徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

11月の要チェックイベント

2023-10-31 21:55:16 | イベント
 10月もあっという間に過ぎ去り、明日からは11月。
 見逃せない11月のイベントをチェックしておこう。

熊本城流鏑馬
 期 日:11月3日(金・祝)
 時 間:14:00~15:30
 場 所:熊本城二の丸広場
 数年前に比べると「秋のくまもとお城まつり」が寂しくなってしまったが、
 今年も「武田流騎射流鏑馬」は健在。
 千年を超える歴史を有する古武道としての流鏑馬を今に伝える。



熊本城下町・菓子祭り
 期 日:11月19日(日)
 時 間:10:00~17:00
 場 所:熊本県護国神社(熊本市中央区宮内3−1)
 「〽上中下の職人町は九州一の菓子の町…」と謡われた新町の菓子文化と芸術の祭典!
 今回は4年ぶりの開催。



梅林天満宮例大祭
 期 日:11月25日(土)
 時 間:11:00~18:00
 場 所:梅林天満宮(玉名市津留499)
 菅原道真公を御祭神とする太宰府天満宮の第一分霊社。毎年11月25日に行われる例大祭では、900年の歴史をもつ伝統行事「流鏑馬」が奉納される。


鏑流馬


太宰府天満宮の巫女による奉納舞

上天草市に乾杯!

2023-10-30 22:46:19 | 熊本
 今夜のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」は先週に続き熊本県上天草市の旅。
 亡父が若い頃勤務していたのが大矢野島(現上天草市)の上小学校(旧上村尋常高等小学校)。なにしろ昭和10年頃のこと、まだ天草五橋なども架かっていない頃で島々へ渡るには渡船を使うしかなかった。上村尋常高等小は大矢野島のほぼ中心部の小高い丘の上にあるが、父は同僚の先生とともに少し南へ下った、江樋戸港近くの旅館に下宿していた。今はもうないが大宮旅館といったらしく、この旅館に、島の娘を「からゆきさん」として買いに来た女衒がよく泊っていたという。当時はとにかく貧しい寒村で娘を売ったり、子守奉公に出して口減らしをすることが普通に行われていたらしい。「家族に乾杯」を見ながら今の子どもたちは幸せだなぁと思う。大矢野島を中心としてまわりの島々には分教場があったらしく父も時々渡っていたようだ。
 ゲストの杉野遥亮が船で渡った「湯島」は天草島原の乱で天草四郎や森宗意軒らが軍議を行なったといわれ、別名「談合島」とも呼ばれる。近年では「猫島」としても知られる。
 上天草市の天草四郎「生誕400年」記念事業PR特命大使の舞踊団花童によるPV動画「天海」(下参照)のロケが行なわれたのもこの「湯島」である。


上天草市大矢野町・上天草市立上小学校




漱石気分で秋を楽しむ

2023-10-29 20:09:26 | イベント
 今日は夏目漱石の熊本五番目の邸である「夏目漱石内坪井旧居」で舞踊団花童による舞踊公演「漱石気分で秋を楽しむ」が行われた。
 お座敷に観客20名限定というこぢんまりとした公演だったが、2部構成で熊本民謡、端唄・俗曲、各地の民謡など全18曲が披露された。花童メンバーと観客のトークの時間も設けられ参加者はみな満足してお帰りになったようだ。
 漱石先生もどこかでご覧になっていてニンマリとされているような気がした。


舞踊団花童メンバー



夏目漱石内坪井旧居

花童かな&花童あかり

標石が語るもの

2023-10-28 21:05:10 | 歴史
 熊本城周辺を歩いていると、ところどころで「陸軍所轄地」と刻まれた標石がひっそりと佇んでいるのを見る。明治4年から昭和20年の終戦までの74年間、熊本城が日本陸軍の用地だった歴史を示す遺物なのである。
 明治4年(1871)に鎮西鎮台が熊本城に置かれたことに始まり、以後、明治6年(1873)には熊本鎮台、明治21年(1888)には第六師団へと変遷した。この間には神風連の乱や西南戦争の現場となった。その後、日清・日露戦争、日中戦争そして太平洋戦争と軍事基地として派兵・兵站の拠点となったのである。
 散歩の足をとめて標石をじっと眺めていると、ここで軍務に就いた人、ここから戦地へ赴いた人など多くの人々の魂が込められているような気がしてくる。


監物櫓下の標石


熊本地震からの復旧なった監物櫓


かつて陸軍施設が軒を連ねていた二の丸広場

肥後菊/肥後さざんか

2023-10-27 20:11:25 | 世相
 季節は晩秋から初冬へ。昨年3月から5月にかけて開催された「くまもと花博」にちなみ制作された舞踊団花童の創作舞踊「花七変化 肥後六花」の中から、秋の花「肥後菊」と初冬の花「肥後さざんか」のパートをあらためて視聴してみました。
 なお、「くまもと花博」の歓迎アトラクションとして披露された舞踊団花童の「花七変化 肥後六花」が公式記録に記載されています。

🌸肥後菊
 神無月
  凛と気高く
   匂う 菊の花
    つつましやかに
     命つとう
      あゝ肥後菊は

🌸肥後さざんか
 霜月に
  ほのかに香り 咲き乱る
   散り染めし 花びらの
    なお美しく
     あゝ肥後さざんか



▼肥後菊

【肥後菊の歴史】
 文政二年(1819)には、肥後菊栽培の花祖と呼ばれる藩士秀島七右衛門が、肥後菊栽培要綱を指示した「養菊指南車」を著しました。そこには、肥後菊の花壇作法が定められており、明治二十年、肥後愛好者によって「愛寿会」が結成された後も固持され、現在に至ります。
現在作られている肥後菊花壇作りは、秀島流に依ったものです。

▼肥後さざんか
(肥後銀行サイトより)
【肥後さざんかの歴史】
 肥後山茶花は、第八代藩主細川重賢公が 1756 年に、御薬草蕃滋園において薬種として栽培させたという記録があります。薬種、油脂としての栽培から、花の美しさに魅せられて、次第に観賞用となっていきました。数が少なくなりつつある純品種の肥後山茶花を保存する目的で、「肥後さざんか協会」が設立され、保存、改良、普及に努められています。
(熊本県ホームページより)

「瀬戸」のはなし。

2023-10-25 21:22:18 | 熊本
 「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあるが、わが町にも「瀬戸坂」という名の坂がある。
 そもそも「瀬戸」とは何ぞやというと、いくつかの辞書の解説を総合すると
「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。
ということになるようだ。
 そこでわが町の「瀬戸坂」の由来についてあらためて現地を見ながら確かめてみた。僕が子供の頃から聞いているのは、坂が瀬戸に向かって降りているからそう呼ばれるようになったらしい。というわけでその瀬戸というのがどういうところだったのか。
 瀬戸坂を真っすぐ降りて行くと潮音寺の脇を通って坪井川に突き当たる。この辺りの川はかつては淵になっていて、僕らが子供の頃は夏の絶好の川遊び場だった。一番下の大正7年頃の河川改修前の古地図を見ると、赤い点線の円の中心を貫いているのが瀬戸坂で、その右端の坪井川に接している辺りに「専徳寺」というお寺が見える。これが現在の「潮音寺」なのか経緯は未確認だが、その少し上流で二つに分流していた坪井川が合流している。これが瀬戸と呼ばれるようになった理由に関係しているような気がする。
 この辺の坪井川流域の田畑をかつて「寺原田畑」と呼んでいた。「寺原田畑」はかつて海だったというのが地域住民の常識となっている。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。ところが、じゃあいったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、縄文時代に、まるで和歌にでも出てきそうな地名がつくとは到底思えない。それでは「平安海進」の頃かというと、寺原田畑が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもこれまた腑に落ちない。ひとつの仮説としては、海が退いた後、低地が沼沢として残り、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。
 ということから、古地図の坪井川合流点より上流地帯は一面の沼沢だった時代があり、それが合流地点から一本の川として幅が狭まったので「瀬戸」と呼んだのではないか。そんな気がしている。

瀬戸坂



瀬戸坂が坪井川に突き当たる地点(向こう岸から撮った写真)



大正7年の地図における瀬戸坂と坪井川

失われゆく熊本弁

2023-10-24 23:31:13 | 音楽芸能
 昨日散歩の途中、中坂を登っていると中学生の男子二人が談笑しながら坂を下ってきた。ひと休みしながら彼らの会話を聴いていると、一人の男子が「おれ、最近自分が年寄りじゃないかと思うんだよ」。なんとなく可笑しくてついクスッと笑った。そしてその言葉の意味するところはさておき、二人の会話にまったく熊本弁が出て来ないことに感心した。どうやらこれは今の子どもたちに共通しているらしい。やはりメディアの発達によるものなのだろうか。僕が高校1年生の時に初めて上京し、親戚の家を訪ねた時、言葉のコンプレックスでろくにしゃべれなかったことを考えると、隔世の感を禁じ得ない。
 しかし、一方では熊本弁が段々失われていくのではないかという寂しさも感じる。おそらく各地方でも同じような傾向にあると思われるが、これから50年後、百年後、方言は消えてしまうのだろうか。

 熊本弁を使った民謡・俗謡は「おてもやん」を始め数々あるが、下の「とっとっと」という唄は平成時代に作られた現代端唄とでもいったらいいだろうか。作詞:佐藤幸一さん、作曲:今藤珠美さんのコンビで、熊本弁の面白さを軽妙洒脱に表現している。


玉女サウンドが奏でる “たま”讃歌

2023-10-23 09:46:51 | 音楽芸能
 昨日、名古屋国際会議場で行われた「第71回全日本吹奏楽コンクール」において、玉名女子高等学校が10回連続金賞受賞を達成しました。昨年も同じことを書いたと思いますが、もはや何回目の金賞受賞とかどうでもよくなった感すらあります。これからもあの研ぎすまされた玉女サウンドを全国の吹奏楽ファンに聴かせ続けてもらいたいと思います。
 今回コンクールで演奏した課題曲「煌めきの朝」と自由曲「Crossfire - November 22」は、いずれまたコンサートで聴けるとして、今日は昨年収録した細川ガラシャ讃歌「華の伽羅奢~花も花なれ 人も人なれ~」を聴いてみました。

華の伽羅奢~花も花なれ 人も人なれ~(作編曲:樽屋雅徳)

▼細川ガラシャについて
 ガラシャは明智光秀の娘で、本名を玉子という。織田信長の仲立ちで細川忠興の妻となったのは天正六年(1578)のことであったが、同十年本能寺の変で父光秀が主人の信長を殺したため、玉子は離別され味土野の山中に幽閉された。その後、豊臣秀吉の許しで復縁し、同十五年にキリスト教の信者となり、ガラシャの洗礼名を授けられた。
 慶長五年(1600)忠興が上杉征伐に従軍中、豊臣方では諸侯の婦人達を人質として大阪城内に入れようとした。玉子はその要求を拒み「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世を残して玉造邸に火を放たせ、三十八歳の生涯を終えた。(立田自然公園・四つ御廟の説明書より)
※写真はガラシャ夫人が最期の時まで身に着けていたクルス(実物)

京都時代祭

2023-10-22 17:47:09 | 日本文化
 今日の午後は京都時代祭のライブ配信を観て過ごした。昨日、FB友の竹中邦彦さんから「まめ藤さんが常盤御前に扮する」という情報を得ていたので特にその場面に注目して観た。
 時代行列は時代の新しい方から遡って行く順番なので、常盤御前が登場する平安時代はだいぶ後の方だった。「平安時代婦人列」というくくりで騎馬武者姿の巴御前を先頭に、歴史に名を残す平安時代の女性が次々と登場する。この「平安時代婦人列」に参列しているのは京都五花街の中から三花街の芸妓さんたちである。
 その中の一人、まめ藤さんが扮する常磐御前(ときわごぜん)は、源義朝の側室で牛若(源義経)の母。時代行列では、義朝の没後、牛若ら3人の子(今若・乙若・牛若)を連れ六波羅の平清盛のもとに向かう時の様子という設定。まだかまだかと待っていると常磐御前のすぐ後ろに紫式部と清少納言が乗った台車がやって来るものだからライブカメラはそちらの方にピントを合わせて、常磐御前はちっともフォーカスしてくれない。
 でも現場で撮影していた竹中さんから写真をたくさん送信していただいた。ありがたい!その中から下の2枚を掲載してみた。市女笠に虫垂れ衣といういわゆる壷装束を身にまとったまめ藤さんの常磐御前である。


秋吉台と民謡「男なら」

2023-10-21 21:50:08 | 世相
 今夜の「ブラタモリ」は山口県のカルスト台地・秋吉台が舞台。約3億5千万年という長い年月をかけて、この地形が形成された過程とそこに住みついた人々の暮らしについて解き明かしていた。
 僕が秋吉台を初めて訪れたのは高校3年の時。この年1963年の国体夏季大会は山口県で行われ、僕が参加した水球競技は美祢市の大嶺高校プールが会場となった。秋吉台へは車で1時間もかからない所で、大会終了後にはバス観光で秋吉台と秋芳洞を見て回った。その10数年後、ブリヂストン防府工場に勤務していた間にも何度か訪れた思い出の地である。
 番組を見ながら当時を思い出して懐かしかった。



 高校時代最後の公式大会となった山口国体では、宿舎となった美祢市内の旅館に到着したその日、歓迎の夕べが開かれ、地元婦人会の方たちの唄と踊りにより民謡「男なら」が披露された。僕にとって山口県民謡といえば「男なら」である。


三代目 藤間紫

2023-10-20 20:11:39 | 伝統芸能
 朝ドラ「ブギウギ」に今週からヒロイン・スズ子の幼なじみタイ子が美しく成長して登場。「芸者の子」といじめられていた頃とは見違えるばかり(役者が替わっているから当たり前か)。母の後を継いで芸者見習いをしているらしい。そしてこのタイ子を演じているのが藤間爽子(さわこ)、日本舞踊家としての名前は三代目藤間紫。女優として大活躍されたお祖母様の初代藤間紫さんとは異なる(?)たおやかな女性のイメージ。お名前だけはだいぶ前から存じ上げていたが、これまで出演した朝ドラなどもほとんど見ていないので初見に近い。今後、物語のなかで舞踊を披露することがあるだろうか。
 昨年の舞踊公演の中から「藤娘」を観てみた。8:50あたりから「〽藤の花房 色よく長く」と舞う「藤音頭」の部分が特にウットリする。


タイ子役の藤間爽子


萩桔梗

2023-10-19 21:32:54 | 音楽芸能


 数日前、藤田嗣治画伯の旧居跡を訪ねた時、萩の花が今を盛りと咲き匂っていた。そう言えば「萩」は秋の七草のひとつだったなと思い出した。秋の七草は
「萩・桔梗/葛・藤袴/女郎花/尾花・撫子/秋の七草」
はぎききょう くずふじばかま おみなえし おばななでしこ あきのななくさ)と憶えたものだ。

 ついでに端唄の「萩桔梗」も思い出した。よく芸舞妓さんの演目としてYouTubeなどで見ることがあるが、昨年の鶴屋百貨店「大京都展」で祇園東の舞妓さん・満彩尚(まさなお)さんが踊っていた。
動画撮影NGだったので録画できなかったのが残念だった。

江戸端唄・俗曲の笹木美きえ師匠のサイトから詞章と解説をお借りして掲載してみた。

〽萩桔梗 中に玉章忍ばせて 月に野末に 草の露
 君を松虫 夜毎にすだく 更けゆく鐘に雁の声
 恋はこうしたものかいな

〽波の瀬に 月は今宵も 影差せど 届く瀬のなき わが思い
 あだし 仇波 寄せては返す 夢見る暇も 涙ぐむ
 辛い浮世じゃ ないかいな
【解説】
 秋の風物に託して、恋い慕う女心を唄い上げられたもので
 幕末から唄われている。  
   玉 章:(たまずさ)手紙
   野 末:野の隅 野の端
   すだく:群がり集まる・虫が泣く事
   あだし:自分を悩ます
   仇 波:変わりやすい人の心



秋の詩歌

2023-10-18 21:41:18 | 日本文化
 散歩コースの周辺も日に日に秋色が濃くなっていくようです。歩きながら俳句の一つも詠みたいのですが一向に出てくる気配がないので、帰宅してから熊本ゆかりの二人の詩歌をあらためて読み直してみました。
 まずは平安時代の閨秀歌人・檜垣嫗が詠んだと伝えられる秋の歌を二首。

 「秋風の こころやつらき 花薄 吹きくる方を まづそむくらむ」
 (秋風の心は冷たいのか、ススキの穂が、秋風の吹いてくる方に、最初に背をむけるだろう)


 「鹿の音は いくらばかりの 紅ぞ ふりいづるごとに やまの染むらむ」
 (鹿の鳴く声は、いくらばかりかの紅色をふりだして、野山が赤く染まっていくのだろう)


 檜垣媼の最晩年は岩戸観音に近い山下庵で暮らしたと伝えられており、岩戸山麓の里山は秋になるとそれはそれは美しく彩られたことでしょう。時には鹿の音も聞こえて来たと思われます。


 次は夏目漱石の俳句二句。

「傘(からかさ)を菊にさしたり新屋敷」

 明治30年暮れ、正岡子規に送った俳句の中の一句。この時、漱石が住んでいた熊本三番目の新屋敷(大江村)の家は、明午橋の少し下流、現在の白川小学校の裏手辺り。どこに植えられていた菊かわからないが、隣接する「傘丁」と掛けているのかもしれない。



 「鼓うつや能楽堂の秋の水」

 漱石は水前寺成趣園を度々訪れ句を詠んでいる。ここには出水神社能楽堂があり、薪能などが行われる日には観能を楽しんでいたのかもしれない。


漱石と芸能

2023-10-17 22:52:46 | 音楽芸能
 今月29日、ちょっと面白いイベントがある。夏目漱石の熊本五番目の邸である「夏目漱石内坪井旧居」で行われる「漱石気分で秋を愉しむ~舞踊団花童公演~」である。漱石がここに住んでいた頃、こんな宴が行われたかどうかはわからないが、伎芸典籍に明るかった漱石の小説には様々な芸能が節々に登場する。自ら嗜んだ謡曲(能)を始め、浄瑠璃、長唄、端唄、常磐津、義太夫、吟詠等々。
 漱石一家が1年8ヶ月を過ごした内坪井旧居が漱石は熊本で最も気に入っていたという。長女筆子もここで生まれ、五高や俳句結社の多くの仲間たちが集ったこの旧居のお座敷で、和楽の音色と舞踊を楽しみながら漱石の心に迫ってみませんか。
 席に限りがありますので興味のある方はお早めに内坪井旧居まで。(℡ 096-325-9127)


夏目漱石内坪井旧居・正門


お座敷から庭を眺める


舞踊団花童

国民体育大会から国民スポーツ大会へ

2023-10-15 21:21:00 | スポーツ一般
 連日、鹿児島県で行われている国体のテレビ観戦をしている。
 その「国民体育大会」という名称で行われるのは今年が最後だそうだ。来年開催される佐賀県大会から名称が「国民スポーツ大会」に変わる。略称も「国体」から「国スポ」とするらしいがはたして定着するだろうか。かつて「インターハイ」と呼んでいた「高校総合体育大会」が未だに「インターハイ」で通用することを考えると「国体」も残って行くような気もする。
 それはさておき、国体出場経験者の一人として名称変更はちょっぴり寂しさも感じる。

 僕が初めて国体に参加したのは今から62年前の昭和36年(1961)福島県の会津若松で開催された夏季国体(水球)だった。高校1年生で残念ながら試合出場の機会はなかったものの、大会期間中、台風に見舞われ、競技が一日延期になったり、停電で真っ暗な旅館の大広間にろうそくを立て、熊本県選手団が全員黙々と夕食をとったり、水球の視察に来られた義宮様を間近で拝することができたり、まだ水洗ではなかった旅館の深~いトイレの中に財布を落っことして大騒ぎを起こしてしまったりと様々な想い出が残っている。10数年前、この大会の記録映像がどこかにないかとネットで随分調べたが、この年は水泳競技だけが会津若松で行なわれ、秋季大会は秋田県で行われたこともあってなかなか見つからなかったのだが、「ふくしま教育情報データベース」というサイトの中の往時の「県民ニュース」の中に短い映像を見つけた。この映像を繰り返し繰り返し見ていると当時の想い出が鮮明に甦ってくる。