徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

雨の中、茅の輪くぐり

2020-06-30 17:24:36 | 日本文化
 今日は各神社で「夏越の大祓」が行われた。ここ数年続けて参拝していた藤崎八旛宮段山御旅所が、今年はコロナの影響で中止となったので久しぶりに加藤神社の方に行った。断続的に降り続く雨の中で大勢の参拝者が神事から参列していた。斎主の祝詞奏上ではコロナの終息を願う詞も上奏されていた。密を避けて、参拝者が少なくなるのを待って茅の輪をくぐった。


立田山のはなし。

2020-06-29 19:03:05 | 熊本
 先日、FB友のNさんが「肥後ジャーナル」というサイトに「地名について調べてみた」という特集があることを教えてくれた。その中に熊本市北区の地名「龍田・竜田・立田」の使い分けの謎を調べた記事があった。
 僕の本籍は立田山の麓「黒髪村下立田」なので、僕も関心を持って調べたことがある。古い地名というのは音が先にあって、後の世の人々が適当に漢字を当てている場合が多いので、目くじら立てるほどの意味はないというのが結論だった。
 立田山(龍田山)は、その昔、濃い緑に覆われていたため黒髪山と呼ばれていたが、平安時代の歌人清原元輔(清少納言の父)が肥後国司として赴任したとき、この山の姿に大和(奈良)の龍田の里をしのんで名前を改めたといわれている。熊本出身の民俗学者・谷川健一(2013年没)の「列島縦断 地名逍遥」などにもそう紹介されている。清原元輔がいう龍田の里とは、先般放送された「ブラタモリ 法隆寺編」で紹介された斑鳩(いかるが)の一部と考えて良さそうである。
 その清原元輔が偲んだという大和の立田山は、一つの山ではなく連なった山々の総称のようだ。歌枕にもなっているその立田山で思い出すのが、伊勢物語の二十三段「筒井筒」などに出て来る

 風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ

という歌だ。たしか高校の古文にも載っていたかな?
 現代文に訳すと、「風が吹けば沖に白波が立つ。立つと言えば立田山をあなたはこんな夜中にたった一人で越えていくのですか」というような意味らしい。実はこれ、不倫をする夫に対する妻の歌。最後はこの歌に感動した夫が改心するというオチがつく。
 この伊勢物語の二十三段「筒井筒」をもとに世阿弥が創ったといわれるのが能「井筒」。まだテレビ番組でしか見たことがないので、機会があればナマの舞台を観てみたい。


熊本市北東部の立田山から朝日が昇る頃


能「井筒」

「民謡魂 ふるさとの唄」~夏唄スペシャル~

2020-06-28 18:33:45 | 音楽芸能
 今日のNHK「民謡魂 ふるさとの唄」は「夏唄スペシャル」と題して、これまでの放送の中から夏祭りにまつわる民謡を集めたスペシャル総集編。全国の歌手や演奏者が、リモートで参加して作り上げる「北海盆唄」をはじめ、全国各地の夏祭りの映像と盆踊り唄が紹介された。
 全国各地の夏祭りが中止されているが、それぞれの祭りのために1年間準備してきた人々も多く、その落胆はいかばかりかと心が痛む。また中止による経済的損失は計り知れないものがある。今日も東京や北海道など、一向に終息の気配を見せないコロナ感染について政府は、県外移動自粛を再要請することはないなどと言っているが、そう言えるのは、夏祭りシーズンを前に、主催者や参加者が既に中止という良識的な判断をしているからこそ。
 全国各地の祭りの復活が一日も早いことを祈るばかりだ。


まめ藤さんは今・・・

2020-06-27 19:18:27 | 音楽芸能
 このブログをアクセスいただくキーワードで相変わらず多いのが、京都祇園甲部の芸妓・まめ藤さん。舞妓時代に比べ露出が減ったことや、昨今のコロナ禍で活動自粛が続いていることもあり、なかなか情報が流れないので、超人気舞妓だった頃のまめ藤さんを知っているファンの皆様はやきもきしておられるようだ。


芸妓になってからのまめ藤さん(竹中邦彦さん撮影)


▼舞妓時代のまめ藤さん


「祇園小唄」を踊るまめ藤さん


2016年京都マラソン応援。「晒し」の小鼓を打つ

アンジェリカの歯

2020-06-26 14:47:45 | 映画
 しばらく控えていた歯科医院を久しぶりに受診した。待合室で順番を待つ間、綺麗な歯のモデル写真を眺めていたら、なぜかマイケル・ジャクソンの「キャプテンEO」に登場した魔女の歯を思い出した。東京ディズニーランドで「キャプテンEO」を見たのはたしか1987年の春だった。3D画面の迫力やMJの歌やダンスもよかったが、一番印象に残ったのは、無数のケーブルに繋がれた魔女に扮したアンジェリカ・ヒューストンの美しい歯だった。祖父、父とも名優、名監督の映画一家に生まれた彼女はその頃たしか30代半ば。ラストではMJ扮するEOの魔力により美しい女王の姿に戻る。彼女の歯並びの良い美しい歯を眺めながら、やっぱりハリウッドスターは歯が命、なんて思ったものだ。
 ちなみにラストシーンで流れる「Another Part of Me」が大好きで、MJのアルバム「BAD」に収められていたので、毎日、ウォークマンで聴きながら電車通勤していたことを思い出す。


不快指数85

2020-06-25 19:54:37 | 熊本
 今日は気温は31℃にとどまったものの、湿度が88%と高く、不快指数は85。何もやる気がせず、ただダラダラと過した。(いつもどおりジャン!)
 何か気分がスッキリするものはと、今年はコロナ禍のため行われなかった高校総文祭パレードの、昨年の玉名女子高の映像を楽しんだ。


わが家のアガパンサス(紫君子蘭)


古人の足跡をたどる

2020-06-24 18:25:24 | 熊本
 夏目漱石の「草枕の道」は10年ほど前に踏破しましたが、もう一つの目標である桧垣嫗の「功徳の道」はいまだに踏破できていません。車では何度も行ったのですが、歩いてとなるとなかなか一歩が踏み出せません。体力は落ちる一方ですので出来るだけ早く具体的な計画を立てたいと思っています。

 平安時代の閨秀歌人、桧垣嫗は、白川べりの今の蓮台寺辺りに結んでいた草庵から、篤く信仰する岩戸観音へ閼伽の水を供えるため、水桶を担いで四里の道を日参したと伝えられます。室町時代に世阿弥によって創作された能「桧垣」のモデルでもあります。世阿弥の能では百歳に及ぶと思しき老女として登場しますが、日本古代中世文学の研究家である妹尾好信教授(広島大学)の研究論文「桧垣説話と『桧垣嫗集』」によれば、「後撰集」に選ばれている
  「年ふればわが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも」
という歌は、旧知の藤原興範と再会した時、挨拶として詠まれた当意即妙の歌なのであって、決して実際に彼女が「みずはぐむ」老女であったわけではないという説を唱えています。

 水桶を担いで四里の道を日参したのは、桧垣が何歳頃のことなのかはともかく、道が整備された今日でも、15~6㌔の山道を毎日登るというのは大変な苦行であることは間違いありません。さすがに、後には霊厳洞の近くに山下庵を結んで移り住んだと伝えられています。


桧垣嫗の「功徳の道」の推定コース



桧垣嫗が草庵を結んだという蓮台寺付近の白川の辺



坪井川(当時は井芹川)に沿った道から松尾川に沿った道に入り、次第に山道となる



水桶の水をこぼしこぼし登ったという急坂「桧垣のこぼし坂」



通過点になったであろう松尾町平山の集落



閼伽の水を供えた霊厳洞・岩戸観音



桧垣の故事を舞踊化した「桧垣水汲をどり」

神仏習合健在なり!

2020-06-22 18:16:13 | 日本文化
 先日、新型コロナウイルス感染の早期収束を祈る「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が、京都市中京区の真言宗寺院・神泉苑で行われたというニュースが報じられた。東山区の八坂神社との協力で実現した神仏習合の御霊会は、明治政府による神仏分離令以降初めてだという。
 一方、熊本城内の加藤神社では、4年前の熊本地震で崩落した石垣から発見された「観音様石垣」のレプリカが造られたというニュースが報じられた。この「観音菩薩像」は「阿弥陀三尊来迎図」の一部で、今では境内の一角に安置され多くの観光客がお参りをしている。しかし、文化財である石垣はいずれ復旧工事が始まれば元の場所へ戻される。そこで、熊本地震の記憶を後世に残そうという有志の方々の協力で、この石を3Dプリンターでコピーし、樹脂でレプリカが造られたという。「阿弥陀三尊来迎図」は仏教の重要な経典に基づいて描いたもの。それを加藤神社が永く後世に伝えようというわけだから、いまだ神仏習合は健在のようである。


崩落した石垣に彫られた観音菩薩像


阿弥陀三尊来迎図(赤枠の部分が石に残っている)

熊本市と福井市

2020-06-21 09:22:34 | 歴史
 昨夜「ブラタモリ 福井編」のアンコール放送があった。本放送も見たが、中世に築かれた一乗谷朝倉氏遺跡とその文化を受け継いだ福井市の歴史は再見の価値あり。
 ところで、わが熊本市と福井市は姉妹都市である。その経緯は産業や経済の面で共通点があったこともあるが、きっかけは肥後熊本藩第10代藩主・細川斉護公の娘、勇姫が越前福井藩主・松平春嶽公(昨日放送された「JIN-仁- 完結編」にも登場)へ輿入れ(1840年)し、姻戚関係であったことや熊本藩士で儒学者・思想家として知られた横井小楠が福井藩に招かれ、藩政改革にあたるなどの歴史的な縁があったこともあり、平成6年(1994)に姉妹都市となった。
 個人的には、わが母黌水球部が昭和42年(1967)のインターハイと翌43年(1968)の国体、いずれも福井大会で全国制覇をした縁起の良い町。両市の友好関係がもたらしたプレゼントだったのかもしれない。これからも経済や文化など多方面で交流を続けてほしいものだ。 


2014年10月 「熊本市・福井市姉妹都市締結20周年記念イベント」に訪れた福井市からの訪問団

戻った 躍動する若い力!

2020-06-20 17:52:09 | スポーツ一般
 自粛が続いていた県外移動制限が解除されて初めての週末。熊本城は観光客が戻りつつあるようだ。それとともに、この数ヶ月間、すっかり影をひそめていた熊本城周辺での高校生などの部活が、コロナ自粛前の状況に戻り、若い元気な姿が復活した。そんな様子を、ただ眺めているだけでもこちらも力が湧いてくるような気がする。しかし、コロナ禍の状況は基本的には何にも変わっていない。感染拡大防止には十分注意して活動してもらいたいものだ。


二の丸広場


棒庵坂

オールディーズ 1963

2020-06-19 23:11:19 | 音楽芸能
 わが人生で最も忘れられない年の一つ、高校3年生だった1963年のヒット曲をYouTubeで調べていたら、この映像を見つけた。この年のアメリカンヒットチャートから30曲をランキングしたもののようだ。元データがビルボードなのか何なのかわからないが、僕が憶えている曲はほとんど入っているようだ。ただ、ランキングはあまり納得いかないので無視し、特に印象が強かった曲に黄色のラインマーカーを塗った。
 キュー・サカモトの「Sukiyaki」は別として、日本で特にヒットしたのはカスケーズの「Rhythm of the Rain」、ポール&ポーラの「Hey Paula」、リトル・ペギー・マーチの「 I Will Follow Him」、ボビー・ヴィントンの「Blue Velvet」、ビーチボーイズの「Surfin' U.S.A.」あたりだったろうか。個人的にはPPMの「Puff, the Magic Dragon」、フォー・シーズンズの「Walk Like a Man」などが好きだった。思えばアメリカが世界のポップスミュージックシーンを席巻していたのはこの年くらいまでで、翌年からビートルズなどブリティッシュ勢の快進撃が始まる。




おてもやん像からよみとる時代背景

2020-06-18 19:48:16 | 音楽芸能
 祇園橋際ポケットパーク(中央区細工町五丁目)に設置されている「おてもやんと永田いね」像の台座に取り付けられた銘板の説明をつぶさに読み込むと、民謡「おてもやん」が生まれるまでの時代背景がわかって興味深い。この文は熊本市立五福小学校が創立100周年を迎えた1977年に発行された記念誌「五福百年」から引用されている。永田いねゆかりの五福小学校関係者の方が書かれた文章のようだ。
 まず、おてもやんの作者である永田いねの出自について書かれているが、藩主細川公から名字帯刀を許された「糀屋(ももや)」という味噌製造の御用商人で、その恵まれた家庭環境の中で育ったいねは、幼い頃から伎芸全般に通じて行ったようである。その後、井芹川での舟遊びで唄った声が細川家北岡別邸にまで聞こえ、細川護久公のお褒めにあずかったエピソードが紹介されているが、これはいねが何歳の時なのだろう。護久公が藩主もしくは知藩事として熊本におられた時期のはずだから、元治元年(1864)生まれのいねが5~7歳ごろの出来事と思われる。また、この当時、まだ井芹川が一駄橋の少し上流で坪井川と合流していたこともわかる。明治15年(1882)には女芝居一座を組んで巡業に出たとあるが、なんとこの時、いねは18歳である。女座長や伎芸の師匠としての経験を積んで、いよいよ民謡「おてもやん」を作る段になるわけだが、節は名古屋巡業の時に聞いたであろう「名古屋さんざい」の影響を受けたとある。名古屋甚句は「前唄」「本唄」「名古屋名物」の三部構成となっているが、このうち「名古屋名物」はいわゆる「さわぎ唄」で、当時「さわぎ唄」のことを「散財唄」とも言っていたらしいので、「名古屋名物」が「おてもやん」の原曲であることの証左の一つである。




【銘板の説明書】


   ▼名古屋名物

唄:水野詩都子 三味線:本條秀五郎


   ▼おてもやん

     2015.10.12 西光寺 はつ喜月若 名取披露より
     立方 花童かな・花童れいな・花童ゆうあ・花童きみか
     地方 本條秀美社中/西村直子/中村花誠と花と誠の会

新人女子アナ登場!

2020-06-17 14:03:46 | テレビ
 今日、NHK お昼のニュースを見ていたら、熊本ローカルニュースに変わると見慣れない女子アナがニュースを読み始めた。アレ!新人かな?と思ってニュースが終わった後、NHKのサイトで調べてみた。やはり6月から熊本放送局に配属になった新人の佐藤茉那(さとうまな)さんという女子アナだった。神奈川県の出身で学生時代はバトントワリングをやっていたらしい。
 僕が熊本の実家に戻ってから熊本局に配属された新人女子アナは、渡邊佐和子さん、池田伸子さん、近江友里恵さん、石橋亜紗さん、畠山衣美さんに続いて6人目となる。まだわずかの時間しか見ていないが、ものおじしない性格のように見受けられたが、バトントワリングなどの経験が生きているのかもしれない。人気番組で活躍する諸先輩に早く追いつけるよう熊本で力を蓄えてほしいものだ。


熊本城特別公開中!

2020-06-16 22:57:55 | イベント
 熊本城特別公開第2弾が行われている。新型コロナウイルス感染拡大防止のため開始が延期されていたが、6月1日からやっと開始された。だが、僕はまだ行く気にはなれない。コロナのせいではない。幼稚園の頃から通園路として、また遊び場として本丸に馴れ親しんでいた僕にとって、見る場所を制限されるのがいやなのだ。本当に現状を見たいと思うのは、見学通路からはあまり見えないところ。なかでも、かつて春秋のお城まつりのイベント会場に度々なった竹の丸から眺める大天守の威容は最も好きなビューポイント。もっとも旧藩時代は石垣の上に櫓が建ち並んでいたので天守はほとんど見えなかったらしいが。特別公開のサイトに竹の丸周辺の映像が公開されているがやはり現地に立ってみたい。


2011年10月1日 熊本城・竹の丸 秋のくまもとお城まつりオープニング


ホテル・カリフォルニアと日航機長

2020-06-15 21:43:17 | 友人・知人
 20代の頃、会社の担当者会議でよく東京に出張した。日帰りも多かったが、会議が2日以上におよぶ時は六本木にあった会社の寮に泊まった。
 ある時の出張の帰り、離陸を待つ機内でイヤホンから聞こえる音楽を聴いていた。それは昨夜、同僚たちと行った六本木のクラブでイーグルスのコピーバンドが演奏していた「ホテル・カリフォルニア」だった。少し遅れて隣にダンディな紳士が座った。この紳士、普通の人と様子が違っていた。離陸する時、頭を傾げてじっと聞き耳を立てていた。僕は気にしない素振りをしていた。飛行機が上空に上がって安定飛行に入った時、その紳士が突然話しかけてきた。「いや、私もね、この飛行機を操縦するもんですからね、離陸と着陸は気になるんですよ」そうですかと答えた僕に「今日の機長は上手いですよ」と続けた。それからしばらく、お互いの出身や会社のことなどを語り合った。すると共通の知人がいることがわかった。それは、僕の家の近くのMさんという老舗のお米屋さんだった。ちょっとコワモテのご主人は僕よりひと回り以上も上の高校の先輩だった。高校卒業後、防衛大学に進み、航空自衛隊に入ったらしいと聞いていた。僕が大学を卒業し、熊本に帰ってきた時、Mさんはすでに自衛隊は退職し、家業の米屋の主人におさまっていた。実はその紳士の航空自衛隊時代の操縦訓練の教官がMさんだったらしい。紳士は「Mさんは私にとって神様のような方です!」と言う。そして「Mさんは凄い腕を持ったパイロットでした!」。飛行機が熊本空港に近づき、着陸態勢に入ると紳士は再び聞き耳を立てた。着陸した時、「ほら、上手いでしょ」と言った。空港での別れ際、紳士は「Mさんにくれぐれもよろしく!」と言い残して颯爽と去って行った。後日、そのことをMさんに報告したのはもちろんである。聞くところによるとその紳士はJALのB777の機長として名を馳せ、パイロット引退後はJALの重役になったらしい。