大代寅次郎さんの画集「水絵にのこす山鹿」(熊日新聞社刊)を見た。この画集は、大代さんの心に残る山鹿の明治、大正、昭和の風景を描いたもの。そのなかの最初に掲載されているのが「菊池川筋」の「大舟橋場近し」と題する下の絵だった。
次のような説明が添えられていた。
山鹿に集積された肥後米は、大橋際の米出し場から舟に積まれ、川を下り、高瀬から海路大阪へ運ばれた。菊池川は今日では想像もできない舟運の往還であった。帰りには黒砂糖や昆布などが積まれて、人力で山鹿まで遡行された。三つの瀬を越え大橋も近づくと自然掛声もはずんでくる。さんざめく橋の出迎えの人波には、妻子の顔も見えたに違いない。
今まで僕は、過去に住んだこともある高瀬(玉名市)の目線でしか肥後米の積出しをとらえていなかったので、帰りの舟が人力で山鹿まで遡行されていたとは考えもしなかった。高瀬・山鹿間は日頃、車でよく行き来するので距離感がわかるが、あの距離を人力で舟を引っ張るとは・・・。先人たちの労をいとわない姿は感動的だ。

次のような説明が添えられていた。
山鹿に集積された肥後米は、大橋際の米出し場から舟に積まれ、川を下り、高瀬から海路大阪へ運ばれた。菊池川は今日では想像もできない舟運の往還であった。帰りには黒砂糖や昆布などが積まれて、人力で山鹿まで遡行された。三つの瀬を越え大橋も近づくと自然掛声もはずんでくる。さんざめく橋の出迎えの人波には、妻子の顔も見えたに違いない。
今まで僕は、過去に住んだこともある高瀬(玉名市)の目線でしか肥後米の積出しをとらえていなかったので、帰りの舟が人力で山鹿まで遡行されていたとは考えもしなかった。高瀬・山鹿間は日頃、車でよく行き来するので距離感がわかるが、あの距離を人力で舟を引っ張るとは・・・。先人たちの労をいとわない姿は感動的だ。
