいろんな表計算ソフトを使ってきた。初期の頃はNECのN5200に搭載されていた「LANPLAN」。富士通のF9450に搭載されていた「EPOCALC」など。表計算ソフトは、それまでのCOBOLやBASIC言語を使ったプログラミングの煩わしさから解放してくれた。僕は常々、表計算ソフトが生まれなかったら今日のようにパソコンが普及することはなかっただろうと思う。
 「Lotus1-2-3」はその歴史的役割を終えて退場して行く。しかし、パソコン史上に燦然とその名を残すだろう。「Lotus1-2-3」よ ありがとう!


年賀状に句読点は?

2012-12-04 16:53:25 | ビジネス
 年賀状作成の季節となって、賀状や喪中通知の作成依頼が舞い込み始めた。縦書き文書の場合、「句読点」は付けるのだろうかというご質問を受けることがある。これまで自分が縦書きの年賀状などを出す時もあまり気にせず、年賀の挨拶の部分だけは句読点を付けず、近況などの添文的な部分は普通に句読点を付けていた。先日、喪中の年賀欠礼通知の依頼者の方が、あまりにも真剣に悩んでおられたのであらためて調べてみた。するとやはり、もともとは縦書き文書というのは日本古来の書式にのっとったものであり、句読点を付けるのは相手に対して失礼にあたるということらしい。つまり、句読点を付けてあげなければ読めないと見下していると解釈されるそうだ。そう言えば昔の偉い人の自筆文書を見ると、どこで区切るんだかわからない文書がほとんどだ。しかし、実際にそれに忠実に文書を作成してみたら、まぁ読みづらいこと。結局、句読点を入れたくなる箇所に半角のスペースを入れることで妥協した。この時代、あんまり気にすることもないのかもしれないが、先人の作法を頑なに守るということもたまにはあっていいのかもしれない。

※右は坂本龍馬が姉の乙女へ出した手紙

悩み多きセールスマン時代

2012-10-27 13:20:10 | ビジネス
 僕が大学を卒業して最初に就いた仕事はカーディーラーのセールスマンだった。父の知人の紹介で入った会社はメーカーM社のトラックやバスを販売していた。実はここには1年余りしかいなかった。入社以来ずっと抱いていた漠然とした将来への不安みたいなものが払しょくできず辞めたのだが、このわずか1年余りの経験が、後にいろんな意味で生きることになった。
 販売するのがトラックなので対象となる顧客は運送業や土木建設業などに限られ、新入社員が新規顧客を開拓することは難しかった。先輩たちが開拓した顧客に定期的に挨拶とご用聞きをして回ることが主な仕事だったが、それらの顧客の中に運よく買い替え時期の顧客がいると自分の販売実績となった。もちろん、新規開拓のために他メーカーのユーザーも回るのだが、メーカーを乗り換えることはほとんどなかった。
 この1年余に多くの人々に出会い、いろんな出来事があったのだが、中でも特に忘れられない想い出がいくつかある。

▼前途多難を予感させた映画「卒業」
 入社後まもなくM社の水島工場でのメーカー研修に参加した。2週間の研修の中にはエンジンの組立て実習などもあった。中日に休日があったので一緒に参加した同期生を連れ立って岡山市内へ映画を観に行った。ちょうど「卒業」が公開されたばかりだった。ダスティン・ホフマン演じる主人公の青年の、大学を卒業して故郷へ帰って来たという設定が自分と同じで、彼が抱く虚無感や鬱屈した気持がものすごく共感できた。映画のトンデモない展開を見ながら、自分自身の人生にも前途多難を予感したものだ。

▼日常茶飯事だった飲酒運転
 販売契約が成立して新車を納車ということになると自分でトラックを運転し同僚が乗用車で同行した。また同僚が納車する時は乗用車で付いて行ったものだ。僕の担当テリトリーは阿蘇・上益城地区だったが、その頃はまだ舗装された道は少なく、車幅ギリギリの狭い山道を登ることも度々だった。怖さよりも新車を傷つけないかとそれだけが心配だった。新車しかも商売道具なので顧客にとって納車は祝事だった。必ず祝い酒が振る舞われた。当時はまだ「運転が・・・」などと断る時代ではなかった。付いてきた同僚とともにしこたま酒を飲まされた。帰りはいったいどんな運転だったのか想い出すだにおぞましい。

▼ルーズな相乗り
 1960年代後半はまだマイカーはそれほど普及しておらず、特に阿蘇などの山間部にカローラなどに乗って行くと羨ましがられたものだ。顧客回りをしていると顧客の娘さんなどから「ついでに○○まで乗っけてくれ」などと頼まれることも多かった。山道では下校途中の小中学校の女の子が普通に手をあげて車を停め、乗り込んできた。その当時の小中学生の間では一つの流行みたいなものだったようだ。今ではとても考えられない。道をたずねようと車を停めて声をかけようもんなら、不審者に対する目つきで睨まれ、足早に立ち去られるのがオチである。
(次回に続く)


左端後ろから二人目が僕

取り込み詐欺に遭った話

2012-10-22 20:05:30 | ビジネス
 滋賀県彦根市の工場に勤務していた20年ほど前の話である。急な増産計画が持ち上がり、工場現場に100名を超える中途採用を行なうことになった。工場周辺だけでは員数を賄えないため、大阪まで出かけて採用面接会を行なった。多くの若者が応募してきたが、その中に見るからに好青年のNという男がいた。20代の後半で既に妻子もいると履歴書には書かれていた。面接での受け答えも抜群でトップクラスの評価で採用した。Nは京都に妻子を残して彦根市内の会社の寮に入寮した。仕事ぶりもまじめだった。ひと月ほど経ったある日、寮の管理人から電話がかかってきた。Nが行方不明だという。あわてて寮へかけつけた。彼の部屋はもぬけの殻となっていた。そして大変な問題が起きていた。彼は社員となったこのひと月の間に、会社の生協と契約した電器販売店から多くの家電を月賦で買い込んでいたのである。これは給料天引きで支払われることになっているのだが、本人がいなくなれば生協が本人に代わって電器販売店に残りの代金を支払わなければならない。その金額の大きさに生協の担当者が青くなって相談に来た。こちらも採用した責任があり、なんとかしなければならない。警察に被害届を出すべきではという意見もあったが、手続きが面倒だし、その前に自分たちの手で本人を何とかつかまえようという話になった。さっそく僕と生協の担当者の二人で、履歴書に書いてあった自宅へ向かった。その家は京都の山科区のある町に確かにあった。家には誰もいなかったが、しばらくすると奥さんと思しき女性が帰って来た。「Nの奥さんですか?」と尋ねると「はい、そうです」と言う。しかし、続けて「Nはもう1年ほどここには帰っておらず、実質的にはもう夫婦ではない」と言う。そこで事情をありのままに話した。奥さんはNが再就職したことも知らなかった。そして続けて語った話に愕然とした。「おたくもやられたんですね。実は以前勤めていたT自動車でもM電器でもやったんです。大きな企業ほど甘いんですね。彼の一家は取り込み詐欺のプロ集団なんです。彼は品物を詐取する担当で、あとの換金処理などは他の家族がやります」話を聞いているうちに段々自分たちのまぬけぶりが情けなくなってきた。Nにとって僕らを騙すのは赤子の手をひねるようなものだったに違いない。Nの家族がどこに住んでいるかも知らないという奥さんの話にトボトボと帰るしかなかった。後の処理は生協にお任せすることになったが、想い出す度に心が痛む。

※写真は琵琶湖の湖水を京都市へ送る琵琶湖疏水

パソコンプリンターの当たり外れ

2011-10-12 22:37:36 | ビジネス
 パソコンのプリンターはもう10数年来、E社の製品を使っている。いつも最も売れ筋の機種を選んでいるが、これまで使ったプリンターはだいたい3~4年で買い替えてきた。その中でも今年の6月まで使ったプリンターなどは7年くらい使っていて、その間ほとんど故障もなく酷使に耐えてくれた。いつも家内と「このプリンターがわが家で一番働き者だな」などと冗談を言っていたくらいだ。そのプリンターに漸く寿命が近づいたのか、不具合が出始めたので名残惜しかったが6月に新品に替えた。ところがこの新品のプリンターが最初から不具合続き。特に困ったのが用紙の吸い込みや送り。僕はハガキを数百枚とか写真を数十枚単位で印刷することが度々あるが、セットした用紙の最後の方になると5枚くらいをいっぺんに吸い込んでしまい、ハガキや写真用紙にインクが付着して使えなくなってしまう。普通紙だったらまだ我慢もするが、高価な用紙が度々無駄になるのは我慢ならない。とうとう頭にきて今日、購入したパソコンショップで新品に交換してもらった。先代のプリンターの優秀さと比べてあまりの格差。新製品の方が性能がよくなるとは限らないことをあらためて思い知らされた。

パソコンと付き合い始めて30年!

2010-10-26 21:28:06 | ビジネス
 今日ふとした拍子に、パソコンと付き合い始めてちょうど30年になることに気がついた。悪戦苦闘の30年だったが、特に初期の1、2年は思い出すだにおぞましい。1980年から会社の中で“OA化”なるものが本格的に始まり、部署内で若手だった僕は先頭を切ってパソコンの習得をせざるを得ないハメに陥った。社内講習みたいなものはあったが、教わることと言えば、BASIC言語によるプログラミング。当時のパソコンは自らプログラムを作るしか使う方法はなかったのだ。およそコンピュータなどとは縁遠い人生を送っていた僕は、当時の多くの人がそうであったように挫折するのは目に見えていた。しかし、そこで踏みとどまり、今日のIT社会にもなんとかキャッチアップできているのは、ある人との出逢いがあったからだ。その人は会社の大先輩であり、かつての上司でもあった白根さんという方だった。当時既に50代の半ばを過ぎておられたが、独学でプログラミングを修得され、会社の生協のシステムを自ら開発しておられた。その努力ぶりを見る度に、まだ若い自分に同じことができないわけはないと発奮させられた。そのお蔭で、なんとかBASICやCOBOLなどの言語を使って簡単なソフトを作れるようになった。その後、まさにあっという間にパソコンのハードとソフトは飛躍的な向上を遂げ、僕らが苦労して開発していたソフトは、表計算ソフトを使えば、ものの10分くらいでできてしまう。ありがたいことなのだろうが、夜を徹して知恵を絞っていたあの頃が妙になつかしい。
 ちなみにこの白根さん、旧華族で、元宝塚のトップスターだった日向薫さんのお父さんである。 

六月、でも梅雨入りは・・・

2010-06-01 20:16:53 | ビジネス
 今日から6月。平年だと熊本は、明日6月2日が梅雨入りだそうだ。ちなみに昨年は6月9日だったが、ちっとも雨が降らず、梅雨はどこへ行ったの?と言っていた覚えがある。今年も天気予報では、これからの一週間、雨は降りそうもない。川が氾濫するような大雨も困るが、やはり梅雨は梅雨らしく、それなりに降ってもらいたいものだ。
 だからというわけでもないが、僕らの世代の雨の歌の極め付けを2曲。1曲目は、ジョニー・レイの「雨に歩けば」で1956年のヒット。2曲目は、カスケーズの「悲しき雨音」、1963年のヒット曲だ。




マイクロソフト・オフィスの未来は・・・

2010-05-31 23:38:48 | ビジネス
 甥っ子が表計算の資格試験を受けるので、連日その受験対策のサポートをしている。受験するエクセルのバージョンを2003か2007のどちらにするか、選ばなければならないので、日頃使っているExcel2003を選ばせた。以前から受験バージョンを選ぶということはあったが、今ほどのバージョンの差はなかった。今は二つのバージョンで操作性がかなり異なるので選び間違ったら大変だ。これは資格試験に限らず、実際のビジネス現場も同じような状況があるようだ。エクセルやワードなどのオフィスシリーズは今でも2003のバージョンを使っているところが、まだ圧倒的に多いと聞く。あえて2007に替えなければならない理由がないのでそんな状態が続いているのだろう。聞くところによると、さらに新しいバージョン2010がリリースされるそうだが、ビジネス現場とは無関係なマイクロソフト・オフィスのバージョンアップは今後も続くのだろうか。ある意味でパソコンの発展を支えてきたマイクロソフト・オフィスだけに動向が気になる。

老先生 今年の力作!

2009-11-24 22:22:51 | ビジネス
 今年も年賀状の季節。今年83歳のS先生は毎年、年賀状用に水彩画を描かれる。今年も完成連絡をいただいて取りに行った。題材は毎年熊本城。いつも違った角度から描かれるので、毎年、作品を見てハッと気付かされることが多い。いつものことながら、ご高齢とは思えぬ繊細なタッチに感心する。3号のキャンバスに描かれたものを、できるだけ高精細にスキャンしてあげようと、DPIを思いっきり上げて撮るので時間がかかること。出来上がりが楽しみだ。

平成19年 平成20年

平成21年 平成22年

頭が下がる思い

2009-07-15 21:38:38 | ビジネス
 シナリオを書き進めていくと、どうしてもロケハンが不十分だったシーンが出てくる。玉名や荒尾はいつでもまた見に行けるが、徳島県となるとそうはいかない。藁にもすがる思いで徳島県美波町教育委員会のK課長にお願いしてみた。なんとお願いのメールを入れて、わずか3日後には、こちらのリクエストに沿ったロケーションの写真と、撮影ポイントを記した詳細地図が郵送されてきた。お忙しい中、ご協力いただいたK課長には本当に頭が下がる思いだ。なんとしてもこれを無駄にしないよう頑張らなければ・・・

 
徳島県美波町・鹿の首峠から旧阿部村を望む

 
お水大師から望む阿部の浜と潮吹き展望台から望む志和岐の集落

ある炭鉱マンの話を聞く

2009-02-26 18:52:30 | ビジネス
 先日、荒尾の万田炭鉱館に行ってシナリオの取材をした。インタビューをしたのは現在、万田炭鉱館運営のお手伝いをされている岩本繁徳さん(69歳)。昭和30年から平成6年までの40年間、三井三池炭鉱三川坑で炭鉱マンとして働いてこられた方だ。黒光りする顔とがっしりした体躯がいかにもそれを感じさせる。ご自身の体験に基づく数々の裏話は実に興味深く、あっという間に予定の2時間が過ぎていた。2月11日にドキュメンタリー番組「月が出たでた お月さんたちの炭坑節」がRKKで放送された。岩本さんも一場面に登場されているそうだが、あの番組の内容を否定はしないが、ある側面しかとらえていないとおっしゃったのが印象的だった。録画しているのでもう一度、岩本さんの話と照らし合わせながら検証してみたい。