徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

いつかまたこんな日が・・・

2017-01-31 19:45:26 | 熊本
 明日から2月、春の陽気に誘われて、わが家から護国神社~二の丸広場~城彩苑~花畑町と歩いてみた。護国神社の梅園は早咲きの紅梅が咲いていた。
 これから桜の花が咲く頃までが1年のうちで一番好きなワクワク感のある季節。だが、今年はさすがに例年の春のようなワケにはいかないだろう。今日の風景を眺めながら、どうしても過去の春の風景がオーバーラップしてしまう。

▼今日の二の丸御門の風景(応急工事が施されたままで止まっている)


▼2014年4月 二の丸御門の石垣上の観光客




▼今日の花畑公園前シンボルロードの風景(桜町地区再開発工事のため臨時バスセンターとなっている)


▼2014年3月 「城下町くまもと時代絵巻 シンボルロード演舞」の風景

與田準一 没後20年

2017-01-30 23:09:25 | 文芸
 今週末、2月3日は福岡県瀬高町出身の詩人で、日本の児童文学に偉大な足跡を残した與田準一(よだじゅんいち)の没後20年にあたる日。僕が與田準一の名前を知ったのは、「評伝 海達公子」の著者・規工川佑輔先生にご厚誼を賜るようになり、與田が海達公子が世に出るキーマンだったと伺ってからである。2009年に、與田準一記念館が、みやま市の市立図書館内にオープンした時は、規工川先生の代理で記念式典に出席させていただいた。
 大正から昭和初期にかけて発行されていた文芸誌「赤い鳥」への投稿仲間として、公子の父、松一(貴文)と肝胆相照らす仲となった與田は、度々、荒尾の海達家へ泊りがけで訪れたという。同誌の大正15年11月号に掲載された與田の作品「雨の日」は、二人の幼い姉妹を題材にしているが、モデルとなったのは海達公子とその妹・通子である。
 後に上京して北原白秋に師事した與田は、白秋と海達親子の間をつなぐパイプ役ともなった。



▼與田準一の代表作「ことりのうた」


 與田の息子・準介は橋本淳というペンネームで「ブルー・ライト・ヨコハマ」など数々のヒット曲を世に出した作詞家である。

▼橋本淳の代表作「ブルー・ライト・ヨコハマ」

古典芸能への招待 「厳島観月能」

2017-01-29 23:56:23 | 音楽芸能
 今夜の「古典芸能への招待」(NHK・Eテレ)は能三番。中でも、幻想的な海上の能舞台「厳島観月能」は、能「羽衣」と半能「高砂」。人間国宝・友枝昭世さんの羽衣の舞はまさに至芸というべきか。熊本人としては肥後能楽由来の名人の舞は誇らしくもあり、約50分の舞台があっという間だった。友枝家は、今から千年以上も昔、祇園社(北岡神社)が京都八坂神社より勧請されるのに伴い、御供して肥後にやって来た雅楽者の子孫だといい、やがて祇園社専従の能楽師となって、肥後における能楽の源流になったともいわれている。そんな遠い歴史のことにも思いをいたしながら舞を楽しんだ。また、今日の舞台には同じく喜多流の塩津哲生さんが後見として、狩野了一さんや友枝雄人さんらが地謡として参加しており、熊本ゆかりの能楽師たちの顔が見られたことも嬉しかった。


44回目の結婚記念日

2017-01-28 21:29:21 | 
 今日は44回目の結婚記念日。例年のごとく、特にこれといったことはやらず、家内の手づくりの料理と上熊本の「スイス洋菓子えきマチ1丁目店」から買ってきたケーキでささやかに祝う。
 毎年、このブログで結婚記念日にふさわしい曲を選んでいる。「変わらぬ想い(Nothing's gonna change my love for you)」や「至上の愛(The Greatest Love Of All)」等を選んできたが、今年は「愛はきらめきの中に(How Deep Is Your Love)」にした。
 ビージーズ(Bee Gees)、1977年の大ヒットでおなじみの曲。後に同じくイギリスの男声グループ「テイク・ザット(Take That)」のカバーもヒットした。



嬉しい日

2017-01-28 12:48:20 | 
 この数日、どうも体調がすっきりしない。連日の寒さでずっと暖房の中にいるせいなのか。それもストーブがよくないようだ。今朝もぐずぐずしながら起きると、嬉しいニュースが飛び込んできた。花童のあかねちゃんが念願の九州学院に合格したとの知らせ。目標に向かって頑張った本人の努力とご家族の献身的なサポートが見事に結実したといえるだろう。心から敬意を表したい。
 九州学院は野球部で活躍した叔父の母校でもあり、感慨に浸っていると、先日、僕が撮った成人式の写真を受け取りに、くるみちゃんが寄ってくれたが、彼女も知らせを聞いており、とても嬉しそうだった。あかねちゃんも花童の活動にも一段と熱が入るだろう。

※右は2015年12月23日、熊本県伝統工芸館「花童あやの卒業公演」より

 

稀勢の里の横綱昇進に思う

2017-01-26 19:38:30 | スポーツ一般
 稀勢の里が第72代横綱に昇進した。メディアでは盛んに「19年ぶりの日本出身横綱」と騒いでいるが、この言い方にはどうも違和感を感じる。日本に帰化した外国出身横綱がいるから「日本人」と言いにくいのだろうが、「日本出身」と言われると、大相撲っていったいどこでやってるの?と思ってしまう。
 それはさておき、僕が知る限り、四股名に「里」がつく横綱は三人目。稀勢の里の先代師匠「隆の里」はすぐに思いつくが、もう一人は僕が大相撲に興味を持ち始めた小学生の頃、活躍していた「鏡里」だ。「山、川、海、花、錦、富士」などや近年では「龍」などが多い中、「里」という名はなんとも大らかでノスタルジックな感じがして好きだ。鏡里を慕って時津風部屋に入った人に「里」をつける人が多かったような覚えがある。稀勢の里の同部屋の先輩にあたるのが若の里だ。
 稀勢の里が昇進したことによって4横綱となった。これまで4横綱は何度もあったし、僕が大相撲に興味を持ち始めた頃も、千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦の4横綱だった。だが、4横綱が揃って活躍した場所を見たことはほとんどない。だいたい誰かが故障で休場したり、出場しても散々な成績だったりした。今度も4枚看板が看板倒れにならないことを祈るばかりだ。
 明日は明治神宮で奉納手数入りを行うという。今から52年前の昭和40年、同じように初場所後、昇進した第50代横綱佐田の山の奉納手数入りを明治神宮で見たことを思い出す。

加藤清正と二匹のきつね

2017-01-25 18:16:27 | 歴史
 加藤清正が近江長浜にいた頃というから、羽柴秀吉に小姓として仕えていた十代前半の話だが、侍同士の喧嘩の仲裁に入った清正の見事な振舞いに、二匹の兄弟きつねが、きっと将来天下に名を馳せるお方だと見込んだ。以来、二匹のきつねは霊狐として清正を守護することになった。清正が24歳の時、秀吉から肥後北半国十九万五千石を与えられ、肥後国に入るが、その時、二匹のきつねも一緒にやって来て花岡山に住みついた。やがて清正の熊本城築城が始まり、自ら陣頭指揮をして花岡山から石を切り出していたが、八枚石と呼ばれる所だけがどうしても採れなかった。不思議に思いながら、清正が八枚石に腰を下ろし、まどろんでいると二匹のきつねが姿を現した。きつねは清正を慕って長浜からついて来たことや、八枚石が築城には向かない石であることを語って姿を消した。清正はたいそう喜び、兄のきつねは「清藤大明神」として花岡山に、弟のきつねは「緋依大明神」として茶臼山に祀ったと伝えられている。
※右の写真は滋賀県長浜市の豊国神社に立つ加藤清正像



花岡山に残る、石切り出しの陣頭指揮を執った加藤清正の腰掛石



本丸御殿の障壁画

2017-01-24 20:43:35 | テレビ
 昨夜の「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK総合)は彩色復元師の荒木かおりさん(川面美術研究所代表)。熊本では熊本城本丸御殿の障壁画を描いた方としてなじみ深い。本丸御殿障壁画の復元にあたっては、資料が残っておらず、見学者が書き残した文書だけが頼り。ただ、狩野永徳の四男・言信が担当したという記録だけが残っていた。そこで、狩野派の障壁画の模写で実績のある京都の川面美術研究所に依頼することになった。しかし、言信の作品は残っておらず、長男光信の作品を参考に画風を統一することになったという。荒木かおりさんが担当したのは「若松之間」。縁起が良く、描かれることの多い若松と滝をモチーフに描き上げた。この障壁画は大広間で行われる「春の宴」や「秋夜の宴」などのイベントにおいて鏡板のような役割をはたしており、われわれにもすっかりおなじみだ。
 本丸御殿最奥部の「昭君之間(しょうくんのま)」は川面美術研究所の主任画家、谷井俊英さんが担当した。絢爛豪華で観光客の人気を集めていた。平成25年10月には天皇・皇后両陛下のご来臨の栄に浴した。

 その本丸御殿は熊本地震による損壊から復旧のメドがまだたっていない。場合によっては解体、再組立てもありうると聞く。心配だ。



若松之間


大広間の舞台背景に若松之間の障壁画(2013年新春の邦楽)



▼平成25年10月28日、天皇・皇后両陛下のご視察
熊日新聞より

座禅のはなし。

2017-01-23 21:43:12 | 熊本
 夏目漱石は教師として松山へ赴任する前、鎌倉の円覚寺塔頭帰源院で二週間の参禅をしている。漱石が当時抱えていた精神的な問題が背景にあったとする解説も目にするが、この体験は後に、自らの不倫体験も色濃く投影された小説「門」に活かされることになる。漱石は熊本時代にも、坪井立町の臨済宗見性寺で参禅したと伝えられる。はたしてどんな想いを抱いて参禅したのだろうか。ちなみに見性(けんしょう)とは、禅の言葉で、人間に本来そなわる本性を見通すことをいい、禅の悟りの一つとされるそうだ。


見性禅寺・東参道


 熊本の郷土料理の中に「座禅豆(ざぜんまめ)」と呼ばれるものがある。大豆を甘く煮しめた食品で、昔、熊本の農家では、屋根の葺き替えや祭りなどで人が集まるときに必ずお茶うけに作ったという。砂糖としょうゆで調味し、豆の表皮にシワが寄っていてやや硬めなのが特徴。菊池方面では現在もこの風習が残っている。西南戦争に従軍した官軍の川口武定(元紀州藩士)が書いた「従征日記」に「農家へ行ケバ必ズオ茶ヲ出シザゼン豆カ漬物ヲ出ス・・・」の記述がある。
 僧が座禅を組むとき、この豆を食べておくと小用が遠くなると言って好んで食べていたことからこの名がある。(熊本百科事典より)

秩父山中 花のあとさき

2017-01-22 21:09:14 | 歴史
 今から8年前放送されて感動した「秩父山中 花のあとさき」の後日談が放送される。見逃せない。

◆1月26日(木)午前9時00分(BSプレミアム)
        「プレミアムカフェ 秩父山中 花のあとさき~ムツばあさんのいない春~」


  20年間、山の畑に花を植え続けた故・小林公一、ムツさん夫妻と、二人の思いを受け継ぐ地元の人々の姿を描く

 8年前にアップしたブログ記事を再掲した。

「秩父山中 花のあとさき」2009年8月23日
 柔和な顔に深く刻まれたシワ。思わず心が暖かくなる。今年1月、84歳で亡くなったムツばあちゃんの生前の表情だ。
 先日、NHKで放送されたドキュメンタリー「秩父山中 花のあとさき」は、埼玉県秩父山中の急峻の地に畑を耕し、花を植え続けてきた小林ムツさんを追いかけ続けたシリーズの完結編だった。数年前、最初にこのドキュメンタリーを見た時はまだ、連れ合いの公一さんも健在だった。清冽な水を求めて、先祖が険しい山に分け入り、子々孫々までと願って労苦を厭わず築き上げた石垣の上に開かれた畑。二人はこの畑を守り続けてきた。しかし、2006年9月に公一さんに先立たれ、体力の限界も近いことを感じたムツさんは「畑が荒れ果てていくのはしのびない」と、畑に花を咲かせて山に返すことにした。まるで自分の身代わりにするように花ももの木を植えるムツさんの姿が心を打つ。ムツさんがいなくなった畑には、今年も同じように花が咲き誇っている。日本人とは?日本人の心とは?そんなことも考えさせられる素晴らしいドキュメンタリーだった。

熊本城復旧工事への疑問

2017-01-21 20:54:20 | 熊本
 週に3、4回は熊本城・北十八間櫓の下を通る。今、石垣復旧工事の真っ最中。足を止めて工事の様子をしばらく眺めることもあるのだが、見る度に、これは大変な工事だという実感が湧いてくる。と同時に疑問も湧いてくる。ここは国指定重要文化財である。従って、引き続き重文指定を受けるためには、施工方法や使用石材などに制約があるという。よくテレビなどでも、崩落した石にナンバリングして、記録されている元の位置に戻さなければならないという話を聞く。実際、工事現場を見ていると、そんなことできるんだろうかという疑問が湧く。また、ただ積み直すだけでなく、次の地震に備える強化も考えなくてはならないだろうから簡単ではないだろう。そこでさらに疑問が湧く。重文再指定にこだわる必要があるのだろうかということだ。熊本城への観光客は、この部分は重文だ、この部分は重文ではないとか分けて見る人などいるのだろうか。一方では大天守にはエレベーターを、なんて話があるくらいだ。ここは一つ、重文再指定にはこだわらず、より安全で強固な石垣を築いていただいて、400年経てばまた重文だ、くらいの大らかな気持でやっていただいてもいいような気がする。


明治時代初期の熊本城・北十八間櫓

彼女が眠る丘

2017-01-20 17:05:27 | 
 ちょうど10年前の正月、防府時代の同僚の年賀状に悲しい知らせが書かれていた。僕と机を並べていたOさんが、ひと月余り前に亡くなったという知らせだった。まだ48歳、夫と子どもを残し、あまりにも早過ぎる旅立ちだった。肺がんだったという。
 今から41年前の5月、僕は熊本から防府へ転勤し、そこで机を並べたのが高校を卒業したばかりの新入社員Oさんだった。まだ女子高生そのままの雰囲気で初々しかった。明るくて笑顔がチャーミングな娘だった。転勤したばかりで様子がわからない僕に、自分も入社したばかりなのに一生懸命サポートしようとする姿がいじらしかった。僕が東京へ転勤した後、しばらくして寿退社をしたという知らせを聞いた。ご主人も僕が知っている人で、子どももでき幸せな家庭を築いていると思っていた。
 知らせを受けた数ヶ月後、僕は防府へ墓参りに行った。周防灘を望む中浦湾を見下ろす小高い丘の上に彼女は眠っていた。28年ぶりの悲しい再会だった。五十路にもまだ届かぬ歳で愛する家族と別れなければならなかった胸中を察するにあまりあるものがあった。真新しいお墓に花を手向け手を合わせると、会社で机を並べていた頃の、愛らしい顔が微笑んだように思えた。遠くに佐波島がポツンと浮かんでいた。


サラメシ ~働くオトナの昼ご飯~

2017-01-19 17:46:47 | 
 「ランチをのぞけば人生が見えてくる 働くオトナの昼ご飯それが“サラメシ”」
 これはNHK総合で放送されている、昼食をテーマにしたバラエティ番組「サラメシ」のキャッチコピーである。
 サラリーマンをやめてもう20年経ったが、この番組を見るとサラリーマン時代を思い出す。なかでも、昼食といえば東京勤務時代が一番思い出深い。地方勤務の時は選択肢はなく、だいたい社食を利用していた。東京本社は、東京駅の八重洲口にほど近い京橋1丁目にあり、周辺にはご飯を食べるところはいくらでもあったので、社食も含め、毎日どこで昼飯を食べるのかを選ぶのも楽しみの一つだった。
 ある時、たちの悪い風邪が長引いたことがある。食欲がなく、昼飯もあまり食べる気はしなかったのだが、何も食べないのも午後からの勤務に影響するので、思いついたのが八重洲地下街にあったマクドナルド。肉系はさけてフィレオフィッシュにした。もともと好きではあったが、食欲がなくても結構食べられたので、それから連日昼飯はマックのフィレオフィッシュ。そのうち体調も徐々に回復し、2週間ほど続いたフィレオフィッシュをやめた。だから僕のサラメシの一番の思い出はマックのフィレオフィッシュなのである。

▼くるみさんのサラメシ(特別編)

姉と弟 10年経ったらこうなった・・・

2017-01-18 23:42:08 | 
 元旦に久留米の次男一家がやって来た。孫の姉弟は元気そのもの。姉のみわは今年中学2年になる。小さい頃からのバレエやクラブ活動に頑張っている。弟のてっぺいは今年10歳、小学4年生になる。産院を退院したのも束の間、新生児黄疸で逆戻りしたのがついこの前のことのようだ。二人ともこれから急激に心身ともに成長していくのだろう。爺婆から徐々に離れていくのはしかたないが、やはりちょっぴり寂しい。


生れて間もないてっぺいをあやす姉のみわ


今年の元日の姉と弟

「春の小川」 と高野辰之のはなし。

2017-01-17 20:49:30 | 音楽芸能

成道寺川

 「春の小川」は大正元年(1912)尋常小学唱歌として発表された。作詞者の高野辰之は「おぼろ月夜」や「ふるさと」といった作品でも知られているが、当時、豊かな田園が広がっていた今の渋谷区代々木に住んでおり、よく散歩していた河骨川をモチーフにして「春の小川」を作詞したといわれる(諸説あり)。河骨川は渋谷川の支流で、6年ほど前放送された「ブラタモリ渋谷編」では、現在はそのほとんどが暗渠化された渋谷川の痕跡を辿っていたが、河骨川も同様、今は暗渠化され、歌が作られた当時の面影はない。

「春の小川」 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一

【現代版】
1.春の小川は、さらさら行くよ。
  岸のすみれや、れんげの花に、
  すがたやさしく、色うつくしく
  咲けよ咲けよと、ささやきながら。

2.春の小川は、さらさら行くよ。
  えびやめだかや、小鮒の群れに、
  今日も一日ひなたでおよぎ、
  遊べ遊べと、ささやきながら。

【オリジナル版】
1.春の小川はさらさら流る。
  岸のすみれやれんげの花に、
  匂いめでたく、色うつくしく
  咲けよ咲けよと、ささやく如く。

2.春の小川はさらさら流る。
  蝦やめだかや小鮒の群に、
  今日も一日ひなたに出でて
  遊べ遊べと、ささやく如く。

3.春の小川はさらさら流る。
  歌の上手よ、いとしき子ども、
  声をそろえて小川の歌を
  歌え歌えと、ささやく如く。






▼水量豊かな川だった江戸時代の渋谷川の風景を描いた葛飾北斎の「富嶽三十六景・穏田の水車」


 また、高野辰之は日本の古典芸能や伝統芸能の研究者として、数多くの著書を残しているが、明治時代末期、福岡県瀬高町に伝わる「大江幸若舞」を訪ね、幸若舞が芸能史上特筆すべき古典芸能であることを広くPRしたことが、幸若舞を存続の危機から救い、今日も国内唯一この地に幸若舞が残った大きな要因といわれている。


※今年の幸若舞は・・・
2017年1月20日(金)
開会式:午前11時30分から
上 演:正午から
場 所:大江天満神社幸若舞堂(みやま市瀬高町大江)
    JR瀬高駅より徒歩20分
問い合わせ:みやま市教育委員会社会教育課
平日連絡先:0942(32)9183