徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

檜垣のあとどころ

2017-11-30 14:19:08 | 熊本
世阿弥の謡曲「檜垣」より冒頭の一節

▼ワキ(修行僧)の謡
これは肥後の国岩戸と申す山に居住の僧にて候。
さてもこの岩戸の観世音は、霊験殊勝の御事なれば、暫く参籠し所の致景を見るに、南西は海雲漫漫として萬古心のうちなり。人稀にして慰み多く、致景あつて郷里をさる。真に住むべき霊地と思ひて、三年があいだは居住仕つて候。こゝに又百にも及ぶらんとおぼしき老女、毎日閼伽の水を汲みて来り候。今日も来りて候はゞいかなる者ぞと、名を尋ねばやと思ひ候。
※閼伽の水(あかのみず):仏に供える水


岩戸山の上から望む有明海と雲仙



▼前シテ(老女)の謡
影白河の水汲めば、影白河の水汲めば、月も袂や濡らすらん。それ籠鳥は雲を恋ひ、帰雁は友をしのぶ。人間もまた是同じ。貧家には親知少く、賤しきには故人疎し、老悴衰へ形もなく、露命窮つて霜葉に似たり。流るゝ水のあはれ世の、その理を汲みて知る。こゝは所も白河の、こゝは所も白河の、水さへ深き其罪を、浮かみやすると捨人に、値遇を運ぶ足引の、山下庵に著きにけり。山下庵に著きにけり。いつもの如く今日もまた御水あげて参りて候。
※値遇(チグ):仏縁あるものにめぐりあうこと


山下庵跡に佇む野仏。向うに見えるのが岩戸山と雲厳寺

晩秋の廃校

2017-11-29 18:00:54 | 熊本
 昭和6年9月、父が初任地として赴任した松尾小学校(後の松尾東小学校)。児童数の減少により、今年3月末を以って小島小学校に統合され、廃校となった。生前の父はこの学校に最も愛着が強かったようだ。父は17年前に他界したので、この学校が廃校になったことはもちろん知らない。今年2月、父の墓前に報告せねばなるまいと、廃校になる前の様子を見に来た。それから9ヶ月、火が消えたように閑散としている校舎を眺めていると、父が書き残した想い出の記の一節一節が頭に浮かんできて、万感胸に迫るものがあった。


最優秀賞に大川義秋さん! 第23回くまもと全国邦楽コンクール

2017-11-26 19:53:24 | 音楽芸能
 今回、最優秀賞に選ばれた大川義秋さん(筝曲)は、俳優の崎山つばさを中心とした異色の邦楽グループとしてAvexからデビューした「崎山つばさ with 桜men」の一員。その経歴も含め、このコンクールの歴代の最優秀賞受賞者の中でも異色の存在。なお、このグループには、やはりこのコンクールで度々優秀賞を受賞したことのある尺八の中村仁樹さんもメンバーの一人として参加している。
 その一方で、残念だったのは今回5度目の挑戦を最後の挑戦と決めて臨んだ中島裕康さん(筝曲)が、今回も優秀賞にとどまり、このコンクールを去ることだ。インタビューでも、ついに最優秀賞が取れなかった悔しさを口にした。中島さんは既に第一線で活躍されているが、ますますの活躍を祈りたい。


最優秀賞に選ばれた大川義秋さん(筝曲の部「曲目:PRIZM」)


最優秀賞の大川さんを始め、優秀賞および奨励賞の皆さん(右から3人目が中島裕康さん)


▼月花夜(崎山 つばさ with 桜men)

梅林天満宮秋季大祭

2017-11-25 20:59:46 | イベント
 太宰府天満宮第一分霊社、梅林天満宮(玉名市津留499)の秋季大祭を3年ぶりに見に行った。


太宰府天満宮から派遣された巫女さん


流鏑馬・天長地久の儀


素馳(すばせ)


400㍍の馬場に設えられた3本の的へ騎射を3回行う。


土曜休日とあって例年より参拝者が多いようだ


▼太宰府天満宮から派遣された巫女による巫女舞

舞妓さんと花街文化

2017-11-24 11:16:11 | 日本文化
 Facebookで交流させていただいている竹中邦彦さんは、彼の大学時代の教授をたまたま僕が存じ上げていた縁で交流が始まった。彼の趣味は京の芸舞妓さんたちの写真を撮影し、SNSやYouTubeで公開することだ。いつも彼の撮った芸舞妓さんたちの写真で癒されている。そんな多くの芸舞妓さんたちの中で、1年ほど前から注目している舞妓さんが宮川町駒屋のとし恵美さんだ。浮世絵に出てきそうな純日本風なその風貌に魅かれた。昨年引退した超人気舞妓だったまめ藤さん以来の気になる存在となった。
 昨日、NHK総合で放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀「京都・舞妓スペシャル」」は、珍しく宮川町が舞台となった。舞妓さんの美しさを支える西陣の帯職人、友禅師、花かんざし職人、香りの調合師、髪結師、男衆、そして置屋の女将さんなど多くのプロフェッショナルや、舞妓さんを目指す二人の仕込さんなどが紹介されたが、先輩舞妓として登場したのがとし恵美さん。舞妓さんになってまだ2年くらいのはずなのに際立つ存在感が目を引いた。しばらくはとし恵美さんから目が離せない。
 ところで、竹中さんは先日、芸舞妓の魅力のアピールに貢献したということで京都花街組合から表彰を受けたそうだ。




とし恵美さん(竹中邦彦さん提供)


▼とし恵美さんの舞

三島由紀夫と小篠四兄弟とカーネーション

2017-11-23 19:53:36 | 歴史
 今日は天気も良いので、近場の紅葉を見て回ろうと、まず本妙寺の方向へ車を走らせた。運転しながらふと、明後日は三島由紀夫事件から47年になることを思い出した。ちょうど本妙寺に行くなら、しばらくお参りしていない小篠(おざさ)四兄弟のお墓参りもしようと、近くの花屋でカーネーションを5本買った。
 三島がこの事件を起こした動機の一つは、明治9年、熊本で起こった「神風連の乱」に影響を受けたことといわれている。その神風連123士の中に岸和田出身の小篠四兄弟がいる。
 小篠四兄弟のお墓がある本妙寺塔頭の雲晴院は、熊本地震後、まだ整理がついていないようで、角度が変わったままの墓前にカーネーションを一本ずつ手向け、三島の冥福も合わせ手を合わせた。
 花をカーネーションにしたのは、2011年度下半期のNHK朝ドラ「カーネーション」のモデルとなった小篠(こしの)家は、読み方が異なるものの小篠(おざさ)家と同じ一族であると聞いているからである。


右から長男小篠一三(29)、四男源三(18)、次男山田彦七郎(25)、三男小篠清四郎(22)

 一三と彦七郎は事変敗退後、島原へ渡り再挙をはかったが、その機会がなく熊本に帰り中島の荒木社で自刃した。清四郎と源三は、同志と金峰山南麓にひそんでいたが、再挙の望みなく谷尾崎の山王社で自刃した。源三の愛犬「虎」は、帰らぬ主人をさがし求め家人が源三の墓を教えると、そこを動かず餓死したという。



 本妙寺塔頭の雲晴院には小篠四兄弟と義犬の墓がある。向かって左から、長男一三、次男山田彦七郎、四男源三、源三の愛犬「虎」。手前が三男清四郎の墓。

▼NHK朝ドラ「カーネーション」(2011年度下半期)

春野にはこべら踏むこともなし

2017-11-22 17:30:14 | 友人・知人
 今日1枚の喪中はがきが届いた。今年5月、87歳で他界された規工川佑輔先生の奥様からだった。はがきの最後に先生の遺作となった短歌が添えられていた。

 県道を渡れる脚を持たざれば春野にはこべら踏むこともなし

 先生の最晩年は身体がご不自由で、自らの足で歩くことはできなくなっていた。そんな身の上を、やや自虐的なニュアンスを込めて歌われたものと思う。先生のご自宅近くを県道長洲玉名線が走っているが、それを横切ると田園地帯が広がっている。おそらく少年時代はその畦道が遊び場だったのだろう。
 この歌を読みながら、僕はふと海達公子が幼い頃に詠んだ一つの詩を思い出した。それは「すみれ」と題する可愛らしい詩だった。

 あしもとのすみれ ふまんでよかつた

 海達公子を愛し、生涯をかけて顕彰し続けた規工川先生は、最後の最後まで公子のことを忘れることはなかったに違いない。上の歌を詠まれた時も、公子のこの詩が念頭にあったのかもしれない。


はこべ


すみれ

2度目の秋

2017-11-20 21:41:02 | 熊本
 熊本城の石垣が崩壊して2度目の秋。大小天守などの建屋は復旧工事が進んでいるが、熊本城の最大の特徴である石垣は、いまだに崩落したまま、風雨にさらされている部分が多く、見る度に心が痛む。



♪ 石は吊って持つ 吊って持つ石は 茶臼お山の城に持つ


玉名女子高校吹奏楽部 4年連続ダブル金賞!

2017-11-19 19:56:36 | 音楽芸能
 今日、大阪城ホールで行われた「第30回全日本マーチングコンテスト」において、九州地区代表として出場した玉名女子高校吹奏楽部が見事金賞に輝きました。これにより、10月に行われた全日本吹奏楽コンクールと合わせ、4年連続ダブル金賞を達成しました。おめでとうございます!


6月1日に行なわれた熊本県高校総文祭パレードにて下通COCOSA前をパレードするT.G.H.S.B

漱石と邦楽

2017-11-18 23:40:32 | イベント
 夏目漱石生誕150年記念ということで、「演奏と朗読でたどる 漱石と邦楽」という邦楽公演が、12月2日、国立劇場小劇場で行われるという。次のような演目が予定されているらしい。
 ★義太夫節「生写朝顔話 宿屋の段」
 ★尺八「虚空鈴慕」
 ★二絃琴「梅がしるべ」
 ★謡曲「熊野」
 ★箏曲「唐砧」
 ★一中節「恋路の八景」

 漱石作品に限らず、正岡子規、寺田寅彦、高浜虚子、内田百閒、芥川龍之介ら、友人や門下生などにゆかりのある演目が選ばれているようだが、相当高尚なご趣味をお持ちの方が集まられるのだろう。

 今年の春、花童の舞台に漱石に関連する曲目をリストアップしてほしいという相談があった。その時僕が選んだのが次のような曲目だった。いかが?
 ★祇園小唄・・・・・・・・・・・高浜虚子「漱石氏と私」
 ★さのさ・・・・・・・・・・・・漱石「坊っちゃん」
 ★謡曲「熊野」→「桜月夜」・・・漱石「吾輩は猫である」
 ★ハイカラ節・・・・・・・・・・漱石「自転車日記」
 ★六段の調→「六段くずし」・・・漱石 俳句「春雨の隣の琴は六段か」

祖母と歌舞伎

2017-11-17 08:28:18 | 音楽芸能
 Facebookで交流させていただいている丹羽幸子さんが、先日、往年の名歌舞伎役者「守田勘彌」についてお書きになっていたので、数年前にブログに書き込んだ記事のことを思い出し、編集し直して再掲してみた。

 僕は両親が共稼ぎだったので、幼い頃、日中はほとんど祖母のそばで過ごした。祖母はご近所から口うるさい「やかましモン」と言われていたらしいが、結構いろんな人が訪ねてきて会話にふけっていたのを憶えている。そんな会話の中に度々、祖母の口から「モリタカンヤ」という名前を聞いた。ものごころついてから、それは「守田勘彌」という歌舞伎役者の名前であることが分かった。
 若くして夫と死別し、貧しい生活の中、苦労して僕の父と叔父を育て上げた祖母は歌舞伎を観に行けるような環境にはなかったはずだ。しかもテレビもまだない時代。守田勘彌について熱く語る祖母の情報源はいったい何だったのだろう。40年前に祖母が亡くなった後、一度調べてみたことがある。一つだけ可能性があることがわかった。それは守田勘彌が新派女優の水谷八重子と結婚して、一緒に新派の一座を主宰していた頃、全国を巡業していたらしい。熊本にも何度か来演したようだ。ひょっとしたら、そんな公演にでも行く機会があったのだろうか。しかし、その公演は新派だったはず。歌舞伎について妙に詳しかった祖母の知識はいったいどこで得ていたのだろう。謎は残る。
 守田勘彌は由緒ある歌舞伎の大名跡。14代目が昭和50年に亡くなった後、後を継ぐ人が出ていない。いずれ養子の坂東玉三郎が襲名するのだろうか。ちなみに今の坂東玉三郎は5代目。その前の4代目玉三郎は若き日の守田勘彌である。

谷汲観音のはなし。

2017-11-14 21:57:12 | ニュース
 先日、姉が高平の浄国寺近くのバス停で、栃木県からやってきたという若い女性と一緒になったそうだ。その女性は浄国寺の、松本喜三郎作の生人形「谷汲観音」を見に来たのだという。わざわざ栃木県あたりからも見に来る方がいるのかとちょっとビックリ。
 そういえば、昨年、地震の影響がなかったかどうか確かめに浄国寺へ行ってからやがて1年。年内にまた拝観しに行くとしよう。

 そもそもこの生人形「谷汲観音」は、熊本市迎町出身の人形師松本喜三郎が、維新後の明治4年(1871)から明治8年(1875)にかけて、浅草の奥山で興行し、大成功をおさめた「西国三十三所観音霊験記」の中の生人形の一つ。喜三郎にとって最も愛着が強い作品だったようだが、上野の西郷隆盛像などの彫刻で知られる高村光雲は、「光雲懐古談」の中で、谷汲観音について次のように述べている。

 三十三番の美濃の谷汲観音、これは最後のキリ舞台で、中で一番大きい舞台、背景は遠山ですべて田道の有様を写し、ここに大倉信満という人(奥州の金商人)が驚いている。その後に厨子があって、厨子の中より観音が抜け出した心持で、ここへ観音がせり出します。この観音が人形の観音でなく、また本尊として礼拝するという観音でもなく、ちょうどその間を行った誠に結構な出来で、頭に塗傘を冠り右の手に塗杖を持ち左の手にある方を指している図で、袈裟と衣は紗の如き薄物へ金の模様を施し、天冠を頂き衣は透きとおって肉体が見え、何とも見事なもので、尤もこれはキリの舞台にて喜三郎も非常に注意の作と思われます。


※クリック → 全身

♪ 肥後は熊本 清正公さんの お城づくりの心意気!

2017-11-13 15:11:06 | 熊本


 毎日のように眺める風景である。千葉城橋の交差点から熊本城大天守を今朝写したもので、手前が崩落した東十八間櫓と熊本大神宮。
 現在、大天守屋根の設置作業が行われていて、瓦の取り付けに使うしっくいは雨や湿気に弱いので、ポリエチレンのシートをかぶせた屋根が取り付けられている。
 この風景を見ながらいつも思うのは、今は大型クレーンなどの重機や合成樹脂などの技術があるのでこういうことができるのだが、400年以上も前、加藤清正の築城の時は天候対策はどうしていたのだろうかということだ。熊本城築城に携わった高瀬の大工棟梁・善蔵の話をまとめた「大工善蔵より聞覚控」という古文書にも「天気の具合と潮時を御殿様(清正公)はようく見ておった」と書かれている。天候を睨みながら細心の注意を払った清正の城づくりの様子が窺える。
 下の絵は豊臣秀吉の大坂城築城の様子を描いた絵図だが、この時も清正は石垣づくりなどを受け持っており、後の熊本城築城のノウハウを学習したことだろう。


大坂城 絵で見る日本の城づくり(講談社 作:青山邦彦 監:北川央)より