毎週土日には舞踊団花童も出演する「桜の馬場城彩苑」の「湧々座ライブ」。司会進行をする大工の源さんのコーナーに「くまもと歴史再発見」というのがある。その中で「熊本弁講座」というのがあり、熊本県人がよく使う「さしより」という言葉が紹介される。飲み屋などで「さしよりビール!」などと言うが、「とりあえず」というニュアンスで使う。他県からの観光客はこれを聞いて「ヘェ~」というような反応が多いが、実はこの「さしより」、もともとれっきとした標準語である。というか昔の「みやこ言葉」だったのだろう。今日でもちゃんと国語辞典にも載っているが「最初」という意味である。これと同じような意味合いでお年寄りが使う「初手(しょて)」という言葉もれっきとした標準語で、これも国語辞典に載っている。
僕の高校時代、古語の時間に祖母が普段使っている言葉がよく出てくるので、教師が「誰かわかるやつはいるか」とたずねるとよく手を上げて答えたものだ。おかげで国語教師からはすごいできる奴だと誤解されていたらしい。
それはさておき、熊本弁に限らず、今日方言と言われている言葉の中にはもともと標準語だったものが多い。
僕の高校時代、古語の時間に祖母が普段使っている言葉がよく出てくるので、教師が「誰かわかるやつはいるか」とたずねるとよく手を上げて答えたものだ。おかげで国語教師からはすごいできる奴だと誤解されていたらしい。
それはさておき、熊本弁に限らず、今日方言と言われている言葉の中にはもともと標準語だったものが多い。
熊本城の馬具櫓が復元され、昨日から特別公開が行われているのでさっそく見に行った。まず坪井川をはさんで東側から外観を眺める。やはり解体される前の馬具櫓とは風合いが異なる。ふと姫路城のことを思い出した。大修理が終わった姫路城の外観に「白過ぎる!」という声が多いとメディアで紹介されていた。考えてみれば当り前の話で、長い年月を経て風合いというものが滲み出てくるもので、出来たばかりの時は昔も白過ぎるくらい白かったに違いない。熊本城の馬具櫓もきっと10年、20年と経つうちに徐々にかつての馬具櫓の様な風合いになっていくのだろう。6年前、解体される前の馬具櫓の絵(故坂崎健二郎氏画)と今日の写真を見比べてみた。
▼再建なった今日の馬具櫓

▼6年前の古い馬具櫓
▼再建なった今日の馬具櫓

▼6年前の古い馬具櫓

津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」に「安巳(安政)橋周辺」という記事がアップされていた。その中に西南の役における「熊本城突囲隊之図」が紹介されていたが、実はこの図は以前、ある文献で見てとても興味深かったことを思い出した。それは、この図に描かれている白川の手前側も川向うの側も、実はわが祖母ゆかりの地域だからである。祖母が生まれたのは西南の役から6年後の明治16年のことである。その生家は手前側、つまり熊本府内の一番被分町だった。そして祖母が生まれて数年後に曾祖父は川向こうの大江村の村長になった。そんなわけでこの図を見ると妙に心が騒ぐのである。
津々堂さんが記事の中でこの図について「左手前の石垣が何なのか・・・よく理解できない。」と書かれている。僕はあまり気にも留めていなかったのだが、そう言われてみると何だろうと気になりだした。そこで以前、スクラップしていた「明治前期における白川の橋梁」図を引っ張り出して見てみると、「熊本城突囲隊之図」の視点は赤丸の地点あたりかと推察できる。上流側のすぐそばには空堀らしきものが書き込まれている。この頃は既に上流に明午橋が架けられているので、白川の渡しは無くなっているかと思うが、旧藩時代には「法念寺渡し」が近くにあった所。ひょっとしたら空堀のところには櫓が乗った番所があったのかもしれない。もう少し詳しく調べてみたい。

▼明治前期における白川の橋梁
津々堂さんが記事の中でこの図について「左手前の石垣が何なのか・・・よく理解できない。」と書かれている。僕はあまり気にも留めていなかったのだが、そう言われてみると何だろうと気になりだした。そこで以前、スクラップしていた「明治前期における白川の橋梁」図を引っ張り出して見てみると、「熊本城突囲隊之図」の視点は赤丸の地点あたりかと推察できる。上流側のすぐそばには空堀らしきものが書き込まれている。この頃は既に上流に明午橋が架けられているので、白川の渡しは無くなっているかと思うが、旧藩時代には「法念寺渡し」が近くにあった所。ひょっとしたら空堀のところには櫓が乗った番所があったのかもしれない。もう少し詳しく調べてみたい。

▼明治前期における白川の橋梁


菊といえば、「肥後六花」の中の一つ「肥後菊」は、「宝暦の改革」で知られる肥後細川八代藩主・細川重賢公が武士の精神修養として菊の栽培を奨励したことに始まると言われている。あとひと月もすれば熊本城竹の丸の肥後銘花園で今年もまた「肥後菊展」が行われるだろう。昨夜はそんなことを考えながら、こわらべたちの踊る可愛らしい「菊づくし」を見ていた。(上の写真は肥後菊)
やっぱりここを見ないと秋が来たような気がしない。ここを訪れるのは6年連続になるが、その景観の素晴らしさは相変わらずで、毎度心を癒される。今年は新しい案内板が立っていた。
番所地区は、山の斜面に重なり合う石垣の棚田と家並みとが美しい景観をなす集落です。山鹿と大分県の日田を結ぶ往還(道路)が通り、かつては通行人の出入りや荷物を調べた「御番所」が置かれていたことから「番所」の地名になったといわれています。
高低差80mの急斜面にある、石積みがなされた約200枚の棚田は、江戸時代中期に開拓がはじまり、先祖代々大切に守られてきたものです。八方ヶ岳をはじめとする1000m級の山々の懐に抱かれ、それらの山稜を源とする清流が棚田を潤しています。
秋(9月半ば)になると、畔や農道沿いに真っ赤な彼岸花が咲き誇り、黄金色に輝く稲穂の波と棚田の石積みと調和し、他に類のないすばらしい景観を表します。


番所地区は、山の斜面に重なり合う石垣の棚田と家並みとが美しい景観をなす集落です。山鹿と大分県の日田を結ぶ往還(道路)が通り、かつては通行人の出入りや荷物を調べた「御番所」が置かれていたことから「番所」の地名になったといわれています。
高低差80mの急斜面にある、石積みがなされた約200枚の棚田は、江戸時代中期に開拓がはじまり、先祖代々大切に守られてきたものです。八方ヶ岳をはじめとする1000m級の山々の懐に抱かれ、それらの山稜を源とする清流が棚田を潤しています。
秋(9月半ば)になると、畔や農道沿いに真っ赤な彼岸花が咲き誇り、黄金色に輝く稲穂の波と棚田の石積みと調和し、他に類のないすばらしい景観を表します。
●平成 4年2月 第2回熊本農村景観コンクール「農村景観大賞」受賞
●平成 8年9月 「新くまもと百景」入選
●平成11年7月 農林水産省「日本の棚田百選」認定
●平成19年3月 彼岸花咲く番所の棚田として「山鹿八景」に選定
●平成21年3月 第21回くまもと景観賞「緑と水の景観賞」受賞
●平成25年3月 「くまもと歴町50選」に選定
●平成 8年9月 「新くまもと百景」入選
●平成11年7月 農林水産省「日本の棚田百選」認定
●平成19年3月 彼岸花咲く番所の棚田として「山鹿八景」に選定
●平成21年3月 第21回くまもと景観賞「緑と水の景観賞」受賞
●平成25年3月 「くまもと歴町50選」に選定



大相撲秋場所は11日目を終え、新入幕の21歳、逸ノ城の快進撃が止まらない。ところで、お相撲さんの土俵上での動作の中で最もなじみ深いのはおそらく四股ではないだろうか。片足を高くあげ、強く地を踏む所作のことで、基本的な稽古の一つでもあるが、もともと宗教儀式として始まった相撲の所作の一つで、地を踏み鎮めるという意味をもっている。四股によって大地の邪悪な霊を踏み鎮め、あるいは踏むことで春先の大地を目ざめさせて豊作を祈願する意味をも持つという。ちなみに人気力士遠藤の、人気の要素の一つが高く真っ直ぐに上がる綺麗な四股である。
この四股と同じ意味を持つのが、能や日本舞踊の「三番叟」の中で行われる独特の足使いの所作「反閇」である。もともと「三番叟」自体が五穀豊穣の祈りをこめた儀式として始まったと言われるが、大正・昭和時代の代表的な民俗学者・折口信夫は「日本芸能史六講」の中で次のように述べている。
天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が木槽(ウケ)を突き踏みとゞろかして踊つたりしたといふことは、大地に籠つてゐる魂を呼び醒したといふことになりますが、これはまた惡い魂を抑へつけたことにもなるのです。つまり踏みとゞろかすといふことは、惡い魂を踏み抑へつけて再び出て來られないやうにする、といふことにもなります。それでその抑へつける方は何か、といふと、これは「反閇」であります。これは力足を以て惡いものをば踏み抑へつけるといふ形をする、同時に、惡い霊魂が頭をあげることが出来ないやうに、地下に踏みつけておく形です。このことは日本人のもつてゐる踊といふ藝の中に傳承されてゐますが、このをどりといふ吾々の語は、語自身をみると何の意味もなかつたといふことが訣ります。つまり下から上にぴん/\と跳び上ることをば繰り返すやうな動作のことを言うた語です。
そんなことを考えながら相撲や能や日本舞踊を見ていると、また違った面白味が湧いてくる。
この四股と同じ意味を持つのが、能や日本舞踊の「三番叟」の中で行われる独特の足使いの所作「反閇」である。もともと「三番叟」自体が五穀豊穣の祈りをこめた儀式として始まったと言われるが、大正・昭和時代の代表的な民俗学者・折口信夫は「日本芸能史六講」の中で次のように述べている。
天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が木槽(ウケ)を突き踏みとゞろかして踊つたりしたといふことは、大地に籠つてゐる魂を呼び醒したといふことになりますが、これはまた惡い魂を抑へつけたことにもなるのです。つまり踏みとゞろかすといふことは、惡い魂を踏み抑へつけて再び出て來られないやうにする、といふことにもなります。それでその抑へつける方は何か、といふと、これは「反閇」であります。これは力足を以て惡いものをば踏み抑へつけるといふ形をする、同時に、惡い霊魂が頭をあげることが出来ないやうに、地下に踏みつけておく形です。このことは日本人のもつてゐる踊といふ藝の中に傳承されてゐますが、このをどりといふ吾々の語は、語自身をみると何の意味もなかつたといふことが訣ります。つまり下から上にぴん/\と跳び上ることをば繰り返すやうな動作のことを言うた語です。
そんなことを考えながら相撲や能や日本舞踊を見ていると、また違った面白味が湧いてくる。
▼相撲の四股

▼三番叟の反閇


▼三番叟の反閇

菊池川下流域の玉名地方に広がる広大な干拓地。ここは江戸時代初期から干拓が断続的に行われ、昭和の国営横島干拓まで75ヶ所もの干拓地が開かれたものだ。古代の海岸線を示す図を見ると、現在の横島町は本当に一つの小さな島、わが母の生家がある大浜町は小さな砂州に過ぎなかったことがわかる。
新たに生まれた土地は、大部分が水田として利用され、昭和40年代からは、ビニールハウスを利用した施設園芸が盛んになり、玉名市でのトマトやイチゴは全国でも有数の一大産出地となったのである。
横島町で現在も伝えられている民謡に「横島潟担い節(よこしま がたにないぶし)」がある。「潟担い」とは、干拓工事で堤防を築く時に、潟土を積み上げて行く作業のことで、土木機械が普及する前の昭和初期頃まではすべて人力で行われていた。「潟担い節」は、この作業をする時の作業歌で、明治以降になり踊りが振り付けられ、三味線や太鼓の伴奏も付けられたという。
熊本にいても、同じく干拓工事の作業歌である「八代おざや節」に比べると、なかなか「横島潟担い節」に触れる機会は少なく、これから元玉名市民の一人として機会をとらえて紹介していきたいと思う。
▼横島潟担い節
2014.9.20 桜の馬場城彩苑・湧々座
横島潟担い節保存会の皆さん
撮影:栗田弘一
新たに生まれた土地は、大部分が水田として利用され、昭和40年代からは、ビニールハウスを利用した施設園芸が盛んになり、玉名市でのトマトやイチゴは全国でも有数の一大産出地となったのである。
横島町で現在も伝えられている民謡に「横島潟担い節(よこしま がたにないぶし)」がある。「潟担い」とは、干拓工事で堤防を築く時に、潟土を積み上げて行く作業のことで、土木機械が普及する前の昭和初期頃まではすべて人力で行われていた。「潟担い節」は、この作業をする時の作業歌で、明治以降になり踊りが振り付けられ、三味線や太鼓の伴奏も付けられたという。
熊本にいても、同じく干拓工事の作業歌である「八代おざや節」に比べると、なかなか「横島潟担い節」に触れる機会は少なく、これから元玉名市民の一人として機会をとらえて紹介していきたいと思う。
▼横島潟担い節
2014.9.20 桜の馬場城彩苑・湧々座
横島潟担い節保存会の皆さん
撮影:栗田弘一

「熊本能三昧」は喜多流シテ方の狩野了一さんが出演する(8月13日ブログ記事参照)とあって楽しみにしていた。本当は彼の幼稚園時代を知る僕の母に見せたかったのだが、行けないので代わりに僕が見て立派になった姿を報告した。
今日の演目は、舞囃子が「高砂」「清経」「三輪」、仕舞が「歌占」、狂言が「二人袴」、そして能が「大江山」だった。
「熊本能三昧」を見終った後、熊本城本丸御殿へ。今日は「秋夜の宴」の第三日。舞踊団花童が「阿蘇悠久」「八千代獅子」など20曲を、二部構成で披露した。彼女たちは今日もこれが4つ目の舞台。終了後、さらにもう一つ舞台が残っているそうで大変だ~。

それにしても独立が、なぜ今なのかがよくわからない。おそらく損得の問題ではなくて、苦難の道は覚悟した上での、彼らのアイデンティティの問題なのだろう。2000年にはスコットランドの民族衣装キルトに身を包んでエリザベス女王から「ナイト」の称号を授けられたショーン・コネリーだが、ボンド役を降板した後の、007シリーズ第6作が皮肉にも「女王陛下の007」だった。
さて、どんな投票結果となりますことやら。
▼日本が舞台となった「007は二度死ぬ」。丹波哲郎と浜美枝とともに。


文書の内容は、「檜垣嫗」の座像、しかも檜垣の自作と思われる像が発見された経緯をスケッチも添えて書いている。この時発見された座像はその後、行方不明になったらしく、現在、熊本市西区の蓮台寺に納められている座像(上の写真)は模作したものだという。なぜ「嘉陵紀行」の中に「檜垣嫗」が出てくるのか謎だが、江戸中期の頃には世阿弥の能「檜垣」の影響もあったのか、「檜垣嫗」は伝説的な人物として多くの人々が関心を持っていたことだけは確かなようである。(後編に続く)
先週の「にっぽんの芸能」(NHK-Eテレ)は「大和楽の世界」と題して、大和楽の「花を恋い」「おせん」「四季の花」の3曲が演奏された。中でも「おせん」は興味深かった。この「おせん」は昭和8年(1933)に朝日新聞で連載された邦枝完二作の新聞小説「おせん」をモチーフとしている。この小説の挿絵が代表作となった大正・昭和初期の日本画家 小村雪岱(こむらせったい)の描いたおせんのしどけない姿が当時人気となったそうだ。
おせんというのは、江戸中期、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘だった「笠森おせん」のこと。当時、水茶屋には小奇麗な看板娘を置いて客を呼び寄せたが、おせんは、浅草「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の「蔦屋」のおよしとともに江戸の三美人として人気を博したという。看板娘は、印象的な髪形や化粧を施し、男たちの視線を惹きつけた。また、おせんは鈴木春信の浮世絵「笠森お仙」シリーズなど、いわゆるブロマイドや、看板娘の名入り手拭いなどのグッズも売られていたという。彼女たちに会いたい一心で大勢の客が水茶屋に押しかけ店は繁盛したという。まさに今日の「会いに行けるアイドル」の走りである。


▼大和楽「おせん」
作詞:邦枝完二 作曲:宮川寿朗

三味線(大和櫻笙・大和久子・大和久涛)

唄(大和美世潯・大和左京・大和礼子)
おせんというのは、江戸中期、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘だった「笠森おせん」のこと。当時、水茶屋には小奇麗な看板娘を置いて客を呼び寄せたが、おせんは、浅草「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の「蔦屋」のおよしとともに江戸の三美人として人気を博したという。看板娘は、印象的な髪形や化粧を施し、男たちの視線を惹きつけた。また、おせんは鈴木春信の浮世絵「笠森お仙」シリーズなど、いわゆるブロマイドや、看板娘の名入り手拭いなどのグッズも売られていたという。彼女たちに会いたい一心で大勢の客が水茶屋に押しかけ店は繁盛したという。まさに今日の「会いに行けるアイドル」の走りである。


▼大和楽「おせん」
作詞:邦枝完二 作曲:宮川寿朗
行水のおせん 描いた紅筆を
水に落とした 夕間暮れ
廻り灯籠が くるりと廻る
江戸の昔を 今の世の
夢の雪岱 あで姿
帯は空解け 柳腰
咲いた桔梗の ひと片が
仇に散ったか 蚊帳のかげ
こうもり来い 行燈の光を
ちょいと見てこい
道行のおせん かくした青すだれ
萩に流れる 蚊やりをよそに
廻り灯籠が くるりと廻る
水に落とした 夕間暮れ
廻り灯籠が くるりと廻る
江戸の昔を 今の世の
夢の雪岱 あで姿
帯は空解け 柳腰
咲いた桔梗の ひと片が
仇に散ったか 蚊帳のかげ
こうもり来い 行燈の光を
ちょいと見てこい
道行のおせん かくした青すだれ
萩に流れる 蚊やりをよそに
廻り灯籠が くるりと廻る

三味線(大和櫻笙・大和久子・大和久涛)

唄(大和美世潯・大和左京・大和礼子)