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最近の日本映画を見ていると、ファンとしてとても不満なことがある。それは映画を作る姿勢が、とても安易に見えるのだ。芸人やタレント(しかも二流の)を、いとも簡単に監督にして映画を作ったりしている。彼らが全て才能がないとは言わないが、それほど彼らのテレビ人気を利用したいのだろうか。ちょうど昨年の今頃、僕は映画「BALLAD」のボランティア・スタッフの仕事で、ある助監督さんと2週間をともにした。彼らは日々の撮影に追われ、渡り鳥のような生活を続けながら、自ら監督を務める日を夢見て、先輩たちから学びながら企画を練り続けている。そんな彼らをさしおいて、安直にタレントを監督に起用することは、決して日本映画の将来にためにならない、と強く思う。それとも、映画監督って誰にでもすぐにできるもんなの?
以前読んだ、名女優、高峰秀子の本の一節を載せてみた。
■高峰秀子著「わたしの渡世日記」より
昭和26年から30年までの5年間は、戦後の映画の優れた収穫期だった。映画人の情熱と誇りが噴火のように噴き出し、ほとばしり、きらめいて、演出家はもちろんのこと、映画にたずさわるすべての人間が、自分たちの仕事を競い合い、勉強し合い、優れた作品を生み出すために、過去の経験になお創意工夫をこらして働いていた。
昭和27年、黒澤明は「生きる」を発表し、溝口健二は、これも彼の生涯の傑作といわれた「西鶴一代女」を発表している。今井正は「山びこ学校」を、小津安二郎は「お茶漬の味」を、山本薩夫は「真空地帯」を、渋谷実は「本日休診」を発表した。
どの作品を見ても、優劣をつけがたい、はっきりとした個性に溢れた立派な作品ばかりだった。前の年、黒澤明の「羅生門」がヴェニス映画祭でグランプリを獲得し、映画人の眼がはじめて、「国外」に向けられると同時に、「ナニクソ、俺もやったろか!」という気概にあふれて、撮影所は活気に満ちていた。
昭和28年には、今井正が「にごりえ」、成瀬巳喜男が「あにいもうと」、溝口健二が「雨月物語」、小津安二郎が「東京物語」、豊田四郎が「雁」、五所平之助が「煙突の見える場所」、そして木下恵介が「日本の悲劇」を発表している。「雨月物語」はヴェニスで銀賞を獲得した。
昭和29年には、木下恵介が「二十四の瞳」と「女の園」、黒澤明が「七人の侍」、溝口健二が「山椒大夫」。そして30年には成瀬巳喜男の「浮雲」、今井正の「ここに泉あり」、黒澤明の「生きものの記録」などが発表されている。なんという優れた作品群の生まれた時代だろう。
私はこのような、作家と作家が自らの生命をぶつけ合うようにして作品を創りあげた時代に、俳優として生きたことを誇りと思い、また幸せだった、と思う。