徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

初午寂し

2021-01-31 21:09:48 | 日本文化
 あっという間に1月が過ぎ、明日はもう2月。昨年のこの時期はコロナ騒動が始まっており、今一つ気分の晴れない春の始まりで、来年こそはと思っていた覚えがあるが、まさか今年もそれが続くとは。
 今週は初午(2月3日)だが、熊本城稲荷神社の初午大祭もかなり縮小して行われる予定のようだ。

熊本城稲荷神社・初午大祭 2月3日(水)00:00~24:00
▼中止になった行事
 ・福迎え御神幸行列(上通-下通)
 ・奉納舞台(太鼓や踊り等)
 ・福餅まき
 ・甘酒配布
 ・夜間における開運御座 など


2016年の初午大祭

愛娘の歌舞伎出演

2021-01-30 07:01:30 | 伝統芸能
 歌舞伎の市川海老蔵さんが愛娘の市川ぼたん(麗禾)ちゃんを、永い間女人禁制とされた歌舞伎の舞台へ上げるに当たり、歌舞伎の世界での男女差別をなくそうという考えがあるのではと話題になっているようです。

 そもそも歌舞伎は、慶長8年(1603)、京の都で、国と名のる女性芸能者による「かぶき踊り」がその始まりとされています。大衆の熱狂的な支持を得た「お国かぶき」は、4年後の慶長12年(1607)の2月20日、江戸に招かれ、江戸城本丸・西の丸にある能舞台で興業を行ないます。能舞台では、その1週間前から観世・金春の勧進能が行なわれていましたが、お国は能の太夫たちと同等の待遇を受けたと伝えられています。これが江戸歌舞伎の始まりで、その後、お国の模倣者たちが続々と江戸へ下りました。お国が江戸城で踊ってから17年後の寛永元年(1624)2月15日、山城から江戸へ出た猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中橋に猿若座(後の中村座)を開設。江戸歌舞伎が本格的に始まりました。それからわずか5年後の寛永6年(1629年)、江戸幕府は女歌舞伎を「風紀上よろしくない」との理由で御法度にしてしまいました。以来390余年の間、女性によって始められた歌舞伎の舞台は女人禁制となったままです。

 歌舞伎よりもずっと古い歴史を持つ能の世界では、既に100年近く前から女性が舞台に上がることを許されている。もうそろそろ歌舞伎の世界も変革の時期ではないだろうか。海老蔵さんの行動を注目したい。


平成27年10月6日 山鹿八千代座での麗禾ちゃん初舞台記念植樹(山鹿温泉さくら湯池の間の庭)

八木節のはなし。

2021-01-28 19:37:18 | 伝統芸能
 この写真は2011年4月9日に熊本城本丸御殿で行われた「春の宴」で、ザ・わらべのくるみさんとあやのさんが踊っている写真だが、この演目は動画を撮っておらず、演目が何だったのか思い出せなかった。当日、地方として写真にも写っておられる本條秀美さんにおたずねしてみたところ、あやのさんのうしろに、樽を叩く人が写っており、一度だけ本丸御殿で演奏したことがある「八木節」ではないかとのこと。そう聞くと、「八木節」を踊る二人が軽やかに動き始めたような気がした。

 群馬県と栃木県の二県にわたる民謡として知られる「八木節」だが、そのルーツは越後瞽女(ごぜ)の門付(かどづけ)唄だった「新保広大寺」だという。新潟県十日町市の曹洞宗の古刹広大寺に伝わる恋物語は瞽女や遊芸人などに唄われることによって各地に広まって行ったといわれる。
 下の二つの動画は、一つ目が水野詩都子さんと本條秀五郎さんの東海風流による飛騨高山民謡「こだいじん(高山)」。瞽女によって、白川郷そして高山にも伝えられた「新保広大寺」が飛騨の風土によって変化したもの。
 二つ目は、四人の民謡演奏家が「新保広大寺」と「八木節」をメドレーで聞かせる。似ているところと違うところがよくわかる。

 実は群馬県と栃木県の間では「八木節」の発祥地についていまだに論争があるという。しかし、この曲のルーツにまで戻って考えてみれば、そんな論争は不毛なことがわかる。両毛(上毛野国と下毛野国)だけにね。オチもついたようで今日はこれまで。





「新保広大寺」が飛騨高山に伝わって「こだいじん」となった。


「新保広大寺」と「八木節」のメドレー

春は嬉しや

2021-01-27 19:08:38 | 音楽芸能
 昨年と比べると1週間以上遅れて護国神社の紅梅が開き始めた。今週末はまた寒気が襲ってくるらしいが、三寒四温を繰り返しながら徐々に春らしくなっていくのだろう。
 例年この時期になると端唄「梅は咲いたか」を聴きたくなるのだが、今年は趣向を変えて「春は嬉しや」を聴くことにした。といってもこの唄は春だけの唄というわけではなく、四季の移ろいを背景に恋模様を唄った端唄。そもそも原曲はどうだったかなと思い、いつもお世話になっているサイト「世界の民謡・童謡」にアクセスし、「春は嬉しや」を調べてみた。するとなんと!そこにはYouTubeマイチャンネルの「春は嬉しや」が貼り付けてあった。いやはや、ご紹介いただくのはありがたいが、ちょっと気恥しい。記事の中にあった美空ひばりの「春はうれしや」と聴き比べてみた。


やっと開き始めた護国神社の紅梅(今日の様子)



マイチャンネルの「春は嬉しや」


美空ひばりの「春はうれしや」

女優の道へ

2021-01-26 19:46:16 | 音楽芸能
 楽しみにしていた舞台も次々に中止されるなか、ここ数年、観に行っていた劇団ひまわり熊本スタジオによる公演が4月に予定されています。何とか開催できる環境になってほしいものです。
 舞踊団花童OGのひとり、東島希海(のぞみ)さんは同スタジオの研究生として一昨年8月の公演「おてもやん」で主役を務めるなど、経験を積んできましたが、昨年11月から劇団ひまわりのプロダクション所属になり、本格的に女優業に進むそうです。大学を卒業したら上京する予定だそうで、大変苦労も多いと思いますが頑張ってほしいと願っています。ず~っと応援します。
※右の写真は桜十字病院のTVCMに登場する希海さん


花童時代の希海さん

Excelの夢を見た!

2021-01-25 21:49:13 | 
 昨晩、Excelで苦闘している夢を見た。何だかよく分からないが全国のデータを集めた統計を作ろうとしている。そんな仕事をやったのは東京本社にいた頃だからもう30年以上前のことだ。分析をしようとして、この関数を使ったらどうかなとか、データを自動的に入力できないかなとか、あゝでもないこうでもないと考えているうちに目が覚めた。本当に目の前にパソコン画面があるような臨場感のある夢だった。
 朝起きてから夢のことを思い出していたら、お年玉年賀はがきの当選番号チェックをまだやっていないことに気づき、さっそく始めた。4、5年前にExcelで作成したチェック表を使ってやったが、かつての年賀状枚数から激減し、100数十枚しかないのであっという間に終わった。当りには全く縁がなく、今年も切手シート1枚に終わった。


ハーン来熊130年

2021-01-24 18:04:11 | 歴史
 今年はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が五高教師として熊本へやって来てから130年の年。昨今の情勢から、10年前の来熊120年の時のような記念行事が行われるのかどうかわからないが、記念公演資料をもとに10年前を振り返ってみた。

◇ハーンと熊本
 ハーンが五高の英語教師になるため、島根県立の松江中学を辞し、妻のセツらを伴い、春日駅(熊本駅)に降り立ったのは明治24年11月19日。校長の嘉納治五郎が出迎え、手取本町の不知火館(のちの研屋支店)に案内しました。
 この明治24年7月、門司から熊本まで鉄道が開通し、また熊本電燈会社が操業しています。熊本城そばの厩橋際に火力発電所が設けられ、城内の兵舎の灯りがこうこうと夜空を照らしていたようです。花畑一帯は練兵場が広がり、いまの市役所の場所は監獄でした。五高の構内に外人教師館がありましたが、不知火館近くに赤星家が母屋を明け渡して貸してくれるという話に居を構えます。筋向いに九州日日新聞社(熊日の前身)があり、さっそく購読しています。正月八日の六師団の閲兵式後の宴会にハーンも招待され、それが九州日日に報じられました。
 「檜扇の三ツ紋ある黒羽二重の羽織に仙台平の袴を着し扇子をチャンと差したる有様と目の色の青きに赤髭茫々たる顔と特に目立ちて見へたりければ、さても衆目を一身に引受け、花嫁も及ばぬ程見つめられし次第にて当日第一の愛嬌なりしと」松江からセツの養父母、養祖父などの家族やお手伝い、車夫(これは間もなく解雇)を伴い、料理人の松を呼び寄せます。養祖父の稲垣万右衛門は若いころ、松江藩主の若殿のお守り役だったといい、「愉快な年寄り」でした。熊本城下を「こおり、こおり」とふれ歩く行商人を呼びとめ、「その水は伯耆大山から来るのか」と尋ねるなど、笑いの種をまき散らしました。招魂祭や藤崎宮のお祭りのときにもごったがえす雑踏のなかを出歩き、財布をすられるという騒ぎを起こしています。
 一年後、坪井西堀端町に移り、長男の一雄はここで生まれた。稲垣老人はハーンの書斎に飛び込み、「フェロン公、天晴れだッ!生まれたで」とうれし涙を流し、腕まくりし、こぶしを振り立てて、男児出産を知らせたといます。
 「この町は近代化されています。それから町が大きすぎ、お寺もない、お坊さんもいない、珍しい風習もない」と松江中学の教頭西田千太郎に手紙に書き送っているハーンですが、熊本に移り住んでわずか2、3カ月で9キロも体重が増えています。西洋料理の食材が容易に手に入つたためです。
 そして地蔵祭の日、美しい光景に出会います。地蔵堂はくさぐさの花や提灯で飾られ、大工連が子供たちが踊る屋台をこしらえ、 日が暮れると露店が並びます。日が暮れ、ふと見ると、家の門前に大きなトンボがとまっていました。ハーンが子供組に与えた寄進に対するお礼でした。トンボの胴体は色紙でくるんだ松の枝、四枚の羽は四つの十能(炭火を運ぶ道具)、頭は土瓶でこしらえてありました。しかも、全体があやしく影をさすように置かれ、蝋燭の光で照らされていました。その造り物をこしらえたのが8歳前後の男の子で、「なんと日本の子供たちは美術的感覚の持ち主だろうか」とハーンは驚いています。
 ハーンの一家が熊本を去ったのは日清戦争が始まった年の明治27年10月 6日でした。


小泉八雲熊本旧居(熊本市中央区安政町)


坪井西堀端町の旧居前にあった地蔵堂(数年前に撤去)


来熊120年記念公演「青柳」の一場面


アメリカ国歌を聴きながら

2021-01-23 21:25:51 | 音楽芸能
 先日行われたアメリカのジョー・バイデン新大統領就任式で、レディー・ガガが国歌を独唱した。数年前に彼女がスーパーボウルの開会式で独唱した時の歌い方とは明らかに違っていた。おそらく今回は崇高なイメージを出したかったのだろう。
 それはさておき、アメリカ国歌を聞くと必ず僕が思い出すのは東京オリンピックのこと。水泳はとにかくアメリカの独壇場で、男女合わせて18種目中13種目で金メダルを獲った。水泳が行われた代々木競技場でスタッフ補助のアルバイトをしていた僕は、連日アメリカ国歌を聞かされた。
 戦後間もない子供の頃、どんどん入って来るアメリカ文化を浴びながら育った。自然とアメリカは尊敬すべき国、あこがれの国と刷り込まれていった。さらに水泳に限らず、スポーツでのアメリカの圧倒的な強さがそれに拍車をかけた。
 しかし、今回のアメリカ議会議事堂の襲撃事件は、そんなアメリカに対する僕の敬意を打ち砕いた。アメリカという国はこんなに民度の低い国だったのかと唖然とした。これまでアメリカをお手本として受けてきた民主主義教育とはいったい何だったのだろうか。

   カクタス・キューティーズの歌うアメリカ国歌

雪の山中

2021-01-22 21:08:59 | 音楽芸能
 「熊本県邦楽協会演奏会」が今年は中止となり、大好きな俚奏楽(りそうがく)が聴けないのが残念だ。俚奏楽というのは、三味線音楽の大御所、本條秀太郎さんが創始した新しいジャンルの三味線音楽。「俚」は「さとび」とも読み、「雅(みやび)」の対義語。つまり、「雅」が都会的なさまを表すのに対して、田舎びたさまを表す言葉。全国津々浦々に消えてなくなりそうな古い民謡・俗謡がある。それらを掘り起し、新しい現代的な解釈で甦らせ、継承していこうというのが本條さんの提唱する「俚奏楽」の考え方。
 そんな俚奏楽の中でも特に好きな曲が、本條さんが山中節(石川県民謡)をモチーフに創作された「雪の山中」。数年前にYouTubeにアップしたが、今回歌詞をつけて再アップした。


振付:中村花誠 舞踊:中村くるみ(はつ喜月若)

細川藤孝公

2021-01-20 22:43:03 | 歴史
 今夜のBSプレミアム「英雄たちの選択」は肥後細川家の始祖、細川藤孝のちの細川幽斎を取り上げた。文武両道に秀で、室町幕府の足利義輝・義昭両将軍に仕えた後、信長・秀吉・家康と天下が変わる激動の時代を生き抜いた幽斎のしたたかな戦略が見えてきた。明智光秀の盟友でもあった幽斎のもとに残された貴重な古文書から、本能寺の変の真相にも迫っていた。

 右の銅像は、水前寺成趣園に立てられた細川幽斎像

 立田自然公園にある四つ御廟には月に一度はお参りに行くことにしているが、ここには幽斎公夫妻と二代目の忠興公とガラシャ夫人が祀られている。





 水前寺成趣園にある古今伝授之間は、かつて京都御所の中にあった建物で、「古今和歌集」を後世に伝承する古今伝授の役割を担った文化人として天皇家からも大事にされた幽斎公ゆかりの建物




 幽斎公は、天正15年(1587)7月、九州平定のために出陣した関白秀吉を福岡・筥崎宮で陣中見舞いした後、瀬戸内を船で帰る途中、この鞠生の浦(現山口県防府市)に立ち寄っている。乗船する船が田島の港に着くまで催された連歌の会に参加したことが紀行「九州道の記」に書かれている。今から40年以上前、僕はこのすぐ近くに住んでいたので懐かしい。


胡蝶と梅の花

2021-01-19 21:38:29 | 音楽芸能
 今年はわが家の梅の花がなかなか咲かない。例年だととっくに開き始めている頃だが、冬の寒さが厳しかったせいなのだろうか。右の写真は去年の今頃の様子。
 下の映像は、一昨年5月、山鹿八千代座で行われた「第二回山鹿をどり」における「鏡獅子」の中の「胡蝶の精」の部分。中国清涼山の「石橋」のたもとで咲き乱れる牡丹に戯れながら舞い踊る。
 能にも「胡蝶」という演目があり、いずれも雅楽(舞楽)がもとになっているそうだが、能「胡蝶」では、胡蝶の、自らとは季節が異なる梅の花に対する強いあこがれがテーマになっている。


天橋立と宮津のはなし。

2021-01-18 16:47:16 | 歴史
 先週土日に行われた大学入学共通テストの地理Bで、天橋立の写真に関する問題が出題され、その1週間前の9日に放送された「ブラタモリ ~天橋立編~」で、まるで予測したかのような映像が映っていたことがネット上で話題になっている。それは下のような天橋立を北側から見た写真。1週間前にブラタモリを見た受験生にはラッキーだったかも。

 それはさておき、天橋立のある宮津市は肥後細川家ゆかりの地。天正6年(1578)に信長に丹後国攻めを命じられた細川藤孝と明智光秀は、丹後に君臨していた一色氏を滅ぼし、丹後国は藤孝に与えられた。藤孝は宮津城を築いたが、しばらくして田辺城を築いて移り、宮津城は、藤孝の嫡男忠興と、信長の命により嫁いだ光秀の娘たま(ガラシャ)の居城となった。
 2015年に熊本県立美術館で開かれた「細川家と能 ~細川コレクション 能の世界~」では、細川家がまだ丹後にあった時代、忠興が田辺城や宮津城で催した演能の記録が展示された。その番数の多さと頻繁な開催には驚かされた。忠興はいくつもシテ方を務め、藤孝が太鼓方を務めるなど、細川家主従が挙って参加している。後の小倉藩や熊本藩での細川家の文化的基盤はこの頃築かれたものと思われる。

 「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空になる」で有名な宮津節は、港町としても栄えた宮津の花街で盛んに唄われた。「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛して来い」と唄う牛深ハイヤ節と何やら雰囲気が似ている。北前船の往来による文化的なつながりがあったとみえ、下の映像の最後に唄われるのが「あいやえおどり」とも「宮津ハイヤ節」ともいわれる曲である。


北側から見た天橋立

1)宮津節 2)宮津盆踊り松坂 3)あいやえおどり ※クリックすると動画を再生します

真美さんの絵本

2021-01-17 19:38:05 | 友人・知人
 かつて様々なイベントで司会やナレーションなどを度々お願いしたり、昨年亡くなられたお父様が開いておられた料亭にもお世話になったりした松田真美さんが絵本を出版されたというニュースが今朝の熊日新聞に載っていた。題材は随分前からお聞きしていた「いのちの大切さ」を訴える内容で、彼女の念願がひとつかなったことに心よりお喜び申しあげたい。いまだコロナ禍が続くなか、彼女が長年続けている啓蒙活動の価値が再認識されることを願ってやまない。





今回出版された絵本


馬頭琴演奏会で司会を務めた真美さん(演奏者のリポーさんとともに)


アメノウズメを祭神とする高千穂荒立宮で奉納舞を行う真美さん

夢十夜と小さな女の子

2021-01-16 13:12:36 | 
 昨日は、1週間ほど前に予約した本が準備できたというメールが市立図書館から届いたので花園公民館の図書室へ受け取りに行った。本は夏目漱石の「夢十夜」を近藤よう子が漫画化したもの。普段、漫画はほとんど読まないのだが、同じく彼女が漫画化した折口信夫の「死者の書」を読んで面白かったので「夢十夜」も読んでみようと思った。「夢十夜」は漱石の書籍も読んでいるし、映画化されたのも見たが、漫画版と比べてみたい。
 読後感はまた後日にするとして、公民館から帰った後、昨年、加藤神社からいただいた御札や破魔矢がそのままになっていることを思い出し、密を避けて日延べしていた初詣を済ませようと加藤神社へ出かけた。参拝者は数えるほどだったので安心して参拝を済ませ、新しい御札と破魔矢をいただいた後、帰ろうと歩き出すと、幼稚園児くらいの小さな女の子が近づいてきた。ちょっと会釈して通り過ぎようとするとその子が後ろを付いてくる。何だろうと思って振り返ると、その子が手に持った小さなカードを見せながら、しきりに「〇〇が当たった!」と喜びの表情を見せるので、何のカードかわからないが「よかったね!」と言って歩き去ろうとしたが、それでもその子が付いてくるので「えッ?」と思ったところで母親と思しき女性の「〇〇ちゃん、どこ行くの!」という呼び止める声が。あれ、こんな風景、前にも見たことがあるぞ、と既視感を覚える。帰ってからブログを調べると2018年11月24日に二の丸広場で同じような経験をしていた。「夢かッ!」
 ところで女の子が持っていたカードはパズドラ・カードというものらしい。


クレーンや工事足場が消え、スッキリした熊本城天守閣(昨日の様子)

吉原雀

2021-01-14 20:12:51 | 音楽芸能
 熊本県はコロナウイルス感染が急拡大し、ついに県独自の緊急事態宣言が発令された。これまでも外出は極力自粛していたが、ますます巣ごもり状態になりそうだ。そんな状況もあって、今年度の熊本県邦楽協会演奏会は中止となった。しかたないので、過去の演奏会から印象に残る演奏を再見しているが、その中でも特に好きな演奏の一つが下の長唄「吉原雀」。立三味線の杵屋五司郎さんの流麗な演奏に呼応する杵屋六花登さんの唄と花と誠の会の囃子。繰り返し聞いても飽きない。

 「吉原雀」というのは吉原遊郭をただ冷やかして歩く素見の客を指す言葉。下の絵、葛飾応為の代表作「吉原格子先之図」でも描かれている張見世の太格子の外から眺めているような連中のことだ。
 実は「冷やかし」という言葉の語源もここから来ている。ブラタモリの「江戸の盛り場 吉原編」でも紹介されたが、かつて隅田川から吉原へ舟で向かう山谷堀という水路があり、その紙洗橋周辺では、昔から再生紙の製造が盛んだった。紙切れ屑を煮た後に冷ましたり、紙を水に浸すことを「冷やかし」といって、冷めるまでの待ち時間の間、職人たちは近くの吉原遊廓の張見世の前で暇をつぶしたという。そのことから、登楼する気がないのに客の素振りをすることを「冷やかし」というようになったそうだ。


葛飾北斎の娘、葛飾応為の代表作「吉原格子先之図」


長唄「吉原雀」(明和五年(1768)の成立)