徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「肥後五十四万石!秋まつり」 in 湧々座

2014-08-31 21:02:37 | イベント
 明日から「秋のくまもとお城まつり」がスタートします。これと並行して「桜の馬場城彩苑」でも秋祭りが始まり、バラエティに富んだプログラムが用意されています。なかでも湧々座での「肥後五十四万石!秋まつり」では普段なかなか観ることが出来ない郷土芸能が披露されますので楽しみです。

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舞踊 長唄「君が代松竹梅」 観衆12,000人!

2014-08-30 22:00:33 | 音楽芸能
 今から6年前、平成20年4月30日(水)の夜。熊本城二の丸広場特設ステージでは、「熊本城築城400年祭」のエピローグとして「坂東玉三郎 特別舞踊公演」が始まろうとしていた。昼過ぎには1時間ほど並んで入場整理券を確保し、舞台から10列目ほどの席に母と家内と僕と三人並んで座っていた。何気なく後ろを振り返ると圧倒されそうな大観衆。翌日の新聞記事に観衆12,000人と書いてあった。舞台の向こうにはライトアップされた熊本城天守閣が浮き上がって見える。やがて舞台が暗くなり、地方の演奏が始まる。そしていよいよ坂東玉三郎さんの登場だ。場内の空気が一変する。あちこちで「ほ~ッ」というため息が漏れる。1曲目の「君が代松竹梅」を踊り始める。それから2曲目の「藤娘」が終り、玉三郎さんが退場するまでの間、僕は異次元空間にいるような気がした。


人、人、人の波


君が代松竹梅


藤娘



「秋のくまもとお城まつり」 は 今年も注目イベントが目白押し!

2014-08-28 17:35:04 | イベント
 いよいよ来週、9月1日(月)から「秋のくまもとお城まつり」が始まる。今年も充実したプログラムだが、中でも僕の注目するイベントをあげてみた。

■国指定重要文化財「田子櫓」特別公開
 【期日】9月1日(月)~10月31日(金)
 【時間】8:30~17:30




■復元「馬具櫓」落成記念特別公開
 【期日】9月27日(土)~10月31日(金)
 【時間】8:30~17:30



 旧藩時代、登城する時は、坪井川に架かる下馬橋を渡り、書物櫓(左側)と馬具櫓(右側)の間から虎口を通って勢溜りに出る。備前堀を右に見ながら急な南坂を登り、南大手門をくぐり、頬当御門から本丸に入った。明治35年の明治天皇行幸に際し、御料車が渡る行幸橋が、下馬橋のやや下流側に架けられた。また、坂をなだらかな傾斜にした行幸坂も同時に作られた。


■おてもやんコンクール
 【期日】9月21日(日)
 【時間】10:00~16:00(予定)
 【場所】五福公民館



■和太鼓 TAO特別公演
  熊本市・福井市姉妹都市締結20周年記念イベントオープニングステージ
 【期日】10月10日(金)
 【場所】二の丸広場特設ステージ
     第1部 17:00~18:00 伝統芸能など
     第2部 18:30~19:30(予定)「十七人のサムライ 野外特別ライブ」

 


■熊本城薪能
 【期日】10月11日(土)
 【時間】18:00~20:00
 【場所】二の丸広場特設ステージ
 【番組】舞囃子 高砂、狂言 入間川、能 枕慈童
 【出演】喜多流
 
「枕慈童」は中国の故事に基づく能の演目。周の穆王より枕を賜った美少年が、そこに書かれた法華経の句を菊の葉に書いたところ、その葉より滴る水が不老長寿の薬となり、永遠の命を授かったという物語。


想い出の1枚

2014-08-27 19:49:49 | 友人・知人
 この写真は3年前、M先輩から送っていただいたDVDの中に収められていた1枚だが、今から53年前の昭和36年(1961)8月、川崎市木月にあった法政大学水泳部合宿所での一コマ。僕は済々黌水球部の1年生部員。人生初の上京そして東京合宿への初参加だった。うしろの左から二人目が僕だが、写真の雰囲気でもわかるように先輩方からほんとうに可愛がっていただいた。練習は厳しかったが、やさしい先輩方と励まし合う同級生がいたおかげでもったようなものだ。よく部活における下級生いじめの話を聞くがまったく信じられない。僕らにはそんなことは皆無だった。ちなみにこの合宿のあと、金沢市で行われたインターハイでは2年連続の全国制覇を果たした。
≪P.S.≫
 濟々黌水球部の伝統の一つが、OBなどからの差し入れがあると1年生→2年生→3年生の順番で食べる。


水泳熊本はいずこ・・・

2014-08-26 11:41:45 | スポーツ一般
 オーストラリアで行われていたパンパシフィック水泳選手権は日本競泳陣の躍進が目立ち、金7個、銀8、銅4個の計19個のメダルを獲得という素晴らしい成績を収めた。この勢いを2年後のリオデジャネイロ五輪につなげてほしいところだ。
 ところで、かつて日本水泳を支えていた熊本の水泳界に最近、日本代表になるような選手がなかなか出て来ない。素質のある選手は結構いるのだが、2年前のロンドン五輪代表には熊本出身ゼロ。今回のパンパシ水泳もたしかゼロではないかと思う。たまたま先日、古い資料を整理していたら、54年前のローマ五輪の時の日本水連機関誌が出て来た。懐かしくなって眺めていたら、競泳に男女合わせて3名、水球に3名の熊本出身選手が出場していた。そのメンバーは下記のとおりだが、また熊本の水泳界がこんな状態になるよう奮起を望みたい。


1960年ローマ五輪水泳日本代表選手団




写真は左から
 石原 勝記(鹿本高-日大)自由形
 吉無田春男(九学-早大)バタフライ
 田中 聡子(嘉島中-筑紫女高)背泳
 藤本 重信(済々黌-日大)水球
 宮村 元信(済々黌-日大)水球
 柴田 徹 (済々黌-日大)水球

長唄 鶴亀

2014-08-25 20:48:28 | 音楽芸能
 嘉永3年(1851)、十世杵屋六左衛門の作曲による長唄「鶴亀」。鶴は千年、亀は万年の長寿という目出度い謂れから、代表的なご祝儀曲の一つ。詞章はほとんど謡曲「鶴亀」をそのまま借りている。正月の能や舞踊の番組では定番となっている演目である。

※右の写真は「秋のくまもとお城まつり2013」における熊本城薪能「仕舞 鶴亀」


【詞 章】
「それ青陽の春になれば 四季の節会の事始め 不老門にて日月の 光を君の叡覧にて 百官卿相袖を連ぬ その数一億百余人 拝するその音は 千代のためしの数々に 何をひかまし 姫小松 よわいにたぐう丹頂の 鶴も羽袖をたおやかに 千代をかさねて舞遊ぶ みぎりにしげる 呉竹の みどりの亀の幾万代も池水に すめるも安き君が代を 仰ぎ奏でて鶴と亀 よわいを授け奉れば 君も御感の余りにや 舞楽を奏して舞たまう 月宮殿の白衣のたもと 色々妙なる花の袖 秋は時雨の紅葉の羽袖 冬は冴え行く雪の袂を 翻す衣も 薄紫の 雲の上人の舞楽の声声に げい裳羽衣の曲をなせば 山河草木国土豊かに 千代万代と 舞たまえば 官人駕輿丁御輿を早め 君のよわいも 長生殿に 君のよわいも 長生殿に 還御なるこそめでたけれ」



童形なれば なにとしたるも幽玄なり by 世阿弥

2014-08-24 18:22:53 | 音楽芸能
 朝から「藤間勢珠・中村寿誠おさらい会」を火の君文化センターへ見に行った。花童は今日はお囃子としての出演だけ。まず年配女性方の日本舞踊から始まる。演目には花童の演目としておなじみの曲も含まれていて、どうしても比較してしまう。見ながら、こんなことを考えていた。
 能の大成者・世阿弥が残した伝書「風姿花伝」の第一章「年来稽古条々」の中でこんなことを言っている。これは年齢に応じた稽古の仕方について述べたものだが、十二・三歳頃について

「この年のころよりは、はや漸々声も調子にかかり、能も心づくころなれば、次第次第に物数も教ふべし。まづ童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。声も立つころなり。二つの便りあれば、悪きことは隠れ、よきことはいよいよ花めけり。」

 つまり、「子どもはその存在自体が幽玄である」と言っているようにも受けとれるのだ。「幽玄」というのは先日もこのブログで触れたが、世阿弥の美的概念を表す最も重要なキーワードである。世阿弥自身がその年代の頃、将軍や貴族たちからもてはやされた実体験からの言葉なのかもしれない。
 けっして年配女性の踊りが美しくないというわけではないが、やはり子どもたちは技術的なことなどは超越した何かを持っていると強く感じた。







海達公子 生誕98年

2014-08-23 19:16:43 | 文芸
    
秋の朝
 朝顔が少ししか
 咲かんやうになつた
 こほろぎが
 どつかでないてゐる
 足にさはつた夏水仙の花も
 しぼんでいる
「赤い鳥」 昭和3年1月号 尋常小学校5年

 これは海達公子が小学5年生の時の作品で、初秋のちょっぴり寂しい朝の情景を歌った詩である。
 今日は海達公子の生誕98年にあたる日。生誕百年の記念すべき年まであと2年。ショートムービーづくりはシナリオは書き上げたものの、そのまま停滞している。もう一度ネジの巻き直しだ。
 下の記事は大正15年1月5日の西海日日新聞に掲載された公子の記事。同新聞が募集した新年童謡で一等に当選したことや、自宅を歌人の若山牧水が訪れたことが書かれている。その下の写真は、牧水が公子宅を訪問した翌日、大牟田の料亭で行われた歌人の集いに、公子が父とともに招待された時の記念写真。前列の若山牧水夫妻の間に座る公子。




「草枕」の読みどころ(1)

2014-08-22 22:22:59 | 文芸
 夏目漱石の「草枕」は僕の愛読書の一つで、ことあるごとに読みかえしているのだが、その度に新しい発見があるのがまた楽しい。そんな中にも「読みどころ」がいくつかあって、下記の一節もその一つ。
 まず第一章の後半にこんな一節がある。 

  ― しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。―

 すると、これを受けて第二章の「峠の茶屋」のくだりでさっそくこれを実践していて、なんとも微笑ましい。

― しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開く。なかから一人の婆さんが出る。
 どうせ誰か出るだろうとは思っていた。竈に火は燃えている。菓子箱の上に銭が散らばっている。線香は呑気に燻っている。どうせ出るにはきまっている。しかし自分の見世を明け放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
 二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸を五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。―

■能「高砂」
 阿蘇神社の神主友成は、都見物の途中、従者を連れて播磨国(兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄る。そこに清らかな佇まいの一組の老夫婦があらわれる。松の木陰を掃き清める老夫婦に友成は、高砂の松について問いかけると、二人は友成に、この松こそ高砂の松であり、遠い住吉の地にある住の江の松と合わせて「相生の松」と呼ばれている謂われを教える、という世阿弥の代表的な作品。結婚式でおなじみの「高砂や この浦舟に 帆を上げて・・・」という有名な謡曲はこの能の中で唄われる。

金春流と新橋芸者

2014-08-21 16:31:16 | 音楽芸能
 どこの局だったか忘れたが、BS放送で「銀座金春祭り 路上奉納能」の模様を放送していた。江戸時代初期に幕府から拝領したという能楽の金春家屋敷があった銀座8丁目、中央通りから一本西側の通りを、通称「金春通り」と呼ぶ。「銀座金春祭り」は昭和60年から毎年行われているそうで、今では銀座の恒例行事になっているそうだ。金春流能楽師たちによって金春家伝統の演目が路上で演じられている。
 金春屋敷が後に麹町に移った後、屋敷で下働きをしていた女性たちが跡地に住みつき、芸者の始まりとなったといわれているそうだ。「金春芸者」と呼ばれた女性たちは能屋敷をルーツとするだけに長唄・常磐津・小唄・端唄・舞などの芸に通じ、人をもてなす才にも長けていたという。この「金春芸者」の流れを汲むのが今日の「新橋芸者」である。


マーチン・スコセッシ監督の「沈黙」

2014-08-19 20:48:28 | 映画
 紆余曲折を経て、やっと製作が始まったマーチン・スコセッシ監督の「沈黙」は、現在、台湾で撮影が進められているという。2015年末の公開を目指し、2016年のアカデミー賞レースにも参戦する模様。
 遠藤周作が昭和41年(1966)に発表した「沈黙」は、1971年に篠田正浩監督によって一度映画化されているが、「タクシードライバー」や「最後の誘惑」などで知られるマーチン・スコセッシ監督が長年映画化を構想し、一時はキャストも発表されていたが、製作は難航、最初に構想が発表されてから実に20年近く経ての製作開始となった。

【主なキャスト】
 アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゲス神父)
 リアム・ニーソン(フェレイラ神父)
 アダム・ドライヴァー(フランシスコ神父)
 渡辺謙(吉次郎)
 イッセー尾形

 物語は、17世紀の日本における厳しいキリスト教弾圧のもとでのポルトガルのイエズス会宣教師たちの過酷な運命を描いたもの。

秀吉の九州平定と殿下石

2014-08-17 23:45:53 | 歴史
 NHKの大河ドラマは毎年、「つまみ食い」的な見方しかしない。つまり面白そうなくだりだけを見るというやつだ。1年間も続けて見る根気がないから、できれば10回程度にまとめてくれるとありがたいのだが。今日、久々に「軍師官兵衛」を少しだけ覗いてみた。もうやがて秀吉の九州平定というところまで来ているようだ。
 熊本市中央区の紺屋阿弥陀寺町に、豊臣秀吉が九州平定の折、白川を越えて南へ向かうに当り、小休止した石が「殿下石」と呼ばれて残っている。天正15年(1587)4月18日のことだという。そんな歴史に思いを馳せながら眺めると結構趣きを感じるものだ。

■秀吉の九州平定
 天正13年(1585)、関白となった秀吉は、その頃、九州で勢力を伸ばしていた島津義久に圧迫されていた大友宗麟から助けを求められる。秀吉は島津氏、大友氏の双方に停戦命令を出すが、九州の名族という誇り高い島津は自分より格下である秀吉に直接返事せず、細川幽斎に返書する。結果、停戦はご破算となり、島津軍は鹿児島から攻め上る。秀吉は翌年3月1日に大坂を立ち、40もの藩に声をかけて集めた30万という大軍をもって4月16日隈本、18日八代・芦北へと進み、海路川内へ兵を進める。島津は降参し、長兄・島津義弘は僧になり、5月8日川内の泰平寺で秀吉に会う。結果として島津は薩摩、大隈と日向の一部を安堵される。


▼殿下石


▼所在地