昨夜の「古典芸能への招待」(NHK-Eテレ)は、今年1月7日に国立能楽堂で行われた「萬(よろず)狂言特別公演」から。狂言は普段、能・狂言の公演の中で、添え物的な見方になってしまうのだが、昨夜は人間国宝・野村萬が登場する「松囃子」など見ごたえのある番組が続いた。
中でも今回の注目は、これが六世野村万之丞の襲名披露ということになった「三番叟(さんばそう)」と公演主・野村万蔵みずから演出した「歌仙(かせん)」。
実際の公演では「翁(式三番)」として、能のシテ方喜多流の人間国宝・友枝昭世が「翁」を演じたそうだが、放送では万之丞の「三番叟」と野村眞之介の「千歳」の一部だけが放送された。万之丞はまだ二十歳。さすがに「揉ノ段」の烏飛びなど実に軽やかだ。
「歌仙」は歴史上名高い六人の歌仙、柿本人丸、僧正遍照、小野小町、在原業平、清原元輔、猿丸太夫らが登場する群集劇だが、今回、野村万蔵とともに歴史学者の磯田道史が加わって改作に試みたという。和泉流と大蔵流の流派も家も異なる狂言師が共演。めったにないことらしい。能でも異流共演はできないのだろうか。

三番叟

歌仙
中でも今回の注目は、これが六世野村万之丞の襲名披露ということになった「三番叟(さんばそう)」と公演主・野村万蔵みずから演出した「歌仙(かせん)」。
実際の公演では「翁(式三番)」として、能のシテ方喜多流の人間国宝・友枝昭世が「翁」を演じたそうだが、放送では万之丞の「三番叟」と野村眞之介の「千歳」の一部だけが放送された。万之丞はまだ二十歳。さすがに「揉ノ段」の烏飛びなど実に軽やかだ。
「歌仙」は歴史上名高い六人の歌仙、柿本人丸、僧正遍照、小野小町、在原業平、清原元輔、猿丸太夫らが登場する群集劇だが、今回、野村万蔵とともに歴史学者の磯田道史が加わって改作に試みたという。和泉流と大蔵流の流派も家も異なる狂言師が共演。めったにないことらしい。能でも異流共演はできないのだろうか。

三番叟

歌仙
YouTubeに投稿している「伊勢音頭」の動画について、外国の方から英語で「これはどういう舞踊?」というおたずねがあった。回答を作成しようとしたが、英語以前に「伊勢音頭」そのものの説明が簡単ではないことに気付いた。詳細に英訳する力もないのであきらめ、結果下記のようなアバウトな説明でお茶を濁すことにしたが、どの程度おわかりいただけるだろうか。

This dance is a choreographing of Ise-Ondo by contemporary interpretation. Ise-Ondo is a generic name for the music of the Ise region spread all over the country due to the boom of Ise shrine visitation (Oise-Mairi) which occurred several times in the Edo era.
この舞踊は「伊勢音頭」を現代的な解釈で振り付けたものです。「伊勢音頭」は、江戸時代に数回発生した「お伊勢参り」ブームによって、全国に広まった伊勢地方発祥の音楽の総称です。

This dance is a choreographing of Ise-Ondo by contemporary interpretation. Ise-Ondo is a generic name for the music of the Ise region spread all over the country due to the boom of Ise shrine visitation (Oise-Mairi) which occurred several times in the Edo era.
この舞踊は「伊勢音頭」を現代的な解釈で振り付けたものです。「伊勢音頭」は、江戸時代に数回発生した「お伊勢参り」ブームによって、全国に広まった伊勢地方発祥の音楽の総称です。
いよいよ来月いっぱいで、松尾東小学校、松尾西小学校、松尾北小学校の3校が小島小学校へ統合され、松尾の3校は廃校となる。17年前に他界した父の初任校だった松尾小学校(現在の松尾東小学校)も姿を消すことになる。父にとって永い教員生活の中でも、初任校の松尾小は特に思い入れが強かった。廃校になることは父の墓前で報告済みだが残念がっているに違いない。
父が生前書き遺した備忘録の中にも松尾小への赴任の様子が綴られており、その書き出し部分を掲載してみた。


フォード幌型バスを松尾村役場入口で降り立ったという地点。行く手300㍍位の山麓に農家が2、3戸点在していたという。

当時とは姿を変えているであろう松尾小の校舎

「右手は急斜面のくぬぎ林、左手は段々畑でその下に谷川のせせらぎが・・・」というロケーションが見てとれる。

校舎より一段高い平場にグラウンドがある。

「正面には金峰山が峨々として・・・」「金峰山の南麓段丘の山懐に位置し・・・」という表現がよくわかる。

松尾小から岩戸観音を目指して急坂を登って行くと・・・

「檜垣のこぼし坂」になる。ここは平安時代の閨秀歌人・檜垣嫗ゆかりの道でもあるのだ。
父が生前書き遺した備忘録の中にも松尾小への赴任の様子が綴られており、その書き出し部分を掲載してみた。


フォード幌型バスを松尾村役場入口で降り立ったという地点。行く手300㍍位の山麓に農家が2、3戸点在していたという。

当時とは姿を変えているであろう松尾小の校舎

「右手は急斜面のくぬぎ林、左手は段々畑でその下に谷川のせせらぎが・・・」というロケーションが見てとれる。

校舎より一段高い平場にグラウンドがある。

「正面には金峰山が峨々として・・・」「金峰山の南麓段丘の山懐に位置し・・・」という表現がよくわかる。

松尾小から岩戸観音を目指して急坂を登って行くと・・・

「檜垣のこぼし坂」になる。ここは平安時代の閨秀歌人・檜垣嫗ゆかりの道でもあるのだ。
ブログを通じてやりとりをさせていただいている「無題・休題-ハバネロ風味-」さんの記事によれば、酒田港(山形県酒田市)が「ポート・オブ・ザ・イヤー2016」に選ばれたそうだ。「ポート・オブ・ザ・イヤー」というのは、公益社団法人日本港湾協会がその年にもっとも活気あふれた港湾に贈る賞だそうで、酒田港は、海外クルーズ船の寄港を決めたり、国際コンテナ貨物の取扱量を飛躍的に伸ばしたりしている点などが評価されたという。これは市民が中心になって、色々な港の取り組みやイベント活動などを積極的に行ったことが与って力があったという。また、最上川河口に位置する酒田港の歴史は、川上から運ばれる土砂の堆積との戦いの歴史でもあり、今も港の浚渫が継続して行なわれているという。
熊本では八代港に大型クルーズ船を寄港誘致するなど港湾振興が計られているが、いつか「ポート・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるのを期待したい。
酒田湊は平安時代末期に開かれ、中世・近世には北前船の寄港地として大いに栄えた。写真でしか見たことがないが、今でも往時の風情を感じさせる。




熊本では八代港に大型クルーズ船を寄港誘致するなど港湾振興が計られているが、いつか「ポート・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるのを期待したい。
酒田湊は平安時代末期に開かれ、中世・近世には北前船の寄港地として大いに栄えた。写真でしか見たことがないが、今でも往時の風情を感じさせる。
▼2011年に復元された北前船「みちのく丸」が酒田港に寄港した時の様子




▼湊町華やかなりし頃を髣髴とさせる酒田舞娘
動画の最後に、「おてもやん」と原曲が同じだという「酒田甚句」が入っています。
動画の最後に、「おてもやん」と原曲が同じだという「酒田甚句」が入っています。
佐賀県吉野ヶ里町に、弥生時代の大規模な遺跡が発見されたのは、28年前の2月22日だそうだ。翌日、各新聞やNHKテレビなどが「女王卑弥呼の住まい発見か!」とセンセーショナルに報じたのを今でもよく憶えている。僕にとって思い出深いのは、大規模遺跡発見のフィーバーも冷めやらぬ翌年の夏、吉野ヶ里からほど近い佐賀県の鳥栖工場に転勤したからである。工場従業員の中にも地権者がいたりして社内にも少なからぬ波紋が生じていた。工場の脇を走る国道34号線を佐賀市に向かって10分も車を走らせれば吉野ヶ里遺跡に着くので、何度か見に行ったが、まだ遺跡として整備が始まったばかりであまり見るべきところはなかった憶えがある。
ちょうど鳥栖に用事もあるので、近々、久しぶりに吉野ヶ里を訪れてみようかと思っている。

ちょうど鳥栖に用事もあるので、近々、久しぶりに吉野ヶ里を訪れてみようかと思っている。

▼佐賀県民謡「万歳くずし」
〽御代も栄える 千代に八千代に 万々歳のご繁盛
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
〽めでためでたの若松様よ 枝もマタ 栄えて葉も繁る
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
〽門に門松 背戸には背戸松 明け行く空に鳥の声
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
〽めでためでたの若松様よ 枝もマタ 栄えて葉も繁る
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
〽門に門松 背戸には背戸松 明け行く空に鳥の声
エイエーンーコリャ アイエンナーコリャ ソダソダ
今年の正月にいただいた年賀状の中から、お手本にしたいなぁと思う4枚を選ばせていただいた。
申しわけないことだが、自分自身は散々パソコンで作成していながら、どうしても手書きのものを選んでしまう。

江戸中期の俳人・黒柳召波の句「春たつや静かに靏の一歩より」が新春の改まった清々しい気持を表すこの1枚は、会社時代の大先輩の女性からの年賀状。本来は名前書きまで入っての書なのだが、今の時代、名前を伏せなければならないのが残念。
右は、やはり会社時代の同僚の女性からの1枚。OL時代から彼女は達筆家として社内でつとに名を知られていた。現在は書道師範を務める。男性的な筆致が魅力だ。

これは実は長男の義母(嫁の母)からの1枚。絵画を嗜んでいるので、自らの作品を貼り付けてある。いつもながらなかなか味のある風景画だ。
もう1枚はおなじみKさんの年賀状。水森亜土のイラストが可愛らしい。この2枚いずれもけっして文字数は多くないが、手書きの書き込みに温かさを感じさせる。
申しわけないことだが、自分自身は散々パソコンで作成していながら、どうしても手書きのものを選んでしまう。


江戸中期の俳人・黒柳召波の句「春たつや静かに靏の一歩より」が新春の改まった清々しい気持を表すこの1枚は、会社時代の大先輩の女性からの年賀状。本来は名前書きまで入っての書なのだが、今の時代、名前を伏せなければならないのが残念。
右は、やはり会社時代の同僚の女性からの1枚。OL時代から彼女は達筆家として社内でつとに名を知られていた。現在は書道師範を務める。男性的な筆致が魅力だ。


これは実は長男の義母(嫁の母)からの1枚。絵画を嗜んでいるので、自らの作品を貼り付けてある。いつもながらなかなか味のある風景画だ。
もう1枚はおなじみKさんの年賀状。水森亜土のイラストが可愛らしい。この2枚いずれもけっして文字数は多くないが、手書きの書き込みに温かさを感じさせる。
歌舞伎は、慶長8年(1603)、京の都で、出雲出身の国と名のる女芸能者による「かぶき踊り」がその始まりとされています。大衆の熱狂的な支持を得た「お国かぶき」は、4年後の慶長12年(1607)の2月20日、ついに江戸に招かれ、江戸城本丸・西の丸にある能舞台で興業を行ないます。能舞台では、その1週間前から観世・金春の勧進能が行なわれていましたが、お国は能の太夫たちと同等の待遇を受けたと伝えられています。これが江戸歌舞伎の始まりで、その後、お国の模倣者たちが続々と江戸へ下りました。

お国の「念仏踊り」の様子。黒塗笠を被り、千早を身にまとい、手に鉦を持つ(國女歌舞伎絵詞より)「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。」
「はかなしや 鈎にかけても何かせん 心にかけよ彌陀の名号 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。」
お国が江戸城で踊ってから17年後の寛永元年(1624)2月15日、山城から江戸へ出た猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中橋に猿若座(後の中村座)を開設。江戸歌舞伎が本格的に始まりました。
上の「お国かぶき」と下の「猿若狂言」の絵には大きな違いがあります。それは地方の三味線です。「お国かぶき」にはまだ三味線が使われていません。室町時代の終わり頃には、中国から琉球を経て日本に三味線が入っていましたが、日本人向けに改良が加えられている時代で、庶民に普及するまでには至っていませんでした。しかし、「猿若狂言」の時代になると三味線は歌舞伎音楽の主役に躍り出ます。今日では歌舞伎に三味線は欠かせません。
それからわずか5年後の寛永6年(1629年)、江戸幕府は女歌舞伎を「風紀上よろしくない」との理由で御法度にしてしまいました。

猿若狂言之古図(江戸名所図会より)

お国の「念仏踊り」の様子。黒塗笠を被り、千早を身にまとい、手に鉦を持つ(國女歌舞伎絵詞より)
「はかなしや 鈎にかけても何かせん 心にかけよ彌陀の名号 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。」
お国が江戸城で踊ってから17年後の寛永元年(1624)2月15日、山城から江戸へ出た猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中橋に猿若座(後の中村座)を開設。江戸歌舞伎が本格的に始まりました。
上の「お国かぶき」と下の「猿若狂言」の絵には大きな違いがあります。それは地方の三味線です。「お国かぶき」にはまだ三味線が使われていません。室町時代の終わり頃には、中国から琉球を経て日本に三味線が入っていましたが、日本人向けに改良が加えられている時代で、庶民に普及するまでには至っていませんでした。しかし、「猿若狂言」の時代になると三味線は歌舞伎音楽の主役に躍り出ます。今日では歌舞伎に三味線は欠かせません。
それからわずか5年後の寛永6年(1629年)、江戸幕府は女歌舞伎を「風紀上よろしくない」との理由で御法度にしてしまいました。

猿若狂言之古図(江戸名所図会より)
今日は写真撮影前に、注意を払って撮影サイズを設定したにもかかわらず、やっぱり最小サイズに戻っていた。根本的な故障があるのだろう。明日さっそく電器店を覗いてみよう。
さて、今年で6回目を数える熊本城マラソン。これまでの大会も天気に恵まれて来たが、今年はその中でも最も良い天気だったように思う。それに加えて、傷ついた熊本城に心を痛めてか、例年より沿道の応援が多く、飛ぶ声援も熱かったような気がした。

崩落した石垣の前を駆け抜けるランナーたち

崩落した石垣の前を駆け抜けるランナーに熱い声援が飛ぶ

優勝者インタビューを受ける岡山春紀選手(山鹿市出身)

今日は天守閣も晴れ晴れとした表情に見える

ゲストランナーのサンプラザ中野くんとパッパラー河合によるステージ
さて、今年で6回目を数える熊本城マラソン。これまでの大会も天気に恵まれて来たが、今年はその中でも最も良い天気だったように思う。それに加えて、傷ついた熊本城に心を痛めてか、例年より沿道の応援が多く、飛ぶ声援も熱かったような気がした。

崩落した石垣の前を駆け抜けるランナーたち

崩落した石垣の前を駆け抜けるランナーに熱い声援が飛ぶ

優勝者インタビューを受ける岡山春紀選手(山鹿市出身)

今日は天守閣も晴れ晴れとした表情に見える

ゲストランナーのサンプラザ中野くんとパッパラー河合によるステージ
今日は天気が良かったので、母を車に乗せて谷尾崎梅林公園へ連れて行った。写真も撮って帰ってから確認してみると、なんと最小サイズでしか映っていない。このところ愛用のコンデジの調子が悪い。撮影条件をセットしようとするとダイアルが暴走し、とんでもない値でセットされてしまう。もう10年以上使っているはずだから寿命が近いのかもしれない。買い替えか~。ク~ッ!(>_<)

「宮本武蔵の座禅石」側から見た梅林公園の風景

「宮本武蔵の座禅石」と紅梅
行き帰りは熊本城内を通ったが、もうすっかり明日の熊本城マラソンの準備が整ったようだ。今年もどこかの地点で応援したいが、昨年までとはだいぶ様子が異なる。下の写真は一昨年の大会の様子だが、今年は石垣崩落のため応援できる場所がかなり制限される。

百間石垣前での応援は今年は北側歩道からだけになる

二の丸御門での応援も今年はできない

「宮本武蔵の座禅石」側から見た梅林公園の風景

「宮本武蔵の座禅石」と紅梅
行き帰りは熊本城内を通ったが、もうすっかり明日の熊本城マラソンの準備が整ったようだ。今年もどこかの地点で応援したいが、昨年までとはだいぶ様子が異なる。下の写真は一昨年の大会の様子だが、今年は石垣崩落のため応援できる場所がかなり制限される。

百間石垣前での応援は今年は北側歩道からだけになる

二の丸御門での応援も今年はできない
水戸の芸妓に言わせると、「磯節の本場は水戸ですわ」と言う。平磯の漁夫に言わせると「どうして本場はこちらでさぁ」と笑う。さらに大洗の人たちについてきくと、「磯節は大洗に限りますよ」とある。
同じ茨城県は常陸の国で、同じように太平洋に面した漁村である以上、どうでもよかりそうなものである。
これは昭和2年に出版された松崎天民著「人間見物」という随筆集の一節である。民謡の本場争いはどこか他でも聞いたような気がする。さて、この松崎天民なる人物だが、明治の終りから昭和前期にかけて朝日新聞などで活躍したジャーナリストで、同じ時期に朝日新聞にいた夏目漱石とも親交があったといわれる。天民は「人間見物」の中で、親しかった盲目の磯節名人・関根安中について語っている。関根安中は茨城出身の第19代横綱常陸山に可愛がられ、巡業先にも幇間として付いてまわったという。そのお蔭で磯節が日本全国に広まったという伝説がある。
磯節は、テレビなどで何度か聞いてはいたが、僕がその良さに気付いたのは5、6年ほど前、熊本で行われた「はいや くまもと2010」の録画を本條秀美さんに見せていただいてからである。はいや節のルーツを描いたお芝居の中で、本條秀太郎さん作「俚奏楽 磯節月夜」が使われていて、本條秀美さんの唄と三味線にハマってしまった。以来、磯節そのものに興味が湧いて、いろんな人の唄う磯節をネットなどで聴いてみたが、唄う人によって随分と味わいが異なるところもまた面白い。もとは漁夫の櫓漕ぎ唄が始まりらしいが、お座敷唄として粋な唄い方に変わって行ったようだ。中でも良かったのは藤本二三吉さんの唄う磯節。国立国会図書館デジタルコレクションの中に歴史的音源として公開されているので、興味のある方はぜひ聴いていただきたい。
先日、城彩苑湧々座で行われた初午をどりで、花童のゆりあちゃんが根岸流端唄の「磯節かっぱ」を踊ったが、この唄も磯節に牛久沼のかっぱ伝説を織り交ぜたユーモラスで粋な曲でなかなか良かった。

大洗海岸(茨城県大洗町)
中村花誠先生の能「松風」を思わせる振付が面白い
同じ茨城県は常陸の国で、同じように太平洋に面した漁村である以上、どうでもよかりそうなものである。
これは昭和2年に出版された松崎天民著「人間見物」という随筆集の一節である。民謡の本場争いはどこか他でも聞いたような気がする。さて、この松崎天民なる人物だが、明治の終りから昭和前期にかけて朝日新聞などで活躍したジャーナリストで、同じ時期に朝日新聞にいた夏目漱石とも親交があったといわれる。天民は「人間見物」の中で、親しかった盲目の磯節名人・関根安中について語っている。関根安中は茨城出身の第19代横綱常陸山に可愛がられ、巡業先にも幇間として付いてまわったという。そのお蔭で磯節が日本全国に広まったという伝説がある。
磯節は、テレビなどで何度か聞いてはいたが、僕がその良さに気付いたのは5、6年ほど前、熊本で行われた「はいや くまもと2010」の録画を本條秀美さんに見せていただいてからである。はいや節のルーツを描いたお芝居の中で、本條秀太郎さん作「俚奏楽 磯節月夜」が使われていて、本條秀美さんの唄と三味線にハマってしまった。以来、磯節そのものに興味が湧いて、いろんな人の唄う磯節をネットなどで聴いてみたが、唄う人によって随分と味わいが異なるところもまた面白い。もとは漁夫の櫓漕ぎ唄が始まりらしいが、お座敷唄として粋な唄い方に変わって行ったようだ。中でも良かったのは藤本二三吉さんの唄う磯節。国立国会図書館デジタルコレクションの中に歴史的音源として公開されているので、興味のある方はぜひ聴いていただきたい。
先日、城彩苑湧々座で行われた初午をどりで、花童のゆりあちゃんが根岸流端唄の「磯節かっぱ」を踊ったが、この唄も磯節に牛久沼のかっぱ伝説を織り交ぜたユーモラスで粋な曲でなかなか良かった。

大洗海岸(茨城県大洗町)
本條秀太郎さんが磯節をモチーフに俚奏楽としてアレンジした「磯節月夜」
中村花誠先生の能「松風」を思わせる振付が面白い
今日、熊本は春一番が吹きました。
熊本地震本震からちょうど10カ月。今年は穏やかな春になってほしいものです。

旧細川刑部邸の梅の花
熊本地震本震からちょうど10カ月。今年は穏やかな春になってほしいものです。

旧細川刑部邸の梅の花
2014.3.21 熊本城二の丸広場 「城下町くまもと時代絵巻・くまもとをどり」
作曲:杵屋五司郎
振付:中村花誠
立方:舞踊団花童
地方:杵屋五司郎と蓑里会/杵屋六花登/釼光道/松野孝子/藤舎仁鳳/中村花誠と花と誠の会
作曲:杵屋五司郎
振付:中村花誠
立方:舞踊団花童
地方:杵屋五司郎と蓑里会/杵屋六花登/釼光道/松野孝子/藤舎仁鳳/中村花誠と花と誠の会


女性能楽師と言えば、僕の愛読書「近江山河抄」など多くの随筆の著者であり、女性能楽師の先駆者でもある白洲正子を忘れるわけにはいかない。4歳の時、靖国神社の能舞台、松明の灯りで観た「猩々」に魅入られ、観世流 二世梅若実に弟子入りし、14歳で舞台に立った。女人禁制だった能舞台に立ったことで、奇異の目で見られたこともあったようだが、能楽師としての技量は高く評価されていたらしい。50歳を超えて免許皆伝となるや、女性にお能は無理だときっぱりと諦めた潔さでも知られている。「能」を知り尽くし、好きでたまらなかっただけに妥協できなかったのだろう。
女性が能楽師として認められ、能楽協会に入会できたのは、戦後の昭和23(1948)年のことだそうである。能を大成させた観阿弥・世

熊本城とくまモンが登場するサントリーの缶コーヒー「プレミアムボス」の新CMが話題になっている。
熊本地震で大きな被害を受け、復旧工事が始まった熊本城にタモリと宇宙人のジョーンズが訪問するが、出迎えたくまモンとともに熊本城築城前の時代にタイムスリップするという筋立て。ある屋敷の一室で、加藤清正を始め重臣たちが城の設計について談義を重ねていると、屋根裏からタモリたちがそれを覗き見しているというシーン。
熊本城築城に携わった大工棟梁・善蔵の記憶を彼の息子が書き綴った「大工善蔵より聞覚控」そのままのシーンに思わずニヤリとする。
▼大工善蔵より聞覚控(一部)
図引き(設計)は父がすることになったが、熊本へ戻ってからいよいよ茶臼山の図引きということになった時、岩野の御武家・宗久隆様がこの役に就かれた。
町は下津棒庵様が図引きの役、お城の図引きが出来上がった後に、それを清正公が飯田覚兵衛様、森本儀太夫様たちと知恵を出し合いながら長い議論をされたことを憶えている。

熊本地震で大きな被害を受け、復旧工事が始まった熊本城にタモリと宇宙人のジョーンズが訪問するが、出迎えたくまモンとともに熊本城築城前の時代にタイムスリップするという筋立て。ある屋敷の一室で、加藤清正を始め重臣たちが城の設計について談義を重ねていると、屋根裏からタモリたちがそれを覗き見しているというシーン。
熊本城築城に携わった大工棟梁・善蔵の記憶を彼の息子が書き綴った「大工善蔵より聞覚控」そのままのシーンに思わずニヤリとする。
▼大工善蔵より聞覚控(一部)
図引き(設計)は父がすることになったが、熊本へ戻ってからいよいよ茶臼山の図引きということになった時、岩野の御武家・宗久隆様がこの役に就かれた。
町は下津棒庵様が図引きの役、お城の図引きが出来上がった後に、それを清正公が飯田覚兵衛様、森本儀太夫様たちと知恵を出し合いながら長い議論をされたことを憶えている。

