徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

長岡家のおぼっちゃま

2012-01-31 19:56:18 | 熊本
 随分久しぶりに立田山の泰勝寺跡を訪れた。東京から来たという年配のご婦人と一緒になった。細川家の茶室・仰松軒を垣の外から眺めていたら、ちょうど園内の清掃をやっていたおじさんが簀戸を開けてくれた。風通しのためか雨戸を外し、障子も開けてあったので室内をじっくりと観察できた。内部を見たのは初めてだ。今日はラッキーだった。園内を廻っている間、幼い頃の父の姿を想像していた。下記の文は父が書き残した4歳から6歳頃の想い出である。








長唄 鏡獅子 ~ 第47回熊本県邦楽協会演奏会より ~

2012-01-30 18:32:21 | 音楽芸能
 2月、歌舞伎俳優の中村勘太郎が「六代目 中村勘九郎」を襲名する。新勘九郎が襲名披露公演で踊るのが「鏡獅子」という歌舞伎舞踊。祖父の六代目尾上菊五郎から父勘三郎へと受け継がれた難曲に新勘九郎も挑む。
 昨年12月に行われた熊本県邦楽協会演奏会から、この「長唄 鏡獅子」を聴いてみる。

 「鏡獅子」についての解説を「日本芸術文化振興会」のウェブサイト 歌舞伎への誘い ~歌舞伎鑑賞の手引き~ で確認してみた。

▼春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)
 明治時代に九代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が、初演した長唄舞踊(ながうたぶよう)です。小姓の弥生(やよい)が将軍の前で踊りを披露し、飾られた獅子頭を手にすると獅子の精が乗り移る、という内容です。前半は気品のある女方、後半は荒々しい獅子の精という対照的な役を一人で踊り分ける点に見どころがあります。九代目團十郎の死後、上演が途絶えていましたが、六代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)が復活させて当り役として以降、現在でもたびたび上演されるようになりました。


熊日郡市対抗女子駅伝を応援!

2012-01-29 20:09:55 | スポーツ一般
 今年も従姪(いとこの娘)のさきちゃんが、熊日郡市対抗女子駅伝の玉名市チームの一員として出場するというので朝から応援に行った。走るのは昨年と同じく5区(益城町下小谷の折り返し点から益城町安永交差点手前までの5キロ)。昨年は現地へ行けなかったので、今年こそはと早めに出かけた。はたして駐車できるかどうか心配したが、ちょうど区間に井関熊本の工場があり、休日なので正門前が広い駐車スペースとなっていて助かった。昨年もたしかそうだったと思うが、さきちゃんは4位で通過、とても調子良さそうに見えた。結局、玉名市チームは昨年と同じ4位の成績だった。今年は天草市が初優勝。2位は宇城市、3位は熊本市だった。昨年とはうって変わって暖かい好天に恵まれ、気持のよいスポーツ観戦日和の一日だった。

39回目の結婚記念日 ~ 変わらぬ想い ~

2012-01-28 19:44:45 | 音楽芸能
 今日は39回目の結婚記念日。今年は特別なことは何もせず、家内手料理の夕食時、ビールで乾杯し祝い合った。来年は40回目の“ルビー婚”ということになる。何にもしないというわけにはいかないだろうな…。
 そんなわけで、久しぶりに「変わらぬ想い(Nothing's gonna change my love for you)」を聞きたくなった。ジョージ・ベンソンのオリジナルも良いのだが、今日は小林香織のサックスで聞きたい気分だった。そこでサビの部分だけ、歌詞と和訳を掲示してみた。





Nothing's gonna change my love for you
You ought to know by now how much I love you
One thing you can be sure of
I'll never ask for more than your love
Nothing's gonna change my love for you
You ought to know by know how much I love you
The world may change my whole life through
But nothing's gonna change my love for you

たとえ何があっても君への愛は変わらない
どんなに愛しているか知ってるはずさ
これだけは信じてほしいんだ
君の愛さえあれば何もいらない
たとえ何があっても君への愛は変わらない
どんなに愛しているか知ってるはずさ
世の中が僕の生活をくつがえそうと
君を想う気持ちは絶対に変わらない


昭和初期 熊本で歌われていた童謡

2012-01-27 18:21:27 | 音楽芸能
 わが町、京町の歴史を調べている。父と教員仲間だったI先生が、熊本師範時代の昭和10年に調べられたノートが残っており、ご家族からお借りしているが、京町に限らず、当時の熊本のいろんなことが分かってとても面白い。その中にその頃子守唄や手まり唄として歌われていた童謡が書かれていた。題名もハッキリしないのだが、そのいくつかをご紹介すると
※写真は肥後手まり

▼子守唄・手まり唄

♪お月様ないくつ 十三、七つ
 七つで子持って 子はだれ抱かしゅ
 おまんにだかしゅ
 おまんはいやてち 油買いはってぇた
 その油はどうしたか 犬がねぶった

♪大黒さんと恵比須さんな江戸上り
 あとからこうこがついて行く
 こうこ泣くならよ 船乗する
 船はどこまで 大阪まで
 大阪みやげはなになにか
 一で香箱 二で鏡
 三で薩摩の板こうて
 板屋ぶきして門立てて
 門のぐるりに杉植えて
 杉の間に泣く鳥は
 がんかずいしょうか うのとりか
 
♪てんてんてまりの音の数
 ひふみつよついつ 六つと数えて
 七つになれば 私は尋常一年生
 あ~ うれしいな うれしいな

▼盆遊びの歌

♪だんだらぢょうちん とうもして
 きつねの嫁入り いたちの仲立ち
 さっさらほ さっさらほ

小泉八雲と夏目漱石の教え方の違い

2012-01-26 18:40:09 | 文芸
 水道町まで行ったついでに久しぶりに鶴屋デパートの裏手にある小泉八雲旧居を覗いてみた。展示されている資料に見入っていると、いつ来ても時の過ぎるのを忘れてしまう。今回特に目についたのは英語教育における小泉八雲と夏目漱石の違いの展示だった。二人は前後して第五高等中学校で英語教師として教鞭をとっているが、教え子たちが語ったそれぞれの教え方が際立って異なっており、二人の小説の違いとも考えあわせてみるととても興味深い。

▼八雲
 先生の教授法は一種独特のものであった。例えば文法を教えらるるにも教科書を用いらるるでなし、また口授筆記をさるるでなし、教場に入られて、出訣(欠)をつけらるる。それからクルリと振り返って、黒板に向い、チョークを取って、左の上の隅から文法を書き始められる。生徒は黙々としてそれを写す。その書かるるのはいささかの渋滞なく、時間の終わりの鐘のなるまで続く。鐘が鳴ると一礼して退出さるる。かくして写しきった筆記帳を放課後読んでみると、秩序整然、しかも日本学生にとって最も適切な文法上の注意が与えられている。先生は一片の原稿もなく、全時間いささかの淀みなく書き続けられ、しかもそれが極めて整ったものであったのは驚くべき技倆と思う。これは先生の天稟の文才もあったろうが、教場に出らるるまでには、頭の中で十分練って来られたことと思う。
「母校に於ける小泉八雲先生」 村川堅固
『龍南』第二百号(1926年)所収

▼漱石
 授業振りは、一言にして言えば、粗略であった。噛んで含める様な丁寧な教え方ではなくて、
「ザ、ネキスト。ザ、ネキスト。」
と次から次に読ませて、不審を聞けば、
「どの字が解らない?・・・・・・字引を引いたのか?」
という風に反問されるから、滅多に質問もされない。でその進むこと進むこと。
 由来、教科書は中途または三分の一ないし三分の二しか済まないものときめていた。中でも英語の教科書はジ・エンド(終り)まで読んだことは臍の緒切って以来一度もなかった。然るに、夏目先生から教わった一年間に、「アチック・フィロソファー」や、「オピヤム・イーター」や、「オセロ」など皆ジ・エンドまで読んだ。その上「サイラス・マーナー」の半分まで進んだ。教科書を一冊終りまで読むことは、何でもないようだが非常に嬉しいものである。私はこの喜びを先生から授けて貰った。
「漱石先生と私」 八波則吉
1976年岩波『漱石全集月報』所収

ALWAYS 三丁目の夕日'64

2012-01-25 18:43:49 | 映画
 「ALWAYS 三丁目の夕日'64」を観た。このシリーズの特長であるヒューマン・コメディとしての出来映えには文句のつけようがない。しかし、かつて映画「BALLAD 名もなき恋のうた」でボランティアスタッフをやったほどの山崎貴監督ファンとしてちょっと辛口のコメントをしたい。まず僕には3Dは必要なかった。もちろん2D版も同時上映されているので、そっちを見ればという話なのだが。もともと今の3D映画の立体紙芝居的な見え方が好きではないのだが、それでも今回は東京オリンピックのダイナミックな場面が3Dで見られるのかと期待したのだが、そんなシーンはなかった。CG慣れしている眼に新鮮なインパクトを与えてくれるようなシーンが欲しかった。この時代は戦後から高度成長期へと移り変わる端境期で、風俗や世相も多様化しつつあり、描き方も前作、前々作の時代のようには単純ではなく難しかったと思う。東京の抜けるような青空でブルーインパルスの描く五輪の輪を仰ぎ見た一人として、時代の空気を感じるという面では若干不満の残る面があったのは残念だ。

金剛寺は何処? ~ 民謡ポンポコニャにまつわるエトセトラ ~

2012-01-24 21:12:44 | 音楽芸能
 熊本民謡「ポンポコニャ」には謎が多い。細川藩時代にできた座敷唄だと言われているが、中でも僕が最後までわからなかったのが、京町のくだりに出てくる金剛寺がどこにあったお寺で、その後どうなったのかということだった。1年ほど前から図書館などでいろんな文献を調べたがわからず、この程とうとう熊本市歴史文書資料室に調査依頼をした。その結果、昨日判明したという連絡があった。元禄時代の京町之絵図に書き込まれていたその場所は僕が想像していた場所と違い、中坂の登り口にあった。さらにその場所は崖崩れの危険性があったため、明治22年に移転していたという文書も出てきた。そして移転先の大江村の番地を今日の番地に置き直すと、今の新屋敷の「金剛寺中将姫」(写真)がそれであることが確認できた。実はこのお寺のことは前にも調べていたのだが、今日までいろいろと有為転変があったらしく詳細は確認できなかった。あと一つ残る疑問は、金剛寺のくだりでなぜ揚弓が出てくるのかということだ。元禄時代は寺社の境内で矢場を開くところも多かったらしいので、ひょっとしたら金剛寺でもやっていたのだろうか。

▼元禄時代の京町之絵図。赤丸のところに金剛寺と書いてある。



▼同じ場所を今日の地図で見てみると・・・



▼竹林の下を左の方に入った辺りが金剛寺があった場所。



♪ 花の熊本 長六橋から眺むれば オヤポンポコニャ
   下は白川 両芝居 少しさがればな オヤ 本山渡し船
   オオーサポンポコ ポンポコニャ

♪ 花の熊本 涼みがてらに眺むれば オヤポンポコニャ
   清水湧き出る水前寺 少し下がればナ オヤ 江津湖の舟遊び 
   オオーサポンポコ ポンポコニャ               

♪ 花の熊本 銀杏城から眺むれば オヤ ポンポコニャ
   下は清正公菩提所 少し下がればナ オヤ 横手の五郎さん
   オオーサポンポコ ポンポコニャ 

♪ 花の京町 中坂越ゆれば金剛寺 オヤポンポコニャ
   揚弓ガッチリ 信濃の善光寺 少し下がればナ オヤ ほんまの二十四拝  
   オオーサポンポコ ポンポコニャ

熊本の風景今昔 ~ 磐根橋の上から ~

2012-01-23 21:28:36 | 熊本
 先週土曜日の熊日夕刊に懐かしい写真が掲載されていた。僕らの子どもの頃見慣れた磐根橋から加藤神社を見た風景だった。当時はこの道は国道3号線だった。熊本市内方面から来た車は加藤神社の階段の前で左へ直角に曲がり、さらに突き当たった新堀橋際で直角に右折するという鉤形状の道が続くという地点だった。この加藤神社は僕が幼稚園の頃、帰りの通園路でもあった。磐根橋の下から錦坂を登って階段の手前右側のところに出る。さらに、この階段を上り、神社の境内を通って裏の出入口へ抜けるのがお決まりのコースだった。神社は現在の熊本城内の神社よりも荘厳な雰囲気があった。階段のところは参拝者の格好の記念撮影場所にもなっていた。また、僕には雨の日は楽しみなことがあった。社殿のまわりを取り囲んだ石杭の根元に小さなカエルが出没するのである。これを捕まえて帰るのが何よりの楽しみだった。家族には随分気味悪がられたものだが。今日でも磐根橋のところを通る度にあの頃のことを想い出す。


昭和36年(1961)当時の磐根橋から見た加藤神社(熊日新聞より)


同じポイントから見た今日の風景

長唄 雨の五郎 ~ 第47回熊本県邦楽協会演奏会より ~

2012-01-22 20:34:32 | 音楽芸能
 ザ・わらべのかえちゃんとあやのちゃん、それにこわらべのみわちゃんが囃子方として出演した昨年12月の熊本県邦楽協会演奏会から「曽我もの」の代表的な演目の一つ「雨の五郎」をご紹介したい。曽我十郎・五郎の兄弟は18年の歳月をかけて父の仇、工藤祐経を討ち果たすわけだが、この長唄は仇討前に弟の五郎が敵の目を欺くために吉原通いに身をやつし、あでな姿で馴染みの遊女「化粧坂の少将」に逢いに行く様を描いた長唄舞踊。昨年5月、Eテレの「芸能百花繚乱」でも歌舞伎俳優、尾上松也が見事な踊りをを見せていた。

  


2011.12.4 熊本市国際交流会館
第53回熊本県芸術文化祭参加
第47回熊本県邦楽協会演奏会

唄:安藤典子、宇野民子
三味線:杵屋五司郎、杵屋五司起久、杵屋五司幸、杵屋五司貴
囃子:
 (太鼓)堀尾嘉恵、上村文乃
 (小鼓)後藤美和、松永真由子
 ( 笛 )藤舎仁鳳
撮影・編集:大山喬


へうへうとして水を味ふ ~ 山頭火 ~

2012-01-21 18:43:33 | 文芸
 一昨日、植木町味取にある民謡・三味線の本條秀美さんの稽古場を伺った。前にも書いたが本條さんのご実家は種田山頭火ゆかりの味取観音瑞泉寺。帰り際、雨に佇む行乞姿の山頭火像を暫し眺めた。そして翌朝の熊日新聞を広げると下の記事が載っていた。この句は、山頭火通に言わせると山頭火の句の中でもとても人気が高いらしい。
 蓮田善明の生家も植木町のお寺なので交流があったのかもしれないが、いわば社会からドロップアウトした存在の山頭火と、後に国文学者として、そして国士として三島由紀夫に影響を与える存在になる蓮田善明に接点があったことはとても興味深い。また妻子を捨て行乞の人生を送った山頭火直筆の書を受け継いだ蓮田善明の長男、蓮田晶一さんが、日本で唯一の「赤ちゃんポスト(こうのとりのゆりかご)」を始めることになったのは、けっして偶然ではない因縁のようなものを感じてならない。


ブラタモリを見ながらふと思った・・・

2012-01-20 18:37:43 | 熊本
 昨夜の「ブラタモリ」は国分寺だった。僕の東京在勤時は小平や国立に合わせて10年ほど住み、国分寺はとても想い出多い懐かしい街なので特に興味深かった。番組を見ながら、僕はふとあることに気付いた。それは大昔、多摩川の浸食によって出来たといわれる国分寺崖線のことを、地元の人たちは「ハケ」と呼ぶという話が出てきた時だ。僕はすぐに熊本市の北部にある湧水地、八景水谷(はけのみや)のことが頭に浮かんだ。国分寺の「ハケ」の語源はどうもハッキリしないらしいのだが、ひょっとしたら八景水谷ももともと「ハケ」と呼ばれていたのではないかと思った。八景水谷公園にある案内板には名前の由来について下記のような説明がある。近江八景や金沢八景などと同じ意味合いで八景と付けられたらしい。しかし、これは細川綱利公が熊本藩主だった時代以降の話であって、それ以前は「ハケ」と呼ばれていたのではないかという気がする。なぜなら、八景水谷湧水地の東側と北側は清水台の崖が迫っているからである。番組を見た後、ウィキペディアで調べたところによると、日本各地で崖のことをノゲ、ニゲ、ヌゲ、ナゲ、ママ、ハケ、ホキなど、いろんな呼び方があるそうだ。ともかく「ブラタモリ」はいろんなことを教えてくれる。




春のくまもと 2大イベント!

2012-01-19 19:53:07 | 熊本
 今年の春、熊本は楽しみなイベントが続く。なかでも1ヵ月後に迫った「政令指定都市移行記念 第1回熊本城マラソン」と3月31日に行われる「城下町くまもと時代絵巻」の二つは見逃せない。
 日本マラソンの父と謳われる金栗四三翁の出身地として、本格的な市民マラソン大会の開催は県民の悲願でもある。とにかく初めての開催でいろいろ予期せぬことも起こるかもしれないが、2回目、3回目と経験を積み重ね、世界中のランナーたちが集う大会に育って行ってほしい。
 もう一つの「城下町くまもと時代絵巻」は九州新幹線全線開業記念として昨年開催予定だったが、直前に東日本大震災が発生し、1年延期されていたイベントだ。慶長十六年(1611)3月28日、二条城で徳川家康と会見する豊臣秀頼に付き添うため上洛する加藤清正とその軍勢を模した武者行列が、当時の陣立て図をもとに再現される。加藤清正に扮するのは、かつて大型時代劇ドラマ「関ヶ原」で清正を演じたことのある藤岡弘さんだ。歴史ファンならずとも見逃せない。








The Warabe dance Itako-Sangyokusyu (Itako-bushi Series)

2012-01-18 17:43:29 | 音楽芸能

The program which The Warabe dances on this video is three folk songs of the Kanto district. It is "Itako-Ondo", "Itako-Jinku" and "choshi-tairyobushi". These three folk songs were sung around Tonegawa River water system from the Edo era. Itako is the area that prospered very much as a important port of the transportation by water in earlier period of Edo era. Choshi is located in the area facing the Pacific Ocean of the Tonegawa mouth of a river, and prospered as a fishing port from ancient times. Itako is the birthplace of the folk song eminent in Japan. The melody of a folk song born in Itako is called "Itako-bushi". I shot this video at the time of "Kumamoto-Castle Festival 2011 autumns". This program is one of the repertories good at The Warabe.

ザ・わらべが踊るこの演目は関東地方の三つの民謡で構成されています。「潮来音頭」、「潮来甚句」そして「銚子大漁節」がその三つです。この三つの民謡はいずれも利根川水系の周辺地域で江戸時代から唄われてきたものです。潮来は利根川水運の重要な港として江戸時代前期から栄えました。銚子は利根川河口の太平洋に面した漁港として古くから繁栄しました。潮来は民謡の発祥地として日本全国でも有名です。潮来で生まれた民謡の旋律を「潮来節(曲)」と呼んでいます。このビデオ映像は昨年の「秋のくまもとお城まつり」の時に撮影したものです。この演目はザ・わらべが得意な演目のうちの一つです。


懐かしのマイカー!

2012-01-17 21:31:25 | その他
 先日マイカーの車検を受けた。現在のトヨタ・ラッシュに替えてからもう2回目の車検だった。ところでこのラッシュはいったい僕の何代目のマイカーなのだろう。初めてマイカーを買った、というより両親に買ってもらったのが昭和43年(1968)だから、44年経ったことになるが、だいたい5、6年乗ったとして7代目か8代目になるのだろう。途中の数代は記憶が薄れているが、この最初に乗った車だけは今でも鮮明に憶えている。赤いダットサン・ブルーバード1300ccの中古車だった。この車を最近、「愛@スパイダーさん」のブログ(http://alfa1225.blog73.fc2.com/)で見かけた。懐かしい想い出がよみがえった。最初に就いた仕事はトラックのセールスだったので、この車で僕のテリトリーである阿蘇や上益城を駆け回った。真夜中近い訪問先からの帰り、山道でエンストしてしまい、通りがかった人たちに助けていただいたことや、納車に行くと当時は必ず祝酒がふるまわれ、必ず飲酒運転になっていたこと。当時は飲酒運転については一般社会でも今日とは比べものにならないくらいルーズだった。また、山道など交通の不便なところでは、下校時などの中高生の女の子が手をあげて車を止め、平気で乗り込んできたものだ。今では考えられないことだ。