徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

怪談 その1 ~小泉八雲「和解」~

2017-07-31 16:53:28 | 文芸
 真夏の怪談シーズンなので、僕の好きな怪談の中からいくつかご紹介したい。
 まず、今日は小泉八雲の「和解」。平安時代末期に書かれた「今昔物語集」の中にその原話があり、江戸時代中期、上田秋成によって書かれた「雨月物語」の中の「浅茅が宿」も同じ原話をもとにしたものだといわれる。

▼和解(あらすじ)
 その昔、京都に住む若い侍が、主家の没落により生活に窮しだしたことから、妻を離縁し遠国の国守に仕えることになった。出世のため家柄のよい娘と再婚し、任地へ赴いた。しかし、新妻の性格が冷酷でわがままであり、二度目の結婚生活は幸福なものとはならなかった。やがて、侍は折にふれて京都での生活を悲しく思い出すようになった。自分がまだ最初の妻を愛していることに気付き、自分がいかに不当で恩知らずであったかを思い知り、次第に後悔と自責の念に駆られ心の平安を失っていった。時には、夢の中にまで前妻が現れた。それは、自分が置き去りにした荒れた家の小部屋に一人座って、破れた袖で涙を隠している妻の姿だった。侍は彼女が自分を捨てた夫を待つはずもなく、許してくれることもなかろうと思いつつも、ひそかに京都に帰れるようになれば、すぐに彼女を探し出し、許しを乞い、連れ戻して罪滅ぼしにできるだけのことをしてやろうと決心した。
 国守の任期が終わり、侍は自由になり、二番目の妻を親元へ帰すと京都へ急ぎ、彼女を探し始めた。夜更けに以前彼女が住んでいた町にたどり着いたのは9月10日であった。都は墓地のように静まり返っていたが、月が皓々と冴え、明るく家を見つけ出すのは容易であった。家は、見るからに荒れ果て、屋根には丈の高い草すら生い茂っていた。雨戸をたたくも応答がないため、戸を押し開けて中へ入った。表の間には畳もなくがらんとしており、冷たい風と月光が射し込んでいた。他の部屋も同様で、人の住む気配がなかった。それでも侍は、一番奥の妻がいつも居室に使っていた部屋まで近づいて行った。ふすまに近づくと、中からは明かりが漏れていた。ふすまを開けると、彼女がそこに座って行燈の陰で縫物をしていた。彼女は若く美しく、思い出の中のように変わっていなかった。侍は彼女の横に座り、ことの仔細を語り始めた。侍は、許しを乞い、これからは七生かけても一緒に暮らそうと提案した。二人は夜が明けるまで語り明かした。いつしか侍は眠り込んでいた。
 侍が目を覚ますと、驚いたことに朽ちかけた板床の上にじかに横になっていた。夢を見ていたのか?しかし、彼女は確かに横に眠っていた。しかし、それはただ、経帷子に包まれた、長い黒髪のもつれた女の屍だった。
 恐怖に身を震わせながらも侍は、知らぬふりをして妻の住んでいた家へ行く道を訊ねてみた。すると、訊ねられた人は「あの家にはどなたもいらっしゃいません。元は、数年前に都を去った、あるお侍の奥様のものでした。そのお侍は、離れられる前に、他の女を迎えるために奥様を離縁されたのです。それで奥様は、非常に苦しまれて、病気になられました。京都に身寄りもなく、だれも世話をする人がありませんでした。それでその年の秋―9月の10日に亡くなられたのです」といった。(出典: Wikipedia)

 1965年公開の映画「怪談」(小林正樹監督)の中の一話「黒髪」がこの「和解」の話である。
 主演:新珠三千代、三国連太郎


いきなり団子のはなし。

2017-07-30 21:56:17 | 歴史
 昨日、熊日新聞で熊本名物のお菓子「いきなり団子」の名前の由来を取り上げていた。「いきなり団子」というのはサツマイモを小麦粉の生地で包み蒸し上げただんごのこと。最近お店で売られているのはほとんどあんこも入っていて、僕らが子供の頃食べていた「いきなり団子」と比べるとかなり上等なお菓子になっている。
 さて、その名前の由来だが、熊日新聞によれば下表のとおり諸説あって、定説というのはないようだ。ただ、「いきなり」という言葉を「突然」とか「急に」という意味にとらえた説明を聞くことが多いようだ。そこで、あえて異論を唱えさせていただくと、「いきなり」という言葉には「成り行きまかせ」というような意味合いもあり、僕の祖母は「ありあわせのものでこしらえたお菓子」というようなニュアンスで話していたように記憶している。


宮本武蔵旧居跡

2017-07-28 20:52:09 | 歴史
 剣豪宮本武蔵が肥後細川藩の客分として晩年を過ごした旧居跡は千葉城町にある。旧居跡といっても敷地のほとんどが付け替えられた坪井川の中なので、川の左岸と右岸に標柱が立てられているだけだ。下の現在の地図に「宮本武蔵旧居跡」と記された位置は実際の位置とはだいぶズレている。その下に付した大正7年頃の地図を見ると、中央部の「憲兵本部」と記された右側に岬状に出っ張ったところに、宮本武蔵が住んでいた家があった。昭和に入ってから坪井川を直線化するため、この部分が開削され、現在のような形になった。同じく千葉城町の熊大附属幼稚園に永年勤務した母は、若い頃、幼稚園の裏側に旧坪井川の名残りの水路があったことを憶えているという。
 先般、千葉城町の旧偕行社跡にあったNHK熊本放送局が花畑町に移転した。跡地をどうするのかまだアナウンスはないようだが、できれば宮本武蔵ゆかりの地であることを示すモニュメントを立てたり、できれば公園化していただけると観光資源にもなるのではないだろうか。 



▼大正7年頃の地図

山鹿灯籠まつりポスター(2017~2010)

2017-07-25 20:26:48 | イベント
 天草出身のグラフィックデザイナー鶴田一郎さんの山鹿灯籠まつりポスターは、今やまつりには欠かせない重要なアイテムである。


 
2017                    2016

 
2015                    2014

 
2013                    2012

 
2011                    2010

長谷川時雨という作家

2017-07-24 21:55:36 | 文芸
 先週の「にっぽんの芸能」(Eテレ)は、日本舞踊協会公演の中から、女流作家・長谷川時雨作の長唄舞踊「江島生島」を放送した。江戸時代、大奥で実際に起きた大スキャンダル「江島生島事件」を題材にしたもの。
 長谷川時雨と言えば、以前、同じく「にっぽんの芸能」で放送された舞踊「阿国と山三の面影」もたしか彼女の作だった。歌舞伎の祖といわれる出雲阿国とその恋人名古屋山三の再会と別れを描いた舞踊だった。
 長谷川時雨は好きな作家の一人で、中でも自らの生い立ちを描いた「旧聞日本橋」や多くの「美人伝」は特に面白い。このブログでも、以前、美人伝の中から「田沢稲船」を取り上げたことがある。劇作家、小説家として活躍しただけではなく、雑誌や新聞を発行し、女性の地位向上の運動も率いた才色兼備の大変な女性だったらしい。

山鹿盆踊り ~「山鹿灯籠踊り」より~

2017-07-22 20:29:25 | 音楽芸能
 昨日、「米原長者口説き唄」の記事で、「山鹿灯籠まつり」の呼び物は頭上に灯籠を戴く女性たちが踊る「山鹿灯籠踊り」と書いたばかりだが、実はそうなったのは昭和29年に「山鹿灯籠踊り」が生まれて以降のこと。それまでは、山鹿の町の衆が作った灯籠を「ハーイ、トウロウ」の掛け声とともに運び、大宮神社に奉納する「上がり灯籠」が目玉の行事だったという。
 「山鹿灯籠」と聞くと今日では、女性の頭上の金灯籠を思い出すが、もともとは人々が奉納する「寺社仏閣」「城郭」「屋敷」その他さまざまな物を模した紙細工の灯籠のことをいう。現在はすべて灯籠師と呼ばれる職人たちによって作られているが、昔は奉納する町の衆自らの手で作っていたという。
 「山鹿灯籠まつり」とは別に、お盆には「盆踊り」も行われていたが、「山鹿灯籠踊り」が作られた際に「盆踊り」の性格を併せ持つような形で再構成され、当初は「山鹿盆踊り」という名称で行われていたという。下の「山鹿盆踊り」は現在も「山鹿灯籠踊り」の中で踊られるが、昔の「盆踊り」の風情を偲ばせる。 


京都・八坂神社楼門を模した灯籠


▼山鹿盆踊り

米原長者口説き唄 ~「山鹿灯籠踊り」より~

2017-07-21 21:24:37 | 音楽芸能
 山鹿灯籠まつりの季節が近づいてきた。呼び物は何といっても頭上に灯籠を戴く女性たちが踊る「山鹿灯籠踊り」。この「山鹿灯籠踊り」で踊られる曲は3曲。最も有名な曲が「よへほ節」だが、あとの二つは「山鹿盆踊り」と「米原長者口説き唄」。
 「米原長者口説き唄」については何度かこのブログでも取り上げたことがあるが、1300年も昔から語り継がれる「米原長者伝説」を題材にしたもの。「米原長者伝説」は3部構成となっており、第1話は米原に住む貧しくも働き者の若者のところに、夢のお告げを受けた姫が京から嫁ぎ、彼女が持参した千両の金を元手に長者になったというサクセスストーリー。第2話は、米原長者となった男が、同じように栄華を極める駄の原長者と宝くらべをするというお話。ありったけの金銀財宝を並べた米原長者に対し、駄の原長者は恵まれた多くの子宝を連れて来た。民衆はほとんどが駄の原長者の子供たちに関心を寄せ、米原長者の財宝に関心を寄せたものは数えるほどだった。第3話は、朝廷から「長者」の称号を賜るほどの権勢をほしいままにしていた米原長者は、ある時、田植が思い通りに進まないことに業を煮やし、太陽を呼び戻して田植えを続けさせた。これに天罰の火の輪が降り注ぎ、全財産が灰塵に帰してしまうという転落の物語。
 「米原長者口説き唄」は、この中の第2話をモチーフにした唄。30番まであるが、通常の演奏は時間の制約があって7番まで。歌詞については本條秀美さんのブログから転載させていただいた。



1 お聞きなされや みなみなさまよ 遠い昔に教えがござる ※オヤソウカイソーレカラ(以下同じ)
2 肥後の菊池の城北村に おごリ高ぶる長者がおつた
3 建てたお倉は 七倉八倉 名子が五百で 牛馬四百  
4 そこで毎日 栄耀栄華 人の呼び名も 米原長者  
5 ある日長者は思案をなさる 俺は天下に聞こえもないが 
6 隣り山本駄の原殿も 俺とならんで長者と聞いて  
7 腹が立つやら惜しいやらで 夜は早よ寝て昼寝も長い 
8 なんとしたらば駄の原殿に 思い知らせて 恥かかせんと
9 思案投げ首しばらくありて 思いついたとお膝を叩く
10 急ぎ一筆参らせ候 宝比べは 如何でござる
11 場所は山鹿の河原にいたす 日取り時刻はお委せ申す
12 話変わリて駄の原殿は 手紙打見てにっこり笑う
13 委細承知と言伝あれば 使者はかしこみ菊池へ戻る
14 宝比べのその日となれば 近所 近在 評判高く
15 人は総出で 市まで立って 祭りほどにも 賑わいかやる
16 おどろおどろと 太鼓が鳴って 東 米原 西 駄の原よ
17 先ずは東の宝と見れば 金の伸板足場に敷いた
18  飾る宝は金銀さんご あやの錦に 天竺更紗
19 目さえまばゆく 胸まで躍り さらば東の勝かといえば
20 西に聞ゆる やんやの叫び 出かしなされた 駄の原殿よ
21 これぞ驚く見事な趣向 小手をかざして見物すれば
22 二十と四人の息子の子供 十と五人の娘の子供
23 そろい衣装にみな打立たせ 揃えた馬に みな打乗せて
24 しゃなりしゃなりと 鈴の音させて これが宝と馬乗り廻す
25 西が勝ったぞ 東が負けた 子供に勝る 福こそなけれ
26 無念無念 見事に負けた 泣いて口惜しや米原長者
27 高いお鼻も ぽきり折れた 駄の原殿がうらやましいぞ
28 俺に一人の子もないことは なんの因果かああ 悲しきやな
29 とかくこの世に尊いものは 人の命と 人の身なるぞ
30 今日の教えぞあな有難や そこで伝えて今日が日までも
  オヤソウカイ アアソーダ マッタクダ マッタクダ



「夏目漱石記念年」も終幕へ

2017-07-20 23:03:26 | イベント
 足かけ3年にわたり行われてきた「夏目漱石記念年」行事も10月には閉幕を迎える。2016年の没後100年と来熊120年記念行事に続き、2017年には生誕150年記念行事が行われた。不幸なことに2016年4月に発生した熊本地震によって中止や変更を余儀なくされたものもあった。多くの行事に参加させてもらったが、20年前の記念年に行われた「’96くまもと漱石博」と比べると、やはり内容的には寂しいものになったようだ。なかでも実施を検討されていたという漱石ゆかりの演能が、結局行われなかったのは残念でならない。次はまた20年後ということになるのだろうか。僕はもう見るのは難しそうだ。



関連行事・舞台劇「アイラブくまもと~漱石の四年三ヵ月~」


いまだに復旧のメドが立たない夏目漱石内坪井旧居

日本選手権チャンピオンから車いすランナーへ ~中尾有沙選手~

2017-07-19 19:39:08 | スポーツ一般
 今日の「テレビタミン」(KKTくまもと県民テレビ)では、不慮の事故により下半身不随となった不幸な出来事にも負けず、車いすランナーとして2020年の東京パラリンピックを目指す中尾有沙選手の今を追った。
 健常者だった頃の颯爽とした姿を何度も見ているだけに、ちょっとつらいものがあるが、後ろを振り返らず、前に前に進もうとする中尾さんの明るい笑顔に救われた。






立田山と清原元輔

2017-07-18 22:03:28 | 歴史
 先日、某ローカルテレビの番組で、熊本市の龍田・黒髪地区の地名の由来についてのフェイク情報が、ネット上でまことしやかに囁かれているという話題を取り上げていた。いずれも他愛もない作り話に過ぎないのだが、これも今日のネット社会の一断面か。
 そもそも立田山(龍田山)は、その昔、濃い緑に覆われていたため黒髪山と呼ばれていたが、平安時代の歌人清原元輔が国司として肥後へ赴任したとき、この山の姿に奈良の龍田の里をしのんで、名前を改めたといわれる。
 清原元輔は「梨壺の五人」の一人にも数えられる和歌の名人で、祖父深養父(ふかやぶ)も歌人、また、娘の清少納言は「枕草子」の作者として有名。また、清原家の子孫が肥後細川家の祖、細川幽斎である。
 元輔は永祚2年(990)6月、任地の肥後にて83才で没した。北岡神社の北側にある清原神社は、元輔を祭神としており、都に帰れなかったその霊を慰めた跡と伝えられる。元輔と女流歌人の檜垣との親交があったという伝承があるが、後世に創作された伝説の一つのようだ。



黒髪山の名にふさわしい鬱蒼とした広葉樹林が広がる立田山


北岡神社北側の清原神社


小さな祠に納められている元輔像。右の二像は妻の周防命婦と檜垣か?