徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

♪ 赤とんぼ

2015-08-31 21:53:05 | 音楽芸能

作詞:三木露風  作曲:山田耕筰


カリンバ他:藤川潤司(おとのわMUSIC)
五弦コントラバス:松本洋一
うた:SHUNSUKE(シェアサンクス)
うた・ピアノ:川原一紗(おとのわMUSIC)
箏:小路永こずえ
尺八:藤山雅弘
鳴物:中村花誠・今村孝明
踊り:舞踊団花童

第17回いのちの電話チャリティ公演

2015-08-30 20:33:13 | 音楽芸能
 毎年夏の終りの恒例行事「いのちの電話チャリティ公演」が今日、熊本市民会館大ホールで行われた。中村花誠さん監修による舞台には、メインキャストの舞踊団花童(ザ・わらべ、こわらべ)をはじめ、玉名を拠点に活躍する音楽デュオ、おとのわMUSIC(川原一紗・藤川潤司)、Share Tanks!、熊本県太鼓連盟選抜ジュニアチーム、熊本県吟剣詩舞道総連盟、碩台小学校和楽器倶楽部 with 梢の会、舞踊団花喜楽など多彩な団体やグループが出演。ゆく夏を惜しむかのように華やかな音楽と踊りの舞台が繰り広げられた。
 また、舞踊団花童の最後の演目「細川」は、この曲の作詞・作曲者川原一紗さんとの初めての共演となった。
※右の写真は川原一紗さん




カリンバ他:藤川潤司(おとのわMUSIC)
五弦コントラバス:松本洋一
うた:SHUNSUKE(シェアサンクス)
うた・ピアノ:川原一紗(おとのわMUSIC)
箏 :小路永こずえ
尺八:藤山雅弘
鳴物:中村花誠・今村孝明
踊り:舞踊団花童

女子に三角関数教えて何になる

2015-08-29 21:32:06 | ニュース
 「高校教育で女子にサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」という鹿児島県・伊藤祐一郎知事の発言が物議をかもしている。どういう経歴をお持ちの方かは存じ上げないが、女性の仕事の実態はご存じないらしい。三角関数そのものを取り扱う仕事なんて男女に関係なく、教師か数学者くらいしかいないだろう。ところが三角関数に限らず、数学はあらゆる仕事の中で使われている。
 僕がこれまでお手伝いした女性の仕事は、保健師、看護師、検査技師、管理栄養士など医療関係がほとんど。これらの人々の仕事は医師と連携して患者と接し、医療サービスを提供するだけが仕事ではない。医療の質を高めるため、いろんなデータを取り、それを統計分析したり、研究発表したりする仕事が必ず付いてまわる。今日ではパソコンの性能が向上し、ほとんどパソコンで処理できるようになった。しかし、そういった処理ソフトには必ず数学が使われている。統計解析した結果の説明をする時、その算法の説明を求められることも実際にあった。三角関数だってちゃんと教わっておくに越したことはないのだ。

今藤珠美さん 外務大臣表彰!!!

2015-08-28 20:47:08 | 音楽芸能
 長唄の今藤珠美として、大和楽の大和久子として、また一奏の一奏たまとして、多方面でご活躍の今藤珠美さん。その今藤さんがこのほど、諸外国との友好親善に貢献したとして「外務大臣表彰」を受賞された。2007年から韓国で三味線教室を開いてきたことなどが表彰理由のようだ。
 著名な邦楽演奏家の中で、僕が、最もナマの演奏を数多く見たのがこの今藤珠美さんではないだろうか。2010年頃からこれまで、多分20回近く見ていると思うが、いつもその見事な三味線に聞き惚れる。中でも2013年3月3日のひな祭りの日に行われた今藤珠美、下田れい子(筝)、中村花誠(囃子)の三人による「饗宴!ひなまつり絵巻」における長唄「二人椀久」には圧倒された。
 作曲も数多く手掛けておられるが、肥後の女 今藤さんの特徴が一番表現されていると、僕が勝手に思っているのは「おいでまっせ」や「とっとっと」などの軽妙洒脱な系統の曲。何度聞いても聞き飽きない。


上段右側が今藤珠美さん



作詞:佐藤幸一 作曲:今藤珠美 作調:中村寿誠

熊本の風景今昔 ~ 三嬌橋(相思橋) ~

2015-08-27 18:39:44 | 熊本

かつての三嬌橋(相思橋)


今日の三嬌橋


 白川と坪井川に挟まれた中洲、二本木地区には、かつて九州でも有数の遊郭街「二本木遊郭」が栄えた。明治24年に九州鉄道春日駅が開業すると、駅から近道をするための石橋が坪井川に架けられた。相思橋(そうしばし)とも呼ばれた三嬌橋(さんきょうばし)である。橋を渡った所に三嬌楼という妓楼があったのでその名が付いた。相思橋とはロマンチックな名前だが、互いに思い合う男(楼客)と女(遊女)をこの橋がつないでいたのだろう。橋を渡って来る男を心待ちし、そして後朝の別れをした男が橋を渡って去って行く姿を女は眺めていたのだろう。
 母方の親戚が昔、二本木で妓楼を経営していて、幼い頃、両親に連れられて何度か訪れた微かな記憶が残る街だ。現在ではこの地区のど真ん中に熊本朝日放送が社屋を構え、かつての遊郭街の痕跡もほとんど見ることはできない。


今年の熊本城薪能は・・・

2015-08-26 20:55:07 | 音楽芸能
【日時】10月10日(土)18:00~20:00
【場所】二の丸広場特設ステージ
    ※雨天時は本丸御殿大広間
【出演】金春流
【番組】仕舞三番  狂言「雷」  能「鵜飼」
▼「鵜飼」のあらすじ
 安房国清澄の僧が従僧を連れて、甲斐国石和にやってきます。日も暮れ、僧たちは石和川のほとりの御堂で一夜を過ごすことにします。すると、そこに松明を持った一人の鵜飼の老人が現れます。その老人に僧は、殺生をやめるよう諭しますが、老人は今更難しいと答えます。すると、数年前にこの近辺に来たことのある従僧が、鵜飼に一夜の宿を借りたことを思い出します。老人は、その鵜飼は殺生の禁制を破った咎めを受けて殺されたと告げます。老人はその顛末を語り、自分こそがその殺された鵜飼の亡霊であると明かし、見事な鵜飼の業を見せた後、闇の中へ消えます。里の者からあらためて、鵜飼の非業の死を聞いた僧たちは、川の石に法華経の経文を書きつけ、老人を供養します。すると、そこに閻魔大王が現れ、殺生の罪により地獄に堕ちるべき老人が、従僧をもてなした功徳により、救済されたことを告げます・・・

肥後民話のシンデレラ・ストーリー

2015-08-25 18:30:51 | 文芸
 先般ご紹介した山鹿市出身の民俗学研究家で作家の木村祐章が、熊本県内各地で採話し、編集した「肥後昔話集」の中から「盆皿や盆皿や」をご紹介したい。
 これは、いわゆる「シンデレラ・ストーリー」の部類に入る話になるが、おそらく平安時代に書かれた「落窪物語」などを読んだことのある教養あるお爺さんかお婆さんが、子どもたちに聞かせてあげたお話しなのだろう。



ブラタモリで気づいたこと

2015-08-24 18:21:28 | 歴史
 先週のブラタモリは「出雲」。40年ほど前に一度行ったきりなので、ほとんど何も覚えていないが、今回の放送はちょっとした「目からウロコ」だった。それは、「出雲大社」が「出雲大社」と呼ばれるようになったのは、なんと明治時代になってからということ。それまでは「杵築大社(きつきたいしゃ)」あるいは単に「大社(たいしゃ、おおやしろ)」と呼ばれていたらしい。そこで僕はあることに気付いた。それは今日の歌舞伎の始祖と伝えられる「出雲阿国(いずものおくに)」のこと。桃山時代から江戸時代初期にかけて生きたという彼女がそう呼ばれるようになったのは、だいぶ後世になってからということはわかっているが、もし彼女の出自が伝説の通り、出雲大社の巫女だったのなら、「杵築の」あるいは「大社の」と冠して呼ばれていてもおかしくないわけだ。けれどそういう呼び方を書いた文献など見たこともない。出雲出身が事実だとしても、はたして大社の巫女だったかどうかあらためて疑問が湧く。
 それと僕の研究テーマでもある、慶長15年に加藤清正に招かれ、熊本城下の鹽屋三丁目武者溜りで阿国歌舞伎を興行した「八幡の国」とは何者か?という問題についても微妙な印象の変化をもたらした。これまで調べた限りでは「出雲阿国」その人であると考える芸能史の研究者が多いようだ。これまで僕は、なぜ「八幡の国」と名乗ったのかを疑問に思っていたが、実は全く不思議なことではなく、国という名の太夫が主宰する女歌舞伎があり、それは別に「出雲」という看板をかかげているわけでもなんでもなく、都度、勧進元に応じて適当な源氏名(?)を付けていたとも考えられる。「肥後一国の宗廟」とも「熊本大鎮守」とも称され、加藤清正の尊崇の念強かった藤崎八旛宮の勧進興行だった可能性も強い。そう考えると「八幡の国」(「やわたのくに」もしくは「はちまんのくに」)という名前はごく自然なことのように思えるのである。


海達公子 生誕99年

2015-08-23 13:17:18 | 文芸
 今日は海達公子の生誕99年にあたる日。来年はいよいよ百年を迎えるが、荒尾市の海達公子顕彰会では特別行事を計画していると聞く。
 僕が、玉名の料亭はなつばき(現在は閉店)で、海達公子の生涯を紹介するスライド映写会を開催してもう7年経った。10名の方にご参加をいただいたが、映像に合わせた吉崎真美さんのナレーションの素晴らしさもあり、皆さんに感動していただいた。その時のスライドショーを再編集してビデオ化しようと思っているが、これがなかなか進まない。
 当日、特別ゲストとしてお招きした、海達公子の親友であり、唯一の生き証人だった岩本澄さんも今年の2月に他界され、また、海達公子を再び世に出した「評伝 海達公子」の著者 規工川祐輔先生も体調を崩され、外出もままならない状態。この世の無常をしみじみと感じている。

▼2008.7.7 熊日新聞朝刊・県北面

伝えたい 私の戦争

2015-08-22 23:11:08 | ファミリー
 戦後70年を経過し、戦争体験者の高齢化が進む中、失われつつある貴重な証言を残すべく、熊日新聞で「伝えたい 私の戦争」というコラムが連載されている。
 昨日と今日の2日にわたり、わが母方の親戚、通称ハルカさんの証言が掲載された。ハルカさんは母と同い年、小学校、高等女学校もともに過ごし、今では唯一無二となった親友である。二人が生まれ育った玉名市大浜町には、戦時中、陸軍が少年飛行兵の教育を行なった大浜飛行場があった。だから当然、米軍の爆撃目標となり、B29や艦載機による空襲を受け、多くの死傷者と物的破壊を被った。母の実家よりもハルカさんの実家の方が大浜飛行場に近かったため被った被害もより大きかった。ハルカさんの証言はこうして幸い記録として残ることになったが、こうした貴重な証言の多くがすでに失われたか、あるいは失われようとしているのだろう。
 右の写真は、母のアルバムに残る高瀬高等女学校時代の写真で、新聞に掲載されたものと同じである。左から二人目が母、三人目がハルカさん。

▼クリックして拡大できます



▼戦争中、米軍機が撮影した大浜飛行場

おてもやん 故郷に帰る!

2015-08-22 14:15:42 | イベント
 桜町地区の再開発に伴い、移転を余儀なくされた交通センター前の「おてもやん像」が、JR熊本駅の新幹線口正面に移設され、今日、除幕式が行われました。
 「民謡おてもやん」が永田イネによって作られるのは、九州鉄道春日駅(現JR熊本駅)が開業した明治24年の7、8年後と言われています。イネは米屋町の味噌醤油製造業の家に生まれ、4歳の頃から筝、三味線、太鼓、小唄、舞踊など芸道全般を習ったといいいます。そのイネが春日村五反に開いた稽古場に来ていたのが、「おてもやん」のモデルといわれる北岡村の小作農の娘チモこと富永登茂でした。この二人の出逢いから「おてもやん」が生まれました。
 つまり、今回の「おてもやん像」の春日地区への移設は「おてもやん」にとって懐かしい故郷への里帰りなのです。しかも熊本の玄関口に立つ「おてもやん」は今まで以上に熊本のシンボルとして、その存在感を発揮してくれることでしょう。







ラジオドラマ 「 ぬれわらじ 」

2015-08-21 20:25:55 | 文芸
 一昨日の記事で紹介したラジオドラマ「ぬれわらじ」の脚本を、作者の木村雄章氏のご子息理郎様よりお送りいただいた。さっそくじっくりと読み込んでいるところだ。
 NHK第2で全国放送されたのは昭和38年6月8日(土)21:30~22:00 「ラジオ小劇場」の枠内だった。当時、僕は高校3年生、水球に明け暮れていた時代で聞いているわけもない。考えてみれば、からゆきさんを描いた山崎朋子のノンフィクション「サンダカン八番娼館」が世に出る10年も前に、既にこのラジオドラマが制作されていたわけだ。脚本を読むと、プロローグに肥後琵琶が使われていたり、「福連木の子守唄」などの民謡が挿入されていたりと、音源が残っているならぜひ聴いてみたいという気持がますます強くなってきた。
 この番組の紹介記事が添付されていたので、その部分のみ紹介したい。

ぬれわらじ
 キリシタンの島、夢の島などと呼ばれ、人びとの旅情をさそう天草島だが、この島には貧しいがゆえに悲しい一生を送った乙女たちの哀話がある。身体を張って出稼ぎをする、からゆきさんと呼ばれる彼女たち。そして故郷を後に彼女たちがたどる運命は数奇なものだ。“ぬれわらじ”とは彼女らが出稼ぎのため後髪をひかれる思いで故郷をたち、最初に旅装をといた宿をいう。
 6月8日のラジオ小劇場(後9:30 2)はこのからゆきさんの物語を綴った「ぬれわらじ」。作家で、熊本県文化財委員をかね、肥後地方の郷土史に詳しい木村祐章氏が、去る4月天草に取材、書き下ろしたドラマで、昔外地に働いた人びとの話をもとに創作している。ドラマの最初には現在残り少なくなっている肥後琵琶を琵琶師の山鹿良之さんがひいている。
 ドラマはそうしたからゆきさんの一人かめさんの17才から79才までの一生を回想形式で描く。物心ついてから、唐芋といわしの外は、腹一杯喰ったことのないかめさん。彼女は村の若者忠平との恋も割かれ、行方も知らされず、石炭船の底に乗せられて外地に身を沈める。忠平との思い出を胸に秘めての香港、シンガポールでの生活、そうした中に咲いた恋も、戦争によってふみにじられてしまう。……
 故郷天草にもどったかめさんの生活は甥夫婦のお情けで、漁具を入れる小屋に畳を二枚敷いてもらい、甥たちのとって来る小魚を売り歩くというみじめなもの。
 出演は渡辺富美子(かめ)ほか今福正雄、中川豊子、加藤正之など。

▼劇中挿入される「福連木の子守唄」(クリックすると動画を再生します)

ノーマン・メイラーと銚子

2015-08-20 23:16:39 | 文芸
 アメリカの作家ノーマン・メイラーが亡くなってもう8年になる。僕は学生時代にいろんな本を読んだが、最大の愛読書はメイラーのエッセイ「一分間に一万語」である。代表作「裸者と死者」で知られるメイラーだが、僕らの学生時代はベトナム反戦、反体制の象徴のような存在だった。しかし、そんなイデオロギーは別にして、この「一分間に一万語」というのはフロイド・パターソンとソニー・リストンのヘビー級タイトルマッチを題材にしたボクシング・エッセイであり、当時、ヘビー級のボクシングにハマっていた僕はこの本の発売と同時に飛びついた。わずか1ラウンド2分6秒で決着がついた試合をモチーフに、2万数千語で独特の世界観を展開する。繰り返し繰り返し読んだものだが、通学時にも手離さなかったことを憶えている。
 メイラーは、太平洋戦争に従軍後、進駐軍の一員として主に千葉県の銚子に駐留した。「裸者と死者」の着想を得たのも銚子にいた頃といわれ、「日本は私が見た国のうちでもっとも美しい国」という言葉を残している。また、彼はマリリン・モンローやモハメド・アリをこよなく愛し、彼らについての著書も物した。

▼フロイド・パターソンとソニー・リストンのヘビー級タイトルマッチ

あなたは 木村祐章 を知っていますか?

2015-08-19 19:19:39 | 文芸
 今年の山鹿灯籠まつりもつい先日終わったばかりだが、この祭りが全国区の祭りとなり、今日の隆盛を見るに至った裏に、「影のプロデューサー」の存在があったことはあまり知られていない。その人の名は「木村祐章」。戦後昭和に民俗学研究家として、放送作家としても活躍した人である。大正8年、山鹿の商家に生まれた木村は、昭和12年に鹿本中学を卒業後、東京の國學院大学に進学、ここで柳田國男と並ぶ日本民俗学の巨人であり、歌人でもあった折口信夫と運命的な出会いをする。折口を顧問とする「青衿派」(せいきんは)の同人となり、その編集にも携わり、終生折口を師と仰いだ。戦後、東京へ出ることを夢見ていたが、師折口の指示に従い、故郷山鹿に住みついて民俗学の研究に励んだ。昭和27年からはNHKの契約作家としてラジオ放送の脚本も書き始め、昭和40年、45歳の若さで世を去るまで民話の発掘、民俗芸能や民謡の振興、地元放送業界の発展等、熊本の地方文化に貢献した。
 僕がその存在を知ったのは、3年前に少女舞踊団ザ・わらべが踊る「愛の南十字星」を初めて見て、この曲の原作がラジオドラマ「ぬれわらじ」であることを知った時だ。このドラマの脚本を書いたのが木村祐章で、モチーフとなったのが「からゆきさん」の話だと知った。実はちょうどその頃、僕の父が書き遺した備忘録の中に「からゆきさん」の話があることに気付き、いろいろ資料を調べたりしていた。なんとかこのドラマの脚本を見たいと手を尽くしたが成果は得られなかった。ところが今年に入り、ダメもとで問い合わせた山鹿市教育委員会からご子息を紹介していただき、このほど埋もれていた脚本をご子息に探し出していただいた。この脚本についてはまた後日ご紹介したい。

 ちなみに、折口信夫の著書「さうや さかいに」の中に「木村祐章」の名前も登場するので、その部分をご紹介しておきたい。

「さうや さかいに」折口信夫
――前略――
 すかい すけん
敬語「す」は、敬語の古格によることが多く、敬語的発想を保つ地方の多い九州では、まだ失はれないでゐるものが沢山ある。たとへば、他の地方で、「行きなさるから」「お行きだから」「行かつしやるから」など、色々な言ひ方をする場合にも、「行かすけに」「行かすけん」と言ふのを聞くと、実際耳の洗はれた感じがする。
あしたから隊長さんにならすけん……  小説「散歩者」
これは、熊本山鹿地方の例であるが、九州は大体これで通じるやうである。作者木村祐章は、山鹿町の人で、山鹿であつたことのやうに書いた作品に「けん」「すけん」「すけんで」の類、幾十の使用例がある。けんはけに・からに(=から)で、基礎になつたものは、「から」(故)であり、「け」である。「あらつしやるから」「なさるから」に当るのが、「すけん」なので、まづすとけんは必しも密著してはゐない。其でも、九州方言の傾向として、敬語でなくてもよい所にも、又敬語を要せぬものにも使ふ所から、軽卑な待遇法が出来てゐる。
――後略――

▼木村は、山鹿灯籠祭りを民俗学的な側面から、単に灯籠奉納行事としてだけでなく、盆踊りの一形式としてプロデュースし復活させる役割を果した。また、NHK番組等を通じた山鹿灯籠踊りの全国への宣伝でも与って力があった。



▼木村祐章のラジオドラマ代表作「ぬれわらじ」より「愛の南十字星」
 原作:木村祐章 作曲:今藤珠美 作調:藤舎千穂


晩夏 その無常観

2015-08-18 20:26:04 | 


 毎年この時季になると決まって同じことを書く。僕は季節を表す言葉の中で、この「晩夏」という言葉ほど、エモーショナルな言葉はない。ことに異常に暑かった今年の夏が過ぎ去るのは、むしろ望ましいことなのにこのメランコリックな気分はいったい何なのだろう。
 四季に恵まれ、その移ろいの中で独特の無常観を身に付けて来た日本人特有の感性なのかもしれない。